第3話 歌うたい

時計ウサギを追いかけて

アリスは穴に落ちました。

そのおとぎ話は「夢オチ」で

めでたく幕を閉じたけど

リアルがそうとは限らない?

私と同じ名前の話、

チルチルミチルの話だって

最後はうまくいったのに


なのにリアルは厳しくて

青い小鳥はすぐ逃げる。











ゼイゼイと、激しく胸が鳴っている。

激しい発作に息が出来ないーー苦しい、苦しい…このままじゃもう、絶対に死ぬーー

そう思ったら、目の奥がジワリと熱を帯び、僅かな温もりと共に何かが溢れた。頬を伝って、はらはらと落ちていく…朦朧とする意識の中、自分の涙が氷のように冷たい床を湿らせていくのを微かに感じた。



真っ逆さまに堕ちるような感覚…気がつくと、無限に広がる暗闇の空間にひとり、見捨てられたかの様に横たわっていた。

(ここ何処なの?苦しい…誰か、誰か…)

ひと気はおろか、生き物自体の気配など、まるで感じない。が、あまりの苦しさに、みちるは必死で右手を伸ばしていた。

触れるものは何もない。無情とも言える冴えざえとした空気が、残酷な鎌鼬のようにその指先を掠めて行く。

「たす…け…て…」
激しく息を切らせながら、やっとの思いで言葉を発した。


その時だ。

「…オレと同じにおい」

(えっ…)

「おまえも死ぬのか、歌うたい」

突然、頭の上で声がした。

しっくりと耳に響く、不思議な声。男の声だった。

さっきまで、誰も何の気配も感じられなかったはずだ。

(誰…)

姿を確認しようと、必死に頭を起こそうとしたが力が入らない。

その様子を見兼ねてか、声の主はみちるの身体に手を添えて、上半身をグイッと引き起こした。

男の腕に抱き抱えられ、薄れた意識の中、その顔を見上げる。


無造作に伸びた前髪から、切れ長の瞳が一瞬ちらと輝く。

シャツから覗いた鎖骨に、柔らかな細い髪が揺れている。華奢で色白の肌。

この漆黒の空間に、その存在はまるで冷たい三日月のように冴えざえと浮かび上がっていた。

「…死ぬにはまだ早すぎるだろ。てか、おまえもアレ吸ったのか?未成年だろーが、全く…」

ボソボソと、ひとりごとの様に喋りながら男はみちるの首すじに冷えた指先を這わせた。

(な、何?)

恐怖を感じて一瞬身体を強張らせたが、無論抵抗など出来る筈もない。

喉は、変わらず激しい発作でゼイゼイと鳴っている。その一番酷い部分で男は指の動きを止め、ぐっと力を込めた。

(いや…っ)

「ちょっと我慢しろよ?」

言うともう一度、男はみちるの喉に指を押し当てた。絞められる!と思った瞬間、バリバリッと何か剥がれるような音がした。若干の痛みに顔を歪ませたが、間もなく冷ややかな空気が全身を駆け抜けてみちるはハッとした。


(…あれ…?)

自分の身に何が起こったのか、混乱した頭では、すぐには理解出来なかった。

呼吸が出来る。鼻からも口からも、全く普通に。さっきまで、死ぬかと思うほど苦しかったのに…

まるで嘘のようだった。

不思議に思いながら鼻をスピスピ鳴らしていると、その様子を見ていた男がクスリと笑った。そして、ゆっくりとみちるの身体から支えていた手を離し、改めて前にしゃがみ込むと何やら差し出した。


男性らしい武骨な手の上で、ビー玉のような物が一つ、光っている。しかしそれは蜘蛛の巣状の白い靄に覆われていて、ハッキリとは見えない。

(何だろう?)

怪訝そうに覗き込むみちるをよそに、男はそれを自分の口元に持って行き、蝋燭を吹き消すかのようにフッと息をかけた。

ひらりと、蜘蛛の巣の靄は闇に吹き飛んで、そのまま溶けるように消えた。邪魔な物が取り去られたビー玉は、まるで眠りから覚めたかのように彼の掌で一層強く光り輝く。

(きれい…)

透明というより、ほんのりと温かみのある桜色の光を放っている。

「きれいだな…ローズクォーツみたいだ。やっぱおまえいい声してんだな。あ、初めて見る?あんたの声だよ、コレ」

『えっ?これ私の声なん…ってえ?てか何?あれ?…あれっ?』

何だかおかしい。異変に気が付いて、みちるは慌てて口に手を当てた。

息は出来ている。スースーと、何の問題もなくスムーズに空気が気道を通っていくのも分かる。

だが、肝心な『声』が出ていない。出そうとしてもスカスカ空を切るだけで、まるで…

「それじゃおまっ…まるで金魚じゃねぇか!
だから、おまえの声はココにあるんだから今は出ねぇよ」

ギャハハッと腹部に手を当てて男が笑った。

けたたましい笑い声が闇の中に響く。うるさい位のその声にさっきまで男に抱いていた印象がガラリと変わって、みちるはキョトンとした。しかし、すぐにそれは若干の怒りに変化して「一体なんなの⁉︎この人!」と、細い身体を震わせてひとり笑い続ける男をキッと睨みつけた。

「あ、悪りぃ。まぁそう睨むなよ。あの咳の元凶取り除くには、コレごと取らないとどうにもならなかったんだ」

みちるの視線に気が付いた男は笑うのを止め、「みちるの声」だと言った輝くビー玉を長い指で摘み、頭上に翳した。

瞬間、男の顔を覆っていた長い前髪がハラリと流れ、翳したビー玉に照らされて、その横顔が闇の中にくっきりと浮かび上がる……

ツンとした形の良い高い鼻。切れ長の神秘的な瞳。どこかで見た…そうだ、前に兄に借りたCDジャケの…

『タツ…ヤ?』

目の前にいたのは、死んだはずのジェットストリームのボーカル、タツヤだった。