「お先に失礼します」
「ああ、三谷くん。お疲れさま」
 まだ一人デスクに残る部長に声をかけ、オアシス部を後にした。
週の半ば。思いがけず仕事が早く片付いて、珍しく暗くならないうちに会社を出ることができた。
 今日は母は検査があるとかで、お見舞いはご遠慮ください、と担当の看護士に言われている。結果は明日お知らせしますから、と。
 会社を出ると、雪でも降りそうなどんよりした灰色の空が広がっていた。
空を見上げ、折り畳み傘を更衣室のロッカーに忘れて来たことに気がついた。
「……もういいや。めんどくさい」
 マフラーをしっかりと首に巻きつけ、歩き出した。
 ぽっかりと空いてしまった時間も、一人では持て余してしまう。賑やかな冬の街を見ていると、このまま家に帰るのをもったいなく感じた。
こんなことなら、響子の誘いを断るんじゃなかったと後悔した。
最近社内にいい感じの人がいて、クリスマスプレゼントをあげたいから買い物につきあって欲しいと、昼休みに誘われていたのだ。
今日もきっと残業になると思っていた私は、響子の誘いを断ってしまった。

 バス停の目の前で、スマホが鳴っているのに気がついた。コートのポケットをさぐり、慌てて画面をタップする。電話は岩井田さんからだった。
「もしもし、三谷です」
「岩井田だけど、三谷さん今どこ? もうバスに乗っちゃったかな」
「いえ、ちょうどバス停に着いたところです。何かありました?」
「いや、違うんだ。そのままそこで待っててくれる? すぐ迎えに行くから」
「……どういうことですか?」
「いいから、そこで待ってて」
岩井田さんからの電話は、そこで切れてしまった。一体どうしたのだろう。
仕方がないので、バス停のすぐ傍にあるケーキショップの前で、岩井田さんを待つことにした。
店内は、クリスマス一色に飾り付けられている。ガラスケースの中にはクリスマスケーキの見本が数種類並んでいて、つい吸い寄せられるようにして覗いてしまった。
 子供の頃から、クリスマスは母と一緒にケーキを手作りした。
よくばって18センチホールのケーキを焼いてしまって、「もうムリ!」なんて文句を言いながら、母と二人で3日間くらい食べ続けた。今では懐かしい思い出だ。
今年は私がケーキを手作りして持っていこうか。どうせなら、フルーツがいっぱい載ったケーキにしよう。苺にオレンジ、キウイフルーツ、母の好きな黄色い方の桃、そして酸っぱいグレープフルーツ。
……一口だけでも、食べてくれたら。
「ダメじゃないか。傘もささずに」
 考え事に夢中になって、雪が降り出したことにも気がついていなかった。いつの間にか私は大きな黒い傘の中にいて、目の前には岩井田さんが立っていた。
「そこに車停めてるから、行こう」
 肩を引き寄せられ、傘の中で寄り添うようにして歩く。
「……三谷さん、何かあった?」
「ごめんなさい。大丈夫です」
 こうやって大丈夫と自分に暗示をかけて、苦しいときはやり過ごすんだ。今までだって、そうやって切り抜けてきた。
一粒だけこぼれた涙にも、岩井田さんは気づかないふりをしてくれた。