「やだ、こんなに濡れちゃった。最悪」
「私も。今日みたいな日は傘なんてちっとも役に立たないよね」
 会社の玄関ロビーで傘の水気を払いながら、他部署の女の子たちが話している。
私もバス停から会社までの僅かな道のりを歩いている間に、足元がすっかり濡れてしまった。
横殴りの雨で濡れたストッキングが気持ち悪くて、朝からついため息をついてしまう。
 今年は梅雨入りが早く、五月下旬からずっと雨の日が続いている。
いつ空を見上げても頭上に広がるのは鉛色の重たい空で、それだけで何だか心が塞いだ。
「おはようございます、三谷先輩」
「ああ、おはよう上村」
「ひどい雨ですね」
「本当ね」
 自動ドアの内側、傘立ての前に上村がいた。
この蒸し暑い中でも涼しい顔をしている。隣の女の子たちが上村を意識して、チラチラと視線を送ってくるのがわかった。
「それじゃあ、お先に」
 私は、上村を傘立ての前に置き去りにして玄関ホールを抜け、ちょうど降りてきたエレベーターに急いで駆け込んだ。
私以外に乗る人は誰もいないようだ。
五階のボタンを押してドアを閉じようとしたら、誰かがドアを押し開けて乗り込んできた。
「どうして俺のこと置いて行くんですか。同じフロアなのに」
「だって……面倒くさいから」
「なんですか、それ」
 上村は面白くなさそうな顔で『閉』のボタンを押した。エレベーターが重力に逆らい上昇を始める。
「先輩、今日は金曜日ですね」
「そうだけど、それが何か?」
「金曜だから、先輩は定時で帰るでしょ。今夜、行ってもいい?」
 あれから、上村は何かと理由をつけて私の部屋へやって来るようになった。
金曜日は、私が定時で上がり、母の病院へ行くことを知っているのだ。
いつの間にか私は、上村に生活パターンまで把握されつつあった。
「どうして?」
「最近仕事がハードでろくなモン食ってないんですよ」
「それはお生憎さま。今日は私、居残り確定なの」
「え、何で? 先輩、今週ずっと遅くない?」
「部長の商談が大詰めでしょ。手伝いたくて」
「ああ、あのチャイニーズレストランの?」
 その時、エレベーターが上昇を止め、狭い箱の中に「ポン」と到着を知らせる音が響いた。
「それなら俺も手伝うから、さっさと終わらせて帰りましょうね。それじゃあ、お先に」
 断わる間もなく、上村はそそくさとエレベーターから降りてしまった。
「もう! いっつも勝手なんだから」
 最近はいつもこうだ。上村は、ああやってうまいこと言ってはご飯をたかりに来る。鍵を返せと私が詰め寄っても、のらりくらりとかわされる。
上村に振り回されるなんて嫌でしょうがないのに、でもなぜか、断わりきれない自分もいる。
「……まあいいか。冷蔵庫の掃除だと思えば」
 一人ぶつぶつと呟きながらまだ人気のない静かな廊下を歩く。
 外食部の入り口に着く頃には、頭の中で冷蔵庫の中身の確認を終え、今夜のメニューを考えはじめていた。