グレープフルーツを食べなさい

 彼女の存在は、すっかり社内でも有名になっていた。
女性でありながら、オアシス部のやり手営業たちを次々にやり込めるキャリアウーマン。
そして、鉄壁の上村を落した唯一の女性。
「オアシス部って、こんなに早い時間から打ち合わせやってるんですか?」
「んー、どうだったかなあ。岩井田さんの予定には入ってなかったけど」
 麻倉さんから視線を外してエレベーター乗り場へと急ぐ。今はまだ、彼女を見ると胸が痛い。
「麻倉さんも今日はデートなのかなあ。ヘアスタイル、素敵だった」
 上昇するエレベーターの中、響子に言われて気がついた。
いつもは下ろしている麻倉さんの肩下までの髪が、今日は綺麗にアップされていた。
「そうなのかもしれないね」
 胸に鋭い痛みが走った。
自分から手放したはずの恋心が、こうして時折顔を出してはシクシクと痛み出す。
 上村と麻倉さんの噂は、あっと言う間に社内中に広まった。
いつもなら騒ぎ立てる上村ファンの女の子たちも、できる女の見本みたいな麻倉さんを目にするとさすがに戦意喪失してしまうらしい。
いつの間にか、二人は理想のカップルとして公認されていた。
「響子もすぐに仲間入りじゃない」
「そうですね。がんばろ!!」
 励ますように響子の肩を叩いて、エレベーターを降りた。

「おはようございます」
 コートを脱いで、鞄をチェアに置く。コートのポケットから取り出したスマホの画面に不在着信の通知が残っていた。
「あれ?」
 響子との会話に夢中になっていたせいか、全く気がついていなかった。画面をタップすると、母の入院している病院の電話番号が表示された。
「……え?」
 呆然としていると、再び手のひらのスマホが振動する。画面に表示されたのは、やはり母の病院の名前だった。
「……もしもし、三谷ですが」
「良かった、つながった! 私ホスピス棟の川田です。三谷さん、お母さまが急変されました。急いで病院までお越し願えますか?」

 耳元からスマホを外し、画面を見つめる。
スマホから、看護師のわめき声がかすかに漏れてくる。
 ――今日はクリスマスイブで、仕事が終わったら病院へ行って母さんと一緒にケーキを食べるんだ。
そういえば、ケーキの入った袋、私どうしたっけ?――
「先輩! 電話貸して」
 その時、横から突然現れた上村が、私の手の中からスマホを奪い取った。素早く耳に当て、何かを話しはじめる。
私は、まるで他人事のようにその様子をぼんやりと眺めていた。
「はい、すぐに向かわせます。ありがとうございます」
 体が軸を失ったように、ぐらぐらと揺れていた。
上村の声も回りの喧騒も、全て反響したように頭の中で鳴り響く。
――耳鳴りがする。
 上村に何度か両肩を揺さぶられて、ようやく目の焦点が合った。覗き込む上村の瞳の中に、怯えた女の顔が映っている。
「先輩、病院から電話です。俺が連れて行きますから、早く」
「――病院?」
「どうしたんですか。しっかりしてください! 早く行かないと間に合わなくなる!!」
 上村のその一言が、私を一気に現実に引き戻した。
「……行かなきゃ!!」
 そのままオアシス部を飛び出そうとした私の腕を、上村が掴んだ。
「だから、俺も一緒に行くって!」
 前回、母が倒れた時のことを思い出したのだろう。上村が私を心配そうに覗きこんだ。
「……一人で大丈夫だから」
 私は、上村の腕をそっと外すと、しっかりと上村の目を見て微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。私は大丈夫」
「先輩……」
「行くね」
 私は、ちょうど出勤してきた部長に事情を告げると、今度こそオアシス部を飛び出した。
 出勤時間で混んでいるエレベーターを避け、階段を一気に駆け下りる。
玄関ホールに下り、まだ出勤してきたばかりの社員たちの間を走り抜けた。
 早く、母さんのもとへ行かなきゃ。そのことばかりが、頭の中を巡っている。
 私は会社を出ると、ちょうど来たタクシーに飛び乗った。

「母さん!!」
 乱れた息を整える間もなく、病室に駆け込んだ。
母はもう顔に色もなく、酸素マスクをつけていても苦しくてたまらないようだった。
「ご家族の方ですか? どうぞ、こちらに」
 ずっと母を担当してくれていた看護師に肩を抱かれ、母の元へと歩み寄る。膝をついて母の顔を覗き込む。力なく置かれた手を取り、そっと握り締めた。
「母さん私、香奈よ。お願い目を開けて」
 両手で握り締めた母の手を額に寄せ、きつく目を閉じた。
「母さん、今日はクリスマスイブよ。今年は私一人でケーキ作ってみたの。一緒に食べよう……」
 いくら私が語りかけても、母が目を開ける気配はない。溢れる涙で、母の顔が歪んで見えた。
 ……泣いてちゃダメだ。ちゃんと自分一人で向き合うって決めたじゃない。
 溢れる涙を止めようと、歯を食いしばり自分で自分を叱咤する。震える手のひらで涙を拭いて、顔を上げた。もう一度、母に呼びかけてみる。
 「母さん、お願いだから……目を開けて!!」
 私の呼びかけに反応したのか、ずっと閉じられていた母の目蓋がぴくりと動いた。ゆっくりと何度か瞬きをしながら目を開ける。おぼろげな視線が私を捉えると、母の目から一粒涙がこぼれた。
「母さん、大丈夫よ。私がいるからもう大丈夫」
 母はゆっくりと私に微笑むと、酸素マスクを指差した。私は頷いて、母の口からマスクを外す。
「……母さん?」
 母は浅く呼吸を繰り返すと、そっと私の頬に触れた。
幼い頃、なかなか寝付けない私にそうしてくれたように、濡れた目蓋を優しく撫でる。……涙が、止まらなかった。
「香奈……、自分に正直に。幸せに……なってね」
 母の細い指が、私の頬を滑り落ちた。
「かあ、さん?」
 甲高い電子音が部屋中に鳴り響く。
――いつの間に来ていたのか、母を受け持つ初老の医師が、淡々とした声で母の死を告げた。



『私は、大丈夫』

 子供の頃から、つらいことがあるたびに鏡の中の自分にそう言い聞かせてきた。

 言葉には力があって、声に出せば本当になるから。


 浅い眠りの夜、暗闇の中目を凝らすと、窓辺に一人佇み月を見上げる母がいた。

 月明かりの下、母は何度も何度も繰り返していた。


『大丈夫、私は大丈夫』

 自分だけが温かい布団の中で、私はその光景をこの目に焼き付けた。

 今だけではなく、この先もずっと。決して忘れないように。


 ――母のように強く、私はなりたい……





「三谷さん、もう出てこられたんですか?」
「岩井田さん、あけましておめでとうございます」
 早朝のオアシス部で、まだ正月休みを引きずっているらしい、眠そうな目をした岩井田さんに頭を下げた。
「年末は、色々とありがとうございました」
 クリスマスだというのに、母の葬儀には会社からもたくさんの人が駆けつけてくれた。岩井田さんもその一人だ。
「その、もう大丈夫なのかな。こんなこと聞くのもあれなんだけど……」
不安気に私を覗きこむ岩井田さんにこれ以上心配をかけたくなくて、私はにっこりと微笑んだ。
「私は大丈夫ですよ、岩井田さん」
それなのに、岩井田さんの顔はなぜかまだ晴れない。
「……本当に?」
「岩井田さんって、案外心配性ですよね」
 眼鏡の奥、私に心配そうな視線を向ける岩井田さんに、私はもう一度微笑んでみせた。
「いや、だって……君葬儀の時、一度も涙を流さなかったから……」
 ――気づかれていた。
 母が亡くなってすぐは、母がもういないことが信じられなくて。……なんだか嘘のようで、しばらくぼんやりとしていた。
通夜や葬儀のときは、やらなければいけないこと、決めなくてはいけないことがたくさんあって、とにかくそれに追われていた。
私は母の死を実感する間もなく、気がつけば全てが終わっていた。
 本当は今このときも、悪い夢を見ていたような気がしている。
元気だった頃の母がひょっこりと姿を現して、『香奈』と笑いかけてくれるような気がしてならない。
「……泣かないってことは、もう大丈夫ってことですよ、岩井田さん」
 『私は大丈夫』
 ちぐはぐな心とはうらはらに、こうして今日も私は、自分の心に暗示をかける。

 会社帰りのバス停で、到着したバスを見上げてため息を吐き出した。まるで朝の通勤ラッシュのような人の多さだ。
バスの中は暖房が効きすぎていて、ウールのストールを巻きつけた首筋に汗が滲む。それでもいつもは平気なのに、私は珍しく人に酔った。
ひどくめまいがして、家の近くのバス停にたどり着くまで目を瞑り、私は必死でつり革を握り締めていた。
 きっとずっと眠れていないから、そのせいだろう。今日くらいはぐっすり眠れたらいいのに。
 母のことをきちんと受け入れられたら、私は眠りを思い出せるのだろうか。
一人の家に帰ると、あの月夜の母の姿が脳裏に蘇っていつまでも消えない。
母が近くにいないことが、ずっと不思議でならなかった。
 ――でもその時は、突然訪れた。

 とにかくずっと靄がかかったような頭をすっきりさせたくて、私は食事もそこそこにシャワーを浴びた。
濡れた髪を乾かそうと、洗面台の前に立つ。覗き込んだ鏡の中の自分に、私は初めて母の面影を見た。
「ずっと似てないって言われたのに……」
 私はおそらく父親似なのだろう。母と一緒に居ても、これまで似ていると言われたことがなかった。それなのに……。
 鏡の中の自分に手を伸ばしてみる。
キリと上がった眉、すっと通った鼻筋、痩せた頬、薄い唇。
いつの間にかこんなにも、私は母に似てきていた。
「本当に、居なくなったんだなあ……」
 今頃、母の不在を実感して、一粒、二粒と涙が零れる。
「……とうとう一人になっちゃった」
 そう呟いて、もう一度鏡を覗きこんだとき、それは突然舞い降りて来た。
「かあ……さん?」
 呼びかけても、答えてくれるわけじゃないのに。気づけば母を呼んでいた。
 ……もしかしたら、これは母からの最後の贈り物なのかもしれない。それは徐々に、確信へと変わっていく。
「うっ……、母さん!」
私は、その場に膝をつき泣き崩れた。
『涙はもう出ない』そう思っていたのに。涙は枯れることなく私の中から溢れてくる。
 泣いて泣いて、時間も場所も何もかもが曖昧になるほど泣き続けて、真冬の空が白み始める頃、ようやく私は眠りに落ちた。
 それは久しぶりに訪れた、安らかな眠りだった。

 「タン!」とキッチンの方から思い切りのいい包丁の音がして目が覚めた。
目を開けると、私はきちんとベッドの中で眠っていた。泣きすぎて、頭が痛い。まだふらつく体で、ベッドから抜け出した。
 寝室のドアを開けると、あの香りが漂ってくる。
酸っぱくて苦い、それなのにほのかに甘いグレープフルーツの香り。
どうしても欲しくて、私はそれに手を伸ばす。
「先輩……起きた?」
 足音に気付いた上村が、私を振り返った。
「上村、またグレープフルーツ?」
 笑ったつもりだったのに、久しぶりに私の部屋に居る上村の姿を見て、ほろりと一粒涙が零れた。
「……ごめんね、上村が寝室まで運んでくれたの? 重かったでしょう」
 上村は包丁を置き、体を私の方に向けると、眉間にしわを寄せた。
どうしたんだろう? なんだか上村、怒ってるみたいだ。
「ちっとも重くない、軽すぎるよ。先輩、ちゃんと飯食ってたの?」
「ああ、あんまし……」
「あんましじゃないよ。前にも言っただろ。どうしてしんどい時にちゃんとしんどいって言わないんですか」
 真剣な上村につい吹き出してしまう。こんなに一生懸命な上村、今まで見たことがあっただろうか。
「あのね上村、私には呪文があるの」
「……呪文?」
 私がそう言うと、上村はまた訝しげに眉をひそめた。
「そう、『私は大丈夫』って何度も胸の中で唱えるの。そうしたらほんとに大丈夫になる。……だから私は、誰かを頼らなくても生きていけるの」
「何言ってんの……」
 上村は眉間にしわを寄せると、私を胸に抱き寄せた。
懐かしい上村の体温と匂い。それが、いつも私を惑わせてしまう。
「今度から俺を頼って。鍵もあるからいつでも来られる」
 そう言って体を離すと、シャツの胸ポケットからこの部屋の鍵を取り出して私に見せた。
「先輩は捨てろって言ったけど、やっぱり俺にはできなかった。……先輩、この鍵俺が貰ってもいいですか?」
「上村……」
 私は、上村の腕の中から抜け出すと、彼の手のひらから部屋の鍵を受け取った。
チャームと鍵がぶつかって、涼やかな音を立てる。
 ――全ては、この鍵から始まったんだ。
「ダメよ。返し……」
 全て言い終わらないうちに、両肩をきつく掴まれた。見たことないほど苦しげな表情を見せる上村に、胸が痛む。
「……どうして。ひょっとして朝倉のこと? それならちゃんと……」
「違うわ」
 麻倉さんがどうであろうと関係ない。問題は、私と上村では『違い過ぎる』ということだ。
「違うならどうして」
「上村、もうやめよう。私たちは一緒にいるべきじゃない」
「……どうしても?」
「どうしても」
 素直にその手を取ることができたなら良かったのに。
 私の気持ちは変わらないと悟ったのか、上村はゆっくりと私から離れた。名残惜しげに私に触れ、唇にキスを落す。
「さよなら、香奈」
 最後にそう告げ、上村はこの部屋から出て行く。
これで、最後。
そう思ったことはこれまで何度もあったけど、本当にこれで最後なんだ。
 音もなく、玄関のドアが閉まる。私は手のひらの鍵をきつく握り締めた。

「残念だなあ、本当に。気持ちは変わらないの?」
「はい、申し訳ありません」
 一月も後数日で終わりという頃。館山部長の手が空いた隙を狙って、私は彼をオアシス部の隣にあるミーティングルームに呼び出した。部長には、たった今三月末で退職したいと申し出たばかりだ。
「ひょっとして結婚? それとも三谷さんなら転職かな」
「いえ、そのどちらでもありません」
 そう言うと、部長は困ったような顔をした。
「……そう、それで君はこれからやっていけるの?」
「はい。自分の蓄えと母が残してくれたものが少しはありますので、当分は」
 私の言葉に安心したのか、部長はホッと息を吐き出した。この人も、部下思いのいい上司だった。外食部の野々村部長といい、本当に私は上司に恵まれていた。

 産婦人科でもらった子供のエコー写真を見ていたら急に懐かしくなって、押入れの奥から昔のアルバムを引っ張り出した。
昔からそういうところはまめだった母が撮り溜めたアルバムは、私のものだけで五冊もある。
その中の一冊、母の手製の振袖を着た成人式の写真が貼られたページに、見覚えのない白い封筒がはさまっていた。
それは、母からの手紙だった。

 『香奈へ
 側にいてあげられなくて、本当にごめんなさい。
 香奈がいてくれたおかげで、私はずっと幸せだった。
 私もあなたが幸せになるのを見届けたかった。
 そうできなかった私を許してください。
 これはあなたの結婚資金として貯めていたお金です。
 お金は自分自身のために使ってください。
 香奈が本当に幸せだと思える生き方をしてください。
 香奈、愛してる………』



「私やっぱり、三谷さんはバカだと思います」
「バカって……相変わらずね、美奈子。バカな人間に無理してつきあうことないわよ。私は一人でも平気なんだから」
「もう、またそういうこと言う。そんなふうに頑固だから、会社でもお局扱いされてたんですよ」
 真顔で私のことを叱る美奈子を見ていたら、つい吹き出してしまった。
 三月のよく晴れた水曜日。何故か美奈子と連れ立って妊婦検診に行くはめになった。
三月の頭には有給消化に入っていた私はともかく、平日だからいいと断わったのに、美奈子は有給を取ってまで病院に着いてきてくれた。
一人で子供を産む私のことが、心配なんだと言う。
「子供のこと知ってるの私だけだから、責任を感じるんです」
「ずいぶん真面目になったよね。ちょっと前までは合コンの女王だったのに」
そう言い返すと、「こっちは真面目なのに。ふざけないでください」と言ってまた怒られた。
やっぱり、美奈子はちょっと手強い。

 子供ができたとわかり初めて産婦人科を訪れた帰り道、バス停まで一人で歩いて帰るところをたまたま通りがかった美奈子に見られていた。
美奈子の実家が病院のすぐ近くで、週末を利用してちょうど帰省していたらしい。
 会社の給湯室に呼び出され美奈子に問い詰められた私は、父親の名は伏せたまま、子供ができたことを渋々白状した。てっきり嫌味の一つでも言われるのかと思いきや、美奈子は涙目になり、私を抱き締めてこう言った。
『大丈夫、私が力になりますから』
子どもは一人で育てると決めたものの、先の見えない未来に不安を抱えていた私が、美奈子のその一言でどれだけ励まされたかわからない。
「まさか私が美奈子に呼び出し食らうなんてね」
 今でも思い出すと、笑ってしまう。
いがみ合っていたときもあったのに、私のことを真剣に思ってくれて、素直にありがたいと思えた。
「これでも私、ちょっとは三谷さんのこと尊敬してたんです。三谷さんがオアシス部に異動になって、しばらく外食部はパニックだったし。仕事の割り振りとかみんなのフォローとか、見えないところで色々やっててくれたんだなって。それなのに、いつの間にか会社も辞めちゃうし!」
「もう、そんなに大きな声出して。お腹の子がびっくりしちゃうでしょ」
「あっ、すみません」
 冗談のつもりだったのに、美奈子は真に受けて両手で口を押えて黙ってしまった。この子も根は真面目なのだ。かわいくて、ついからかいたくもなる。
一人で不安になることもあるけれど、そんな私を美奈子が支えてくれているのもまた事実だった。
 岩井田さんからの話は、きちんと断わった。
父親の名前は出さずに妊娠のことを告げると、岩井田さんは驚きつつも納得してくれた。そして、まるで自分のことのように心配もしてくれた。
こんな私のことを好きだと言ってくれて、本当に嬉しかったし、何より自分の将来を見つめなおすきっかけをくれた岩井田さんには、心から感謝している。