突然、立ち止まって向き直った尚生さんに、私はただ、『今は何も聞かないで、私を信じてください』とだけ答えた。
 あれほど心配をかけたのに、何の説明もしないまま。
 尚生さんは、既に私が崇君の捜索を続けているのではないかと疑っている。
 でも、私が崇君の捜索を始めたのは、尚生さんの本当の気持ちを聞く前の事だから、今更、取り消すことはできない。一度発した言霊は取り消すことができない。後は、ひたすら耐え続けるしかない。
 もし、もう一度さっきのように力を使う事が出来たら、ホテルで崇君を預かっている夫婦の住所も突き止めることができるかもしれない。私は、その奇蹟に賭けることに決めている。だから、きちんと尚生さんとのデートが終わってから、崇君たちが泊まったはずのホテルに連れて行ってもらう事にした。
 だから、この捜査のためにデートを切り上げるつもりはない。倒れてしまったせいで、尚生さんには心配をかけてしまったし。それに、あのゴンドラに乗ってみたいのも事実だ。
 私の言葉に、尚生さんは頷くと、再び歩き出したけれど、つないだ手は、さっきまでよりもきつく握られている。
 ゴンドラの順番を待つ間、繋がった尚生さんの手から流れてくる心配と私がまた倒れるのではないかと言う不安。だから私は尚生さんの不安を拭うように、笑みを浮かべて隣に立つ尚生さんの事を見上げた。
 何度目かに尚生さんを見上げた瞬間、私を心配げに見つめていた尚生さんと目が合った。
「具合、悪くないですか?」
「大丈夫です」
 笑顔で答え、私たちは再び順番を待って列に並んだ。


 櫂が水をかき、ゴンドラが滑るように進むと、滑らかな水に轍ができるように小さな波が立ち、やがてそれは放射線状に広がり運河の両脇に立ち並ぶ建物の壁に吸い込まれるようにして消えていった。
 まるで時間が、ここだけゆっくりと流れているように感じる位、その動きは滑らかでゆったりとしていた。そして、両側に続く街並みは日本から抜け出し、本物のベニスに来たように感じさせてくれる。
 私自身は行ったことないけれど、誰かの記憶の中では何度も訪れたことのある場所だ。
 確か運河の見えるレストランでワインを片手にピザを食べてたっけ。
 その時、私は初めて羨ましいと、その誰かの事を思った。好きな人と向かい合い、なだらかな風の吹く運河沿いのレストランで食事をする。二人の間に、楽しくて、ゆったりとした時間が流れていく。互いに相手を見つめあい、その思いを確かめ合うように微笑む。そんな平凡だけど、愛に満ちた時間。私には想像することしかできない時間。
 そこまで考えてから、私は思わず苦笑してしまった。
 自分で自分の事がわからない私が、誰かを好きになるなんて。自分の事がわからない私の事を好きになってくれる人なんて・・・・・・。
 そこまで考えて、私は隣に座る尚生さんの事を見上げた。
 もしかしたら、尚生さんなら・・・・・・。
 そこまで考えて、私は慌てて視線を逸らした。
 尚生さんは大切なお友達。今の私にとっては、ただ一人のお友達。恋人なんて、不確かな存在にしたくない。ずっと一緒に居たいから・・・・・・。
 ロマンチックな時間は、あっという間に過ぎ、ゴンドラは船着き場についてしまった。
「いつか、本物のゴンドラに乗ってみたいですね」
 まるで私の心を読んだかのような尚生さんの言葉に私はドキリとして、尚生さんの事を見上げた。
「あ、そうだ。そろそろ並ばないと、食事できないですけど、乗りたいものとか大丈夫ですか?」
 ゴンドラの話を忘れてしまったような尚生さんの問いかけに、私はコクリと頷いた。
 もともと、見たいものなんて、あるわけじゃない。
「じゃあ、次の列に並びましょうか」
 尚生さんは言うと再び私の手を取って歩き始めた。
 少し歩いたところにあるレストランの列に並ぶと、尚生さんは大きなため息をついた。
「本当に、歩きっぱなしっていうか、並びっぱなしですけど、つまらなくないですか?」
 尚生さんの問いかけに、私は少し答えに躊躇した。
 確かに、立ちっぱなしで並ぶのは、いつも座ってばかりの私には厳しいし。あちこち歩き回るのも、最近引き籠っている私には厳しい。それに、これだけ大勢の人がいれば、雑音のように聞こえてくる心の声も騒音の域に達している。でも、私は楽しいと感じていた。
「ちょっと、うるさいですけど、楽しいです」
 私が本当の気持ちを伝えると、尚生さんは嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「もし、歩くの辛くなったら言ってくださいね。自分がいつでも背中でも腕でも貸しますから」
 尚生さんの言葉は、冗談ではなく本気らしい。
「じゃあ、おんぶしてもらって、パパあっちに行きたいって言ってみようかな」
 茶化すように言うと、尚生さんは少し傷ついたという表情を浮かべた。
「ちょっと紗綾樺さん、いくら何でもパパはないじゃないですか、せめて、お兄ちゃんにしてください」
 私はなんだかすごく楽しくて、声を必死に噛み殺しながら笑い続けた。
「でも、良かった。紗綾樺さんがそんなに笑えるまで元気になって。さっきは、本当に心配したんですよ」
 真面目な顔に戻った尚生さんの言葉に、私は素直に『ごめんなさい』と謝った。
「昼も食べずに、ポップコーンとかばっかりで、おなかすいてますよね?」
 尚生さんは、至らない自分を心の中で責めながら言った。
「私は大丈夫ですよ」
 私は笑顔で返し、それから順番が来るまで他愛もない会話を続けた。

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