「母さん……香奈よ、起きて」
 ぐっすりと寝入っている母の肩に、そっと触れてみた。
 病院はちょうど夕食の時間帯らしく、母の部屋の外からも、食器を使う音や台車の軋む音、食事を配膳する人々の話し声が聞こえてくる。しかし母の耳には、そのざわめきすら届いてはいないようだった。
「……か…な?」
 ベッドに横たわったままの母が、ゆっくりと目蓋を開けた。私は母に声が届くよう中腰になり、耳元に顔を寄せた。
「今日母さんの浴衣着てきたの。わかる?」
 私はその場で立ち上がり、母の目の前で、クルリと一度回って見せた。母の目が大きく見開かれる。
「ようやく着てくれたのね。嬉しいわ、香奈。よく……似合ってる」
「ありがとう、母さん」
 母の笑顔に、胸が熱くなる。やはり母は、待っていたのだ。
そのとき、それまで壁際に黙って立っていた上村が、私の隣に立ち、母に話しかけた。
「はじめまして、上村と申します。香奈さんとお付き合いさせていただいてます。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
 上村は、母に向かってしっかりと頭を下げた。母の表情が、驚きからみるみる笑顔に変わる。
「え? え? そうなの、香奈」
「うん。今日は照国神社の六月灯でしょ? この後、彼と出かけるの」
「そう……、そうなのね」
 母の目にじわりと涙が浮かび、一筋の線を作った。母は仰向けのまま目のふちに指先を当て、次々に溢れてくる涙を拭っている。
「よかった……よかった、本当に。上村さん、香奈のことよろしくお願いします」
「はい、どうぞ安心なさってください。香奈さんには僕がついていますから」
 上村の力強い言葉に安心したのか、母は一度大きく頷くと、ゆっくりと目蓋を閉じ、小さな寝息を立てはじめた。
 母の寝顔は、幸せな夢でも見ているかのような、とても穏やかなものだった。