「タン!」とキッチンの方から思い切りのいい包丁の音がして目が覚めた。
目を開けると、私はきちんとベッドの中で眠っていた。泣きすぎて、頭が痛い。まだふらつく体で、ベッドから抜け出した。
 寝室のドアを開けると、あの香りが漂ってくる。
酸っぱくて苦い、それなのにほのかに甘いグレープフルーツの香り。
どうしても欲しくて、私はそれに手を伸ばす。
「先輩……起きた?」
 足音に気付いた上村が、私を振り返った。
「上村、またグレープフルーツ?」
 笑ったつもりだったのに、久しぶりに私の部屋に居る上村の姿を見て、ほろりと一粒涙が零れた。
「……ごめんね、上村が寝室まで運んでくれたの? 重かったでしょう」
 上村は包丁を置き、体を私の方に向けると、眉間にしわを寄せた。
どうしたんだろう? なんだか上村、怒ってるみたいだ。
「ちっとも重くない、軽すぎるよ。先輩、ちゃんと飯食ってたの?」
「ああ、あんまし……」
「あんましじゃないよ。前にも言っただろ。どうしてしんどい時にちゃんとしんどいって言わないんですか」
 真剣な上村につい吹き出してしまう。こんなに一生懸命な上村、今まで見たことがあっただろうか。
「あのね上村、私には呪文があるの」
「……呪文?」
 私がそう言うと、上村はまた訝しげに眉をひそめた。
「そう、『私は大丈夫』って何度も胸の中で唱えるの。そうしたらほんとに大丈夫になる。……だから私は、誰かを頼らなくても生きていけるの」
「何言ってんの……」
 上村は眉間にしわを寄せると、私を胸に抱き寄せた。
懐かしい上村の体温と匂い。それが、いつも私を惑わせてしまう。
「今度から俺を頼って。鍵もあるからいつでも来られる」
 そう言って体を離すと、シャツの胸ポケットからこの部屋の鍵を取り出して私に見せた。
「先輩は捨てろって言ったけど、やっぱり俺にはできなかった。……先輩、この鍵俺が貰ってもいいですか?」
「上村……」
 私は、上村の腕の中から抜け出すと、彼の手のひらから部屋の鍵を受け取った。
チャームと鍵がぶつかって、涼やかな音を立てる。
 ――全ては、この鍵から始まったんだ。
「ダメよ。返し……」
 全て言い終わらないうちに、両肩をきつく掴まれた。見たことないほど苦しげな表情を見せる上村に、胸が痛む。
「……どうして。ひょっとして朝倉のこと? それならちゃんと……」
「違うわ」
 麻倉さんがどうであろうと関係ない。問題は、私と上村では『違い過ぎる』ということだ。
「違うならどうして」
「上村、もうやめよう。私たちは一緒にいるべきじゃない」
「……どうしても?」
「どうしても」
 素直にその手を取ることができたなら良かったのに。
 私の気持ちは変わらないと悟ったのか、上村はゆっくりと私から離れた。名残惜しげに私に触れ、唇にキスを落す。
「さよなら、香奈」
 最後にそう告げ、上村はこの部屋から出て行く。
これで、最後。
そう思ったことはこれまで何度もあったけど、本当にこれで最後なんだ。
 音もなく、玄関のドアが閉まる。私は手のひらの鍵をきつく握り締めた。