一人娘の美雨が産まれたのは、秋の始まりの頃。
長く続いた夏日からようやく解放された、九月の終わりだった。
その日は久しぶりの雨だった。
お腹に微かな痛みを感じ始めたのは、まだ空が白む前。まどろみの中で、いつもの朝とは何かが違うような気がしたのを覚えている。
意識がクリアになるのを待って、ベッドの上で半身を起こす。タオルケットの上に、カーテンの隙間から差し込んだ太陽の光が筋を作っていた。
ああ、今日も暑いのかな。最高気温、何度くらいまで上がるんだろう。
窓越しに強い日差しを受けて、うんざりしながら寝室のカーテンを開ける。
朝が苦手で、普段はベッドから出るまで十分はかかる達哉だけど、陣痛らしきものが来たことを告げると、さすがに飛び起きた。
今日も暑さ厳しい一日になるんだろうなと覚悟をしていたけれど、ようやく痛みの感覚が狭まり、タクシーで病院に向かう頃には、空一面に薄明るく白っぽい雲が広がり始めていた。
翌朝、初めてこの腕に美雨を抱いたときには、しっとりとした雨が辺りを濡らしていた。
そして夜が来るまでずっと、雨は静かに降り続けた。
日照り続きの渇いた大地に、柔らかい恵みの雨が降り注ぐ。
そんな朝に産まれた子だから、達哉は本当は『慈雨』と名付けるつもりでいたらしい。
渇いた心にしっとりと染み込んで、心を柔らかくする慈雨。この子がこれから出逢う人々にとって、そんな存在になれたら。
そう願って考えた名前だったけれど、その名前は達哉の父親の一言によって一蹴された。
「ダメだダメだ、そんな名前。お前、壺井栄も読んだことないのか。これだから理系人間は――」
なんでも、壺井栄という人が書いたお話に出てくる『慈雨』という女の子は、満員電車の中、人々や荷物に押しつぶされ、声も出せぬまま死んでしまうらしい。
高校で現代国語を教えている義父にとっては、初孫に相応しい名前とは到底思えなかったようだ。
高校も、大学でも理系だった達哉は、「理系だから本を読まないだろうなんて、親父の偏見だ。教師のくせに」と言って拗ねていたけれど、結局義父が考えた名前を付けることに同意した。
美しい雨と書いて、『美雨』。
この名前を呼ぶたびに、美雨が生まれた日、病室の窓から見た雨に煙る景色が目に浮かぶ。
今では達哉も私も、そして美雨自身も、この名前をとても気に入っている。