「上村、あの日はごめんね。仕事で疲れてたのに、遅くまでつき合わせて」
「いいですよ、あれくらい」
 上村には、たぶんなんでもないことなんだろう。職場の先輩にちょっと手を貸してあげた。それぐらいにしか思っていないかもしれない。
「それでね、ちょっと話があるんだけど」
 それでもあの日、私は上村の存在に救われた。その上私は、上村の翌日の仕事に支障が出てもおかしくないような迷惑をかけた。もちろん上村はそんなことはしなかったけれど。
 これからきちんと一人で母に向き合うためにも、もう上村を部屋に上げてはダメだと思った。いつ病院から連絡があるかもわからないし、もしまたそんな時に居合わせたりしたら、上村は何度でも私を助けようとするだろう。
私はこれ以上、自分以外の誰かに甘えるようなことはしたくない。
「上村、鍵を……」
「先輩」
 意を決して放とうとした言葉は、上村に遮られた。
「な、何?」
「今度の土曜日空いてますか?」
「土曜日なら空いてるけど……」
「よかった。昼ごろ部屋に行くから、出かける用意をして待っててください」
 一体どうしたんだろう? 今まで上村は私の部屋に来るばかりで、外へ出かけようなんて言ったことない。
「出かけるってどこへ?」
「秘密」
 そう言うと、上村は悪戯を企んでいる子どものような顔で微笑んでみせた。「何それ。秘密って子供じゃないんだから――」
「約束ですよ。それじゃ、ごちそうさまでした」
 そして、あっという間に私の前から消えてしまう。
「あ、ちょっと。上村!」
 一刻も早く鍵を取り返さなきゃと思うのに、結局いつも上村にかわされてしまう。
 このままでは、いつまでたっても上村から離れることができない。そのことに、私はだんだんと焦りを感じるようになっていた。