もう真夜中だというのに、外はまだ蒸し暑い。暗闇の中から、この時季特有の木々や草花の濃い香りが押し寄せてくる。
母はきっと、来年の夏にはここにはいないだろう。そう思うだけで後から涙が溢れてくる。
「先輩」
後ろから声を掛けられたけれど、振り向くことはできなかった。
今日は酷い姿ばかり見せてしまった。もうこれ以上、上村に泣き顔を見られたくない。
「先輩、帰ろう」
上村がそっと私の手を取った。
「……離して上村、ちゃんと一人で歩けるから」
そう言ったのは、自分から上村の手を振りほどく勇気がなかったからだ。今日は何度、この手に救われたかわからない。
「帰ろう先輩」
上村は私の言うことなど聞かず、握る手にさらに力を込めた。私は、今日だけだ、と強く自分に言い聞かせた。
この手に縋ってもいいのは今日だけ。明日からはまた、いつもの強い自分に戻る。
こぼれる涙もそのままに、私は上村に手を引かれ夜の闇を歩いた。
――上村の手は、温かかった。
「三谷さん今頃悪いんだけど、ここの数字だけちょっと直してもらえる?」
定時30分前。岩井田さんから渡されたのは、商談を明日に控えたドラッグストアとの契約書だった。
「すみません、何か間違いがありました?」
「ううん、違うんだ。上からの指示。今頃になって本当にすまないね」
「いえ、大丈夫です」
とりあえず私のミスではなかったことにホッと息を吐く。
私は岩井田さんから書類を受け取ると、すぐに修正に取りかかった。
さっきまで打ち込んでいたデータの入力が終わったら、今日はもう帰るつもりでいた。17時半のバスに乗れば、ぎりぎり母の夕食の時間に間に合う。
でも今日はもう、諦めるしかなさそうだ。
あれから母は、ICUから一般病棟に戻ることが出来た。
それでも症状は日々確実に悪化している。私が会いに行っても、最近の母はほとんどベッドに臥せったままだ。
日に日に弱っていく母を放って置くことはできなかった。僅かな時間でも側にいてあげたかった。
それなのに母の病状と比例するかのように、仕事は忙しさを増していく。
私は思い通りにいかない毎日に苛立っていた。
「あ!」
そしてこうやって、普段の私ならやらないような単純なミスをしたりもするのだ。
キーボードを連打して、間違って入力してしまった数字を消していく。今度は連打しすぎて、消さなくていい分まで消してしまった。頭を掻きむしりそうになるのを必死で抑え、重たいため息を吐く。
どうせ今日はもう残業決定だし、お茶でも入れてちょっと落ち着こう。濃い目に入れれば、きっと頭もすっきりするはず。ちょっとくらい席を外しても構わないだろう。
噛り付くようにPC画面に集中している岩井田さんを横目で確認して、私は給湯室へ向かった。
いつもの棚から茶筒と急須と湯呑を取り出し、セットする。
こんな時は、濃い目入れた玉露がいい。いつもよりぬるめのお湯を急須に注いで、きっちり三分蒸らしの時間を取る。
急須から漂う玉露の香りを胸いっぱいに吸い込んで息を吐く。とりあえず母のことは置いておいて、今は仕事に集中しなければ。
今度は味を楽しもうと湯呑に手を伸ばした時、「先輩」と後ろから声をかけられた。振り向くと、出先から戻ったばかりなのだろう、額に薄く汗をかいた上村が立っていた。
「ああ上村、おつかれさま。リストランテHiraに行ってたんでしょう? どう、契約うまくまとまりそう?」
「そうですね、まあ」
返事は素っ気ないけれど、上村は自信ありげな顔をしている。ずっと手こずっているみたいだったけど、きっとうまくいったんだろう。
「そう、良かったじゃない」
上村からいい報告を聞けて、自然と笑顔になる。私は上機嫌で湯呑に口をつけた。
「喉渇いたなー。先輩、俺にも一杯もらえますか?」
「いいけど、熱いお茶でいいの?」
上村は汗が滲んだ首筋をハンカチで拭っている。
「冷たいのがいいけど、それよりも先輩が入れたお茶がいい」
「な……」
上村の言葉に一瞬、胸が音を立てた。
ほんの少し間を空けて、上村を見る。いつものように片頬を上げて憎らしい笑みを浮かべている。
一瞬でも、意識した自分が馬鹿らしい。上村は、どうせいつもみたいに私をからかって遊んでいるだけだ。
「……仕方ないわね」
上村から視線を逸らして、私は近くにある戸棚に手を伸ばした。
ガラスのコップを取り出すと、冷凍庫から取り出した氷をコップ一杯に入れる。そこに入れたてのお茶を注いだ。
熱いお茶で解けた氷が、コップの中でカランと涼しげな音を立てる。
「あー、それうまそう」
「はい、どうぞ。軽くコップを揺すってから飲んでね」
私がコップを手渡すと、上村は言われた通りにコップを揺すった。素直に言うことを聞く上村がかわいく思えて、思わず笑みが浮かぶ。
上村は氷が解けたのを確認すると、一息に飲み干した。
「うまい! ありがとうございました」
「うまいって、味わう暇なんてなかったじゃない」
そう茶化しながら、上村から空になったコップを受け取った。
お茶を入れるくらい、あの日上村に助けてもらったことに比べたらなんてことない。
あの夜以来、上村と会社で二人になるのは初めてだった。母のことがあって上村も遠慮しているのか、最近はあまり部屋を訪ねてこない。
私はずっと上村にあの夜のことを謝りたいと思っていた。
「上村、あの日はごめんね。仕事で疲れてたのに、遅くまでつき合わせて」
「いいですよ、あれくらい」
上村には、たぶんなんでもないことなんだろう。職場の先輩にちょっと手を貸してあげた。それぐらいにしか思っていないかもしれない。
「それでね、ちょっと話があるんだけど」
それでもあの日、私は上村の存在に救われた。その上私は、上村の翌日の仕事に支障が出てもおかしくないような迷惑をかけた。もちろん上村はそんなことはしなかったけれど。
これからきちんと一人で母に向き合うためにも、もう上村を部屋に上げてはダメだと思った。いつ病院から連絡があるかもわからないし、もしまたそんな時に居合わせたりしたら、上村は何度でも私を助けようとするだろう。
私はこれ以上、自分以外の誰かに甘えるようなことはしたくない。
「上村、鍵を……」
「先輩」
意を決して放とうとした言葉は、上村に遮られた。
「な、何?」
「今度の土曜日空いてますか?」
「土曜日なら空いてるけど……」
「よかった。昼ごろ部屋に行くから、出かける用意をして待っててください」
一体どうしたんだろう? 今まで上村は私の部屋に来るばかりで、外へ出かけようなんて言ったことない。
「出かけるってどこへ?」
「秘密」
そう言うと、上村は悪戯を企んでいる子どものような顔で微笑んでみせた。「何それ。秘密って子供じゃないんだから――」
「約束ですよ。それじゃ、ごちそうさまでした」
そして、あっという間に私の前から消えてしまう。
「あ、ちょっと。上村!」
一刻も早く鍵を取り返さなきゃと思うのに、結局いつも上村にかわされてしまう。
このままでは、いつまでたっても上村から離れることができない。そのことに、私はだんだんと焦りを感じるようになっていた。
「出かけるって、一体どんな格好してったらいいんだか」
窓越しの強い日差しに目を細めて、ぼそりと呟いた。
上村と『約束』した土曜日。空調がほどよく効いた病室内とサッシ一枚で隔てたベランダ越しに、空高く昇る入道雲が見える。今日も暑くなりそうだ。
病室のテレビから、「今日は猛暑になる」とアナウンサーの声がする。こんな日に、上村は私をどこに連れて行くつもりなのだろう。炎天下の中、わざわざ出て行くのも億劫だ。
「なあに、ため息なんかついて」
ベッドに横たわる母を振り向くと、顔だけ僅かにこちらに向けて私に向かって微笑んでいた。母の弱々しい表情に胸が痛む。私は芽生えた不安を打ち消すように、わざとおどけた声を出した。
「それがさ、午後から用事があって出かけなきゃいけないんだけど、暑いしもう面倒くさくって」
「そうなの? でもその割に嬉しそうに見えるわ」
「え? 誰が」
「香奈が。そんなこと言って、本当はデートなんじゃないの?」
「そ、そんなわけないじゃない! ちょっと後輩に付き合うだけよ!!」
慌てて両手を振る私を見て、母はふふっと微笑んだ。
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
「もう母さんったら、すぐ私のことからかうんだから」
そのとき、ふいに母の顔から笑顔が消え、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「ごめんなさい香奈。ちょっと疲れたみたい。……眠たいの」
「それじゃあ私はそろそろ帰るね。ゆっくり眠って、母さ……」
私が最後まで言い終わらないうちに、母はもう寝息を立てていた。
ここ最近の母は、私が来ても、すぐに「疲れた」と言って眠ってしまう。起きていると思って声をかけても、たまに夢なのか現実なのか区別がつかない時もあるようだった。
それが薬のせいなのか、それとも病気の進行のせいなのか私にはわからない。
眠ってしまった母を起こさないように、私は静かに病室を後にした。
「用意できました?」
「まあ、一応」
母の病院から、いったん部屋へ戻り、一時間くらいたった頃。コツコツと玄関のドアを叩く音がした。
上村相手にうだうだ悩んでも仕方がない。そう思った私は、結局無難にワンピースを選んだ。白地に黒の小花柄がプリントされた、シンプルなデザインのものだ。
マンションの前に停めてあった上村の車に、二人して乗り込む。車窓から、週末の街を行き交うたくさんの人々が見えた。
「先輩もそういう格好するんですね」
信号待ちで車が停まった隙に、上村が私をちらりと横目で盗み見た。
「上村がどこに連れてくのか教えてくれないから。こういうのが一番無難でしょう?」
「はは、それはすみません。でもよく似合ってますよ、可愛いです」
「……そんなこと言っても何にも出ないわよ」
「何だ、言って損した」
軽口を叩く上村を軽く睨む。別に私だって、上村の言葉を本気にしているわけじゃない。いつの間にか私も、上村とのこういうテンポのいい言葉のやり取りを楽しめるようになっていた。
上村はこうやって少しずつ私の心の中に入り込んでくる。そして私はそのことを心地良く感じている。
それはもう私自身、認めざるを得ないことだった。
繁華街への入り口近くにあるコインパーキングに車を停めると、上村は人通りの多い交差点の方に向かって歩き出した。
「ねえ、いったいどこに行くの?」
スクランブルの交差点は大勢の人々で溢れていた。上村とはぐれてしまわないように、私は彼の背中を必死で追いかけた。
上村は歩くのが早くてなかなか追いつけない。後ろにいる私のことを振り返りもしない。
今日の上村はなんか変だ。いつもなら、素の時でも私に気を遣ってくれるのに。
私を構わない上村のことが、却って不自然に思えた。
「飯、おごります」
交差点を渡りきり、アーケード街に入ったところで、ようやく上村が口を開いた。それでもやはり上村は前を向いたままで、私の顔を見ようとしない。
「どうしたの、急に」
「いつもの家飯のお礼」
そう言うと上村は歩くスピードを上げ、また私との距離を開いてしまう。
ひょっとして、照れてるとか? いや、あの上村に限ってまさか。
結局私はレストランに着くまでの間、一度も上村の表情を確かめることができなかった。
本筋であるアーケード街から、斜めに伸びた細い路地に入る。しばらく行くと、どこかで見覚えのあるお店が見えた。
「上村、このお店……」
『リストランテ Hira』
上村が連れてきてくれたのは、オアシスタウンに二号店をオープンさせようと、上村がずっと交渉していたあのレストランだった。
「やっと客として来ることができました」
上村は私を振り返り、ようやく目を合わせて話してくれた。その表情はどこか誇らしげだ。
白い木製のドアを開け中に入ると、そろそろランチタイムは終わろうかという時間なのに、店内はまだまだお客さんでいっぱいだった。
「いらっしゃいませ、上村さん。お待ちしていましたよ」
上村と二人で案内されるのを待っていると、一人の若いシェフがこちらへ歩いてくるのが見えた。とても体格がよくて、ユニフォームを着ていなければ格闘家か何かと間違えるかもしれない。
「お忙しいのに無理言ってすみません、比良さん」
「いえいえ、来てくださって嬉しいですよ」
比良さんというそのシェフは、満面の笑みで上村に握手を求めた。上村も笑顔でそれに応じている。
「こちらは同じオアシスタウン事業部の三谷です。先輩、こちらはリストランテHiraの二号店をやってくださる比良 保さん。こちらにいらっしゃる前は、東京の帝都ホテルで修業なさってたんですよ」
「はじめまして、三谷と申します。すごいですね、帝都ホテルにいらしたなんて」
「比良です、どうぞよろしく。そんな、すごいだなんて」
私が驚くと、比良さんは慌てたように顔の前で手を振った。大きな体を精一杯小さくして、立派な眉を下げる姿に親しみが湧く。
比良さんは、有名店のシェフだというのにどこにも気取ったところのない人だった。
「今日はお二人ともお客様なんですから。さあこちらへどうぞ」
店の奥へと進む比良さんについていく。私と上村が通されたのは、窓からお店の中庭が見えるこじんまりとした個室だった。
「混んでいるのに、なんだか申し訳ないね」
「そうですね」
比良さんのあの握手といい、わざわざ用意していてくれたこの個室といい、比良さんは上村のことをとても気にいっているように見えるのに、上村はどうしてこのレストランとの契約にあんなに手こずっていたのだろう。上村と食事をする間も、ずっとそのことが気になっていた。
食後のデザートとコーヒーは比良さんが直々に運んできてくれた。シンプルなガラスの器の中の艶やかな果肉に目が釘付けになる。
「デザートはグレープフルーツのマリネです。どうぞ」
真っ白なブランマンジェの上に、ピンクと薄い黄色のつやつやとしたグレープフルーツが交互にのっている。その内の一欠片を私はスプーンで掬い頬張った。
「あ、おいしい!」
「それはそれは、ありがとうございます」
比良さんはまたしても太めの眉を下げ、ニコニコしている。
ああ、この人は本当に料理が好きで、料理で人を喜ばせたいんだな。比良さんの笑顔は、そのことをうかがわせる生き生きとした笑顔だった。
「お料理は任せてくださいましたけど、デザートだけは上村さんからのリクエストで。本当はメニューにないものなんですけど、急遽作ったんですよ」
そう言って比良さんは私にウインクをする。
「えっ、わざわざ?」
上村は私の言葉には答えず、黙々とデザートを口に運んでいる。
「そんなことくらい、上村さんが僕にしてくれたことに比べればお安い御用ですよ。ここでの仕事にやりがいを感じられなくなっていた僕を救ってくれたのは上村さんですから」
「……どういうことですか?」
上村は相変らず涼しい顔でコーヒーを口に運んでいる。わけがわからずにいる私に、比良さんは続きを話し始めた。
「ここのオーナーシェフ……僕の親父なんですけど、本当に昔気質で頑固で。二号店のお話をいただいて、僕はすぐにチャレンジするべきだって言ったんだけど、親父は『今いるお客様のために精一杯出来ることをやればいい、二号店なんて必要ない』って言い張るばかりだったんですよね……」
比良さんはその頃のことを思い出したのか、苦笑を浮かべた。
「僕も東京のホテルで学んできたことを活かしたくて。使う素材にしろ料理のやり方にしろ親父と一緒にどんどん新しいことにチャレンジしたかったんですけど、親父はずっと僕のこと全否定で。仕事への情熱を失いかけていた時に上村さんに出会ったんです」
そう言って比良さんは、黙ったままの上村を見る。それに応えるように、上村は手にしていたカップをテーブルに置いた。
「一度、ちょうどランチで店が混んでいた時に上村さんがいらしたことがあって、僕に『お客様の顔を見てみてください』って」
「お客様の顔?」
意味がわからず、私は上村を覗きこんだ。でも、上村と視線は合うことなく、表情からも何も読み取れない。
「どのお客様もこのお店の料理に心から満足してる。みんな親父の料理が好きでこの店に来てる。この店を新しく作り変えるのではなく、お互いのいいところを取り入れた新しい店を作りませんか、って……」
「オーナーがこれまで築いてこられた伝統を守りつつ、比良さんの画期的なアイデアをいかせる店をこれから作ればいいんです。お二人の夢を現実にするために僕らがいるんですから」
その瞳の力の強さに驚く。……上村はこんな顔をして仕事してるんだ。
「今まで以上にお客様を呼べるお店を一緒に作りましょう、比良さん」
「はい!」
再び比良さんが上村に握手を求めた。希望に溢れた顔で、固い握手を交わす上村と比良さんのことがとても眩しく思えた。
比良さんは、その後も二号店の構想や試作中の新メニューのことなどを話してくれた。上村はその一つひとつに丁寧に耳を傾け、時には自分の考えも躊躇なく述べる。こんなふうに熱く語る上村の姿を見たのは初めてだった。
私は白熱する二人に圧倒されて、ただ見守ることしかできなかった。
「三谷さん、すみません。せっかくお休みの日に食事に来て下さったのに仕事の話ばかりしてしまって」
「いえ、お話とてもためになりました。食事も美味しかったです。ありがとうございました」
「またいらしてくださいね。お待ちしてます」
仮屋さんは私たちが見えなくなるまで、店の前で手を振っていた。気さくな仮屋さんの人柄と料理への真摯な姿勢に、お腹だけでなく心まで満たされたような気がした。