「今日は本当にありがとう……って、これ二回目だね」
 脱いだばかりの浴衣をカーテンレールに掛け、リビングの入り口に立ったままの上村にそう声をかけた。
 私を気遣ってくれたのか、何度も断ったのに上村は部屋まで送ると言ってきかなかった。
帰りの車の中でも、車を降りた後も、お互いに会話を交わすでもない。ただ、心配そうな上村の表情には、気づいていないふりをした。
「コーヒーでも飲む? 上村も疲れたでしょう」
 窓辺からリビングを通り抜け、キッチンへと向かう。
「先輩、コーヒーなら俺が……」
 シンクの上にある作り付けの戸棚に伸ばした私と上村の手が、軽く触れ合った。
「ごっ、ごめんね。コーヒーすぐ淹れるから……」
 変に意識してしまった自分が恥ずかしくて、思わず上村が持っていたコーヒーフィルターを奪い取った。
「先輩」
 背中越しに声をかけられて、胸が音を立てる。全身で上村の気配を感じていた。
「本当は、大丈夫なんかじゃないんでしょう?」
 答えたくなくて、唇を噛み締めた。上村に背を向けたまま、シンクの淵を両手できつく掴む。
 ……お願いだから、これ以上私に優しくしないで。
目の奥から、涙がじわりと溢れてくるのがわかった。
「こっち向いたら?」
 いつまでも動こうとしない私に業を煮やしたのか、上村が私の肩を掴み、無理やり体を引き寄せた。私と向かい合った上村の表情が、驚きで固まっている。
「……先輩、泣いてる」
 上村は、指先でそっといたわるように私の頬に触れた。こぼれる涙を、親指で一粒ずつ拭っていく。
「触ら……ないで」
 溢れる涙はそのままに、逃れるように上村から体を反らせた。
「後悔してるんですか?」
 上村は再び私への距離を詰め、もう一度私の頬に触れた。優しく触れる指先に、つい手を伸ばしたくなる。
「後悔はしていない。ただ情けないの」
 一度閉じた目蓋を、今度は大きく見開いた。瞬間私の世界は上村でいっぱいになる。
「私は、母の望むようには生きられない……」
 一生をかけて愛せる人と出逢い、結ばれ、温かな家庭を築く。
いつの間にか私は、そんな未来を自分から手放していた。