「このお茶、私がお出ししてもいいですか?」
「もちろん! お願いするわね」
 給湯室へ向かった時とは打って変わって、二宮さんはすっかり明るい表情になった。二人で廊下を歩いていると、外食事業部の方から女の子たちの甲高い声が聞こえてくる。
「……何かあったんでしょうか?」
「さあ、何かしら」
 そろそろ朝礼が始まる時間だ。普段ならオフィスはピリッとした緊張感に包まれているはず。
二宮さんに部長へのお茶出しを任せて自分の席に戻ると、響子が慌てて駆け寄ってきた。
「何の騒ぎ?」
「何って三谷さん、上村くんですよ。彼、ここに配属になったんです」
「あ、上村も今日からだっけ」
 私は響子と話をしながら、パソコンの電源を入れた。
デスクには書類とファイルの山。今日もやるべきことはたくさんある。
「そうですよ、ほら」
 響子に肩を叩かれて顔を上げると、野々村部長と談笑している上村の姿が見えた。
 相変わらず見栄えのする男だ。
涼やかな目元に、少しくせのある髪。身長はたぶん180センチを超えてるはず。外食事業部で一番背が高いはずの野々村部長が、上村のことを少し見上げて話している。
「しばらくはみんな落ち着かないわね」
 みんなっていうのは、まあ主に女の子たちだけど。
「そうなんですよ。見てくださいよ、あの美奈子の張りきりよう!」
 響子に腕をつつかれて、こっそり美奈子の顔を盗み見る。出勤した時よりもいくらかメイクが濃くなっているような気がした。
「ほんと、これから騒がしくなりそうですよねぇ」
「ちょっと心配でもあるけどね……」
ため息混じりにそう言って、私はその心配のもとである美奈子の様子を窺った。
 美奈子はただでさえ恋愛に(うつつ)を抜かしがち。そして、そうなるとさらに仕事が疎かになってしまう。
思わず頭を抱える私に反し、響子はすっかりこの状況を楽しんでいる。舌なめずりでもしそうな勢いだ。
「響子、トラットリア・ロッソの契約書終わったの? 鮫島(さめじま)主任がまだ書類が上がってこないって朝からぼやいてたわよ」
「いけない! すぐやりまっす」
 天敵、鮫島主任の顔が頭に浮かんだのか、響子は逃げるようにデスクに帰っていった。
「はあ……」
今日何度目かわからないため息が漏れる。
 私はスムーズに仕事を進めたいだけなのに、美奈子は仕事そっちのけで目新しい男に気を取られている。いや、ひょっとしたら、美奈子だけじゃないのかも。
 このオフィスのあちこちで、私の憂鬱の種は今にも芽吹こうとしているのかもしれない。不安を感じて、私はまた重たいため息を吐き出した。