「今日は本当にありがとう。楽しかった」
 上村とは、マンションの駐車場で別れるつもりだった。
街中で浴衣姿の女性を見かけてからずっと、母のことが頭から離れない。早く部屋で一人になりたかった。そうでないと、きっとまた上村に弱い自分を見せてしまう。
「じゃあ、また来週会社で」
 何か言いたげな雰囲気の上村を振り切るように、助手席のドアに手をかけた。
「待って」
 上村が私の肩を掴み、車の外に出られないようにした。すぐ近くに上村の吐息を感じ、私は咄嗟にドアを背に後ずさった。
泣いたことに気付かれたくなかった。
「……どうかした?」
 その一言で精一杯だった。肩に感じる上村の手のひらの熱が、母を失いかけたあの夜を思い出させ、気持ちが揺らぐ。
「先輩、浴衣着て今から俺と一緒にお母さんに会いに行きましょう」
「……何言ってるの?」
「後悔してるんでしょう、浴衣を着て見せてないこと」
 ……どうして。どうして上村は、いつも私の心を見抜いてしまうんだろう。
「それは……そうだけど。でも私と一緒に行くって、上村その意味わかってるの?」
「わかってますよ、もちろん」
「それならどうして? こんなことに上村を巻き込むわけにはいかないよ」
「俺なら構いませんよ」
 私を覗きこむ上村からはいつもの皮肉めいた表情は消えている。上村が決して面白半分で言っているんじゃないということが、私にもよくわかった。
「やっぱりダメよ、そんなこと絶対にダメ。それに上村を連れて行けば、母さんにも嘘をつくことになる」
 私の肩を掴んだままだった上村の手の力が更に強くなった。両肩にはっきりと指先の圧力を感じる。
「このまま何もしないでお母さんを見送って、あの浴衣も子供の頃の思い出みたいに一度も着ないまま仕舞いこむんですか? それで本当に先輩は後悔しない? 後から後悔したって、どうにもならないんですよ」
 どうして上村はこんなに熱心なんだろう。普段のクールな上村は鳴りを潜め、瞳は見たことのない熱を帯びている。
「どうして私にそこまでしてくれるの?」
 まるで上村自身が、何かを強く後悔してるみたいだ。私の言葉に、上村の眉間のしわがグッと深くなり、表情は更に苦しげなものになった。
「……先輩に、俺と同じような後悔をして欲しくないから」
「どういうこと?」
 上村は私から顔を背け、肩を掴んでいた手を放した。急に体から上村の熱を失い、途端に私は心細くなる。
「……俺のことはいいんです。今は先輩のことでしょう」
 一瞬、上村と私の間が暗幕で遮られたような気がした。
今この瞬間、上村は私に心を閉ざした。私は自分でも気付かないうちに、上村の踏み込んではいけない場所に踏み込もうとしていたのだろうか。
まるで私の注意を自分から逸らすように、上村は強い口調で話し続けた。
「お母さんに不安を抱えさせたままでいいんですか? 嘘をつけば、確かにこの先先輩は苦しむでしょう。でも少なくともお母さんは、これ以上苦しまずにすむ。お母さんに未練を残させてはダメです」
「そう……そうだよね」
 私の返事に、上村は静かに頷いた。
 そうだ、私がこの先苦しむのは構わない。でも、母さんには憂いを抱えたままでいて欲しくない。
「わかったわ。私を助けて、上村」
 私は上村を一人車内に残し、マンションのエントランスに駆け込んだ。