「三谷さん今頃悪いんだけど、ここの数字だけちょっと直してもらえる?」
 定時30分前。岩井田さんから渡されたのは、商談を明日に控えたドラッグストアとの契約書だった。
「すみません、何か間違いがありました?」
「ううん、違うんだ。上からの指示。今頃になって本当にすまないね」
「いえ、大丈夫です」
とりあえず私のミスではなかったことにホッと息を吐く。
私は岩井田さんから書類を受け取ると、すぐに修正に取りかかった。
 さっきまで打ち込んでいたデータの入力が終わったら、今日はもう帰るつもりでいた。17時半のバスに乗れば、ぎりぎり母の夕食の時間に間に合う。
でも今日はもう、諦めるしかなさそうだ。

 あれから母は、ICUから一般病棟に戻ることが出来た。
それでも症状は日々確実に悪化している。私が会いに行っても、最近の母はほとんどベッドに臥せったままだ。
日に日に弱っていく母を放って置くことはできなかった。僅かな時間でも側にいてあげたかった。
 それなのに母の病状と比例するかのように、仕事は忙しさを増していく。
私は思い通りにいかない毎日に苛立っていた。
「あ!」
 そしてこうやって、普段の私ならやらないような単純なミスをしたりもするのだ。
キーボードを連打して、間違って入力してしまった数字を消していく。今度は連打しすぎて、消さなくていい分まで消してしまった。頭を掻きむしりそうになるのを必死で抑え、重たいため息を吐く。
 どうせ今日はもう残業決定だし、お茶でも入れてちょっと落ち着こう。濃い目に入れれば、きっと頭もすっきりするはず。ちょっとくらい席を外しても構わないだろう。
噛り付くようにPC画面に集中している岩井田さんを横目で確認して、私は給湯室へ向かった。