黒薔薇伯爵の花園(エデン)と秘密の楽園(ミステリー)

 大正時代。
 それは魔を呼ぶ、茜色の時代であった──



 外国の文化が流通し、景気は向上。
 各地では都市化が進み、教育の面でも大きく変化していった。
 ガスや電気、水道といった、生活には必要不可欠な物が一般家庭にも普及し、西洋文化の流行を迎える。
 食卓はもちろん服や小物まで、あらゆる生活用品が西洋に染まり始めていた。

 もちろんそれは物だけではなく、人とて同じであった──


「──聞いてくだはります? (わたくし)、想いを寄せる方がおりますの」

 窓のない車が砂利道を走っている。
 車の中には扇子で口元を隠し、ハイカラな服に身を包む女性が座っていた。
 大きな白い帽子の下からのぞくのは艶のある短髪(ショートボブ)。濃い黄色の中に白い水玉模様のワンピースを着た、モダン・ガールだ。

 彼女は運転手の男性へ独り言を永遠と語っていた。その最中、ふと、景色に映るとある存在へと目を止める。

「まあ! あそこにいてはりますのは、女性やありゃしませへん事? あないに汚しはって……これやから貧乏人は困はります」

 彼女が見ているのは通り道の脇にある大きな畑だ。そこには、泥まみれになりながらも汗を流して働く女性の姿があった。

「はあ……ほんま、嫌やわあ。あないに女を捨てはる人が当たり前におるやなんて」

 冷めた目で畑の中にいる女性を見るが、興味をなくした様子で運転手に「(はよ)う、進んでくれやす」と、高飛車に命令をしていた。

「ああ~、それにしても……お友だちから見せてもろうたこのお方は、どこにいてはるんやろか?」

 座る女性の膝の上には一枚の白黒写真がある。それを優しく撫でながら頬を赤らめていた。
 彼女が初々しく見つめている写真には、一人の人物が写っている。

 長い髪は白練(しろねり)色で、肌もその色に近い程だ。瞳は片方だけが無彩色で、少しだけ不思議な雰囲気を(まと)っている。
 そんな人物は濃い目の色をした上衣(コート)を着、優雅な姿勢で微笑んでいた。
 そして何よりも、写真に写る(それがし)は艶やかな色香を放っている。
 妖艶な唇。妖しさを持つ瞳を隠す長い睫毛となど、精巧な人形のごとき端麗な顔をしていた。
 それらが(あらわ)すは、蠱惑(こわく)な笑みである。

 写真に写る見目そのものが美しい。けれど男なのか、それとも女なのか。それすらわからぬ外見をしていた。

「はあ~。ほんま、濃艶(のうえん)なお方やなあ」

 女性はその色香に惑わされ、そして魅了されていった。

「お会いしとうございます」

 訛りのある口調を崩さず、想いの丈を写真に写る人物へと放つ。
 
「黒薔薇伯爵様──」

 女性は写真に写る者の虜になっていく。

 車はうっとりとした表情で写真に想いを寄せる女性を乗せ、走り去っていった──


 けれど、そんなハイカラな彼女をも霞ませるほどの建物が一つ。
 キョウト嵐山にある竹林の奥にひっそりと建てられていた。

 日の國の一般家庭にある二階建てではない。縦に長く造られ、都の中枢にある大きな洋装の鉄塔と似た高さの建物だ。
 けれど外装はそれとは大きく異なっている。
 外装の壁は全て硝子でできていて、中が丸見えとなっていた。その中はあまたの植物で埋め尽くされている。
 不思議な建物の周囲は特に変わった様子もなければ、別段におかしな場所ではない。

 そしてこの建物だけが異質な空気を放っていた──

【大正ニ年、九月二日
 キョウト左京区ニテ、新撰組ト名乗ル三人組ノ怪盗現ル。自ラヲ、土方・沖田・近藤ト名乗ッテイタ。
 オ國ヲアゲテ捜索スルモ、犯人ノ行方ハ、ヨウトシテ掴メテハイナイ。】

 新聞に大きく載っているのは少しだけ変わった事件だった。
 他には【職業婦人】や【教育】といった、大正に入ってから國が力を注いでいる事柄が記されている。


「──三人組の怪盗、か」

 声の主は新聞の見開きを黙視で確認しながら、最後には音もなく閉じた。
 新聞を丸い机の上に置き、長い睫毛をふっと動かす。すると現れたのは、両目ともに違う色の瞳だった。
 左は宵月をそのまま写し取った黄檗色(きはだいろ)で、右は空の青さを置いた天色である朝と夜。対照的な時間帯の色を備えた瞳だった。
 年の頃は二十歳前後。
 銀の髪は腰まで伸び、糸のごとき細さを持つ。
 雪を被せたとさえ思えるほどの白き肌は、銀の髪をさらに引き立てていた。
 服は黒い上衣(コート)で、髪の色が栄えるほどに対照的だ。

 人形めいた見目は妖艶。
 男とも女とも見てとれる美しさ、ともすれば、妖怪か何かの類いか……そんな顔立ちの者が目元を緩ませた。

「ふふ。彼らはどんな楽園(ミステリー)を持っているのだろうか?」

 薄氷(はくひょう)の笑みをし、垂れる髪を耳にかける。
 机の上に置いてある花柄の果実盃(カップ)を口に付け、艶やかな吐息を溢した。

「それはそうとお客人。私の入れた紅茶はお口に召しませんでしたか?」

 声に艶を乗せ、ともに机を囲って(・・・・・・・・)いる(・・)者に声をかけた。

「え? ああ、まあ……飲んだ事のない飲み物だけど、なかなか旨いよ」

 突然話を振られたのは、銀の髪の者の向かい側に座っている男だ。彼は紅茶という飲み物に縁がなくてねと苦笑いしている。

「そうですか。それは良かったです」

 銀の髪の者は真向かいにいる人物を監視する視線を送った。
 そこにいるのは……

 白の絹帽(シルクハット)を被り、黒い蝶襟飾(ネクタイ)背広(スーツ)に身を包む男である。
 革製の靴には太極図が描かれていた。

 少し骨ばった両頬と細身の体型であったが、これと言った特徴のある顔立ちではない。
 けれどその姿は、今の時代を生きる中年の男性そのものである。

「……はは。君のような美しい人と茶を楽しめる日が来るとはね。えっと、君の名前……」

 銀の髪の者は、男の興味本意な視線に苦笑いした。

「ああ。これは失礼をしました。私の名は【イヴァリィ・ザクス・パヲラ・イリス】と申します」

「え? ええ、と……い……」

「私の名前は、この國の方からすれば発音しにくいようでしてね……。この國では【十六夜(いざよい)】という名で通しております」

「はは。確かに発音難しいな……それにしても、ここはどういう場所なんだい?」

 男に場所のことを尋ねられると、十六夜は妖しく微笑した。

「ここは、私と妹の花園(エデン)……温室とも呼ばれています」

 十六夜が言葉を放てば、男の目の色が変わっていくのが見てとれた。
 男の興味がこの場所に移ったのを機に、十六夜は彼に気づかれぬように目で追っていく。

 西洋の建物が多く並ぶ都会。その都には鉄郡の建物ばかりがあった。それと同じ西洋の建物ではあるが、ここは透明な硝子だけで作られている。
 どの窓が開くのか。それすらも調べるのが困難なほどに巨大な硝子張りの温室だった。
 四方を見渡しても、あるのは様々な大きさの植物ばかり。中心には星霧(そうせい)を重ねた大樹があり、どこから入ってきたかもわからぬ蝶々が飛んでいた。
 硝子でできた壁から見える空は雨を知らぬほどに青く、太陽が燦々と照りつけている。

「これほど大きな植物園は見た事がない。……ん?」

 ふと、男は何かに気づいたのか、立ち上がって植物の前まで進む。
 男が何かに興味を持ったことを確認した十六夜は、悪戯が成功した子供の笑みをした。

「……これは、蕾?」

 男の視界に入ったそれは赤い(・・)蕾で、温室のいたる所に生えている。

「ええ。それは()薔薇です」

 十六夜は彼の側まで寄ると、蕾に手を伸ばした。
 蕾は柔らかく、表面はさらさらとしている。鼻を近づければ薔薇特有の落ち着いた匂いがし、短く笑った。

「この黒薔薇は少しだけ変わっておりまして……ある条件を満たした時にだけ黒くなり、満開になるんです」

「え? それはどういった……」

「ふふ。それよりも私とお話の続きをしませんか? ここに訪れたのなら、あなたはその資格があるという事になりますから」

 象牙の塔としか思えぬこの場所で、十六夜は意味深な発言をして相手の関心を自分へと向けさせた。

 男が、十六夜から発せられる妖艶な美笑に少しだけ身を退いている。
 十六夜は男の足元に目を置いた。男の顔は笑っていても足はそっぽを向いてしまっている。逃げようとする心理的な行動の基本だなと、十六夜は心中でほくそ笑んだ。

「そう警戒する必要はありませんよ? 言ったでしょう? あなたはお客なのだと」

 得得な眼差しを持って冴えない男を追い詰めていく。
 男が距離取りを再開させれば、彼は机の前まで進んだ。紅茶の入った果実盃(カップ)を左手に持ち、右手を机の上に乗せる。男へと向き直り、一人で乾杯をしてみせた。
 左右の色が違う瞳で男を見据える。そして豊麗(ほうれい)な仕草で誘惑を始めた。
 昼と夜。相反する瞳の色が男を捉える。

 男は彼の者の妖美にあだを覚え、ゴクリと唾を飲んだ。

「この花園(エデン)に訪れたあなたこそが答えであり、楽園(ミステリー)の餌となる。なぜならそれは……」

 気炎を吐くどころか、常に一定の口調で語る。

「あなたが怪盗新撰組の一人なのだから──」
 霧も消えぬ早朝の、キョウト嵐山。
 多くの土産屋が建ち並ぶ場所にはひとけは愚か、車すら通っていなかった。
 人の気配すら感じられぬ今刻。【法輪寺】と呼ばれる寺から、一人の坊主が(ほうき)を持って現れた。
 坊主は法衣のまま落ち葉を集め始める。ふと、彼はその手を止め、何かに目が留まった。

 寺の地区から見えるは巨大な橋。人々はそれを【渡月橋】と呼んでいた──


 長い橋と大きな川が特徴の渡月橋があり、その上をトテチ、トテチと、小さな狸が歩いていた。狸の背中には真っ白な仔猫が器用に乗っかっている。

 橋を渡り終えた狸と仔猫は、法輪寺の方へと歩み寄っていった。
 坊主のいる寺の近くまで行くと、ちょこんと腰を下ろして可愛らしく尻尾を左右に振っている。
 坊主は、ふふっと柔らかく笑った。法衣の懐から白い紙を取り出し、広げて地へと置く。
 狸の上に乗っていた仔猫は「にゃん!」と一声鳴き、地に足を付けた。狸の隣に並び、広げられた紙へと顔を伸ばしていく。

「いつもご苦労様やね? ほなら、金平糖あげよか。美味しいかい?」

 坊主が狸と猫の頭を撫でれば、二匹は口いっぱいに金平糖を入れながら笑んだ。
 それを見た彼の頬は綻ぶ。そうかそうかと心を癒され、彼は満足気に二匹を撫で回した。

「こっちは伯爵様に渡してえな。おや? ……そろそろ霧が晴れる刻じゃな」

 誰かが来る前にお帰りと、二匹に金平糖の入った袋を渡して見送る。


 狸と仔猫は一度だけ振り返って坊主を見、「にゃん」「きゅうん」と鳴いて、渡月橋の奥へと姿を消していった。


 狸と仔猫の二匹が次に向かったのは、竹林の小怪と称される自然の中だった。
 青竹はまっすぐ伸び、天を隠してしまっている。それは竹のトンネルで、緑が美しく並んでいた。

 背中に仔猫を乗せた狸は、竹林に挟まれている道を右へ。そして左へと走る。
 どこまでも続く霧が一層濃くなっていく。それでも迷わずに。尻尾を振りながら進んでいった──



 ──まだまだ続く竹林の途中、獣道が現れた。
 狸はキョロキョロと周囲を見回し、自身をその獣道へと歩ませていく。

 獣道は人間の子供ですら通るのが難しいほどに細かった。けれど狸は何のその。するりと、すり抜けていく。
 しばらくすると竹林はなくなり、代わりに見えてきたのは大きなガラス張りの建物であった。
 茶に染まり始めている秋季の葉がなびき、毛をふわふわとくすぐる。狸は喉を前肢でかくと、歩みを再開させた。

「みゃ~!」

 走る狸の背中に乗っている仔猫が鳴けば、硝子張りの建物から真っ黒な手袋をした手が伸びてくる。その手は何も言わず、ただ、狸と仔猫を手招きしていた。
 二匹は迷わず、トテチ、トテチとした足取りで中へと入っていった──
 外から見えていたガラス張りの建物の中は温室だった。豊かな緑と深紅の薔薇が全てを埋め尽くし、仄かに花の匂いが香りたつ。

 そしてその温室の中心には、一つの丸い(テーブル)と二つの椅子があった。
 机の上にはスコーンを始め、ドーナツや氷菓子(アイスクリーム)などの西洋菓子がまんべんなく置かれている。
 その傍らには花柄の紅茶果物盃(カップ)があり、暖かな湯気と薔薇の香りがしていた。

 狸と仔猫は迷わず丸い机の元へと進む。

「みゃお」

 仔猫が狸の頭をペチペチと軽く叩いた。すると狸は器用に椅子を登り、ちょこんと座る。
 仔猫は狸の背中から飛び降り、机の上を歩いてもう一つの椅子へと向かった。
 二匹はお行儀よく椅子の上に止まっている。しばらくすると狸は大きなあくびをし、椅子の上で体を丸めた。仔猫も釣られてあくびをかく。
 二匹の眠気は頂点に達し、揃って微睡みの中へ──

「……みゃっ!?」

 二匹がうとうととしていた矢先、誰かが仔猫の背中に顔を埋めてきた。
 仔猫は両眼を見開き、己の体に埋まっている者をジッと見つめる。

「はあ~。このもふもふ感。ふふ。本当に、たまらない」

 顔の見えないその者は仔猫の体の毛を堪能していた。ぐりぐりと毛の中に顔を押し付けては、両手で体を触ってくる。 
 猫が顔をあげれば、そこには細くて綺麗な銀の糸が流れていた。
 それはとても長くて、仔猫にとっては心くすぐられる玩具となる。小さな前肢で銀の糸を追い、これでもかと尻尾を振った。

 銀の糸の先にいる者が困った様子で離れてしまえば、仔猫は少しだけ物足りなさを覚える。小さな前肢を伸ばし、尻尾を揺らして触れと要求。
 すると彼の者は微笑み、仔猫の頭を撫でた。

「ふふ。お使いは終わったのかい?」

 その手はとても優しく、仔猫は喉をゴロゴロと鳴らしてはお腹を見せる。

「……さて。そろそろ、妹を迎えに行かなければならない。お留守番をしていてくれるかな?」

 仔猫はこくりと頷き、大きなあくびをして銀の糸の持ち主を見つめた。

「にゃ~!」

「ふふ。十六夜と、名を呼んでくれるのかい? ありがとう」

 銀の糸の者──十六夜──は、猫の言葉を理解している素振りで優しく語る。
 そのまま机の上に小さな羊燈(ランプ)を置いた。淡い山吹色が机を包み、そこから仄かに薔薇の香りがした。
 十六夜は薔薇の匂いに鼻を動かす仔猫と狸の体に布を被せる。二匹をひと撫でし、眠る彼らに微笑みを送って園を後にした。

 * * * *

 十六夜が園から出た時には、既に視界は晴れ渡っていた。見上げた先では太陽が昇り、空には雲が泳いでいる。
 薔薇園を背に歩きながら左右を見れば、数多の田んぼが少しだけ黄に染まりならが並んでいた。家屋はあるものの密集しているわけではない。どちらかというと家よりも田んぼの方が多かった。
 その田んぼの手前では、近所の婦人が(ほうき)で道を掃いている。

「あら? 先生やないの。おはよう! 今日もええ男やねえ~」

 会釈だけで済ませようと十六夜が頭を下げた時、箒を持った婦人に声をかけられた。
 ふっくらとした体型で、どこにでもいる主婦といった雰囲気の女性である。
 彼女は十六夜を先生と呼び、気さくに話しかけては彼の背中を強く叩いてきた。

「もう、先生が姿見せへんかった数日間、うちら寂しかったんやで!? 先生みたいな潤いのある顔がうちら主婦の癒しなんやから」

 微笑みに呼びかけられた十六夜は婦人の話に耳を傾ける。

「ああ、そうそう。先生、知ってはります?」

 十六夜は婦人が放つ言葉に眉を動かしながら静かに聞き入った。

「一昨日、染め物屋さんの娘さんが行方不明になってもうたんやて。噂やと、お付き合いしてた方が監禁しとるんやないかって話やね」

 十六夜は彼女の言葉に片眉を動かす。けれど自身に関係ある事柄ではなかったため、興味は薄れていく。
 それでも噂話好きな婦人から、延々と聞かされ続けるのだった。
 嵐山の中心街にある染め物屋の一人娘は恋多き女であった。
 彼女を町で見かける度、違う男を連れて歩いていた。
 好きか嫌いかよりも、ただたんに浮気性なだけ。そんな性質だったため、恋人の誰かが彼女を隠したのではないかという噂話が広まっていた。


 十六夜は長い銀髪を耳にかけると、噂話の真意を婦人に問う。
 けれど婦人は噂話としてしか知らない様子。首を振って「これ以上の事はわからへんなあ」と、表情に不安な色を浮かべた。

「なるほど。私が薔薇園に引きこもっていた数日間でそんな事があったんですね?」

「先生、薔薇に夢中になるんはええけど……そのまま閉じ籠っちゃうんは悪い癖やで? 美子(みこ)ちゃんに苦労かけたらあかんよ?」

「……そう、ですね。善処します。それよりもここは本当に静かですね。心が落ち着きます」

 嵐山で起きている事件に興味を持ちつつも、十六夜は自身が歩いた道を振り替える。
 狸と仔猫が通ってきた細道とは違い、人力車が通れるほどの広さはあった。表の広い道のような活気はないが、情緒があり、穏やかで静かな景色である。
 これを見た十六夜の頬は緩く綻びかけた。けれどそれは一瞬のことで、彼は人当たりのよい笑みを婦人に向けてその場を後にする。


 田んぼのある地区を抜けると一転。静けさはなくなり、人々の話し声で溢れ返っていた。
 整備されていない砂を敷き詰めた道路には、人力車や屋根のない車が通っている。
 その道路の中央には、笹の葉が植えられている置物(オブジェ)が等間隔で縦に並んでいた。

 大きな道路を挟んだ両脇には、合掌造りの家屋が建ち並んでいた。
 キョウトの名産である八つ橋をはじめ、茶葉専門店から砂糖菓子。呉服はもちろん、洋装までもを揃えた専門店が何軒も連なっていた。
 専門店の屋根や柱には登戸(のぼり)が設置されている。けれどあまりにも数が多く、隣接する店に被ってしまっていた。

 その土産屋に立ち寄る人々の姿は様々だ。
 青や黒色の袴を着ている若き書生たち。花柄の模様が美しい銘仙着物に、【クロッシェ帽子】と呼ばれるツバのない帽子を被る女性たち。そして……

(わたくし)、大学卒業したら谷城(やつぎ)様のところへ嫁ぎますの」

「まあ! それは本当!? いいわねー。私なんて土産屋の三男坊よ?」

 おほほと、裏の笑顔を滲ませながら語らう矢絣袴(やがすり)姿の女学生たちが歩いていた。彼女らは互いの婚約者に対して愚痴を溢してはいるが、瞳には穏やかさすら感じられない。
 十六夜は心の中で女の争いを恐れ、巻き込まれないようにと彼女たちから離れた場所に移動した。

 人混みを抜けて到着したのは嵐山の大橋、渡月橋である。
 橋の下には幾つのも丸太があり、それを組み立てている人々がいた。
 その近くには、番傘作りをしている子供もいる。汚れた和服を腕まくりし、汗を流しながら作業を行っていた。
 まるで己が子供であるということを忘れているかのような、そんな働きぶりである。

 けれど十六夜は目に見える貧困の差に、さして興味を持つことはなかった。
 今度は川へと視線を向け、時おり垣間見れる波紋に目をやった。川の表面は太陽の光を受け美しく輝いている。砂浜には多くの松の木が伸び、鳥たちが枝で体を休めていた。
 
 反対側から橋を渡ってくる人々の中には、袴に編み上げ長靴(ブーツ)を着た女性が数人いる。彼女たちは全員自転車を漕ぎ、どこかへと去っていった。
  
 橋を渡る直前の道の横には人力車が並び、客待ちをしていた。その従業員たちは書生とは違い、ほどよい筋肉がついている。人を乗せた車を引くため、相応の筋力が必要であった。


「──おーい! 十六夜君~!」
 
 十六夜が人力車を眺めていると、人混みの中から声をかけてきた者がいる。

 黒髪は七三わけになっており、ぼさぼさとしていた。
 切れ長の目に、ほっそりとした頬。あまり栄養を取っていないのか、どことなく顔色が悪く見える。
 首には、太極図の模様がついた白い巻き布(マフラー)をしていた。袴の上から黒の外套(マント)で身を包んでおり、書生風ななりをしている。
 靴の代わりに履いている高下駄は動く度に砂を蹴っていた。
 そんな者の手には大きな旅行鞄がある。

「久しぶりさね。元気にしてただわさ?」

「──芥川さん。お久しぶりですね」

 芥川と呼ばれた者に気さくに話しかけられると、十六夜は握手を求めた。芥川は表情を緩めながら握り返してくる。
 
「芥川さんこそ。どうしてキョウトに?」

「ふむ。新しい作品の取材旅行でさあ」

 十六夜が握っている、芥川と名乗る人物の手はゴツゴツとしていた。
 彼の骨太な声は思いの外よく通る。人混みの中であっても、不思議と耳に届いてきた。

(おり)ゃ、芥川龍之介だわさ。期待に応えるのが仕事だわさ」

「……そう、ですか。頑張っているんですね?」

「まあね。おっと! 時間がないだわさ。それじゃあ、まただわさー!」

 芥川は大きく手を振って、十六夜の視界から姿を消していく。
 十六夜は何とない会話を済ませ、渡月橋を渡り始めた。



 渡月橋を渡り終える直前に保津川を眺めれば、海岸沿いにはいくつもの大木が転がっている。浜一面を覆うほどの大木だ。
 そしてそれは働く男たちの手によって一纏めにされていく。やがて肩に担がれてどこかへと運ばれていった。
 なかには大木を(いかだ)へと作り替え、向こう側に渡って行く者もいる。
 浜には水浴びをする子供たちもいて、彼らの無邪気な笑い声が聞こえてきた。

 十六夜は微笑ましさを感じながら橋の南側へと歩いていく。

 彼が橋を半分ほど渡り終えた直後、前方から二人組の書生が慌てた様子で走っていった。彼らの向かっている場所は十六夜の後ろ……土産店などが建ち並ぶ橋の北側である。

「人が橋の北側で倒れてるらしいで!」

「誰や!?」

 彼らの会話を耳にした人々は、ざわつきながら後を追っていった。

 けれど十六夜は橋の中心で立ち止まり、興味本意で現場に群がる者たちを眺めているだけである。
 顎に手を当てて「ふむ」と、呟いた。

「……いやはや。久々に外に出てみれば」

 薔薇園に隠っていた彼からすれば事件という事件に遭遇すること自体、珍しさすら覚えてしまう。それでも興味というものがなかなか持てず、ただその場で北側を眺めていた。
 ふと、見覚えのある若い男性二人がこちらへと歩いてくる。
 よく見れば、先ほどの書生たちだった。けれど一人は顔を青ざめてしまっている。

「うう……まさか死体やったなんて。気持ち悪う……」

 今にも倒れてしまうほどの顔色の悪さをし、連れたって歩く書生に支えられていた。
 よろめきながら歩いてくる者を支えるは彼に「大丈夫か!?」と、心配の声をかけている。
 二人はそのまま十六夜の横を通りすぎ、橋の南側へと消えていった。


「おやおや、これは……」

 書生二人の背中が見えなくなると、十六夜の表情は豹変。端麗な姿は妖しき艶を放つ。

「Diddorol iawn──」

 騒がしくなる橋の北側を眺めた。


 ──美事が始まる。

 十六夜はこれこそが求めていたものであり、もっとも恐れていた(・・・・・・・・)ことだなのだと胸踊らせた。
 渡月橋の北側にある浜では野次馬たちが群がっていた。老若男女問わず、興味本意で現場を囲っている。

「ええい! 離れんか! ここは現場だぞ!」

 野次馬となった人々を払いながら立ち入り禁止を命ずるのは一人の羅卒(らそつ)だった。
 中肉中背で、ちょび髭を生やす、いかにもな風貌の男性である。
 彼は腰にサーベルを添え、その場にいる他の羅卒たちに指示を出していた。

「まったく。このキョウトで……しかも天皇皇后両陛下が訪れている時になぜこんな……!」

 ぶつくさと愚痴ごちりながら布を被せた遺体をのぞき見る。
 顔色一つ変えないまま唾を吐く勢いで「迷惑な事だ」と呟いた。

「市民を遠ざけろ! それから【安倍三等警部】に連絡をしろ!」

 男性はハキハキとした口調で適切な指示を出す。他の羅卒たちは彼に従いながら、野次馬でしかない市民を浜の外へと追いやった。

「おい。この遺体の身元はわかったか?」

「す、すんまへん、九等警部。着とる物から女性やというんはわかりますが……」

「早く調べんか! 馬鹿者が!」

 九等警部と呼ばれた男は羅卒の言葉を腹に据えかねる。眉間のシワを必要以上に寄せて怒りを顕にした。
 それでも帽子を深く被り直し、首なし遺体を再度確認。

 着物の花柄の模様が美しい。着物そのものの手触りはよく、かなり高級な布を使用していることがわかった。その着物の袖が破け、(いかだ)に引っ掛かってもいる。
 けれど履いているはずだった草履(ぞうり)はなく、どこかで落とされてしまったものと推測できた。
 手首には何かで縛られたと思われる痕が残っている。
 首から上がないため顔の確認はできない。けれど背格好や着ている物から、女性であるのは間違いなかった。
 そして切断された首が鮮赤色ずんでいるが、現段階では何もわからないと彼は諦めてしまった。

 九等警部は遺体を運ぶ指示を出す。
 部下の羅卒たちは彼の指示に従い、遺体とともに野次馬たちの中を掻き分けていった。

「ええい! どかんか! 邪魔だ!」

 野次馬の中にいる文屋は、スプリングカメラで写真を必死に撮っている。小さな帳面に筆を走らせながら書く者もいれば「特集組まな!」と、叫んでいる記者もいた。

 九等警部は、そんな彼らを苦虫を噛み潰した表情で見定める。

「……人の死を喜ぶなど、(あやかし)と同類ではないか!」

 彼には、群がる人々が他者の死を喜ぶ妖怪に見えていた。
 それでも今、何を成すべきなのか。それを見極めた九等警部は文屋を無視し、先頭に立って腰をあげた。

「この遺体を司法解剖に回せ。まずはこの遺体が誰のものか。それを……ん?」

 九等警部が率先して野次馬を掻き分けていると、彼の目に銀の糸が止まる。

 銀の糸を辿れば、そこにいるのは一人の異國人。十六夜である。

「……誰だ?」

 九等警部は彼に対し、不信感を募らせていった。

 この國の者とは思えぬ色の髪。誰よりも高い背と、人間離れした顔立ち。
 それでも、こんなにも目立つ見目であっても、誰一人としてその者に注目してはいなかった。むしろ空虚で、気配そのものが感じない。

 それほどまでに十六夜の存在感はひしゃげていた。


「────」

 ふと、九等警部の視線に気づいた十六夜に微笑まれてしまう。十六夜の形のよい口が静かに動く。唇に指を当て、秀麗な艶笑(えんしょう)をしてきた。
 妖艶な瞳をぶら下げて何かを囁いたかと思えば、じっと見つめてくる。

「……っ!?」

 九等警部の体は冷や汗でいっぱいになった。声が恐怖で出ない。
 それでも不思議と視線を反らすことはできなかった。

「九等警部?」

 突然動きを止めた上司を心配し、部下が声をかけてくる。
 彼らの呼び掛けによって現実へと戻された九等警部は、慌てて首を振った。

 もう一度異國人がいた場所を見てみるが、既に姿はない。
 煙のごとき仕業で姿を消し、混乱させるだけの存在。
 気にはなるものの、心の隅にだけ止めておこうと、九等警部は安易な気持ちでその場の仕切り直した。


「──首のない死体、か。はてさて、その顔は美しいのでしょうかね?」

 姿を消したはずの十六夜は建物の物陰から様子を眺めていた。
 九等警部と呼ばれた、この場の指揮系統にあたる男を目視で捕らえる。
 そして身を影に投じながら、再び姿を消した。
 嵐山にある小さな屯所(とんしょ)に戻ると、さっそく九等警部が己の椅子へと腰掛ける。
 両腕をつっかえ棒にして顎を乗せながら、悩ましげに眉根を寄せていた。

「あの遺体はどこから来た? いや。そもそも誰の遺体だ?」

 念仏を唱えんばかりの真剣さに、周囲にいる他の羅卒(らそつ)たちはたじろいでしまう。けれど彼はお構い無しに、あーでもないこーでもないと思考だけを動かしていた。

「首がない事からして殺人の可能性は高い。だがあれでは殺害時刻すらわか……」

「九等警部!」

 頭を悩ませていると、部下の一人が慌てた様子で彼の元に走り寄ってくる。
 九等警部は何事かと溜め息をついた。

「静かにせんか!」

「す、すんまへん。せやけど……」

「ん? 何だ?」

 九等警部は部下の不必要な慌てぶりに疑問を持つ。
 首を傾げながら目線を合わせれば、部下の男は怯えた風に縮こまってしまっていた。

「……あー。わかった、わかった。で? 何をそんなに慌ててるんだ?」

 己が部下を苛めているかの空気すら生まれ、いたたまれなくなってしまう。このままでは居場所がなくなると感じ、彼は話を聞かざるをえなくなった。
 髭を触りながら大きく歎息(たんそく)し、部下の肩を軽く叩く。

「あっ……はい。実は入電があって……」

「……ん? んー? 電話? それだけ?」

「は、はい」

 彼はしばしの間考えた。

 電話の一つや二つ、屯所(とんしょ)にいれば嫌でも入ってくる。それを今さら驚く必要があるのか……と。

「ばっかもーん! 電話がかかってくる事など日常茶飯事ではないか! 今さら何を驚いておるかー!」

 雷様ならぬ、般若の表情で部下に酷烈に怒濤をお見舞いした。

「何で電話ぐらいでそんなに慌てる必要があるんだ!? お前は羅卒(らそつ)だろ!? 事件の一つや二つ……」

「ち、ちゃいます!」

 九等警部の言葉を一刀両断し、部下は青ざめた顔で向き合う。

「渡月橋の、首なし遺体についての事を仄めかす電話です!」

「──何だと!?」

 予期せぬ事態に彼はすぐに案内しろと伝えた。



 屯所(とんしょ)内部一階にある電話機の元へ駆けつけると、九等警部は受話器を手にする。
 けれどその手は震えていた。それでも大きく深呼吸することで、緊張を解していく。

「──君は誰だね?」

 絞り出した声は落ち着いているが、受話器を握る手は汗をかいていた。それを部下たちに悟られまいと、冷静に対応する。

『……重要なのはそこじゃない。だから教えない』

 電話の向こう側から聞こえてきたのは、男とも女ともとれる声だった。
 声質的には幼さがあるものの、かなり淡々としていて感情が見えてこない。高くも低くもない声でありながらどこか大人びている。

 そんな妄想すら生まれてしまい兼ねない、不思議な声質の主だった。

『それよりも、あの川にどうしていたのか。どうやって殺されたのか。聞きたくないのかな?』

 九等警部はこの言葉に眉を反応させる。
 相手が誰であれ、何者であれ、事件のことを知っている。例え犯人だったとしても、そうでなかったとしても、情報は喉から手が出る手が出るほど欲しい。
 けれど信用してよいものなのか。
 九等警部は受話器を耳から離し、己を呼んできた部下に黙視で答えを求めた。
 部下の男は戸惑いを見せている。

『……止めておこうか?』

 彼らが悩んでいると、受話器の向こう側の者は痺れを切らしてしまい……無慈悲にも、忘れてと、電話を切られてしまいそうになる──

「いや、待て! わかった。話を聞こう」

 相手が何者にせよ、ここで逃がしてはいけない。もし犯人ならば、情報を聞き出しておかなければならない。

 そう考えた九等警部は二つ返事で承諾した。

『──初めに伝えておくけど、犯人が誰とか、理由は~というのは知らない。教えろとか言われても無理だから』

 受話器越しに聞こえてくるのは微かな呼吸音と、性別不明で落ち着いた声だった。

 けれど九等警部は声の主の言葉に耳を疑ってしまう。

「何っ!?」

 先手を打たれるとは思っても見なかった彼は一瞬だけうろたえる。けれどすぐに平常心を取り戻し、話し手と向き合った。

「……わかった。そこについては我々羅卒(らそつ)に任せたまえ」

『話しが早くて助かる』

 受話器越しの者が何かを言ってくるまでは、下手な質問はできない。してしまっては機嫌を損ねられて終了になる。
 相手が誰なのかもわからぬ今は、少しでも情報取得の機会を逃すことはできなかった。

 彼は静寂の中で聞こえる己が心音を耳に入れる。それは、誰も喋らない時間が流れているのだと実感できるほどに長かった。

『……質問してくれなきゃ答えれない』

「は? え? 質問してもいいのかね?」

『……? してくれなきゃ何も進まないよ?』

「そ、そうか……」

 どうやら相手は、九等警部が思っているような警戒心は持ち合わせてはいないようだった。
 考えは杞憂に終わったものの、どうにも調子が狂う相手とさえ感じてしまう。

「こほんっ! では、どこで殺されたか。だ」

 これについては自ずと他の羅卒たちから連絡がくるはず。もしもその答えと一致していたのなら、相手が犯人である可能性が高くなる。
 もちろんその逆も然りで、親切な(・・・)一般市民が教えてくれるということも考えられた。

 けれど、どれもこれも憶測でしない。だからこそ怪しい者は徹底的に追及する必要があるなと、九等警部は根っからの羅卒魂を(たぎ)らせていた。

『殺され場所は小屋。そこで首を切断されて、渡月橋の南側の橋まで運ばれた』

 驚愕に見回れた彼は無意識に受話器を握る圧力を強める。
 それでも相手に悟られぬよう、部下に書き込みを指示。部下は無言で頷き、急いで紙に筆を乗せていった。

「南側? 見つかったのは北側だが?」

 遺体が発見されたのは土産物店舗が密集している北側である。ならば、そこで殺害されと考えるのが普通ではないかと、確認しながら尋ねた。

『違う。南側。殺された正確な時間はわからないけど、南側で首を切断された。そして遺体の手首を(いかだ)にくくりつけた。そ……』

「ま、待ちたまえ!」

 相手が一方的に語り、九等警部は置いてきぼりを食らってしまう。彼はそのことに焦りすら感じた。
 淡々と。そして他の者の動揺などお構い無しに謎を語る相手に、彼が待ったをかけてようやく止めることができた。

「仮にその方法で行けたとしても、なぜ、保津川な……」

『深いから』

 渡月橋の下を流れている保津川は深い。
 天候によって水位は変わってくるものの、普段から大人の身長を軽く越える水量であることは間違いなかった。

 ではなぜ、そんな場所に遺体を隠したのか。
 謎は深まっていくばかりで、九等警部は頭を悩ませてしまう。

『深いからこそ、人目につく事なく、向こう岸まで遺体を運べる。いい? 小さな子供の遺体ですら、運んだりするのに人目というのは邪魔なだけ』

 受話器の向こう側の者は、相も変わらずに淡々と説明をしてきた。

『日中なんて人がいっぱいいる。そんな中、堂々と首なし死体を連れて歩けると思う?』

 被害者は子供ではなく女性。年齢は不明であっても、確実に子供よりは大きい。
 遺体が見つかったのが常に多くの人々で賑わう嵐山の中心区である。そのことを踏まえ、この遺体移動手段を取ったのだと、語ってきた。

 九等警部は、その推理は穴だらけだと感じてしまう。
 何も犯行は日中でなくてもいい。
 人々が寝静まった真夜中に行えば済むことであった。大きな物音を響かせれば近所の人が気づく。けれど……

「……いや、待ちたまえ。その推理は矛盾していないかね? わざわざ人目につく日中じゃなくてもいいはずだ。殆んど人がいない夜中に実行する方が楽ではないかね?」

 日中とは違い、夜中は静寂に包まれる。視界も悪くなり、場所によっては明かりすらないところもあった。
 だからこそ、犯行するには丁度いいのではないか。

 羅卒(らそつ)として数多くの犯罪を見てきた彼からすれば、絶好の時間帯になるのだと知っていた。

「……貴様、我ら羅卒を馬鹿にしているだろ!?」

 受話器にヒビができてしまい兼ねないほどの腕力で握る。時折ピシリッと音が聞こえるが、それすらも気にしている余裕がなかった。

「でなければ犯行しやすい夜中……」

『あれ? もしかして……この町の決まりを知らないの?』

 相変わらずの緊張感を保ったまま、受話器越しに語ってくる。

 九等警部は突然ふられた町の決まりごとについて、首を傾げた。
 無言で受話器を手で覆い、相手に聞こえない姿勢を保つ。そのまま振り返り、部下に「この町の決まりとは何だ?」と尋ねた。

「え!? 九等警部、もしかして知らないんですか!?」

「最近この町の住人になったんだ。しきたりだの何だのは知らん!」

 知ってて当たり前と言われ、彼は顔をしかめてしまう。
 部下をひと睨みした後、再び受話器へと話しかけた。

「すまんな。俺は先月こちらに赴任してきたばかりでね。何も知らんのだ」

『……この嵐山には幾つかの決まり事がある。一つは【夜、不必要な外出はしない】二つめは【黒薔薇には絶対に魅入られてはならない】。これらは絶対に守る。それが出来ない場合は……』

 受話器の向こう側の声は徐々に低くなっていく。語る速さは変わらないが、空気から凄味というものが伝わってきた。

「……っ!?」

 九等警部の全身に寒気が行き渡っていく。
 無意識に感じているものがなんなのか。それすらわからないまま、彼は全身から冷や汗が流れていた。

 けれど受話器の向こう側にいる者には、その空気が伝わることはない。
 ただ一考だけを伝え、無慈悲に言葉を放ってきた。

『黒薔薇の呪いを受ける事になる──』