他人の家の勝手がわからず、僕は仕方なく『緊急呼び出し用バッグ』に備えているタオルを取り出すと、台所を借りて暖かいタオルを作って紗綾樺さんの手を温めた。
 しかし、この程度では、ちっとも温まりはせず、紗綾樺さんの体は氷のように冷たいままだった。
 更にバッグをゴソゴソとあさってみると、冬に備えての携帯用カイロが見つかったので、必死に温めてから紗綾樺さんの足を温めるのに使った。
 せめて体が温まるようなものを紗綾樺さんに飲ませてあげたいと思うが、意識を戻してくれない事には、お茶も飲ませることができない。
 最後に食べたのは、軽井沢のティールームでケーキと紅茶だったから、カロリーや急激な血糖値の低下からくるものではないだろうという予想はできた。
 でも、僕には決定的な情報が足りなさすぎる。宗嗣さんの教えてくれた紗綾樺さんの健康状態には、こんな風に突然、意識障害を起こすような内容は含まれていなかった。
 だとしたらなぜ?
 やっぱり、記憶を取り戻しかけたことに原因があるってことなんだろうか?
 いや、記憶障害の人に関しての簡単なことはネットでいろいろと調べてみたけれど、記憶を思い出すと意識を失うなんて、どこにも書いていなかった。それとも、僕の調べ方が足りなかっただけで、これって普通の事だったとか? いや、そうだとしたら、あんなに宗嗣さんが焦るはずはない。まてよ、宗嗣さんが焦ったのは、紗綾樺さんがご両親の事を話したから? わからない・・・・・・。
「紗綾樺さん」
 固く目を閉ざしたままの紗綾樺さんに呼び掛けてみるが反応はない。仕方ないので、僕は紗綾樺さんに話しかけながら、いつ目覚めてもいいように、熱いお茶を煎れる。
 さすがに、カップがやけどしない程度に冷えてから、紗綾樺さんの冷え切った手を添えてみるが、反応はない。
 ゾクリと寒気がして、部屋全体の温度が下がっている事に僕は気付いた。
 お世辞にも気密性の高いとは言えない部屋は、襖を閉めて居ないと玄関の隙間風が吹き抜ける程だ。
 エアコンは?
 火を怖がる紗綾樺さんの為に、IHのクッカーを用意している宗嗣さんなら、エアコンがないはずはない。
 見上げると、紗綾樺さんに直接風が当たらないように、奥の壁にエアコンが設置されていた。
 僕は慌ててリモコンを探し、エアコンを暖房にしてスイッチを入れる。
 どうか、紗綾樺さんが目覚めますように・・・・・・。
 ぎゅっと手を握り、祈るように、手を伝って想いが紗綾樺さんに届くように必死に想いを集中させる。

☆☆☆

 暗闇だと思った空間に金色の光が立ち込める。
 初めてなのに、とても懐かしい感じがする。
「ずいぶんと元気になったものだな」
 凛とした女性の声がして、私は光の中心を見つめる。
 ほんの一瞬、金色の狐が見えた気がしたが、そこには見たことのない豪奢な衣装を纏った女性が立っていた。頭の上の髪飾りは全て金と銀と、あらゆる色の砡で飾られ、私を招くように差し出された指も金色の飾りで覆われている。
「来なさい。そして、(わらわ)の手を取るがよい」
 私はゆっくりとその女性の元へと向かう。
 足元は固くなく、まるで宙を浮いているような感覚のせいで歩みがとても遅くなってしまう。
「他愛ものないこと。ただ信じればよい、そなたの足物には大地があると」
 女性は少しだけ笑みを浮かべて言った。
 足元に、大地がある?
 そう考えた次の瞬間、私は足にしっかりとした堅いものを感じ、歩みが早くなる。
「さあ、手をとるがよい」
 女性に近づくと、私はゆっくりと手を伸ばす。
「妾を恐れるな」
 近づくほどに、私には女性が金色の狐とダブって見える。
 この手をとったら、私はどうなるの?
「言ったであろう? 妾を恐れるなと」
 女性は言うと、私の手を取った。
「受け取るがよい、妾の力を・・・・・・」
 次の瞬間、女性の体が光の塊になり私の腕から私の中へと溶け込んでいった。
『そなたの回復の為に封じられていた全ての力を今こそ解き放とうぞ』
 既に姿の見えなくなった女性の声だけが聞こえた。
 私の体は金色の光に包まれ、そして重力などないかのように体が軽くなる。
『だが、忘れるな。約束の時が来るまでのこと。その時が来たら全ての力は、妾の元に戻る。まあ、人としての天命には充分であろうな』
 その薄い笑みを浮かべているような声を最後に、金色の光は消えていった。それと同時に、氷のように冷たかった体がポカポカと温かさに満たされていった。

(・・・・・・・・懐かしくて暖かい・・・・・・・・)

 紗綾樺は暖かい光に包まれ、空間を揺蕩いながら、ずっと失くしていた幾つかの感覚や感情を取り戻していった。

☆☆☆

 ハイヤーは、場所を間違えているのではないかと思われるくらい、平凡を通り越して、あばら家というのがふさわしそうなボロアパートの前で停車した。ドアーはタクシーのように自動では開かず、運転手がわざわざ手ずからドアーを開けてくれた。
「ありがとうございます」
 宗嗣は、慣れないVIP対応に困惑しながらも、階段の音が鳴り響くのも気にせず階段を駆け上がった。そして、取り出してあった鍵で開錠しようとすると、音を聞きつけたらしい宮部がドアーを開けて宗嗣を部屋の中に入れてくれた。
「さや!」
 宗嗣は靴を脱ぐのももどかしく、紗綾樺の元へと滑り込んだ。
「具合はどうなんですか?」
 宮部に礼を言うでもなく、宗嗣は問いかけた。
「変化はありません。ただ、少しだけ体温が戻ってきたようです。最初は手も氷みたいに冷たくて・・・・・・」
 宮部の説明を聞くのももどかしく、宗嗣は紗綾樺の額や手に触れてみた。
 ホットタオルに包まれてる手は、包んでいたタオルに冷たさの余韻を残していたが、既に体温を取り戻していた。また、額もしっかりとした体温を感じられるほど暖かくなっていた。
「すいません。突然の事で、こちらにお送りする以外、考えつかなくて・・・・・・」
 『病院に連れて行くべきだったか?』という言外の問いに、宗嗣は頭を横に振って答えた。
「ありがとうございます。どうせ、病院に連れて行っても、点滴したりするだけで、根本的な解決にはならないんです。誰にも、さやが助かった理由も、さやの記憶がもどらないことも、説明できないんです」
 宗嗣の言葉に、宮部はどれほど宗嗣が紗綾樺の事だけを考えて生きて来たのかを感じた。それと同時に、自分が本当に紗綾樺と恋人になったら、それは宗嗣から生きる理由を奪ってしまう事になるのではないかという不安にも襲われた。
「さやの事、嫌いにならないでやってください。きっと、いつか治るって、医者もいってますから・・・・・・」
 宗嗣の言葉に、宮部は宗嗣の隣に正座した。
「宗嗣さん、僕は心から紗綾樺さんを愛しています。だから、そんな心配しないでください」
 宮部の言葉に、宗嗣の方があっけにとられているようだった。
「もし、いつか・・・・・・」
 宮部は言うと、一瞬、躊躇したように言葉を切った。
「本当は、こんなこと考えたくないですけれど・・・・・・。もし、紗綾樺さんに他に好きな人が出来て、僕が紗綾樺さんを幸せにする相手として選ばれなくても、僕は恨んだりしません。もし、記憶が戻って、紗綾樺さんが僕を必要としなくなっても、それでも僕は、それまで紗綾樺さんと一緒に居たいです」
 宮部のまっすぐで真摯な紗綾樺への想いに、宗嗣は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。これからも、さやのことをお願いします」
「お礼なんて不要ですよ。僕は、紗綾樺さんの傍に居られるだけで、幸せなんですから」
 宮部は言うと、少し後ろに下がった。
「洋服を着たままだと、体か休まらないでしょうから、紗綾樺さんを着替えさせてあげてください。自分は、こちらの部屋で待たせていただきますから」
 宮部は言うと、宗嗣の返事を待たずに、背を向けながら襖を閉めた。

(・・・・・・・・こんなに一途に愛してくれる人がそばに居たら、そりゃ元気にもなるよな。やっぱり、兄貴じゃだめか・・・・・・・・)

 宗嗣は、そんな事を考えながら紗綾樺の布団をはがした。
 今まで、何度も繰り返してきたことだ。突然倒れ、体が氷のように冷たくなる紗綾樺の事を直せた医師は誰もいない。結局、自然と体が温まり、意識を取り戻すのを待つだけだ。だから、宗嗣は紗綾樺を病院に連れて行くのをやめ、自分で看病するようになっていた。
 外出用の可愛いブラウスのボタンをはずし、ゆっくりと片手ずつ抜くとブラジャーだけの上半身に布団をかけ、下半身側の布団をめくりあげると、今度はお揃いのスカートを脱がせる。
 いつもは、このまま布団をかけておいて目覚めるのを待つのだが、さすがに宮部が隣の部屋にいることもあり、宗嗣は紗綾樺がほとんど着ることのないパジャマのズボンをはかせ、更に布団をかけなおすとパジャマの上を着せた。
 ただ眠っているだけなら、これだけ体を動かされれば目覚めるはずなのに、紗綾樺の眠りは深く、まだ眠ったままだった。
 パジャマを整え、布団をかけなおすと、宗嗣は襖を開けた。
「どうぞ宮部さん。さやの傍に居てやってください」
 宗嗣は言うと、ハイヤーがまだ待っていないかを確認するために玄関の外へと出て行った。
 宗嗣の許可を得て、紗綾樺の傍に戻った宮部は、少し赤みが差してきた紗綾樺の頬を見つめ、ほっと安堵のため息をついた。
「紗綾樺さん、早く目覚めてください」
 宮部にも、紗綾樺が病気だという感覚はなく、何らかの理由、たぶん力に関係のある理由で眠っているのだと思っていた。ただ、それと同時に、宗嗣がこの原因不明の症状と紗綾樺の力を切り離して考えているのだという事も感じ取ることができた。
「おまたせしました」
 戻ってきた宗嗣に声をかけられ、場所を開けようとすると宗嗣は頭を横に振った。
「宮部さんが傍についている方がさやも喜びますよ」
 紗綾樺に愛されているという自覚のない宮部は、もう一度、宗嗣に場所を譲るべきか逡巡したが、宮部が結論に達する前に宗嗣は冷蔵庫の前に腰を下ろすとズボンを痛めないように足を投げ出して座った。
「あの・・・・・・」
 どうするべきか悩んだ宮部が声をかけると、宗嗣は優しく笑い返した。
「たぶん、もうすぐ目が醒めますよ。いつもそうですから」
 宗嗣の言葉に、宮部は紗綾樺の手を握り続けた。

 着替えをしたいというのが宗嗣の本当の所だったが、ああして献身的に紗綾樺の手を握り続ける宮部を部屋から閉め出すのも申し訳なかったし、かといって宮部の前で着替えをするほど宗嗣は無神経でもなかった。
 不安と恐れ、つまり紗綾樺を失うのではないかという思いを抱いて座る宮部の姿は、宗嗣自身の姿とも重なった。そんな宮部の姿を見つめながら、宗嗣は別れ際にしっかりと持たされた封筒を取り出して中を確認した。
「・・・・・・・・・・」
 手紙の内容に宗嗣は言葉もなく、握りしめた手紙を見つめた。
 内容は、どう考えても狐につままれたとしか思えないような内容だった。
 記憶に間違いがなければ、今期で契約は終了となり延長はされないと、はっきりそう言い渡されたはずだ。だから、宗嗣としては、今夜の豪華な晩餐は、早い別れの振る舞いのようなものだと、そう理解していた。しかし、手紙に書かれている内容は、それとはまったく逆の内容だった。

(・・・・・・・・俺をデザイン部門のチーフ? 設計部門の副部長待遇?・・・・・・・・)

 何度読み返しても、文字が頭の中を通り過ぎるだけで、宗嗣は言葉を理解することができなかった。
 設計部門の副部長という事は、契約スタッフいびりをしている、あの社員の直属の上司という事になる。
 読み進めて行くと、更に待遇の詳細が明記され、健康保険や福利厚生、そして有給の日数や給与と賞与が記載されている。

(・・・・・・・・エイプリルフールには、早すぎるっていうか、遅すぎるっていうか・・・・・・・・)

 宗嗣は困惑を露わにしながら、何度も書面を読み返した。
 書面の最後には、通常のオファーレターに書かれている有効期限、つまりオファーを受諾するかどうかの回答期限が『無期限』とされ、その脇に但し書きとして『現社長の任期中に限る』とされていた。
 つまり、社長の任期中であれば、いつでもこのオファーは有効という事になる。

(・・・・・・・・あのお偉いさん、もしかして、本当にすごく偉かったんだ・・・・・・・・)

 今更ながらに、宗嗣は心の中でつぶやいた。

 そんな宗嗣に、宮部が声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
 振り向くと、宮部が安心した様子で、微笑みかけてきた。
「紗綾樺さんの意識がもどりました」
 宮部の言葉に、宗嗣は立ち上がると、紗綾樺の傍へと歩み寄った。
「お兄ちゃん・・・・・・」
 紗綾樺は虚ろな目で宗嗣を捉えると声をかけてきた。
「まったく、心配させるなよ」
 宗嗣は言うと、膝立ちになり紗綾樺の髪をぐりぐりかき混ぜるようにして頭を撫でた。
「宮部さんが心配して、ずっと付き添ってくれたんだぞ」
 宗嗣の言葉に、紗綾樺は視線を宮部の方に戻した。
「尚生さん・・・・・・」
 紗綾樺の呼びかけに返事をするように、宮部はしっかりと紗綾樺の手を握った。
「気が付いてよかったです。自分は、これで失礼しますけど、明日、お迎えに来ますね」
 宮部の言葉に、紗綾樺はゆっくりと頷いた。それから、宮部は宗嗣の方を向き、明日のデートの承諾を求めた。
「今更、ダメだなんて言いませんよ」
 宗嗣は笑顔で言うと、名残惜しそうにしながらも丁寧に挨拶をして部屋を出ていく宮部をアパートの下まで見送った。

 去っていく宮部の車を見送り、宗嗣は星も見えない都会の空を見上げた。
 夜空を見上げると、あの晩のことが思い出されて、宗嗣はいつも空を見ないようにしていた。
 あの遮る明かり一つない、寒々として、星の光が冴えわたる夜空。絶望と、恐怖と、寒さと、そして渇きと飢え。おなかが減ったと泣く子供と寒さに震える人々。家を失い、家族の安否も分からないまま、ただ全てを失う事を恐れ、絶望し、放心状態のままの人たち。そして、まるで全てが特撮映画か何かのように、現実感から切り離され、はしゃいでいるように見えた人々が現実に引き戻された後の暗転。
 宗嗣自身、落ちてくるような星空と光のかけらも見えない闇の中で、紗綾樺を失った絶望に打ちのめされた。ひらひらと軽やかに舞い落ちる雪に、足首まで水に浸かった両足が凍えそうに冷たくて、生きた心地がせず、今にも空の星までも落ちてくるのではないかという恐怖に襲われた事を昨日の事のように覚えている。だから、宗嗣は夜空を見上げることを今も心の中で拒み続け、世間が流星群で盛り上がっても、星が流れていく様を見たいとも思わなかった。ただ一つ、もし、星に願って紗綾樺が元気になるのであれば、全ての苦しみに耐えてでも願をかけたいとすら思った。しかし、もう充分に大人になってしまった宗嗣には、星に願いをかける事すらできなかった。

(・・・・・・・・さやに宮部さんという恋人ができた今、俺も、もう少し俺らしい生き方を見つけるべきなのかもしれない・・・・・・・・)

 宗嗣は考えながら、あの日以来、初めて自分が夜空を見上げている事に気付いた。
 もう二度と見上げることがないと思っていた夜空を見上げ、時間は止まることなく流れ続けている事を宗嗣は感じた。どんなに紗綾樺と共に自分の時も止まってしまったと思っていても、本当のところ、時間は休むことなく流れて行っている。そして、気付けば人形のように表情も感情もなかった紗綾樺にも笑顔と感情が戻り、自分以外にも紗綾樺を大切に思ってくれる宮部という男まで現れた。もはや紗綾樺に自分が必要のない人間だとは思わないけれど、宗嗣は自分が一歩下がり、立ち位置を宮部に譲るべきかもしれないと思った。
 ゆっくりと階段をのぼり、部屋に戻った宗嗣は既に寝息を立てて眠りについている紗綾樺を起こさないように着替えを済ますと、紗綾樺の隣に自分の布団を敷き、そのまま横になった。
 あの驚くほどに寛大な内容のオファーレターを受ける決心はついていなかったが、明日の仕事に備えて宗嗣は眠りを求めた。いつもなら、シャワーを浴びて、翌朝の朝食の支度や、弁当の準備、そして着替えを整えたりするのだが、宗嗣は何もせずに横になると、絡んだ糸のような心と気持ちを休めるために眠りについた。

☆☆☆

 昨夜、尚生が自宅に帰りついた時には、既に母は休んでいた。
 これが学生時代だったら、金棒をついた鬼のような形相で玄関先に座り、扉を開けるや否や、そこに直れの勢いでマシンガンの如く男女交際の基本から学生としての慎みの基本を長いお経の如く唱えたであろう尚生の母も、息子の歳を鑑みてか、既に夢の中で、尚生を尋問することもなかった。
 しかし、一夜明けると、尚生の心は穏やかでなく、昨夜の分も尋問されるのではないかという心配と、二日も続けて休むことを追及されるのではないかという不安に襲われていた。
 もちろん何もやましいことはなく、結婚するのに親の同意もいらない大人なのだから、母に何を追求されようと困る必要もないのだが、そこはやはり母子家庭で母と心を寄せ合って成長してきた尚生には、母に嘘をつきたくないという思いが強かった。
 それは、紗綾樺の事を母に話すためには、必然的に嘘をつかなくてはいけないという事だった。
 既に尚生の心は固まっていたが、それで紗綾樺の心も決まるわけではなく、母に余計な期待をさせたくないというのが正しいのかもしれない。
 職業柄、尚生の場合、交際期間はある程度続く。これは公務員という職業が結婚相手としてのポイントが高いからだが、同じ公務員の中では、自衛官と最下位を競い合う位だ。以前は、海上保安官も最下位を争う仲だったのに、ヒット映画のおかげで、順位が上がり、更に災害続きで活躍の場が世間の目に触れやすくなった自衛官も着実に順位を上げている。それに比べ、不祥事続きの警察は順位が下がる一方で、『これなら普通の会社員の方がましだと』と言うのが、尚生が聞いた別れ話の決め台詞になりつつある。まあ、別れ話を切り出したいのに、連絡が途絶えて数週間待たされ、忘れたころに何もなかったようにデートに誘われて別れ話を切り出すのは、相手にとっても面倒くさくて、苦痛な事だという事は、尚生も理解していたので、そこで出来もしない約束をすることも、敢えてやり直したいと伝えたこともなかった。だから、タイミングが合わないことで長くなりがちな交際期間に対し、相手を深く理解する時間があったかと言えば、ほぼ間違いなく答えは『ない』になる。
 ましてや強行犯係に異動になり、母とクリスマスを過ごす事を寂しいとも思わなくなった尚生に、好意を持つ相手が出来たと知った今、母が昨晩のような遅い帰りを結婚へ向かう着実な交際と考えることは当然の事だった。
 しかし、結婚どころか、恋人をとりあえずのゴールに設定したとしても、相手が紗綾樺となるとゴールは月までの距離のように遠く感じられた。それも当然の事で、尚生自身、毎日、毎時、愛の言葉を囁けるラテン系男子になっていること自体、信じられない変化だった。
 あまり多くない尚生の恋愛経験から言えば、いつも肝心な時に告白できず、トンビに油揚げを攫われるようにして、想いを寄せた女性はことごとく他の男、つまり尚生の同級生や学友、最悪のケースでは親友とゴールインという、常に玉砕にも至らないスタート目前で転んで終了ばかりだった。そして、今までの交際は全て相手に告白してもらってスタートを切るという、受け身の尚生からは信じられない展開だった。
 紗綾樺との本当のスタートを思い起こせば、信じられない展開に至った原因は、純粋に仕事の悩みを相談に行ったはずの尚生が、紗綾樺に食事をご馳走して家まで送らせてもらえるという展開から、仕事メインでの付き合いのはずが、いつの間にか恋愛感情を暴走させるに至り、火事場のバカ力ではないが、今度こそトンビに攫われてなるものかという無意識のなせる業で、紗綾樺を見れば愛を囁いてしまうという変化をもたらしたとも言える。それに、紗綾樺の力を信じている尚生にとって、心で想うということは、完全に紗綾樺に筒抜けなのだから、読まれるよりも自分で口にした方が恥ずかしくないという、変な開き直りでもあった。
 母の追及にどう答えようかという悩み半分、紗綾樺に逢える嬉しさ半分で、尚生は布団に別れを告げると出かける支度をした。
 一階に降りていくと、人の気配はなく、台所に置かれた朝食を食べるテーブル兼、調理時の食材を置く台の上に、母からのメモが乗っていた。

『ご近所さんと日帰りバスツアーに出かけます。食事は自己責任で。母より』

 追及されて、困惑することを想定して降りて来た尚生としては、嬉しい誤算だったが、なんとなく母に説明できない秘密が出来てしまったような、少し大人気ないやましさが心の隅に残った。
 冷凍庫からおにぎりを取り出して電子レンジで温めながら、インスタントの味噌汁を作ると、温め終わったおにぎりにパリパリの浅草海苔を巻き、尚生は簡単な朝食を済ませた。
 森沢夫人の入院先に紗綾樺を連れて行くことは警察官として間違っている事は理解している尚生だったが、もはやすべての情報は紗綾樺のみが知る事で、突然の紗綾樺の軽井沢行きも当然、崇君の居場所に心当たりがあっての事に違いないと尚生は理解していた。
 しかし、紗綾樺と夫人を引き合わせたのが自分という事になれば、懲戒、最悪は依願退職という事も考えられる。それでも、尚生は今回の崇君の事件をうやむやに終わらせたくないと思っていた。
 実際のところ、事件が長引けば長引くほど、紗綾樺と会う機会も話す機会も増える。しかし、何よりも小さな子供が母親と引き離されて暮らしているという事が、母子家庭で育った尚生には耐えられなかった。だから、はやく崇君をお母さんの元へ戻してあげたい、その一心で紗綾樺の元を訪ねた時の気持ちは変わっていない。
 仕事柄、早食いが常という事もあり、五分で食事を終わらせてしまった尚生は、インスタントコーヒーに砂糖とミルクをたっぷり入れてデザートがわりにした。
 それから、洗濯物を色物と白物に仕分けして、白物だけで洗濯機を回し、軽く車の中の掃除をして紗綾樺を迎えに行くまでの時間を潰した。
 脱水された洗濯物を干し、身繕いを改めて整えると、尚生は紗綾樺を迎えに行くべく車を走らせた。

☆☆☆

 紗綾樺とお洒落なレストランならぬ、いつものファミレスでのランチを終え、食休みもそこそこに森沢夫人の入院する病院へと車を走らせた尚生は、近くのコンビニの駐車場に車を停めて大きく深呼吸した。
 休暇扱いとは言え、未だ復職の許可が下りていない尚生が一民間人である紗綾樺に、故意に捜査情報を漏らし、更に世間が悪意を持って鼻でせせら笑いそうな紗綾樺の『心を読む力』を当てにして独断で捜査対象に接近、その上、捜査班の許可なく被害届を出した森沢夫人に紗綾樺を面会させたことが知れたら、軽く見積もっても懲戒、いや実際のところ、不祥事が続いている警察の蜥蜴の尻尾きり、もしくはスケープゴートとして大々的に日本全土のお茶の間に顔写真が公開され、壊れたレコードのように何度も罪状が繰り返されて、全国の人に昨日付で懲戒解雇されましたとレポートされる事になる。もしかすると、前回の勝手な行動から、精神の異常がみられるなどの余罪ならぬ、おまけ情報まで垂れ流されることまでは尚生にも予想できた。
 これはつまり、尚生を女手一つで育ててくれた母に対する最悪の親不孝であり、宮部の名に泥を塗る事になる。今までの尚生であれば母の事を考え、全てのリスクは回避してきた。そう、反抗期もなく、悪い友達の誘いや、悪い遊びの誘惑もすべて回避し、クリーンすぎる男として警察に入ったのだって、母の事を考えての結果なのかもしれない。しかし、今の尚生には一つだけ譲れないものがある。それは、警察官としての考えではなく、尚生の個人的な紗綾樺に寄せる信頼と愛だった。
 すべてが失敗に終わり、たとえ自分の顔写真がお茶の間の笑い話の種にされても、母に親不孝者と罵られても、紗綾樺にならこの事件を解決することができるという確固たる信念と、紗綾樺への愛が尚生をここまで行動させていた。
 こうして車を停め、全てを思い返すに至って、多少の恐怖は感じるものの、それでも怖気づいて紗綾樺に計画の取りやめを申し出るつもりはなかった。
 まるで神隠しのように消えた子供、日本中のあちこちで発生している未解決事件の数パーセントを占める児童の行方不明事件。それはあまりにも突然で、日常茶飯事の中に埋もれて発生し、目撃者もほとんどない。営利目的ではないのか、身代金要求もないのに、子供は見つからない。山で遭難したわけでも、マンホールに落ちたわけでもないのに、遺体も見つからない。まさに現代の神隠しだ。
 こんな事件の話を聞くたびに、尚生は子供たちを探して親元に返してあげたいとずっと思ってきた。そして今、紗綾樺という特別な力を持った存在と知り合い、この事件をやっと解決に導くことができると信じる心が、尚生の恐怖を全て拭い去っていく。
「尚生さん、ここからは歩いていきます」
 尚生の心を知っている紗綾樺は言うと、助手席のドアーを開けた。
「紗綾樺さん・・・・・・」
 紗綾樺を一人で病院に行かせることに後ろめたさを感じて尚生は呼び止めたものの、振り向いた紗綾樺に次ぐ言葉を見つけられなかった。
「尚生さん、迎えは結構です。今日は、このまま家に帰ってください」
 笑顔で言う紗綾樺の言葉に、尚生は得体のしれない恐怖を感じた。
「待ってください紗綾樺さん、僕はここで待っています」
 縋るように尚生が言うと、紗綾樺は無言で頭を横に振った。
「紗綾樺さん!」
「ここからは、私の仕事です。依頼人の尚生さんが傍に居ると迷惑です」
 きっぱりと言い切られ、尚生は紗綾樺が助手席の扉を閉めて歩き去るのを見送るしかなかった。


 コンビニから病院までは五分ほどの距離で、紗綾樺は勇敢にも点滴をぶら下げてコンビニを目指す入院患者や、パジャマ姿で携帯片手にコンビニ方向に三々五々歩いてくる患者の群れを逆に辿ることで難なく病院にたどり着くことができた。
 見上げる程高く威圧的な景観は、紗綾樺が入院していた低く古い地方の総合病院とは大きく異なっていた。それは、紗綾樺が目覚めた街が低いビルと古い商店ばかりだった町と大都会の高層ビル群に埋め尽くされた街の違いの縮図のようだった。
 敷地に足を踏み入れると同時に、あらゆる痛み、苦しみ、恐怖、死が紗綾樺に忍び寄り、絡みついてきた。
 今まで、何度となく検査で連れていかれた病院でも感じた、言葉では表現することができない紗綾樺だけが感じる苦しみだ。それでも、紗綾樺はまっすぐに正面玄関を目指した。
 正面の自動ドアーをくぐって驚いたことは、大手コーヒーチェーンの店舗がドーンと入り口付近のエリアを占有していた事だった。
 そしてその奥にはお見舞い用の花束やバスケットを売る自動販売機が設置されていた。
 紗綾樺自身、花を買い忘れて来ていたので、この自動販売機の存在は、まさに神の助けというべき存在だった。
 手ごろな値段の物は全て完売していたが、紗綾樺は臆すことなく五千円の花かごを購入した。それから、受付に向かうと見舞客の踏まなければならない手続きを確認した。
 受付の近くに設置されたデスクで訪問先の患者名とフロアーを紙に記入して『見舞い』のバッジを身に着けるシステムになので、紗綾樺はボールペンを何本か手に取り必死に森沢夫人の情報を探した。
 沢山の見舞客の名前と患者の名前の羅列の中から、やっとの事で森沢夫人の情報を見つけると、紗綾樺は敢えて隣の部屋の入院患者の情報を記入し受付で見舞客用のバッジを受け取った。尚生の話から、夫人が監視対象である可能性は高かったので、本人の名前を記入して警察を呼ばれては話すチャンスを逃すことになるだけでなく、誘拐犯の仲間として連行されたりでもしたら、尚生に迷惑をかけることになる。
 目的のフロアーに着くと、部屋番号を確認しながら辺りの気配と思考に注意する。警察関係者が少なくとも一人はフロアーで見張っている事を予想していた紗綾樺は、一人もいないことに逆に驚いた。休憩なのか、自然の摂理で席を離れたにしろ、森沢夫人が厳重な監視下にないことは紗綾樺にとっては好都合だった。
 森沢夫人の部屋は四人部屋だったが、二つのベッドは空いていて、同室の患者は不在だった。
 紗綾樺は窓側のベッドに歩み寄ると、一瞬だけ中の気配を確認し、仕切り替わりのカーテンの隙間から患者のプライベート空間に滑り込んだ。
 突然の事に、驚いた森沢夫人が起き上がり、紗綾樺の事をまじまじと見つめた。
 小柄な紗綾樺には大きすぎるフラワーバスケットと『見舞い』バッジから見舞客であると認識した森沢夫人が口を開いた。
「青木さんのベッドはお隣ですけど・・・・・・」
 同室の患者の見舞客が迷い込んだと判断しての事だったが、紗綾樺はさらに一歩ベッドへと歩み寄った。
「間違いじゃありません。このお花は崇君からです」
 紗綾樺の言葉に、森沢夫人の顔が驚きと、怒りと、困惑で七面相のようにくるくると変わった。
「あなた誰?」
 最初の優しげで、いかにも病人らしい細い声とは異なり、誰何する声はドスが聞いていると言ってもいいくらい、低く太かった。
「崇君からの伝言を伝えに来ました」
「あんたが崇を誘拐したのね!」
 言うなり、森沢夫人は紗綾樺の持っていたバスケットを死が近い病人とは思えない力で弾き飛ばし、紗綾樺の腕を掴んだ。飛んだバスケットはカーテンにぶつかり、ベッドの向こう側の床に落ちた。
「手を放してください」
「警察を呼ぶわ!」
 森沢夫人は言いながら、手探りでナースコールのボタンを探した。
「呼ぶのは勝手です。でも、呼べば崇君は不幸になります」
 冷たい感情のない紗綾樺の声に、森沢夫人の手が止まった。
「教えてください。あなたの望みは何ですか? 崇君の幸せですか? それとも、崇君の不幸ですか?」
「幸せに決まってるでしょ!」
「誰の幸せですか? あなたの? それとも、崇君の?」
 紗綾樺の問いに、森沢夫人は沈黙した。
「あなたの傍に居ることが崇君の幸せだと思っていたんですか?」
「当たり前よ! 母親と一緒に居ることが、子供の幸せでしょう?」
 勝ち誇ったように言う森沢夫人に、紗綾樺の目が細くなる。
「あなたの食事の世話をして、あなたの看病をして、友達と遊ぶこともできず、継父に殴られ、蹴られる、そんな生活が崇君の幸せだと?」
 紗綾樺の言葉に、森沢夫人が驚いたような表情を浮かべた。
「夫が崇に暴力を! 私は知らなかったんです。退院したら、すぐに止めさせます」
 夫人の言葉に、紗綾樺は大きく息を吐くと、頭を横に振った。
「あなたも、それから、あなたの夫達は、みんなろくでなしだわ。あなたは崇君の父親があなたに暴力をふるい、悪事に手を染めたと言って離婚したけれど、あなたは最初からあの男がろくでなしだって知っていたけど、子供が出来たから結婚した。暴力に耐えられずに離婚したと言ったけど、本当は暴力を振るわれたことで流産できたらと思って耐えていた。でも結局、流産はしなかった。崇君が生まれ、夫の暴力が自分ではなく崇君に向くことを願ったけど、崇君が泣くたびに、殴られるのはあなただった。離婚して、あなたの話に同情して再婚した現在の夫は、あなたが不治の病だと知って心変わりして、崇君に暴力を振るうようになった。あなたは知っていたけれど、殴られるのが自分じゃないから、崇君が泣くたびに前の夫に殴られ続けたのは自分だったから、自分の代わりに崇君が殴られるのは当然だと思った。そして、あなたの夫は、このままあなたの高額な医療費を払い続けた挙句、縁もゆかりもない崇君を成人になるまで育てる義務を負いたくなくて、崇君を買い取ってくれる人を探した。今まであなたのために払った医療費全てを回収して、さらに良い暮らしができるような額を支払ってくれる人を・・・・・・。でも、あなたが警察に通報したから、お金は支払われなくなった」
「悪魔・・・・・・」
「あなたたちには、その言葉がぴったりよ」
 紗綾樺の言葉に、夫人の瞳に狂気が宿った。
「あんたは悪魔?」
「違うわ」
「じゃあ、化物ね」
 ズキリと『化物』という言葉が紗綾樺の胸に突き刺さった。
「なんと言われてもいいわ。崇君は幸せに暮らしているの。誰にも見つけることはできないから、探すだけ無駄よ」
「それなら、いま警察を呼んでやるわ、あんたなら、あの子の居場所を知ってるんだろう」
 夫人の変わりようは、まさに化けの皮が剥がれたといった風だった。
「あなたは母親失格よ。こどもを奴隷のように自分に見えない鎖でつないで、子供が健やかに学び、遊ぶことを妨げ、自分の不満のはけ口として暴力を加え、夫が暴力をふるう事を止めもしなかった。どっちが悪魔? 私? それともあなた達?」
 紗綾樺の言葉が変わるのを待って、夫人が勝ち誇ったように左手にしたナースコールのスイッチを差し出して見せた。
「どっちが悪魔かって? そりゃ子供を誘拐した犯人の仲間のあんたよ!」
 ゆっくりと、スローモーションのようにボタンにのせられた指に力が込められていくと同時に、紗綾樺の体が金色に光り、ぶわりと九本の半透明の尻尾が広がった。
「ば、ば、化け物!」
 悲鳴に近い声を夫人が上げたが、カーテンで仕切られた空間は現実から切り離され、院内の喧騒も消えうせた。あまりに非現実的な出来事に、夫人はボタンを押す指に力を込めることもできず、その場で金縛りにあったように動くことが出来なくなった。
「残り短い命とは言え、その命惜しかろう?」
 威圧的で、命令するのが当たり前という響きを持つ声は、紗綾樺の声とは似て非なるものだ。
「お前がそのボタンを押す前に、妾にはお前の命の炎を燃え尽きさせることができる」
 声に従うように紗綾樺の左手が夫人の方に突き出されると、上を向いた手のひらに今にも消えそうな小さな炎が揺らめいた。
「これがお前の命の炎。妾が手を握れば炎は燃え尽き、お前の命は塵となる」

(・・・・・・・・ばけもの・・・・・・・・)

「化物とは笑えるな。自分の子供を自分の都合で傷つける方が妾には化物に見えるが・・・・・・。まあ、そんなことはどうでもいい。その命、ここで失うか? それとも、子供を諦めて、残りの命を堪能するか・・・・・・。どちらが望みだ? まあ、ここで命を失えば、これ以上苦しむ必要もないがな」
 豹変した紗綾樺の姿に、夫人は脅え、震えながらボタンの上に置いていた指をずらした。
「やはり、自分の命は大事と見える。いつの世も、人というものは、我が身大事よのう」
 半透明の尾をゆらゆらと揺り動かしながら言うと、紗綾樺の右手が放りだされた花の方へとのばされた。
「人というものは、何時の世も自分の命は大事、だが哀れな草木の命は軽々しく扱う。自分たちの命が、この花の命よりも貴重なものだと奢っている・・・・・・」
 紗綾樺の右手が広げられ、くるりと時計周りに円を描くようにして回されると、床に散らばっていた花々が綺麗にバスケットに収められ、紗綾樺の右掌の上に浮かび上がった。
「忘れるな、妾はそなたを見ている。そなたが妾の事を誰かに話したり、子供を取り戻そうとしたら、この左手にあるそなたの命の炎を握りつぶしてくれる。良いな?」
 そこまで言ってから、ふと何かに気付いたように、紗綾樺の左手が軽く握られた。その瞬間、夫人の顔が苦しみにゆがめられた。
「知っておるか? 妾の力を疑うなど愚かとしか言えぬ。妾の不興を買い、妾を疑うなど、死に値する愚行じゃ」
 ゆっくりと左手が広げられ、夫人の顔から苦痛が消えていく。
「答えは決まったか?」
 問いに対し、無言の夫人の頭がガクガクと頷くような動きを見せた。
「よかろう」
 満足げに尻尾を動かすと同時に、紗綾樺の右手の上のバスケットがベッドサイド小さなテレビ前に着地し、左手のひらで揺らめいていた炎も姿を消した。
「こんな卑しい命、滅してしまっても良いものを・・・・・・」
 誰にも聞こえない小さな声が囁くとともに金色の光も半透明の尻尾も姿を消した。そして、外れていたパズルのピースが正しい位置にはまったように、日常の喧騒も戻ってきた。
「あの・・・・・・」
 紗綾樺が声をかけると、我を失ったようだった夫人が恐怖に歪んだ顔で紗綾樺の事を見つめた。
「崇の事は忘れます。警察にも捜査を中止してもらいます。もう、二度と崇を探そうとしたりしません」
 夫人は震える体を自分の腕で抱きしめながら言った。
「ありがとうございます」
 紗綾樺は言うと、来た時と同じようにカーテンの隙間から滑り出た。そして、そのまま振り返ることなく夫人の病室を後にした。
 紗綾樺自身、自分の記憶にあることが実際に起こった事なのかどうか分からなかったが、投げ飛ばされたはずのフラワーバスケットがきちんとベッドサイドキャビネットに置かれていた事から、再び自分の力が暴走したのだと察することはできた。
 一階の受付で『見舞い』バッジを返すと、紗綾樺は最寄り駅を目指して歩き始めた。

☆☆☆

 コンビニの駐車場で紗綾樺を見送った尚生は、一度は紗綾樺に言われたとおりに帰宅するべく車を走らせたが、すぐに思い留まって車をUターンさせた。
 紗綾樺を一人で帰宅させるには、電車の乗り換えは複雑だったし、第一、デート相手の自分が紗綾樺をこんな遠くに置き去りにするなんて、尚生の騎士道精神にもとる行いを自分自身で許すことができなかったからだ。
 とりあえず、紗綾樺が最寄り駅に向かう事を考え、病院から駅へと向かうルートを確認すると、駅の近くのコインパーキングに車を停めた。
 ちょうど駅に向かう人が通る道沿いなので、紗綾樺が迷わず駅に向かって歩いてくれれば、必ず出会う事ができる場所だ。
「紗綾樺さん、大丈夫かな・・・・・・」
 具体的に何を心配しているのかと訊かれたら、尚生にも答えられない。そんな漠然とした不安に尚生の心は囚われていた。それは、紗綾樺を失うかもしれないというような大それたことではなかったが、それでも、紗綾樺が県警に連行されるかもしれないというリスクと紗綾樺の今後を心配する気持ち違いなかった。
 以前の尚生なら、おそらく自分の進退を一番に心配したことだろう。それは、自分が可愛いというのは言うまでもないことだが、母に与える不安や心配を一番に考慮する癖が身に染みていたからだ。しかし、いまの尚生には母に不安や心配をかける事よりも、何よりも紗綾樺の身の安全が一番だった。
 万が一、県警に連行され、その職業が『スピリチュアリスト』というマスコミの恰好の餌食にされやすいものだという事実が漏れたら、紗綾樺に対してマスコミがどのような攻撃をするかも尚生には想像できなかったし、それこそ宗嗣にも迷惑をかけ、仕事を失うようなリスクになってしまうかもしれないという事を理解していながら、あのコンビニの駐車場から紗綾樺を一人で行かせたことを尚生は心の底から後悔していた。
 邪魔だと言われても、迷惑だと言われても、紗綾樺の細い腕を掴み、その手を振り払われてもついていくべきだったと尚生は後悔していた。
「紗綾樺さん・・・・・・」
 尚生は声に出して紗綾樺の名を呼んだ。
「紗綾樺さん、許してください。僕は、あなたに迷惑ばかりかけて・・・・・・」
 尚生はハンドルに額をつけるようにして呟いた。
 俯いていては紗綾樺の姿を見失ってしまうと、尚生が顔を上げた瞬間、誰かが運転席の窓を軽く叩いた。
 驚いて尚生が窓の外を見ると、そこには紗綾樺が立っていた。
 先程、コンビニで別れた時と何一つ変わらない姿で、紗綾樺は窓越しに絶望的な表情を浮かべている尚生に微笑みかけていた。
「紗綾樺さん」
 尚生は慌てて車から降りようとして、留めたままのシートベルトに引き戻された。
「焦らなくても、消えていなくなったりしませんよ」
 紗綾樺の言葉に、尚生はシートベルトを外して車から降り立った。
「先に帰ってくださいってお願いしたのに」
「ここからじゃ、紗綾樺さんの家は遠いので・・・・・・」
「じゃあ、送ってください」
「はい。お送りします」
 尚生が答えると、紗綾樺は慣れた様子で助手席に乗り込んだ。
「あ、清算してきます」
 車に乗り込もうとした尚生は、コインパーキングの清算をするため、慌てて精算機に向かい、小銭を取り落としそうなほど不器用な手つきで清算を済ませて車に戻ってきた。
「あの・・・・・・」
 エンジンをかけながら尚生が問いかけると、紗綾樺は『今日は、まっすぐ帰りたいです』と答えた。
 それは、このまままっすぐ帰るのではなく、お茶を飲みながら話をしたいという尚生の心を読んでの事だった。
「少し疲れたので、休んでも良いですか?」
 助手席のシートに持たれた紗綾樺の顔色は、さっき気付かなかったのが不思議なくらい蒼かった。
「はい。ゆっくり休んでいてください」
 尚生は言うと、安心したように瞳を閉じた紗綾樺の横顔を見てから車を発進させた。

 いつもの場所に車を停めて紗綾樺を起こすと、熟睡していた紗綾樺は、眠りたりなさそうに目を開けた。
「つきましたよ、紗綾樺さん」
 尚生の言葉に窓の外を一瞥した紗綾樺は、尚生の瞳をじっと見つめた。
「紗綾樺さん?」
 見つめる紗綾樺に、尚生は心臓の鼓動が早まっていくのを感じた。
「尚生さん、もう崇君の事は忘れてください」
 紗綾樺の言葉は、尚生の予想とは全く異なる内容で、早まりかけていた心臓が不協和音を立てる楽器のように急に鼓動を緩めた。
「紗綾樺さん、それは一体・・・・・・」
「何も訊かないでください。でも、依頼は果たしました」
 紗綾樺の言葉の意味が分からず、尚生は混乱した頭で問いかけた。
「それは、崇君が見つかったってことですか? 帰って来たんですか?」
「尚生さん、私を信じてください。最初から、崇君は居なくなったりしていないんです」
 狐につままれたような尚生を残したまま、紗綾樺はするりと車から降りて行った。
「待ってください!」
 尚生も慌てて車を降りて紗綾樺を追うと、今度こそ放すまいと、紗綾樺の手を掴んだ。
「依頼料は戴きません」
 あくまでもビジネスライクに言う紗綾樺に、尚生は少し乱暴かなと思いながら、紗綾樺の腕を引っ張って抱き寄せた。
「何を・・・・・・」
 戸惑う紗綾樺を腕に抱き、尚生はじっと紗綾樺の瞳を見つめた。
 紗綾樺ならば、見つめた瞳の奥にある思考や記憶と言った物を読むことができるのだろうが、尚生にはそんな特技はない。ただ、そうして見つめることで紗綾樺に自分の疑問や想いを読み取って欲しいという願いがあるだけだった。
 コンビニで別れた時とは違う、寂しげな紗綾樺の瞳は、まるでこれで尚生との関係が終わりだと告げているように見えた。
「これで、おわりです」
 とどめを刺すような紗綾樺の言葉に、尚生は抱きしめる腕に力を込めた。
「嫌です。僕は紗綾樺さんを放しません」
「でも、依頼は終わりです。だから、婚約も交際も・・・・・・」
 静かな紗綾樺の声を尚生が遮った。
「違います。自分は、紗綾樺さんと結婚を前提にお付き合いする許可を宗嗣さんに戴いたんです。その気持ちに変わりはありません」
「でも、それは・・・・・・」
 二人の関係の終わりを再度宣言しようとする紗綾樺の唇を尚生が自分の唇で塞いでしまおうとした瞬間、まったく予期していなかった声が聞こえた。
「あの~お二人さん、家の前で恥ずかしい事・・・・・・。自分たちは恥ずかしくないの?」
 ギョッとして振り返ると、買い物袋を両手にぶら下げた宗嗣が立っていた。
「俺はかなり恥ずかしいけど・・・・・・。痴話げんかは犬も喰わないんだから、車の中でやるか、部屋ん中でやったらどうだ? ご近所さんに丸聞こえだよ」
 諦めたような声で言うと、宗嗣はそれ以上なにも言わずに階段を上がっていった。
 『痴話げんか』と宗嗣が言う以上、紗綾樺が口にした『依頼』という言葉は聞かれていなかったのだろう。尚生は胸をなでおろしたい心境のまま、仕方なく紗綾樺を抱きしめる腕を解いた。
「明日、もう一度ゆっくりお話しさせてください」
 尚生は言ったが、紗綾樺は何も答えないまま逃げるように階段を駆け上がっていった。

☆☆☆

 一気に階段を駆け上がり、部屋に飛び込むと、私は後ろ手に扉を閉めた。
 自分の足音が大きすぎて尚生が追ってきているかどうか音では分からなかったからだ。でも、確かに感じる尚生の気配は動いておらず、追いかけて来てドアー越しに立っているという事はなさそうだった。
「何があったんだ?」
 着替えを済ませたばかりのお兄ちゃんの問いに、私はお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
 いつもより体温が高く感じられるお兄ちゃんの体は、いつもと違ってグラリと揺れた。
「危ない!」
 お兄ちゃんは言うと、私を抱きしめたまま、布団の上によろけて倒れた。
「お兄ちゃん?」
「ああ、なんか今日は熱っぽくて、帰って来たんだ」
 一度横になってしまうと、起き上がるのが辛いようで、お兄ちゃんは腕を解いて私を自由にしてくれると、自分はそのまま大の字になって横になった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ、電子レンジで温めたら食べられるものをまとめて買って来てあるから、食事のことなら心配しなくていいぞ。お前は、宮部さんと一緒に外で食事でもして仲直りして来ればいい」
 尚生さんと私の事を本当に交際していると信じているお兄ちゃんの言葉に、私は胸が苦しくなった。
「あのね、なお・・・・、宮部さんとは別れたの・・・・・・」
 私が言うと、お兄ちゃんは困ったような表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。
「いいか、さや。恋人ってのは、俺とは違うんだ。楽しい時もあれば、喧嘩したりすることもある。嫌なこともあるし、悲しいこともある。もちろん、嬉しいこともある。でも、喧嘩するたびに相手を嫌いになったり、別れたりしてたら、それで終わりになっちゃうこともあるんだ。俺なら、どんなことがあっても、さやから離れたりしないし、さやを嫌いになったりはしない。それは、俺がさやのお兄ちゃんだからだ。でも、宮部さんは兄じゃない。いつか結婚して家族になるまで、他人なんだ。だから、俺に接するように感情や考えをそのままぶつけてたらダメなんだ。お前が宮部さんの嫌なことを一つ見つけたとする、きっと宮部さんもお前の嫌なところを一つ見つけてる。だから、お互いに相手の好きなところを一つずつ見つける努力をするんだ。そうしたら、二人でどんな困難も乗り越えていかれる」
 『本当は全部嘘なの』と私は言ってしまいたかったけれど、ぐったりとしているお兄ちゃんを前に、真実を話すことができなかった。
「さや、布団かけてくれるか? 俺、このまましばらく横になりたい・・・・・・」
 お兄ちゃんの言葉に、私はお兄ちゃんに布団をかけ、部屋の電気を落とした。すると、お兄ちゃんは眠りに落ちていき、静かな寝息をたて始めた。
 私は眠るお兄ちゃんの隣に座り続けた。

☆☆☆

 よほど酷い顔をしていたのだろう、帰宅した僕の顔を見た母は、何か言いたそうだったにもかかわらず、ただ『お帰り』とだけ言って自分の部屋に引っ込んでしまった。
 二階の自室に籠り、ただただ紗綾樺さんの事だけを考えた。これで紗綾樺さんの関係が終わってしまうかもしれないと思うと、僕は目の前が真っ暗になった。
 何度も紗綾樺さんに自分の気持ちを伝えたつもりだったし、心からの告白も何度もした。それなのに、『事件の依頼』は終わったから、全ては終わりだと言われると、僕にはどうやって紗綾樺さんに僕の気持ちをわかって貰ったらいいのか分からなかった。
 だって、相手は紗綾樺さんだ。口にしなくても、僕の心を読んで、僕の事なら何でも分かってしまうはずなのに、なんで紗綾樺さんは僕の紗綾樺さんに対する愛をわかってくれないのか、僕には理解できなかった。
「なんでこんなことに・・・・・・」
 呟いてみても、何も変わらない。それでも、何かを言葉にしないと、頭がおかしくなってしまうそうな気がした。
「こんなに好きなのに、愛してるのに、なんでこんなことに・・・・・・」
 病院で何かあったのか? 県警の誰かに姿を見られた? 僕に迷惑がかからないように、他人でいたい?
 考えても、考えても、答えは出ない。
 このまま紗綾樺さんに連絡できなくなったら? このまま紗綾樺さんが電話に出てくれなかったら? 紗綾樺さんが、僕にしつこくされて困っていると言ったら、宗嗣さんなら引越しして姿を消してしまうかもしれない。紗綾樺さんは、占いの館の契約を解約するかもしれないと言っていたし、そうしたら、どうやって紗綾樺さんを見つけたらいいんだ?
 思考がネガティブに走り、どんどん悪い事ばかりが連鎖してくる。
 いっそ、もう一度、今日中に逢いに行って、宗嗣さんに自分は本気で紗綾樺さんと交際していると伝えたら・・・・・・、いや、そうしたら、宗嗣さんに僕が捜査協力を依頼したことも知られてしまう・・・・・・。
 不安と絶望にどっぷりと浸かっていた僕の耳に着信音が響いた。
 紗綾樺さん? いや、この音は署からだ・・・・・・。
「はい、宮部です」
 無視することもできず、僕は電話に応えた。
『及川だ』
「課長・・・・・・」
『さっき、県警から連絡があった』
 課長の言葉に、心臓が止まりそうになる。
『今日の午後、森沢夫人から崇君の捜索願に対する取り消しの申し出があったそうだ』
「取り消しですか?」
『お前の感が当たったんだよ』
 課長は言うと言葉を切った。
『病気の夫人に内緒で、旦那が崇君の養子縁組の話を進めていて、養父母候補が崇君をディズニーリゾートに連れて行って、崇君も養父母を気に入って、いまは養父母の所で何不自由ない暮らしをしているそうだ。お前からディズニーリゾートという言葉を聞いて、警察に子供を売買しようとしている事を気付かれたと思った旦那が夫人にゲロしたそうだ』
 課長の言葉は耳に届いているのに、僕には理解することができなかった。
『明日から、通常通りの業務に戻ってもらう』
 明日! 明日は、紗綾樺さんと話をしなくちゃいけない・・・・・・。
『宮部、聞いてるのか?』
「あ、はい。わかりました。明日から、勤務に戻ります」
 反射的に答えた自分に、僕は自分で嫌気がさした。
『まとまった休暇は、久しぶりだっただろう。お母さん、喜んだか?』
「あ、はい。家中の電球の交換をさせられました」
 答えながら、僕は自分を心の中で罵った。
『休んだ分、仕事が待ってるからな』
 理不尽だ。『勝手に休ませたくせに、なんで仕事を捌いておいてくれないんですか!』と、叫びたかったが、僕は言葉を飲み込んだ。
「かしこまりました」
 僕は自己嫌悪に苛まれながら、課長からの電話を切った。
 仕事に戻ったら、しばらく紗綾樺さんに会う事もできないし、もしかしたら、話もできないかもしれない。
 僕は手の中のスマホを見つめながら、解決方法を考えたが、電話をかける以外の方法を思いつかなかった。
 呼び出し音が数回鳴り、電話がつながった。
「紗綾樺さん、宮部です」
 名乗ってみるが、返事はなかった。
「紗綾樺さん、宮部です」
 もう一度、名乗ってみる。電話の向こうから、かすかな衣擦れのような音が聞こえ、囁くように紗綾樺さんが『わかってます』と答えてくれた。
「紗綾樺さんの言った通り、事件はなくなりました。これで、僕の依頼した、事件への協力は確かに終わりかもしれません。でも、僕が申し込んだ、結婚を前提としたお付き合いは無効じゃありません」
 我ながら、バカバカしい説得だが、これ以外に思い浮かばない以上、仕方がない。
『兄が熱を出して寝ているので、お電話ではお話しできません』
 紗綾樺さんの言葉に、昼間に仕事から帰ってきた宗嗣さんの姿が思い出された。
「明日から、仕事に戻るので、明日はお目にかかれないですが、もう一度、僕と会って戴けますか?」
 僕の知ってる紗綾樺さんは、絶対に約束を破らない。だから、会ってくれる約束を取り付けておけば、必ず逢ってもらえるはずだ。
『わかりました』
「じゃあ、改めてご連絡します」
『はい』
「ここから先は、返事はいりません。ただ、聞いていてください」
 僕は言うと深呼吸した。
「紗綾樺さん、僕が今まで紗綾樺さんに伝えた想いに偽りはありません。僕の想いと、依頼は全く関係ない別物です。確かに、目撃者に話を聞くために、形上の婚約をしたのは事実です。宗嗣さんに、依頼の事が知られないように交際している事にしたのも事実です。でも、もし本当に交際したいと思っていなかったら、僕は紗綾樺さんの提案に賛成したりしませんでした。ただの友達という事にしてもらったと思います。でも、紗綾樺さんとお付き合いしたいという気持ちがあったから、紗綾樺さんの提案に従ったんです。もし、僕が紗綾樺さんを好きじゃなかったら、嘘でも宗嗣さんの前で交際の許可を求めたりできませんでした。だから、依頼の完了と一緒に僕を紗綾樺さんから遠ざけないでください。仕事が溜まっているので、すぐには連絡できないかもしれません。でも、紗綾樺さんと話をできない日、僕はとても寂しく過ごしています。紗綾樺さんと会えない日、僕は孤独に過ごしています。だから、僕の事を嫌いにならないでください。僕にとって、紗綾樺さんが生きる意味ですから」
 言い終わってから、僕は課長の電話の時とは違う自己嫌悪に陥った。
 相手の目を見て伝えるべきことを電話で押し付けるなんて、男らしくないにも程がある。呆れられて、嫌われても仕方ないくらい、バカな事をしてしまったかもしれない。
 返事はいらないと言った手前、紗綾樺さんからの何の返事もない事に文句を言うわけにもいかないし、どう感じたかを聞くわけにもいかない。
「必ず連絡します」
『わかりました』
「失礼します」
 かすかな紗綾樺さんの声が別れの挨拶を告げ、電話が切れる。
 紗綾樺さんへの想いが溢れだし、切ったばかりの電話をもう一度かけて紗綾樺さんの声が聞きたくなる。
 逢いたくて、抱きしめたくて、今まで、一度も成功していないけれど、あの唇に自分の唇を重ねたい。そして、深く紗綾樺さんとつながりたい。
 心と心が交わり、結ばれ、深い絆となるように、永遠に離れることのない比翼連理の鳥のように一つになりたい。
 紗綾樺さんの為になら、どんなことも乗り越えられる。不思議な力も、失った記憶も、失くした過去も。紗綾樺さんを害するすべての物から、僕が盾になって紗綾樺さんを守って見せる。
 僕は立ち上がると、部屋を出て階段を駆け下りた。
「母さん!」
 僕は台所で夕飯の支度をしている母に声をかけた。
「明日も休みの予定だったけど、招集がかかったから、明日から仕事に戻るから。それから、この間話した、片思いの相手だけど、いつか母さんに紹介できるように頑張るから」
 僕の言葉に、母は振り向いて頷いた。
 この時の僕に母が何を見たのか、僕には分からないけれど、母はとても満足そうで、嬉しそうな表情を浮かべていた。

☆☆☆

 仕事に戻った尚生は、予想していたよりも大量の業務と事件に振り回されたが、毎日のように紗綾樺にメールで連絡を入れるようにしていた。
 最初のうち、返事が来ないことに尚生は落胆していたが、一週間を過ぎたころから短い返事が紗綾樺から届くようになった。
 職務上、仕事の内容を説明できないこともあり、尚生から送るメール自体『今日も仕事で遅くなり、逢いにいかれそうもありません』というような定型文なのだから、紗綾樺から帰ってくるメールが『お仕事頑張ってください』という定型文であることに文句を言える筋合いではない。
 だいたい、一方的に告白を押し付け、会う約束を取り付けておきながら、一週間経っても仕事が落ち着かず、虐めのように他県との合同捜査に送り出され、週末も昼も夜もない勤務のせいで、やっとの休日も体力の限界で布団に倒れこんで起きたら休みが終わっていたという、笑えない生活を送った後、ようやく尚生が紗綾樺と会う休みを取れたのは、事件が解決して一ヶ月経った土曜日の事だった。
 さんざん、事後報告を連発した尚生だったが、今回は念には念を入れて、宗嗣にデートの事前申請、許可をとりつけての久々のデートだった。
 ただ、これはあくまでも尚生の感覚であり、紗綾樺にとってこれが久々のデートになるのかどうか、尚生は不安でたまらなかった。
 メールのやり取り、短い電話での会話で、一度でも紗綾樺から逢いたいという言葉も、寂しいという言葉も聞いたことはなく、常に『逢いたい』と『寂しい』を連呼するのは尚生の方だった。

 約束の時間に紗綾樺を迎えに行くと、紗綾樺は既に階段の下に降りて尚生の事を待っていてくれた。
 短い秋が駆け足で通り過ぎ、冬の気配で街が満たされていた。
「風邪をひいたらどうするんですか!」
 驚いた尚生が言うと、紗綾樺は鉛色の空から視線を尚生の方に下ろした。
「この辺は、雪が降らないんですよね」
 一向に車に乗ろうとしない紗綾樺に、尚生は車から降りて助手席のドアーを開けた。
「どうぞ」
 尚生に促され、紗綾樺は助手席に乗り込んだ。
「今日は、ドライブして、映画を見て、食事をする予定です」
 事前に宗嗣に申請した通りのデート予定を説明すると、紗綾樺はくすぐったそうに微笑んだ。
「お兄ちゃんから、そう聞いてます」
「そういえば、紗綾樺さん、占いの館、続けてるって宗嗣さんに聞きました」
 車を走らせながら、尚生は紗綾樺が自分では教えてくれない近況を宗嗣から聞いていたので、その事を話題にした。
「てっきり、占いの館は閉めてしまうのかと思っていました」
 実際、宮部が捜査協力の依頼をしてから、紗綾樺は数週間にわたり仕事を休んでいたので、仕事にもどるとは宗嗣も思っていなかったようだった。
「毎日じゃないんです。沢山の人に会うのは疲れるので、何日かだけ、鑑る人も並んだ順じゃなくて、私が選んでみるようにしたんです」
「それって、つまり・・・・・・」
「本当に助けが必要な人だけってことです。ただ、誰かに話を聞いてもらいたい人は、他の占いの人に割引で占いしてもらえるようにしたので、他の占い師さんにも好評なんです」
「考えたのは、宗嗣さんですね?」
「はい」
 そこで会話が途絶え、尚生は窓の外を見つめる紗綾樺を気遣いながら車を進めた。
「どこか、行きたいところがありますか?」
 尚生の問いに、紗綾樺が振り向いた。
「海が見たいです」
 紗綾樺の言葉に、尚生はドキリとした。
 海は紗綾樺にとって、恐怖の対象でしかないと思っていたし、宗嗣に言われている過去の記憶にも結び付きそうな危険な場所に当たる。
「ずっと続く海が見たいです」
 紗綾樺の言葉に、尚生は仕方なく行き先を鎌倉に変更した。
 週末ではなく平日なので、激しい渋滞はないだろうと祈りながら、首都高を乗り継ぎ横浜横須賀道路を朝比奈で降り、鎌倉の山を越えて由比ヶ浜を目指した。
 もともと、ランチはドライブしながら行き当たりばったりの予定だったので、由比ヶ浜近くのハワイアンのバーガーチェーン店で分厚いパテとアボガドにチーズの入ったバーガーを二人で頬張り、タピオカ入りの甘さ控えめのアイスティーを飲んだ。
 食後、どうしても海に行きたいという紗綾樺の願いを断り切れず、尚生は由比ヶ浜地下駐車場に車を停め、二人で海岸を散策した。
「かわいそう・・・・・・」
 砂を踏みしめ、歩いていた紗綾樺が呟いた。
「ここの砂浜は、夏の疲れが癒えていなくて、疲れたままなんだわ」
 紗綾樺は言うと、遠く広がる水平線を見つめた。
 寄せては引く、規則的な波の音、砂の上に水の通った後が濃いグレーで曲線が描かれては薄まり、新たに描かれていく。
「怖くないですか?」
 紗綾樺の体が震えているようで、尚生は心配になって距離を縮めた。
 一ヶ月ぶりの再会と、前回の別れ際の会話のせいで、紗綾樺を抱きしめられるほどの距離まで尚生が近づくのは今日初めての事だった。
 手を伸ばして抱きしめようとした瞬間に紗綾樺に逃げられるのではないかという不安が尚生の心を重くする。
「やっぱり、海は風がつよいですね。少し寒いです」
 紗綾樺の言葉に、尚生は紗綾樺の後ろに立つと、自分の着ているトレンチコートの中に紗綾樺をすっぽりと包み込んだ。
 コートで風が遮られ、尚生のぬくもりが紗綾樺の体を包む。
「尚生さんって、呼んでも良いですか?」
「もちろんです。ここで、宮部さんって呼ばれたら、がっくり膝をついちゃいますよ」
 尚生は冗談めかして答えた。
「尚生さんのいない生活は、つまらなかったです」
 紗綾樺らしい表現に、尚生は声もなく笑った。
 きっと、普通の女の子ならば、『寂しい』とか『逢いたかった』という表現をする感情が紗綾樺の中に芽生えているのだろうが、まだ今の紗綾樺に表現できるのは、本来居るはずの尚生がいないことによって、自分の生活のメリハリがなくなったという、直接的な表現が『つまらない』なのだと、尚生には理解することができた。
「僕は、紗綾樺さんの声が聴けなくて寂しくて、逢いたくて逢いたくて、逢えなくて悲しかったですよ」
 尚生は、何度も文字にした言葉を伝えた。
「私、これからも尚生さんの傍に居ても良いんですか?」
「僕は、紗綾樺さんに傍に居てもらいたいんです」
 尚生の言葉に、紗綾樺は答えなかった。
「紗綾樺さん、心から愛しています」
 尚生の言葉を聞いた紗綾樺がゆっくりと尚生の方を振り向いた。
 ほんの少し腕に力を入れるだけで、尚生には紗綾樺を抱きしめることができる。
 紗綾樺の大きな瞳が尚生の瞳を見つめ、尚生は腕に力を込めて紗綾樺を抱きしめた。
 待ちわびたこの瞬間に、尚生には紗綾樺の唇を塞ぐ決心はできている。あと一押し、紗綾樺が尚生への気持ちを告白してさえくれれば。二人がどんな形で会っても、相思相愛であることが確かめられれば、尚生の独りよがりではないという確信かが持てたなら、それはとても自然な行為になる。
 情熱の籠った紗綾樺の視線を受け、尚生の男の本能が紗綾樺と次のステップに進むことを切望している。だが、紗綾樺からの承諾を意味する言葉がない限り、それは単なる暴力に終わってしまう事を尚生は良く知っている。
「尚生さん」
 紗綾樺に名前を呼ばれ、尚生はゴクリ息を飲みこむ。
「私、分かったんです。私にとって、尚生さんは特別な存在だって」
 紗綾樺は言いながら、コートの下で尚生の体に自分の腕を回した。
 『紗綾樺さんは、僕にとって、もうずっと特別な存在です』と、ダメ押しで想いを伝えるべきか悩んだが、尚生は敢えて黙って紗綾樺の言葉を待つことにした。
「尚生さんが好きです。だから・・・・・・。だから、これからも私のお友達でいてください」
 ドラム缶で殴られたような衝撃が尚生の頭を襲い、尚生は一瞬、眩暈に襲われた。
「お兄ちゃんに言われたんです。自分の気持ちは、ちゃんと尚生さんに伝えないといけないって。私、尚生さんが好きです。だから、これからも、ずっとずっとお友達でいてください」
 まっすぐな紗綾樺の瞳に嘘はなかった。今の紗綾樺には、宗嗣が言っていたように、『恋』や『愛』という感情の区別はなく、『好き』であることが全てなのだと尚生は理解した。そして、それが『好き』である限り、成熟した大人の女性の体の中に入っている紗綾樺の心は、たぶん記憶を失くした当時の高校生か、それよりも幼いままなのだと。
 いつか、紗綾樺が『愛』を理解できる時まで待とうと、尚生はぎゅっと紗綾樺を抱きしめながら決心した。
「僕は、ずっと紗綾樺さんの友達です。だから、ずっと僕の傍に居てください。紗綾樺さんが傍に居てくれれば、僕はそれで幸せですから」
 尚生の言葉に、紗綾樺は『はい』と短く答えた。

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