「上村」
 あまり声が響かないように、小さい声で話しかけた。上村は階段の途中に立ち止まり、私を見上げた。
「ごめん、上村にお願いがあって」
「何ですか」
 こんなふうに上村と面と向かって話すのは、どれくらいぶりだろう。ふいに胸が締め付けられて、私は上村に気づかれないように一度深呼吸をした。
「鍵を、返して欲しいの」
 私の声に、ほんの一瞬上村が瞠目したような気がした。でもすぐにいつもの無表情に戻っていて、きっと窓から差し込む西日のせいだと思い直す。
「けじめをつけないといけないって思うのよね。上村も誠実であるべきでしょう?」
 どうしても麻倉さんの名前を出したくなくて、誰に、とは言えなかった。上村は相変らず無表情のままで、何を考えているのかわからない。
「だから――」
「今は持っていません」
 私の言葉を遮って、上村が冷たく言い放った。機嫌を悪くしたのか、突き放したような視線が私を射抜く。
「……そう。じゃあ、捨ててくれて構わないから。呼び止めてごめん」
 それだけ言うと、私は上村の顔も見ずに再び階段を引き返した。上村が追いかけてくる気配はない。
 これでいいんだ。間違ったことはしていない。
 私は、大丈夫。
 心の中で、何度も何度も呪文のように繰り返して、階段を早足で上った。