楽しい時間を過ごしたディズニーシーを後にし、尚生さんと私はモノレールで崇君たちが宿泊していたと思われるホテルへと向かった。
もちろん、尚生さんにそのことは伝えていない。でも、ホテルに協力を求めるには、尚生さんに本当の事を話さなくてはならない。でも、話したくない。今日の楽しかった時間を嘘にしたくないから・・・・・・。
私が葛藤している間に、私たちはホテルの正面までやってきていた。
疲れ切った家族連れがホテルの暖かく眩い光を目にした途端、再び夢の国に戻ったように明るい表情を浮かべ、少し軽くなった足取りで光の中に吸い込まれていった。
「あの、ここへは何をしに・・・・・・」
尚生さんは迷っている。もしかして、これは崇君に関係がある事なのかと、問いかけたいのを必死に飲み込んでいる。それは、私と同じ気持ちだからだ。もし今日一日が崇君を探すためだとしたら、私たちの楽しかった時間が全て嘘になってしまうから。
「一度、来てみたかったんです」
私は笑顔で言うと、意を決して一歩を踏み出した。
もう、ここまで来たら後戻りはできない。たぶん、崇君の居場所を見つけられるとしたら、これが最後のチャンスだ。
まるで光が溢れるようなエントランスをくぐり、私はまっすぐにフロントへ向かった。
フロントには、家族連れの列ができており、私はしかたなくキャッシャーのカウンターにいる男性スタッフに歩み寄った。
「すいません」
私が声をかけると、『斎藤』という名札を付けた男性スタッフが笑顔で応えてくれた。
「じつは、叔母夫婦に連れ去られたと思われる弟を探しているんです」
私の言葉に、斎藤というスタッフは笑顔を引き攣らせた。
たぶん、こんな夢の国にふさわしくない問い合わせを受けるとは、想定していなかったのだろう。
「お客様、大変申し訳ないのですが・・・・・・」
斎藤と言う名のスタッフが型通りの返答をしている間に、私は全身の力を集中していく。それと同時に、激しい眩暈に襲われ、私は演技ではなく本当にガクリとその場に膝をついた。
「お客様?」
驚いてカウンターの向こうから出て来たスタッフの腕に掴まる。それと同時に力を開放する。
私を抱きとめたスタッフの体がビクリと不自然に震え固まった。
精神を集中して崇君のイメージを、一緒に居たと思われる夫婦のイメージを彼の頭の中に注ぎ込む。そして私は命じる。
『この子の事を私に教えなさい』
これは一種の賭けだ。このスタッフが当日勤務していなければ、勤務していたとしても、崇君の姿を見かけていなかったら、全ては無駄という事になる。
そこへ驚いて駆け寄ってきた尚生さんが私をスタッフの手からもぎ取る。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
機械仕掛けのような動きをする男性スタッフは私たちから離れると、再びカウンターの向こうに戻っていき、一心不乱にキーボードを叩いている。
「何があったんですか?」
尚生さんは今にも私を抱きしめそうな勢いで私の事を見下ろしている。
「ちょっと、宿泊の価格とか、訊いてみたくて、そうしたら急に眩暈がして」
「そんなの、インターネットですぐわかるんですよ」
安心したような、少し不安げな尚生さんの言葉に、私は世の中にはインターネットというものが普及していることを思い出した。スマホですら公衆電話の代わりとしてしか使用していない私には、インターネットなんて、違う次元の代物のように感じられる。
「そうなんですか?」
インターネットって、どんなものなんだろう。昔の私は、知ってたのかな?
やっとの事で尚生さんに支えてもらって立ち上がると、さっきの男性スタッフが一枚の紙を無言で手渡してくれた。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
私が言うと、私の念に縛られて動いていた男性スタッフが、驚いたように辺りをくるくると見まわした。
これで良い。書いてある内容が多々しいかどうかは別にして、私ができるのは、これが全てだから。
「じゃあ、かえりましょうか」
笑顔で私が言うと、尚生さんは心配げな表情まま私の手を引いて歩き出した。
「ありがとうございました」
狐につままれたような顔をしたまま、斎藤さんは頭を下げてくれた。
私は渡された紙をしっかりと手に握り、尚生さんと共にモノレールの駅を目指して歩き始めた。
モノレールの切符を尚生さんが買いに行っている隙に私はメモを広げた。
メモには、中澤正信、恵子、崇という三人の名前と住所に電話番号が書かれていた。
間違いない。この夫婦が崇君を保護しているんだ。私は確認すると、メモをバッグの中にしまった。
「お待たせしました」
尚生さんの声は、いつも清々しく感じる。きっと、この人の心の中には私が恐れる闇が存在しないからだ。
「ありがとうございます」
私はお礼を言うと、尚生さんについてモノレールの改札口を通った。
今の私と尚生さんはデート中だ。恋人ではないけど、友達でもデートって言っていいのかな? それとも、デートなんて言うと、お友達だと迷惑なのかな?
考えても私にはよくわからない。でも、お兄ちゃんには付き合ってますって言ってしまってるから、今更、そんなことは質問できない。でも、尚生さんに訊いたら、きっとまた、来る時の電車の中みたいにまずい雰囲気になる気がする。
帰りの電車は、夢の国から一転して、通勤ラッシュの地獄だった。たぶん、いつもよりは空いているのだろうけれど、日頃電車に乗りつけていない私には、他人と体のどこかが常に触れ合っている状況はかなり苦しい。
正面の席で隣りあって座るカップルの睦まじい様子を見ていると、なんだか不思議な感じがした。
電車は夢の国を離れ、どんどん猛スピードで現実の世界に戻っていくのに、可愛い耳のついたカチューシャをつけ、お洒落なコスチュームを抱いた女性の隣と私の知らないキャラクターの絵が一面に書かれたブルーのポップコーン入れを大切そうに抱きかかえる男性の二人の周りだけ、夢の国の魔法が解けずに残っているようだった。
羨ましい・・・・・・。
突然沸き起こった感情に、私は戸惑った。そして、もやもやとした霧のかなたから誰かの声が聞こえた。
『・・・・・・ディズニーランドらしいって。どうせ皆カップルで回るだろうし、そうしたら俺らも一緒に回ろうな!』
次の瞬間、激しい眩暈に襲われた。
よろけて立っていられそうもなくなった私を尚生さんが抱き留めてくれる。
次の瞬間、『どうぞ』という男性の声がした。
「ありがとうございます」
尚生さんの声が耳元で聞こえ、私は椅子に座らせてもらった。
「すいません」
なんとかお礼を言ってみるが、激し似眩暈に目を開けることもできず、私は頭を抱えて体を二つ折りにした。
(・・・・・・・・さっすが潤君、紳士~。明日、大学でみんなに自慢しちゃおう・・・・・・・・)
隣に座っている女性は、自分の恋人が見ず知らずの私に席を譲ったことに怒ってはいないようだった。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
今日何度目だろう、尚生さんのこんな心配そうな声を聴くのは。きっと、この先も私と一緒に居る限り、尚生さんは私のせいで心配し続けるんだ。
そう思うと、私はとても申し訳ない気がした。
「顔、やっぱり蒼いですよ」
尚生さんは私の顔を覗き込むようにして言うと、腕時計に目を走らせた。
「やっぱり、遅くまで居すぎましたね」
尚生さんが自分の事を責めているのを感じ、私は頭を大きく横に振るが、再び眩暈に顔をしかめてしまう。
「終点で乗り換えますから、それまで休んでいてください」
尚生さんの言葉に頷くと、私は目を閉じた。
今までより大きく電車が揺れ、一斉に電車から人々が下りていく気配に私は目を開けた。
誰もがみんな、乗り換えの事ばかりを考えている。計画通り乗り換えられるか、待ち時間は長くないか、乗り換え時間は十分か。その中で、ここで離れ離れになるらしいカップルの離れがたそうな寂しさ、私はゆっくりと目を開けると尚生さんの事を見上げた。
「乗り換えましょう」
「はい」
私は返事をして立ち上がる。眩暈もおさまったようだ。それでも、尚生さんは心配げに私の手を引いて歩いてくれる。
気が遠くなりそうな程大きな駅の構内を尚生さんに導かれるまま歩いていくと、突然、『宮部じゃないか』と言う声が聞こえた。
「えっ、あっ、その・・・・・・」
振り向いた尚生さんの動揺を感じ取り、私は慌てて握られていた手を引っ込める。
「お前、なんだデートか?」
ごちゃっとした思考が流れ込み、その中に崇君の姿を見つけた私は、この人が崇君の捜査に関わっているのだと察した。でも、そうだとしたら、出来たら顔は見られたくない。
慌てて尚生さんの背中に隠れるも、相手はわざわざ私の顔を覗き込んできた。
「へえ、奥手なお前にしては良くやったな。てっきり、悪女に手玉にとられて泣きを見るんじゃないかって、皆で噂してたのに、素敵な人じゃないか。まあ、人は見かけによらないけどな」
褒めちぎって落とす言い方に、尚生さんがすぐに反論した。
「それ、強行犯係の悪い癖ですよ。どんなに善人に見えても裏があるって考えるのわ。紗綾樺さんは、正真正銘、素敵な女性ですから、ご心配なく」
言い切る尚生さんに、相手の男性はクスクスと笑い声をあげた。
「ほんとにお前、真面目だな。相手の目を見れば、善人かどうか、何かを秘めていないかどうかなんて、デカにはわかるんだよ」
「先輩!」
「その点、このお嬢さんは、正真正銘の善人だよ。俺が独身だったら、お前から奪って見せるんだがな、パパなんて呼ばれてると男としての本能も鈍るよ。じゃあな、お疲れ」
「お疲れ様です」
そう言う尚生さんは、しっかりと背筋を伸ばし、今にも敬礼しそうな礼儀正しい雰囲気だった。それと同時に、去っていく男の人が心の中で尚生さんの恋が成就する事を祈っているのは対照的だった。
(・・・・・・・・まいったな、これで一気に噂が広がっちゃうな・・・・・・・・)
困ったような尚生さんに、私はすごく申し訳ない気がした。
「すいません。お知り合いの方に誤解されてしまって・・・・・・」
「あ、いや、違うんです。噂が広がるのは良いんですけど、これで紗綾樺さんにフラれたら、先輩たち、きっと僕の失恋のためにお通夜とかやりそうな勢いなんで、フラれないと良いなって・・・・・・。そっちの方が大事なんです」
尚生さんの心の中では、白と黒の葬儀の垂れ幕や、棺の上に遺影ならぬ『宮部君の恋』と書かれた紙が額にはめられ、載せられているイメージが鮮明に流れていた。それがあまりにも滑稽で、私は声を出して笑ってしまった。
「あ、紗綾樺さん、見ましたね」
責めているわけではないけれど、ちょっと恥ずかしがっている尚生さんのはにかんだような笑みが可愛くさえ見えた。
それから私と尚生さんは、切れ目の見えない人の流れを何回も横切りながら、私の家の最寄り駅へと向かう電車に乗り換えた。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、尚生さんは私をかばう盾になってくれ、私は尚生さんの腕に守られて最寄り駅で降りた。
そうだ、尚生さんの家はこっちじゃないんじゃ・・・・・・。
当然のように一緒に電車を降りてくれた尚生さんを振り向きながら私が考えていると、尚生さんはにっこりとほほ笑んで見せた。
「当然、家まで送って行きますよ。そうじゃないと、宗嗣さんにデート禁止って言われちゃいますからね。今日は、事前予約なしで紗綾樺さんを借り出して、こんなに遅くなってしまいましたから」
「私、いつも帰りは遅いですから、早いくらいですよ」
私は言ってみたものの、通勤ラッシュの電車にすら乗ったことのない私が一人で駅まで帰ってこれたとは思えない。
「あの、尚生さんは、メールの方が良いんですよね?」
私の問いに、尚生さんは一瞬首を傾げたが、すぐにこの間のメールの一件の事を言っているのだと気付いてくれた。
「あ、まあ、そうですね。電話だと話せないことも多いですし、メールができたら、もっと色々と紗綾樺さんと連絡が取れて嬉しいなって思いますけど、無理強いする気はないですよ」
優しい尚生さんらしい答えだった。
「あの、メールと地図の使い方を教えてください」
「地図ですか?」
再び、尚生さんが首を傾げた。
「あの、スマホだと行きたい場所への行き方とか、調べられるって・・・・・・」
「ああ、ナビ機能ですね。簡単ですよ。でも、立って話すのもなんですから、どこかお茶の飲める場所に行きましょうか。確か、近くにファミレスがありましたよね?」
きっと、私とお兄ちゃんのよく行くファミレスの事だ。
「はい」
私の答えを聞くと、尚生さんは再び私の手を取った。
「家に送り届けるまでがデートですからね」
駅を出て、シャッターのしまった商店街を抜ける。
お兄ちゃんの話では、駅から少し離れているから、二間のアパートが激安で借りられたのだというだけあって、駅からアパートまでの距離はかなりある。
いつもお兄ちゃんは疲れて帰ってくるのに、この長い距離、買い物袋をぶら下げて帰ってくるんだ。もっと、駅の傍に引っ越したら楽なのに。
考えて見るものの、きっとお兄ちゃんの事だから、お金がもったいないとか、身の丈に合っていないとか言って、却下するんだろうなという事は言う前から想像がつく。
ファミレスで席に案内されると、尚生さんはドリンクバー、私は疲れがとれそうなミントのハーブティーを注文した。
ドリンクバーから飲物を取ってきた尚生さんは、さっそく私にメールの使い方、日本語変換の使い方を教えてくれた。そして、私がたどたどしい手つきでやっとメールを打てるようになると、尚生さんは『これでいつでもメールできますね』と言って喜んでくれた。それから、メールの文章入力で覚えた日本語入力を利用して地図のナビゲーション機能というものの使い方を教えてくれた。
使い方はいたって簡単で、一番上の入力欄に具体的な場所の名前や住所を入れると地図上にマークが現れ、それを触って開く別のメニューの中からナビゲーションを選ぶという事だっただが、いつも電話機能しか使っていなかった私にはそれでもハードルが高かった。
何度か自宅の住所や仕事場の住所などを入れる練習をした後、私は今日行ったディズニーシーと入力してみた。すると、住所など入れなくても海沿いの広大な敷地の真ん中あたりに印が現れた。覚えた内容を思い出しながら画面をタッチし、メニューからナビゲーションを選んで実行すると、途方もない時間が表示された。
「尚生さん、これ、おかしいです」
私が言うと、尚生さんが画面を覗き込んだ。
「あー、これ徒歩に設定されてますね。確かに、徒歩だと何時間もかかる距離ですね。この電車かな、バスかな? このマークをタッチすると、公共交通機関を利用した時の時間が表示されますよ」
そう言って尚生さんがタッチしても、同じような時間が表示されていた。
「あれ、そうか、これ時間に対応しているから、今からだと始発の電車待ちの時間も入っちゃうんですね。たぶん、ここをタッチして時間や日にちを変更すると、あ、ほら、明日の朝七時に出発にすると、正しい時間が表示されますよ」
目の前でサクサク操作をする尚生さんの手が魔法を使っているように見えた。
「へえ~、明日も朝七時集合でディズニーデートですか?」
突然声をかけられ、尚生さんがギョッとして頭を上げ、私も頭を上げるとお兄ちゃんが立っていた。
「まったく、ちっとも帰ってこないと思ったら、こんな近くでお茶するくらいなら、うちでお茶すればいいだろうに。まあ、うちだと、小言言う邪魔な兄貴がもれなくついてきますけどね」
お兄ちゃんは言うと、私の隣に腰を下ろした。
☆☆☆
もちろん、尚生さんにそのことは伝えていない。でも、ホテルに協力を求めるには、尚生さんに本当の事を話さなくてはならない。でも、話したくない。今日の楽しかった時間を嘘にしたくないから・・・・・・。
私が葛藤している間に、私たちはホテルの正面までやってきていた。
疲れ切った家族連れがホテルの暖かく眩い光を目にした途端、再び夢の国に戻ったように明るい表情を浮かべ、少し軽くなった足取りで光の中に吸い込まれていった。
「あの、ここへは何をしに・・・・・・」
尚生さんは迷っている。もしかして、これは崇君に関係がある事なのかと、問いかけたいのを必死に飲み込んでいる。それは、私と同じ気持ちだからだ。もし今日一日が崇君を探すためだとしたら、私たちの楽しかった時間が全て嘘になってしまうから。
「一度、来てみたかったんです」
私は笑顔で言うと、意を決して一歩を踏み出した。
もう、ここまで来たら後戻りはできない。たぶん、崇君の居場所を見つけられるとしたら、これが最後のチャンスだ。
まるで光が溢れるようなエントランスをくぐり、私はまっすぐにフロントへ向かった。
フロントには、家族連れの列ができており、私はしかたなくキャッシャーのカウンターにいる男性スタッフに歩み寄った。
「すいません」
私が声をかけると、『斎藤』という名札を付けた男性スタッフが笑顔で応えてくれた。
「じつは、叔母夫婦に連れ去られたと思われる弟を探しているんです」
私の言葉に、斎藤というスタッフは笑顔を引き攣らせた。
たぶん、こんな夢の国にふさわしくない問い合わせを受けるとは、想定していなかったのだろう。
「お客様、大変申し訳ないのですが・・・・・・」
斎藤と言う名のスタッフが型通りの返答をしている間に、私は全身の力を集中していく。それと同時に、激しい眩暈に襲われ、私は演技ではなく本当にガクリとその場に膝をついた。
「お客様?」
驚いてカウンターの向こうから出て来たスタッフの腕に掴まる。それと同時に力を開放する。
私を抱きとめたスタッフの体がビクリと不自然に震え固まった。
精神を集中して崇君のイメージを、一緒に居たと思われる夫婦のイメージを彼の頭の中に注ぎ込む。そして私は命じる。
『この子の事を私に教えなさい』
これは一種の賭けだ。このスタッフが当日勤務していなければ、勤務していたとしても、崇君の姿を見かけていなかったら、全ては無駄という事になる。
そこへ驚いて駆け寄ってきた尚生さんが私をスタッフの手からもぎ取る。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
機械仕掛けのような動きをする男性スタッフは私たちから離れると、再びカウンターの向こうに戻っていき、一心不乱にキーボードを叩いている。
「何があったんですか?」
尚生さんは今にも私を抱きしめそうな勢いで私の事を見下ろしている。
「ちょっと、宿泊の価格とか、訊いてみたくて、そうしたら急に眩暈がして」
「そんなの、インターネットですぐわかるんですよ」
安心したような、少し不安げな尚生さんの言葉に、私は世の中にはインターネットというものが普及していることを思い出した。スマホですら公衆電話の代わりとしてしか使用していない私には、インターネットなんて、違う次元の代物のように感じられる。
「そうなんですか?」
インターネットって、どんなものなんだろう。昔の私は、知ってたのかな?
やっとの事で尚生さんに支えてもらって立ち上がると、さっきの男性スタッフが一枚の紙を無言で手渡してくれた。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
私が言うと、私の念に縛られて動いていた男性スタッフが、驚いたように辺りをくるくると見まわした。
これで良い。書いてある内容が多々しいかどうかは別にして、私ができるのは、これが全てだから。
「じゃあ、かえりましょうか」
笑顔で私が言うと、尚生さんは心配げな表情まま私の手を引いて歩き出した。
「ありがとうございました」
狐につままれたような顔をしたまま、斎藤さんは頭を下げてくれた。
私は渡された紙をしっかりと手に握り、尚生さんと共にモノレールの駅を目指して歩き始めた。
モノレールの切符を尚生さんが買いに行っている隙に私はメモを広げた。
メモには、中澤正信、恵子、崇という三人の名前と住所に電話番号が書かれていた。
間違いない。この夫婦が崇君を保護しているんだ。私は確認すると、メモをバッグの中にしまった。
「お待たせしました」
尚生さんの声は、いつも清々しく感じる。きっと、この人の心の中には私が恐れる闇が存在しないからだ。
「ありがとうございます」
私はお礼を言うと、尚生さんについてモノレールの改札口を通った。
今の私と尚生さんはデート中だ。恋人ではないけど、友達でもデートって言っていいのかな? それとも、デートなんて言うと、お友達だと迷惑なのかな?
考えても私にはよくわからない。でも、お兄ちゃんには付き合ってますって言ってしまってるから、今更、そんなことは質問できない。でも、尚生さんに訊いたら、きっとまた、来る時の電車の中みたいにまずい雰囲気になる気がする。
帰りの電車は、夢の国から一転して、通勤ラッシュの地獄だった。たぶん、いつもよりは空いているのだろうけれど、日頃電車に乗りつけていない私には、他人と体のどこかが常に触れ合っている状況はかなり苦しい。
正面の席で隣りあって座るカップルの睦まじい様子を見ていると、なんだか不思議な感じがした。
電車は夢の国を離れ、どんどん猛スピードで現実の世界に戻っていくのに、可愛い耳のついたカチューシャをつけ、お洒落なコスチュームを抱いた女性の隣と私の知らないキャラクターの絵が一面に書かれたブルーのポップコーン入れを大切そうに抱きかかえる男性の二人の周りだけ、夢の国の魔法が解けずに残っているようだった。
羨ましい・・・・・・。
突然沸き起こった感情に、私は戸惑った。そして、もやもやとした霧のかなたから誰かの声が聞こえた。
『・・・・・・ディズニーランドらしいって。どうせ皆カップルで回るだろうし、そうしたら俺らも一緒に回ろうな!』
次の瞬間、激しい眩暈に襲われた。
よろけて立っていられそうもなくなった私を尚生さんが抱き留めてくれる。
次の瞬間、『どうぞ』という男性の声がした。
「ありがとうございます」
尚生さんの声が耳元で聞こえ、私は椅子に座らせてもらった。
「すいません」
なんとかお礼を言ってみるが、激し似眩暈に目を開けることもできず、私は頭を抱えて体を二つ折りにした。
(・・・・・・・・さっすが潤君、紳士~。明日、大学でみんなに自慢しちゃおう・・・・・・・・)
隣に座っている女性は、自分の恋人が見ず知らずの私に席を譲ったことに怒ってはいないようだった。
「紗綾樺さん、大丈夫ですか?」
今日何度目だろう、尚生さんのこんな心配そうな声を聴くのは。きっと、この先も私と一緒に居る限り、尚生さんは私のせいで心配し続けるんだ。
そう思うと、私はとても申し訳ない気がした。
「顔、やっぱり蒼いですよ」
尚生さんは私の顔を覗き込むようにして言うと、腕時計に目を走らせた。
「やっぱり、遅くまで居すぎましたね」
尚生さんが自分の事を責めているのを感じ、私は頭を大きく横に振るが、再び眩暈に顔をしかめてしまう。
「終点で乗り換えますから、それまで休んでいてください」
尚生さんの言葉に頷くと、私は目を閉じた。
今までより大きく電車が揺れ、一斉に電車から人々が下りていく気配に私は目を開けた。
誰もがみんな、乗り換えの事ばかりを考えている。計画通り乗り換えられるか、待ち時間は長くないか、乗り換え時間は十分か。その中で、ここで離れ離れになるらしいカップルの離れがたそうな寂しさ、私はゆっくりと目を開けると尚生さんの事を見上げた。
「乗り換えましょう」
「はい」
私は返事をして立ち上がる。眩暈もおさまったようだ。それでも、尚生さんは心配げに私の手を引いて歩いてくれる。
気が遠くなりそうな程大きな駅の構内を尚生さんに導かれるまま歩いていくと、突然、『宮部じゃないか』と言う声が聞こえた。
「えっ、あっ、その・・・・・・」
振り向いた尚生さんの動揺を感じ取り、私は慌てて握られていた手を引っ込める。
「お前、なんだデートか?」
ごちゃっとした思考が流れ込み、その中に崇君の姿を見つけた私は、この人が崇君の捜査に関わっているのだと察した。でも、そうだとしたら、出来たら顔は見られたくない。
慌てて尚生さんの背中に隠れるも、相手はわざわざ私の顔を覗き込んできた。
「へえ、奥手なお前にしては良くやったな。てっきり、悪女に手玉にとられて泣きを見るんじゃないかって、皆で噂してたのに、素敵な人じゃないか。まあ、人は見かけによらないけどな」
褒めちぎって落とす言い方に、尚生さんがすぐに反論した。
「それ、強行犯係の悪い癖ですよ。どんなに善人に見えても裏があるって考えるのわ。紗綾樺さんは、正真正銘、素敵な女性ですから、ご心配なく」
言い切る尚生さんに、相手の男性はクスクスと笑い声をあげた。
「ほんとにお前、真面目だな。相手の目を見れば、善人かどうか、何かを秘めていないかどうかなんて、デカにはわかるんだよ」
「先輩!」
「その点、このお嬢さんは、正真正銘の善人だよ。俺が独身だったら、お前から奪って見せるんだがな、パパなんて呼ばれてると男としての本能も鈍るよ。じゃあな、お疲れ」
「お疲れ様です」
そう言う尚生さんは、しっかりと背筋を伸ばし、今にも敬礼しそうな礼儀正しい雰囲気だった。それと同時に、去っていく男の人が心の中で尚生さんの恋が成就する事を祈っているのは対照的だった。
(・・・・・・・・まいったな、これで一気に噂が広がっちゃうな・・・・・・・・)
困ったような尚生さんに、私はすごく申し訳ない気がした。
「すいません。お知り合いの方に誤解されてしまって・・・・・・」
「あ、いや、違うんです。噂が広がるのは良いんですけど、これで紗綾樺さんにフラれたら、先輩たち、きっと僕の失恋のためにお通夜とかやりそうな勢いなんで、フラれないと良いなって・・・・・・。そっちの方が大事なんです」
尚生さんの心の中では、白と黒の葬儀の垂れ幕や、棺の上に遺影ならぬ『宮部君の恋』と書かれた紙が額にはめられ、載せられているイメージが鮮明に流れていた。それがあまりにも滑稽で、私は声を出して笑ってしまった。
「あ、紗綾樺さん、見ましたね」
責めているわけではないけれど、ちょっと恥ずかしがっている尚生さんのはにかんだような笑みが可愛くさえ見えた。
それから私と尚生さんは、切れ目の見えない人の流れを何回も横切りながら、私の家の最寄り駅へと向かう電車に乗り換えた。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、尚生さんは私をかばう盾になってくれ、私は尚生さんの腕に守られて最寄り駅で降りた。
そうだ、尚生さんの家はこっちじゃないんじゃ・・・・・・。
当然のように一緒に電車を降りてくれた尚生さんを振り向きながら私が考えていると、尚生さんはにっこりとほほ笑んで見せた。
「当然、家まで送って行きますよ。そうじゃないと、宗嗣さんにデート禁止って言われちゃいますからね。今日は、事前予約なしで紗綾樺さんを借り出して、こんなに遅くなってしまいましたから」
「私、いつも帰りは遅いですから、早いくらいですよ」
私は言ってみたものの、通勤ラッシュの電車にすら乗ったことのない私が一人で駅まで帰ってこれたとは思えない。
「あの、尚生さんは、メールの方が良いんですよね?」
私の問いに、尚生さんは一瞬首を傾げたが、すぐにこの間のメールの一件の事を言っているのだと気付いてくれた。
「あ、まあ、そうですね。電話だと話せないことも多いですし、メールができたら、もっと色々と紗綾樺さんと連絡が取れて嬉しいなって思いますけど、無理強いする気はないですよ」
優しい尚生さんらしい答えだった。
「あの、メールと地図の使い方を教えてください」
「地図ですか?」
再び、尚生さんが首を傾げた。
「あの、スマホだと行きたい場所への行き方とか、調べられるって・・・・・・」
「ああ、ナビ機能ですね。簡単ですよ。でも、立って話すのもなんですから、どこかお茶の飲める場所に行きましょうか。確か、近くにファミレスがありましたよね?」
きっと、私とお兄ちゃんのよく行くファミレスの事だ。
「はい」
私の答えを聞くと、尚生さんは再び私の手を取った。
「家に送り届けるまでがデートですからね」
駅を出て、シャッターのしまった商店街を抜ける。
お兄ちゃんの話では、駅から少し離れているから、二間のアパートが激安で借りられたのだというだけあって、駅からアパートまでの距離はかなりある。
いつもお兄ちゃんは疲れて帰ってくるのに、この長い距離、買い物袋をぶら下げて帰ってくるんだ。もっと、駅の傍に引っ越したら楽なのに。
考えて見るものの、きっとお兄ちゃんの事だから、お金がもったいないとか、身の丈に合っていないとか言って、却下するんだろうなという事は言う前から想像がつく。
ファミレスで席に案内されると、尚生さんはドリンクバー、私は疲れがとれそうなミントのハーブティーを注文した。
ドリンクバーから飲物を取ってきた尚生さんは、さっそく私にメールの使い方、日本語変換の使い方を教えてくれた。そして、私がたどたどしい手つきでやっとメールを打てるようになると、尚生さんは『これでいつでもメールできますね』と言って喜んでくれた。それから、メールの文章入力で覚えた日本語入力を利用して地図のナビゲーション機能というものの使い方を教えてくれた。
使い方はいたって簡単で、一番上の入力欄に具体的な場所の名前や住所を入れると地図上にマークが現れ、それを触って開く別のメニューの中からナビゲーションを選ぶという事だっただが、いつも電話機能しか使っていなかった私にはそれでもハードルが高かった。
何度か自宅の住所や仕事場の住所などを入れる練習をした後、私は今日行ったディズニーシーと入力してみた。すると、住所など入れなくても海沿いの広大な敷地の真ん中あたりに印が現れた。覚えた内容を思い出しながら画面をタッチし、メニューからナビゲーションを選んで実行すると、途方もない時間が表示された。
「尚生さん、これ、おかしいです」
私が言うと、尚生さんが画面を覗き込んだ。
「あー、これ徒歩に設定されてますね。確かに、徒歩だと何時間もかかる距離ですね。この電車かな、バスかな? このマークをタッチすると、公共交通機関を利用した時の時間が表示されますよ」
そう言って尚生さんがタッチしても、同じような時間が表示されていた。
「あれ、そうか、これ時間に対応しているから、今からだと始発の電車待ちの時間も入っちゃうんですね。たぶん、ここをタッチして時間や日にちを変更すると、あ、ほら、明日の朝七時に出発にすると、正しい時間が表示されますよ」
目の前でサクサク操作をする尚生さんの手が魔法を使っているように見えた。
「へえ~、明日も朝七時集合でディズニーデートですか?」
突然声をかけられ、尚生さんがギョッとして頭を上げ、私も頭を上げるとお兄ちゃんが立っていた。
「まったく、ちっとも帰ってこないと思ったら、こんな近くでお茶するくらいなら、うちでお茶すればいいだろうに。まあ、うちだと、小言言う邪魔な兄貴がもれなくついてきますけどね」
お兄ちゃんは言うと、私の隣に腰を下ろした。
☆☆☆