下の階の殺人 ~エルモとユースケの事件簿~

「それはそうと、満元…。お前、帰ってくるなら事前に連絡してくれてもいいだろ」

「いや、これまた急に転勤で東京に戻る事になってな。びっくりさせようと思って。それに知らせなくてはならないこともあるし」

満元は急に背筋を伸ばし、白い封筒をまるで卒業証書を授与するように、大げさにユースケに渡した。

ユースケは渡された封筒を見た。封筒を裏返すと、満元と知らない女性の名前が連名で記載されていた。披露宴の招待状であった。

「俺も長い遠距離恋愛の末、独身時代にピリオドを打つことにしました! ワハハハ!」

満元はまるで正義の味方のように腰に手を当て、満面の笑顔をさらにくしゃくしゃにさせてのけぞった。 

「で、今週末に新居でお披露目パーチイなるものをすることになったから、お前も来いよな!」

満元はそれから、どのように出会ったか、どうやって遠距離恋愛を結婚まで昇華させたか、まるで結婚式での新郎スピーチの予行練習のように、始終笑いながら、怒涛のように話しはじめた。ユースケも結婚式の招待客のようにただうなずいた。

「お! もう会社に戻らないと! まだまだ話していない事があるから、続きは週末な!犬もいいけど、お前も早く落ち着けよな! あ、あと哲也も呼んだから、独身同士、仲良く一緒に来いよ!」

満元は、ニコニコと笑いながら走り去っていった。

後に残されたユースケは無言でその場に立ち尽くしていた。

ユースケの脇を、正月の準備でたくさんの買い物袋と稲わらの水引を持った家族連れが足早に通り過ぎて行った。子どもは母親に手をひかれつつ楽しそうに何やら話していた。

ユースケは通り過ぎる家族の様子を見ながら、エルモをつないでいたヒモをくるくると小さくまとめ、ポケットに入れてとぼとぼと家路についた。

家に帰るとすぐに、和子が「エルモが先に一匹で帰ってきたけどどうしたの」と聞いてきたが、ユースケは、それには答えず「仕事が立て込んでいるからしばらくエルモの散歩はやってほしい」と、言い残して自分の部屋に入ってしまった。

その夜の事であった。

なぜか目が冴えてしまいなかなか寝付くことができず、ユースケは布団の中で何度も寝返りを打った。天井のシミが、なぜか人の形に見えて妙に気になる。

子供の頃、こういった寝付けない夜にはきまって幽霊を見た。社会人になってからは、しばらく幽霊を見る事は無かったため、もうそういった恐怖におののくことはなくなったと安心していた。

今日は妙に重苦しい感じがする。

何かがユースケの上に乗っているかのように、息をするのさえも苦しい感じである。

見ると、ユースケの上に西脇社長が正座をして座っていた。

「うわあああ!」

ユースケは恐怖のあまりに叫んだ。しかし、身体が金縛りにあったように動かない。

何分かそのままの状態であったが、ユースケはふと、西脇社長が正座をしながら何かを食べていることに気が付いた。

よく見ると、それはみかんであった。

「もうみかんが食べられないのか……いや、みかんを食べたから死んだのか……いや、それとも……」

西脇は正座しながらブツブツとつぶやいた。

しかし、だんだんと怒りがこみあげてきたのか、青ざめた西脇社長の顔が鬼の形相に変化した。突然西脇社長がユースケに飛びかかり、ユースケの首を締め出した。

「みかんが俺を殺した!」

逆上した西脇社長は、ユースケの首を締めたまま、前後左右に激しく振り回した。身体を動かすことができないユースケは、なすがままで意識が遠のいた。

「結局、あんまり大した手がかりが無いってことか! コンサル先生!」

次の日、しびれを切らした哲也が、ユースケの家に押しかけて来たのだった。

「ん、ユースケどうした?具合でも悪いのか?」

「ああ、ちょっと……」

「どうした? また昔みたいに幽霊でも見たっちゅうんじゃないだろうな」

ユースケは無言のままうなずいた。

「え? まさか図星? いやー、しばらく話をしなくなったと思ったら、また出てきたんだ…昔の仲間が」

「仲間って言うなよ!出てきたのは西脇社長だよ」

「ええ?」

「お前、部屋の中なんだから、そんなに大声で話さなくたって聞こえてるって」

「しっかし、出てくるとは、よっぽど未練があるんだな。で、どんな様子だったんだ」

「みかん食べてた」

「みかん?なんじゃそりゃ!」

「わかんないよ。でも『みかんが俺を殺した』って叫んでたんだ」

「ハア?『みかんが殺す』ってどういうことだ?ついにみかん星人が地球侵略に来たのか!ジャジャーン!」哲也はおもむろに両手を広げた。

「お前それでも刑事かよ……」あきれた顔でユースケは哲也を見たが、一向に気にしていない様子だった。

「しかしさ、その死んだ社長って本当にやり手だったんだな。そもそもああいう話は、最初は関係者しか知らないんだろ……。確か大口顧客っていう個人投資家経由でその話が来たっていうウワサじゃないか。情報は集まるところには集まるのか。俺の所には一生来ませんよ、と」

ユースケは急にひっかかる何かを感じた。

「ん……まてよ」

ユースケは、これまでの記憶を慎重にたどっていた。ふと営業の都丸の顔が思い浮かんだ。

「そうだ! 都丸は大手の銀行出身だった!」

「……え?どういう事?」

「昔いた銀行ルートで都丸がその話を知ったんじゃないかな」

「あ、そうか。だから早く情報がはいってきたんだ」

哲也は急に身を乗り出した。
「だけどよお、そういうのは、通常大手の銀行しか入り込まないんだろ。いくらその大口投資家がすごくても、これまで大きな事業投資の実績が無いアーバンはよく入り込めたな。都丸が相当裏で苦労したんじゃねえか……」

「そうなんだ。そんなに苦労したら普通は見返りを求めるよな。でも、都丸は副社長どころか支店長にもなっていない」

ユースケは少し考え込んでから口を開いた。

「……ある人に言われたんだけど、都丸は西脇社長の親戚の内装工事の会社がヘマをやったとかで、現場に呼ばれたんだよな」

「そうだな」

「金融の営業マンが急に呼ばれて工事現場に行ったって何もできないんじゃないかって」

「む!」

「だから、ちょっとくらい外したって問題ないんじゃないかって……」

「そういえばそうだ!ということは、都丸は一旦現場から離れて殺害することもできるって事だ!」哲也は興奮して机をたたいた。

「都丸のアリバイって、ショッピングセンターの担当者に会っていたかどうか聞いたんだよな」

「そうだ」

「都丸が誰とも一緒にいなかった時間帯がないかどうか調べてくれないか」

「俺もそれを考えていたところだ。ほー誰だ、その素晴らしい気づきを助言してくれた優秀な人は!」

「え……それは……。え……と……」何と答えてよいか分からずユースケは一瞬口ごもった。

「ま、誰かとか細かい事はさて置き……。それよりもだ…。疑問がまだあるんだ」

「死んだ場所の事だな?」

「そうなんだ。何で会社の事務所の下の階で死んでいたのか。しかも外傷も無い……。殺害するならどうやって殺害したのか、ということだ」

「それよそれ。だから心臓発作ということで、警察では病気で片付けられようとしているんだよな。うーん、やっぱり持病なのか?困ったな……降り出しに戻ったか?それに、現段階では、都丸が社長に恨みを持っていたかもしれない、という事だけだからな。あまりこのことにとらわれすぎてもいかんし…」

哲也はブツブツ言いながら部屋の中を歩き回っていたが、突然携帯電話が鳴り響いた。

あわてて哲也が出ると「すまん、別件で本署から呼び出し」と言い残し、部屋を出て行った。

急に部屋が静まり返った。
エルモが先に家に帰ってしまった散歩の後、エルモを家で見かけることはなかった。

ユースケが散歩を拒否して和子に任せていることも顔を合わせていない原因ではあるものの、エルモの方も避けているのか、哲也の前には姿を現さなかった。

紅茶の湯気がまだゆらゆらと立っているカップを見ながらユースケはため息をついた。

「あいつどこへ行ったんだ……」

ユースケはいつの間にかエルモを探している自分に、頭を掻いた。

その日の夜、哲也から連絡が入った。

確かに都丸は席を外した時間が2時間あり、その間誰も都丸を見かけてはいなかったとのことであった。

さらに、哲也は新たな情報を得たと意気揚々と話した。

それは、都丸が二か月前にシドニーヘ行ったという情報であった。アーバン投資はこれまで国内不動産への投資に特化しており、海外との取引は初耳であった。

哲也から聞き込みをしてほしい、と言われ、ユースケは翌日、再度病院を訪ねることにした。

面会の連絡は入れていないが、受付で簡単な登録をしただけで、許可証であるネームプレートが発行された。

ユースケが病室の前まで来ると、都丸が誰かと電話をしている声が聞こえた。

話の内容までは聞き取れなかったが、日本語ではなく外国語で話をしているようである。

近くにいた看護師が、少し渋い顔をして病室のドアを開いた。

「都丸さん、病室は携帯禁止なんですが……」

都丸は、不意に入ってきた看護師だけではなく、後ろにユースケも立っているの見て、動揺した様子で携帯を切った。

「電話がかかってきたのでつい……」

さわやかに答える都丸に、看護師はうなずくと、満足そうに病室を出ていった。

「真庭さん、また取り調べですか。アポ無しで来られると困るのですが」都丸は怪訝そうにユースケを見た。

「あの、ちょっと聞き忘れたことがあったので、またおうかがいしました」

いつもとは違って威圧的な雰囲気の都丸にユースケは出直そうかと思ったが、ぐっとこらえた。

「今、海外に電話されていましたか」

「え、ええ……。まあ。ちょっと海外から問い合わせがありまして……それが何か?」都丸は口ごもる。

「海外との取引もおありになるとは知りませんでした」

「まあ、この業界は世界情勢にも気を付けておかないといけないのでね。定期的に情報を提供してもらっているんです。で、いったい今日は何の用事なんでしょうか」

「えーっと……都丸さんは英語がご堪能なんですね。それで、三か月前にシドニーへも研修へ行かれていましたよね」

都丸の表情が一瞬変わったが、すぐににっこり笑った。

「ええ、そうですね」

「どういう研修だったのですか」

「シドニーの会社から売上分析ソフトの売り込みが直接あったんですよ。まあ、それが良さそうで、ちょうど先方でもプレゼンを兼ねた研修会を現地で開催するというので、行ったのですが」

「ああ、そういうことですか。オーストラリアはちょうど春くらいの季節ですね。日本と逆ですね。自由行動もあったのですか」

「いやいや、みっちり三日間研修で、先方もこの機会に何とか売り込もうとして我々参加者を一時も離してくれませんでした」

「じゃあ、自由に行動する時間がなかったのですか」

「ええ……。そうなんです。でも、プログラムの最終日は観光でしたよ。そういう接待は抜け目ないですね」

「へえ。いいですね。オペラハウスとかなんとかブリッジとか…」

「ハーバーブリッジです。きれいでしたよフェリーで移動したりして、晴れていてすごく気持ちが良かった。そういう事は役得です」

「フェリーで観光ですか。いや、うらやましいです」

不意に面会時間終了のアナウンスが音楽とともに病院に流れた。なぜか今日は慣れてきたのか会話がスムーズにできる。

本当はもっと会話を続けたかったが、仕方なく立ち上がりふと、ベッドの下を見た。

この間のシューズが無くなっている。

「あれ……あのシューズは…」

「あ、あれですね。あの靴で事故に遭ったわけで、ちょっと縁起が悪いんで、病院で処分してもらったんです。また新しいのを買おうと思っているんです。毎年新製品は出ますし」

そう言って都丸は、最近発売されたばかりの男性ファッション誌の、端が折られた靴の紹介ページをユースケに見せた。都丸の様子はまるで演技をしているようにそつがなかった。

その様子にユースケは少し違和感を覚えたが、看護師が急に面会時間終了と再度知らせにきたため、病室を後にした。

家に戻るとユースケは早速哲也に電話で報告した。

「……まあ、シドニーへ行ったのは研修ということで、裏をとってほしいのだけど、この事自体はそれほどおかしなことではないけど……。うん……。ただ、ちょっと違和感があって……」

ユースケは電話を耳にあてたまま息を吸い込んだ。

「……シューズの雑誌の写真を、わざわざ俺に見せようと用意していたみたいなんだ。まるで演技しているみたく。何でもない事かもしれないんだけど、妙に気になるんだよね…。うん、そうなんだ……」

この報告を哲也以外に聞いていた者がもう一人、いやもう一匹いた。エルモは扉の前で、耳をピンと立てて聞いていたが、話が終わるとすぐに、何かを思い立ったように、部屋を出ていった。

満元の新居はユースケの家から意外に近かった。

もともとユースケの家は古くから住宅地にあるが、バブル時に多くの土地が買収の対象となり、道路沿いには大型マンションが立ち並んだ。

ユースケも新聞と共に折込広告が挟まっているのを何度か見かけたが、まさかそこが満元の新居であるとは、思っていなかった。

哲也も満元に呼ばれており、事前に家に立ち寄るようにユースケの携帯の留守電に都丸からの伝言が入っていた。

哲也の家は昔ながらの果物屋で、昔は繁盛していたが、相次ぐ大型店の進出に今はお得意様相手だけに細々と商売を続けていた。

指示された時間に店に行くと、都丸の父親が開店の準備をしていた。

「にこにこくだもの 電話○×―△△42」と古ぼけたオレンジ色のファサードが掲げられ、ベニヤ板のような剥き出しの木の台の上に緑色のプラスチックのカゴが並べられ、りんごやみかんといったおなじみの果物が手書きの値札と共に並べられている。ここは昭和の時代のままであった。

都丸の父親がユースケに気付くと「お、ユースケ、久しぶりだな、坊主」と言った。その無骨な言い方は都丸によく似ていた。

「いや、もう子供では無いのですが…」

「今日、満元の坊主の新居のお祝いに行くんだって? いやー、ウチの息子もずっと一人モンで困っちまうわ!坊主が早くヨメもらわないからウチのバカ息子もまだ大丈夫だって思っちまうからよお、早くもらってくんねえかねえ?」

「は、はい……すみません……」つい謝ってしまうユースケであった。

「てーつー! おーい! 坊主きたぞー!」

哲也がとてつもなく大きなかごに入った果物の盛り合わせを抱えてよたよたと店の奥から出てきた。

果物の盛り合わせが入ったカゴが大きすぎて、哲也ほどの大男でも前がよく見えないほどである。

「オヤジ……これ大きすぎないか?」

「なんだと! テメエ、結婚のお祝いとくりゃあ、これじゃあ小さいくらいだあ!」

「いや、それは大きすぎる……」ユースケは思わずつぶやいたが、都丸の父親には聞こえていなかった。

「店で一番大きいカゴに入れたんだけどよお、やっぱりそれじゃあ足りねえから、別の袋にも入れといたんだがな……」

父親が持ってきた茶色の大袋には、ミカンやスイカ、メロンなどがあふれんばかりに入っていた。

しかも二つもあった。

ユースケは否応なく父親から二つの大袋を渡され、果物の山を哲也と一緒に新居まで運ぶことになった。

「おい……。お前の父親相変わらずだな…」

「ああ」

「お前によく似てるよな」

「似てないだろ」

「似てるって!」

「似てない、って俺何回も言ってるよな?それはそうと、ユースケも早く結婚しろ」

「やっぱおなじじゃないか」

「家でうるさいんだよ」

「俺が結婚したら、もっとうるさいだろ」

「あ……」

「よく考えろ」

「やっぱり結婚するな」

「どっちだよ!」

結局二人で騒いでいるうちに、満元のマンションに到着した。

できたばかりマンションは、一目見て新築だと分かった。玄関は石造りで広々としており高級感を醸し出していた。

「お! あいつ、なんだかイイとこ住んでるじゃねえか!」都丸が叫んだ。

実は同じ事をユースケも思っていた。ロビーは来客向けに今風のモダンなソファと椅子が置かれていた。ちょっとしたホテルのようであった。

都丸がとりあえず果物カゴを床に置き、オートロックで満元の部屋番号を入力すると、すぐに満元からのデレデレした返事とともに自動扉が開いた。

「エレベータで八階出てすぐ右の部屋なんで~。ヨロシク~」

「何が『ヨロシク~』だよ……。まったく、これだから新婚は……」都丸が果物のカゴを持ち上げ不満をもらした。

エレベータはすぐに見つかった。二人は果物の山を抱えて中に乗り込む。

「そういえば、満元の奥さん、けっこうな美人らしいぜ。チクショー、なんであいつばっかりイイ思いしやがって!」
「お前、さっきから文句ばっかり言っているけど、警察だってたくさん女性がいるだろ?」

「何言ってるんだよ。オンナがたくさんいても俺の周りにはいないんだよ! しかもなんでこんなに果物をヤツに持っていかなくちゃならんのだ? あー、ますますムカツク!」

ほどなくエレベーターが止まり、二人はエレベータを降りた。

ユースケは果物を抱え言われた通り右に曲がる。

しかし、頭に血が上っていた哲也は、エレベータの前で何を考えたのか左に曲がったため、二人はかち合わせ正面衝突した。

「うわ!」

その勢いで果物の袋が破れ、果物が廊下のそこらじゅうに飛び散った。

「あらー、大変だわ~」

騒ぎを聞きつけて、エレベーターを出て右の部屋、二人が満元の部屋だと思っていた場所の扉が開き、「女性とは思えない人物」が現れた。

その人物は100キロは軽く超えているであろう豊満な肉体で、部屋着の犬の顔が横に広がったトレーナーを着ていた。

化粧の途中で出てきたのか、大げさなつけまつげは片方の目だけである。化粧でなんとか隠そうと努力はしているものの、顔の下半分には髭がうっすらと残っている。

端的に言えば「デブのオカマ」であった。

二人はひっくり返ったまま、あっけにとられた。

「まさか……満元さんの奥さん……」ユースケが思わずつぶやく。

「満元さん?アラやだー。奥さんに見える?ア・タ・シ!」

「いや……まさか……」

ユースケが苦笑いすると「デブのオカマ」はムッとして腕組みをした。

「満元さんはウチの上の階よ!」

「へ……?上の階って、ここは八階じゃないのですか」

「ウチは七階で満元さんの真下。アンタ達が間違っているんでしょ!」

彼女?が指す方を見ると「701号室」の表式がかかっていた。

「誰かがエレベーター押して階段で降りたんじゃない?」

――あれ、どこかで同じような事が……。

その時、ユースケの頭の中に決定的な手掛かりが突然思い浮かんだ。

「そうだよ。ユースケやっと気が付いた?」

見ると、いつの間にか人間になったエルモがマンションの手すりに座ってユースケを見下ろしていた。

「エルモ!」
「僕もそれに気が付いた。現場に行って確かめたい事があったけど、だめなんだ。犬の姿なら自由に行き来できるけど、人間の姿は見える人と一緒の時でないとなれない。犬だけでウロウロするわけに行かないし……。まったく、遅いんだよ!ユースケは!」

「そうか……そうだったのか……」

「良い情報があるよ。都丸はオーストラリアに行ったけど、研修は欠席したらしいぜ」

「何だって?確か、研修がみっちりあって、最後の日は観光まで行ったと……って、お前、どうしてそれを……」

「研修も観光も参加しなかった」

「本当か?どっからその情報聞いたんだよ」

エルモは笑いながら自慢げに髪をかき上げた。

「ほら、近所にポメラニアンのチーちゃんっていう犬がいるだろ。あの娘は僕にメロメロなんだけど、ちょうど先週オーストラリアに家族で旅行するのについて行くっていうんで、聞いてきてもらったのさ。シドニーの空港にも警察犬がいて、僕の名前を出せばすぐに動いてくれるからね」

「都丸は観光でフェリーにも乗ったって……」

「フェリーに乗っただって?」

急にエルモがのけぞって笑い出したので、思わず手すりから後ろに落ちそうになった。

「おっとっと……危うく落ちるとこだった。まったく、ユースケは何でも信じちゃうんだな!都丸はフェリーには乗っているわけないよ!」

「どういうことだよ」

「都丸が欠席した研修を主催した会社に『社員犬』がいてさ、そいつが証言したよ。その社員犬、観光にもくっついて行く予定だったらしいんだけど、フェリー会社のストライキで行けなくなったらしいんだ。その時の事思い出してガウガウ文句言ってたらしいよ!ストが多くて困るって!」

「そうか、都丸は研修にも観光にも行っていない……。ではどこに……」

「ユースケ」

急にエルモが真剣な顔になった。

「あいつは危険なヤツだ。国際手配されている悪党だ」

「な、なんだって?」

「現地では手配者と会っていたらしいと警察犬が言ってた。これまでも別の投資会社に入りこんで、社長の信頼を得るようになったとたんに社長を殺して自分が引き継ぎ、会社を売り飛ばし莫大な利益を得る、という事を繰り返しやってきた」

「え……本当か……」

「殺すといっても、死因は心臓発作でね。ほら!」

エルモはユースケにおもむろにシューズを投げつけた。それは都丸が捨てたシューズであった。

「これは都丸の……」

「そうだよ。それさ、病院のゴミ箱からわざわざ取ってきてもらったんだぜ。僕の仲間の犬に頼んでね。ま、骨と引き換えに証拠をもらえるなら安いもんでしょ」

「証拠って……」

「そのシューズの靴底からは、毒物の臭いがする。恐らく、毒針に仕込んで心臓発作起こすやつ。昔、オーストラリア出身の犯罪者をつかまえた時に、そいつが持っていたんでスグ分かったよ」

ユースケはエルモを見上げた。

「もしかして、現場に仕掛けられていたんじゃないかな。毒針が」

「うわ、お前ら、何したんだよ!」

満元がいつの間にかやってきて、散乱した果物の中で立ち尽くしていた。急に周囲の雑踏の音がユースケに聞こえ始めた。

「遅いと思って外に出たら、何、おまえら果物散らばしちゃってるの?」

ユースケがチラリと手すりを見ると、すでにエルモはいなくなっていた。ユースケは立ち上がった。

「……おい、お前どこ行くんだ」哲也が叫んだ。

「悪い。急に俺、用事を思い出した…」

「おい、ユースケ!どこ行くんだ。俺の新居のお祝いはどうなる……」
ユースケは駆け出した。

「それは事件に関係することか! おーい!」

ユースケは社長が死亡していた雑居ビルの七階に立っていた。

普段はどこからか人の話し声や物音が聞こえてきていたが、休日のせいか妙に静まり返っている。

――現場に来たはいいが、何か手掛かりのようなものが見つかるかと言うと、なかなか難しいよな……

手掛かりを探すために歩き回っていたちょうどその時、エレベーターの扉が開き、大きなダンボールの箱を抱えた篠原が出てきた。

家からそのまま出てきたような犬のプリントが背中についているスウェットで、ダンボールが重いらしく、篠原はたどたどしい足取りで歩みを進めた。

「篠原社長?」ユースケが驚いて声をあげた。

「あ……、この間の!」

篠原は重そうに声を唸らせる。

「すまンけど、ウチの事務所のドアを開けてくれないかね……。ずっと持ってこようと思っていた資料を家から持ってきたんだけど」

ダンボールを持つ篠原社長の顔は汗まみれであった。

「ごめん。暗証番号が必要なんだ……。あれ、えーっと……なんだったっけ……えーっと、4391だっけ……、4392だっけ……。1か2のどっちかだったような……」

「どっちも試してみますよ。いずれかで開くでしょう」

ユースケはゆっくりとボタンを押し始めた。

――ボタンを押すな!

ユースケの頭の中でエルモの叫びが響いた。

しかし既に遅く、ユースケの指先が何かに刺さった。

すぐに指先から頭の先まで激痛が走りその場に倒れこんだ。目の前が暗くなり、同時に全身がしびれとも痛みとも取れない感覚に襲われた。

「う……」

全身がしびれで麻痺していく中で薄目を開くと、そこに別の招かれざる客が立ちはだかっていた。

都丸であった。松葉杖をつき、頭を包帯でグルグル巻きにして腕には患者を識別する名前が入った腕輪がついたままであった。

いつものさわやかな都丸とは全く別人のように目つきは鋭く、暗闇の奧から出てきたばかりの猛獣を思わせた。

「都丸……。お前が社長を……」

ユースケが見上げると獲物をとらえた猛獣は反応し、松葉づえをユースケに振り下ろした。それはユースケの背中を一撃した。

「ぐえっ!」

「おい!」後ろで立ちすくんでいた篠原は思わず後ずさりした。

ユースケは痛みとしびれで意識が遠ざかって行くのを感じた。

「その様子だと、俺が仕掛けた毒針にやられたな」

「やっぱり……お前が……」

都丸はにやりと笑った。まるで地獄から来た使者のような冷徹な笑いだった。

「分かってたんだろ。俺が奴を殺ったんだ」

「何で西脇社長を……」

「ふん……。なんだかバレちゃっているから言うけどさ、おとなしく俺を支店長にしていれば即座に殺すことはなかったんだけど、あいつ調子に乗って俺を使いまくって…。俺もしゃーないから、古巣の銀行の役員に頼み込んで、事業参入の推薦までもらったのに、あいつは、その手柄は自分の営業力だって言って、結局支店長の話はうやむやになったのさ。ナンバーツーの方がイイだろって……」

「どっちにしても西脇社長を殺すつもりだったんだろ?これまでと同じ手口で……」ユースケは激痛にこらえながら言い放った。

都丸は不意ににやりと不気味な笑いを見せた。

「あれ?ユースケさん、そこまで分かっちゃった?ドンくさいヤツだと思っていたんだけど、案外冴えていたんだ。じゃ、これご褒美!」

都丸はさらに松葉づえをユースケに振り下ろした。今度はユースケの腹部を一撃した。ユースケは激痛で声も出なかった。

「やめろ!」

やっとの事で声を出した篠原社長が叫んだ。

「ああ、下の階の社長さんもそこにいたんだっけね。うるさいからちょっとだまっていてくれる?」

都丸はそう言うや否や篠原社長にも立て続けに数回杖を振り下ろした。篠原社長は頭から血を流しぐったりと倒れた。

「僕、病院では痛がっていたけど、あれは演技。ユースケさん、あんまり質問しなくなるでしょ。だって肝心な事いつも遠慮して聞かないからね。ハハハ……」

そう言うと都丸は急に厳しい顔つきになった。

「ま、その点、西脇はあざとい奴だったよ。もともと心臓弱けど、念のため毒が一発でソッコーで効いてくれるように、随分前から少しずつ仕込んだのさ。やつの好きなみかんにだよ!」

都丸はおかしくてたまらない様子で笑い転げた。

「俺の計画通りに暗証番号押してくれるとはな! しかも入念なみかん戦略で、即、心臓麻痺を起こしてくれちゃってオダブツなわけ!しかし……」

都丸は険しい顔になりを見まわした。