何度電話をかけなおしても、紗綾樺は電話に出なかった。
 最初は、お手洗いかな等と考えて時間をずらしてみたものの、何度かけなおしても紗綾樺の電話は鳴り続けるばかりで留守番電話にもつながらなかった。
 もしかして、すごく具合が悪くなってるのかもしれない。
 考えれば考えるほど不安になっては来るものの、これと言った解決方法も見つからない。しかも、僕は県警からお払い箱にされた上、課長からのお小言がもれなくついてくる身で、署に報告に帰らないまま直帰が許される身ではない。
 お兄さんに電話してみようか。
 何度となく宗嗣の番号を呼び出しては消し、紗綾樺に電話をかけるを繰り返していた。
 もし、何でもない事だったら、お兄さんに電話なんかしてややこしいことになったり、紗綾樺さんに迷惑がかかるようなことになったらまずいし。
 悩み続けた僕は決心すると、深呼吸した後、宗嗣でも紗綾樺でもなく、課長の携帯に電話をかけた。
『はい、及川です』
「課長、宮部です」
『宮部か、やらかしてくれたみたいだな、向こうさんはお怒りだったぞ』
 そういう課長の声は、思ったほど尖っていなかった。
「申し訳ありませんでした。課長にまで、ご迷惑をおかけして、本当にもうしわけありません」
『詳しい話は戻ってきたら聞く』
「それが、私事で申し訳ないのですが」
 そこまで言って宮部は言葉に詰まった。
 捜査のためにという理由で宗嗣の前では交際宣言をしたが、実際は告白すらしていなのに、勝手に恋人なんて言っても許させるのか? でも、友達じゃ課長を納得させられない。いや、恋人だって、怒鳴られて終わりかもしれない。いっそ、母親にするか、でも、そういう縁起の悪い嘘はいけないと、どうしたら良いんだ!
『バカ、この程度の事で辞めるなんて言うな』
 僕のだんまりを勝手に解釈してくれた課長の言葉に、僕は涙が出そうになった。
 そうだ、こういう手もあったのか! いや、別に辞めたいわけじゃないんだから、こんなこと言って、『わかった』なんて言われたら困る。
『今日はもう遅い、ゆっくり休んで、頭冷やして来い。詳しい話は明日聞く』
 一呼吸おいてから、課長は自分の返事を待たずに問いかけてきた。
『一つだけ確認しておく、監視対象を警戒させるような今日の行動は、どうしても必要だったんだな?』
「はい、その通りです」
 僕は胸を張って答えた。
『わかった。お疲れさん。ゆっくりやすめよ』
 課長は言うと、僕の返事を待たずに電話を切った。
 僕は紗綾樺さんの家への最短ルートを頭の中でシミュレーションすると、ちょうど入線してきた急行電車に飛び乗った。
 乗り換えのたびに電話をかけてはみるが、紗綾樺さんは電話に出る気配は全くなかった。
 嫌われた?
 身も凍るような恐怖が走る。
 今まで、どんな状況でどんな犯人に対峙しても感じなかった種類の恐怖だ。
 正直、自分自身で言うのもなんだが、外見内面共に普通一般的な女性には好かれるタイプで、初見で嫌悪を示されたり、嫌われたりすることのない安全パイなだ。そのせいで、お友達にはなれても、なかなかその先の恋人にまで進展できず、いつも立ち往生で涙する、基本的にいいお友達でいましょうな男だ。
 これままで、何度も恋をしたが、相手からは男として見られておらず、お友達で終わってきた。数少ない交際経験も、基本的には受け身で告白してくれた相手としか付き合ったことがない。そういう意味では、ここで紗綾樺さんに告白↓撃沈という結果を迎えても、やっぱりな、そうだよなと、ある意味では諦めることができる。いや、正直、今度の恋はあきらめたく無いが、相手の意志を尊重することも愛の形だ。
 ここまで来て、改めて『あんた、惚れっぽいのよねぇ』という母の言葉が脳裏に蘇る。
 そんなことどうだっていい、母親似だろうが、父親似だろうが、どっちにも似てなかろうが関係ない。僕は紗綾樺さんが好きなんだ。あの、最初に出会った日から、長い間、自分では気付いていなかったけど、あの紗綾樺さんと出会った晩から、他のどんな女性にも興味を持てなくなったのは、失恋の連敗記録を更新するのが怖かったからじゃない、あの日、僕は一目で紗綾樺さんに恋してしまっていたんだ。それも、あの最後尾の人に札を渡しに出て来てすれ違った瞬間に。あの白い肌と、対照的な漆黒のサラサラの髪。
 だから、紗綾樺さんに嫌われるのが怖い。
 何度考えても、嫌われる理由が思いつかない。しかも、電話を途中で切られて、そのあと電話に出てもらえないような、そんな嫌われ方をするほど失礼なことをしたことも、言ったこともない。なんで嫌われたんだ!
 電車の時間待ちのホームで僕は叫びそうになりながら、頭を抱えて蹲った。
 嫌われるようなことをしたなら、それは僕に非がある。でも、まだ告白だってしてないのに。なんでだぁ!
「あの、大丈夫ですか? 顔色が・・・・・・」
 おずおずと、控えめな声が耳に届き、僕はゆっくりと顔をあげた。
 心配そうな女性の顔が目に入る。
 昔の僕なら、この瞬間に恋に落ちていたかもしれない。でも、いまの僕は紗綾樺さん一筋だ。
「大丈夫です。急に腹痛がしたもので・・・・・・」
 我ながら間抜けな言い訳だ。頭を両手で押さえる腹痛がどこにある。
 少し不審そうにしながらも、親切な女性は言った。
「あの、駅員さんを呼びましょうか?」
「本当に大丈夫です。ありがとうございます」
 僕は立ち上がると、警戒されないように笑顔を見せた。しかし、相手の女性の顔には『デカイ』という驚きのような表情と、長身で見た目が並み以上の男に出会うと女性が一般的に見せる『ちょっといいかも』と言うような値踏みするような鋭い視線に射抜かれた。
 たぶんここで、警察官であることには言及せず、僕は公務員ですと告げたら、この親切な女性の目を緩いハート型に変えることができるかもしれない。基本的に、公務員は通年を通して最近では安定性が抜群なことから好印象を与える。だから、同期の多くもその手で交際を開始しているが、大抵の場合い、警察官だと分かった時点で別れがやってくる。公務員の中で、不渡り手形的に扱われているのは、警察官、自衛官、海保だが、海保だけは某映画がヒットしてから、カッコいい仕事という括りに入れてもらえるようになったが、基本的に警察官と自衛官だけは、まともに結婚して家庭を持ちたいと思っている男たちの就職先リストから抹消されるという悲しい現実に直面している。だから、後輩の勧誘と新卒確保のための行事に今でも駆り出されている。
 でも、そんなことはどうでもいいんだ。今は、紗綾樺さんの所に急がなくちゃいけないんだ。
 ちょうど待っていた電車が入線してきたので、僕は慌ててお礼をもう一度言った。
「ありがとうございました」
 相手の返事を待たず、僕は身を翻して電車に飛び乗った。
 まるで僕の行為を揶揄するように『駆け込み乗車はご遠慮ください』というアナウンスが耳に届いたが、僕は紗綾樺さんからの折り返しの電話がかかってくるのを祈りながらスマホをじっと見つめ続けた。
 しかし、紗綾樺さんからの電話はなかった。
 移動と電話をかけることを繰り返しているうちに、とうとう着いてしまった。目の前には、いつも宗嗣さんがけたたましい音を立てて駆け下りてくる階段が視界を斜めに横切っている。
 見上げても部屋に明かりがついているようには見えない。
 留守なのか? 宗嗣さんと外出してる?
 考えながら一歩ずつ前に進み、一段ずつ音を響かせないように階段を上った。
 つ、着いてしまった。本当に、着いてしまった。
 まるで、初めて訪れる恋する人の家の前のようにドキドキし始める心臓におとなしくなるように言いながら、僕は玄関のベルを鳴らした。
 それは、インターフォンなどという洒落たものではない。一方通行で、誰かが来たことを家人に知らせるだけのベルだ。
 部屋の中に人の気配を感じないまま、僕はもう一度、そしてもう一度ベルを鳴らした。

☆☆☆