車の停まる音に、俺は玄関の扉を開け放したまま階段を駆け降りた。
いつもさやに怒られることだが、夜中の住宅街に安いつっかけサンダルが金属を叩く音がこだまする。
もちろん、近所迷惑だと言うことは分かっているし、夜間の騒音はある種の犯罪になることも知っている。だが、今日だけはそんな事を気にしている場合じゃない。
警察官という公職についている公僕でありながら、一般市民に権力を振りかざして私利私欲を満たし、あまつさえ、か弱い女性にふしだらなことをする奴を捨て置くわけには行かない。
車から降り、今にもいつもの小言を言おうとするさやの無事を確認すると、俺は遅れて車から降りてきた奴を睨みつけた。
「ただいま」
俺を心配させない為なのか、さやは何もなかったように笑って見せた。この笑顔を踏みにじるような奴を俺は生かしておけない。
ぎゅっと拳を握り締めると奴を見据えた。
「車を寄せて停めて、エンジンを切ってください。ここは住宅街で、近所に迷惑ですから」
奴は俺の言葉に素直に従った。しかし、さやは何かを悟ったのか、不信感を露わにして俺のことを見つめた。
「立ち話も何ですから、あがってください」
俺の言葉にさやは驚いて俺の腕を掴んだ。
「お兄ちゃん」
「さや、先に部屋に戻ってなさい」
何時になく厳しい俺の声に、さやは何も言わず従った。
アパートの敷地内に車を停めた奴が降りてくると、俺は『どうぞ』と二階の部屋を指し示し奴を前に階段を上がった。
相手が警察官だろうが、さやを弄んだことを後悔させてやる!
俺は無意識に指の間接を鳴らして相手を威嚇した。
「失礼いたします」
後ろから来る俺に一礼すると奴は敷居をまたいだ。
「狭いところですいません」
さやは申し訳無さそうに言うと、部屋が狭すぎてどこが上座とハッキリ判断できないものの、一応上座と言える玄関から一番遠い部屋の奥側の席を奴に勧めた。しかし、奴は逃げやすいとも言える玄関に一番近い下座に腰を下ろした。
「お茶、これでいい?」
さやが心配げに訊くので、俺はさやを座らせて自分でお茶の用意をした。
貧相な部屋には似合わない電気ケトルでお湯を沸かし、急須の代わりのティーポットにお茶のパックを放り込み煮え立った熱湯を注いだ。さやが怖がるから、このアパートの部屋には火の出るものは置かれていない。
もともと客の来る予定などない部屋だから、奴を部屋にあげてみたものの、実際は座布団一つ用意がない。
食器棚代わりに使っているカラーボックスから二人分のマグカップを取り出し、流し台の下に押し込んであった携帯電話会社から貰った犬の写真がプリントされているマグカップを取り出し、手早く洗って使えるようにした。
お盆なんてしゃれたものもないし、使う必要もない距離なので、半身振り向きながら折り畳み式のちゃぶ台の上にマグカップを並べ、最後にティーポットを手にとった。一度おいてから注ぐのも面倒だったので、そのままちゃぶ台に向き直り並べたカップにお茶を注いだ。
湯気とともに、香ばしい煎り麦の香りが部屋に広がっていった。
「どうぞ」
一応、客ではあるので、奴に一番にお茶を勧めた。
俺が茶を勧めたタイミングで、さやは自分のカップを手元に引き寄せ、俺のカップが正面に残された。
「いただきます」
奴は礼儀正しくお礼を言ってからマグカップを手に取った。しかし、八分目まで注がれた熱湯同然の麦茶はそう簡単に口をつけられるような代物ではない。
それをよく知っているという事もあり、さやはいつものように『この香り好き』と言って、マグカップから漂う湯気と香りを楽しむだで口を付けようとはせず、俺と奴との間にある緊張感など全く感じていないように和んでいた。
俺は最初から半分以下しか注いでいない自分のマグカップを手に取ると、やけどに気を付けながら一口すすった。
さあ、開戦だ。
「昨夜も妹と一緒でしたよね?」
俺が問いかけると、奴は慌ててカップから手を離した。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
何を謝っているのか知らないが、奴は額がマグカップに当たりそうな勢いで頭を下げた。
「あなた、警察官でしたよね?」
俺の問いに、奴は懐から警察手帳を取り出して見せた。
「宮部尚生と申します。階級は巡査部長です」
見せられた警察手帳は、両親の事故や、あの災害の時に何度も見せられたものと同じで、偽警官ではなさそうだ。
「宮部さん、あなた、いったい何が目的で妹を連れまわしているんですか?」
語気を荒くしてて訪ねると、奴が後ろに下がった。『逃げるのか?』と、思わず腕をつかもうとした俺の前で、いきなり奴は床に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。紗綾樺さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて戴いております」
俺には奴の言っている言葉の意味が理解できなかった。それだけ『交際』という言葉も、『結婚』という言葉も、さやからは縁遠いものだったからだ。
本当なら、さやだって同級生達と変わらず、二十歳を過ぎたら何時でも結婚適齢期なんて言う、近所のジジババが自分達のことのように楽しげに話す噂話のネタにされてもおかしくない歳だ。
兄の贔屓目と言われてしまえばそれまでだが、実際、中学の頃から男子に告白されて困っていると相談されたこともある。
でも、今は違う。あの地震と津波がさやからすべてを奪い、さやを変えてしまった。
「は? あんた一体何を言ってるんだ?」
驚くというよりも、呆れる俺の腕をさやがつかんだ。
「本当なの」
感情のこもっていないさやの言葉からは、真偽を確かめることができない。
「そんなこと、いきなり言われて、はいそうですかって信じられるわけがないでしょう」
俺はさやの言葉を聞かなかったことにして、宮部に言い放った。
「確かに、お兄さんのお気持ちはわかります。この交際は、自分が紗綾樺さんに一目ぼれして、お付き合いして戴いているんです。でも、自分は結婚を前提とした、清く正しいお付き合いを続けていきたいと思っています」
奴の言葉に、怒りが燃え上がった。
二回目のデートでさやをホテルに連れ込んでおいて、何が『清く正しい』お付き合いだ。ふざけるな!
思った瞬間、左手がちゃぶ台を思いっきり叩いていた。
「最近の警察官は、平気で嘘をつくんですね。あなたが、今日、妹をどこへ連れて行ったかなんて、わかってるんですよ!」
普通に座っていてくれたら、胸倉をつかむくらいしてやりたかったのに、奴はまだ土下座したままだった。
「カラオケです」
「カラオケ」
奴と、さやが、ほぼ同時に答えた。
「さや、お前がカラオケに行かないことくらい、俺が一番よく知ってるんだ」
俺が言うと、さやは緊張感のない態度でお茶を一口飲んだ。
「結局、機械の使い方とか、いろいろ教えてもらったけど、歌を知らないから、お話だけして帰って来たの」
さやのことばに、奴が頭を上げた。
「ほんとうです。お話しかしていません」
いや、別にカラオケに行ったんなら、あんたは歌を歌ったってかまわないんだよ、そんなことをとがめる気はないんだから。でも、一番の問題は、二人して俺を騙そうとしているところなんだよ。
苛立ちを抑えるため、俺は香ばしい麦の香りを大きく吸い込んでお茶をすすった。
「どうしてそんなに怒っているの? 二人っきりでカラオケに行くのは悪い事なの?」
不思議そうにさやが尋ねた。
「カラオケなら別にいいんだよ。まあ、密室で二人っきりというのは問題がないとは言えないが、今の問題は、二人が口裏を合わせて嘘をついているってことなんだよ」
「嘘じゃありません。いまお見せします」
奴は言うと、自分のスマホを取り出し、地図を開いて場所を説明した。
確かに、俺がさやの居場所を調べた時に表示された場所のすぐ隣だった。
「店の裏側がちょっと風紀の悪い場所なんですが、店長が知り合いで予約が取りやすいので自分はよく利用するんです。あ、証拠のレシートがどこかに・・・・・・」
地図まで見せられて説明されると、これ以上追及するための根拠もないので、俺は仕方なく怒りの矛をおさめるしかなかった。
「本当に、お兄さんにご挨拶もしないまま交際を始めて申し訳ありません」
奴は床に頭をこすりつけそうなくらい平身低頭していた。
「頭をあげてください。状況は分かりました」
俺は言うと、さやの方に向き直った。
「さや、本当に、この人と付き合うつもりなのか?」
俺の問いに、さやはこくりと頷いた。
「さや、交際するっていう事がどういうことかわかっているのか? その、大人の男と女が交際するってことがどういう意味か・・・・・・」
俺の言葉が露骨だったのか、奴の顔が真っ赤になったが、さやは何のことかわらないと言った様子で、キョトンとして俺の事を見つめた。
「さや、他人と付き合うってことがどれだけ大変か、お前はよくわかってないんだ」
俺は言うと、さやの手を取った。
さやの手は冷たく冷え切っていた。あの日以来、さやの手はいつも冷たい。以前の、温かかった手とは全く違う。さやの手を握る度、俺は本当はさやも失ってしまっていて、さやが隣にいる夢を見ているだけなんじゃないかと不安になる。
「さや・・・・・・。お前は、人と違うんだ。わかっているだろ」
俺は説得するように話しかけた。
「紗綾樺さんの力の事なら、自分は全面的に信じていますし、知っています」
俺とさやの会話に、奴が割り込んできた。まったく、なんて奴だ。怒りが腹の底から溢れてくる。
「さあ、どうでしょうね。あなたは、妹の何を知ってるんですか?」
俺はさやの手を握ったまま奴に再び向き直った。こうして、ずっと握り続けていたら、いつか昔の温かいさやの手に戻るんじゃないかと、俺は今も思っている。
「紗綾樺さんは、とても的中率の高い占い師で、自分をはじめ人の考えを読める能力を持っていると思っています」
奴は真っ直ぐに俺の目を見つめ返して答えた。
「それ以外は?」
「それ、以外ですか・・・・・・」
途端に奴の声のトーンか下がった。
「すいません、いつも紗綾樺さんが自分のことをわかってくれるもので、自分は紗綾樺さんのことを知ってるつもりでしたが、本当は何も知りません。自分が知ってるのは、紗綾樺さんが素敵な女性であることだけです」
「それで、あんたは遊びじゃなく、本当に結婚をしても良いと思えるのか? この先、あんたが浮気をしたら、妹はすぐにわかる。あんたがちょっとほかの女に興味を持っても妹にはわかる。そのうち、それが嫌になって、最後は厄介になって、妹を捨てるんじゃないのか?」
俺は遠慮なく言葉をぶつけた。本当に俺以外の誰かがさやのことを理解してくれて、側にいてくれるなら、それはとても喜ばしいことだ。でも、人間はそんなにキレイな生き物じゃない。すぐに秘密が無いことに耐えられなくなる。どこまでさやに知られているのか、疑心暗鬼になる。そして、最後は化け物呼ばわりでお終いだ。
もう二度と、あんな悲しくて、つらい思いをさやにはさせたくない。
「自分は、紗綾樺さんを裏切るようなことをするつもりはありません。傷つけたり、苦しめたりするつもりはありません」
そう、恋する男にとって試練は燃焼促進剤みたいなものだ。俺が反対すれば、それだけ奴は燃え上がる。だから、反対するのは間違いだ。そんなこと、もう若くない俺ならよくわかる。
「わかりました」
俺があっさり承諾すると、奴は驚いたような表情を浮かべた。それに対して、さやは表情一つ変えずにお茶を飲んでいる。
この温度差が、正直俺には理解できない。どう考えても、さやが結婚を前提に奴と交際しようとしているように思えない。でも、本人達がそう言うなら信じるしかない。
「そのかわり、デートの予定は保護者代わりである自分に報告すること」
「あの、紗綾樺さんは、既に成人されてますよね?」
恐る恐る訊くあたり、本当にこいつはさやのことを何も知らないらしい。
「とにかく、妹と交際しようと言うなら、条件は飲んでもらいます。妹を成人していると思わず、未成年の女の子と付き合っている位の用心深さで、清く正しく交際すること。デートの日は、帰りは送ってくること。いいですか?」
俺の言葉に不承不承、奴が頷いた。たぶん、奴にはなぜ俺がさやのことを未成年扱いさせようとしているのかがわからないんだろう。まあ、当然と言えば、当然だが、交際を続けていれば、そのうちわかるはずだ。
「お兄ちゃん、お茶ちょうだい」
こういう、重要なときでも、さやは何も変わらない。俺はさやの願い通り、ティーポットからお茶を注ぐ。
「あついぞ」
念の為、一声かけると、さやはコクリと頷いた。
「あの、お兄さんの連絡先を教えていただけますか?」
奴の問いに、俺は手近なメモに携帯電話の番号を走り書きして手渡した。
不服そうな奴の表情から、名刺が欲しいのだとはわかる。でも、今の俺はしがない派遣スタッフで、名刺なんてものは持たされていない。今やっている仕事だって、元々自分がやっていた設計士の仕事ではなく、設計士のアシスタント業務だ。
「すいませんね。名刺なんて洒落た物を持てる仕事に就いてないんですよ」
俺が言うと、奴は返事に困ったように沈黙した。
「あ、もう一つ、条件があります」
俺が言葉を次ぐと、さやが少し鋭い視線を向けた。
「さやの過去を知ろうとしないでください」
俺の要求が意外だったのか、さやはすぐに視線を緩めた。
「さやに家族のこととか、昔のこととか、訊かないでください。それが、最後の条件です」
確かに、俺の言葉は矛盾している。さやの何を知っているのかと問うたのに、知ろうとするなと言うなんて、大きな矛盾だ。でも、さやにつらい思いをさせないためには、それしかない。奴が勝手に調べるなら仕方ないが、何も覚えていないさやを質問責めにして苦しめられるのは困る。何しろ、さやは何も覚えていないんだから。
「あの、お兄さんのお名前も伺ってよろしいですか?」
奴が控えめに言う。
「天生目です」
「あ、下のお名前です」
言われてから、奴が苗字を知らないはずがないことに俺は気付いた。
「ああ、すいません。天生目宗嗣です」
「宮部尚生です。よろしくお願い致します」
奴は礼儀正しく名乗りなおし、頭を下げた。もしかしたら、俺が思っているほど悪い奴ではないのかもしれない。
「お茶を戴きます」
そう言うと、奴は飲み頃になった麦茶に口を付けた。その向かいで、さやが大きなあくびをした。
「宮部さん、ご覧の通り、妹も疲れていますので、今晩はこの辺で」
俺が声をかけると、奴は一気に麦茶を飲み干した。警察官になるくらいだ、俺が思っていたよりも、根性があるらしい。
「お兄さん、では、今日はこれで失礼いたします。遅い時間から、お茶までご馳走になったあげく、快く紗綾樺さんとの交際も認めていただき、本当にありがとうございました」
奴はもう一度、深々と頭を下げた。
「さや、宮部さんはお兄ちゃんが見送るから、お前は早く風呂に入りなさい」
俺は言うと、さやの正式な交際相手となった宮部を見送りに外まで出向いた。
いつもさやに怒られることだが、夜中の住宅街に安いつっかけサンダルが金属を叩く音がこだまする。
もちろん、近所迷惑だと言うことは分かっているし、夜間の騒音はある種の犯罪になることも知っている。だが、今日だけはそんな事を気にしている場合じゃない。
警察官という公職についている公僕でありながら、一般市民に権力を振りかざして私利私欲を満たし、あまつさえ、か弱い女性にふしだらなことをする奴を捨て置くわけには行かない。
車から降り、今にもいつもの小言を言おうとするさやの無事を確認すると、俺は遅れて車から降りてきた奴を睨みつけた。
「ただいま」
俺を心配させない為なのか、さやは何もなかったように笑って見せた。この笑顔を踏みにじるような奴を俺は生かしておけない。
ぎゅっと拳を握り締めると奴を見据えた。
「車を寄せて停めて、エンジンを切ってください。ここは住宅街で、近所に迷惑ですから」
奴は俺の言葉に素直に従った。しかし、さやは何かを悟ったのか、不信感を露わにして俺のことを見つめた。
「立ち話も何ですから、あがってください」
俺の言葉にさやは驚いて俺の腕を掴んだ。
「お兄ちゃん」
「さや、先に部屋に戻ってなさい」
何時になく厳しい俺の声に、さやは何も言わず従った。
アパートの敷地内に車を停めた奴が降りてくると、俺は『どうぞ』と二階の部屋を指し示し奴を前に階段を上がった。
相手が警察官だろうが、さやを弄んだことを後悔させてやる!
俺は無意識に指の間接を鳴らして相手を威嚇した。
「失礼いたします」
後ろから来る俺に一礼すると奴は敷居をまたいだ。
「狭いところですいません」
さやは申し訳無さそうに言うと、部屋が狭すぎてどこが上座とハッキリ判断できないものの、一応上座と言える玄関から一番遠い部屋の奥側の席を奴に勧めた。しかし、奴は逃げやすいとも言える玄関に一番近い下座に腰を下ろした。
「お茶、これでいい?」
さやが心配げに訊くので、俺はさやを座らせて自分でお茶の用意をした。
貧相な部屋には似合わない電気ケトルでお湯を沸かし、急須の代わりのティーポットにお茶のパックを放り込み煮え立った熱湯を注いだ。さやが怖がるから、このアパートの部屋には火の出るものは置かれていない。
もともと客の来る予定などない部屋だから、奴を部屋にあげてみたものの、実際は座布団一つ用意がない。
食器棚代わりに使っているカラーボックスから二人分のマグカップを取り出し、流し台の下に押し込んであった携帯電話会社から貰った犬の写真がプリントされているマグカップを取り出し、手早く洗って使えるようにした。
お盆なんてしゃれたものもないし、使う必要もない距離なので、半身振り向きながら折り畳み式のちゃぶ台の上にマグカップを並べ、最後にティーポットを手にとった。一度おいてから注ぐのも面倒だったので、そのままちゃぶ台に向き直り並べたカップにお茶を注いだ。
湯気とともに、香ばしい煎り麦の香りが部屋に広がっていった。
「どうぞ」
一応、客ではあるので、奴に一番にお茶を勧めた。
俺が茶を勧めたタイミングで、さやは自分のカップを手元に引き寄せ、俺のカップが正面に残された。
「いただきます」
奴は礼儀正しくお礼を言ってからマグカップを手に取った。しかし、八分目まで注がれた熱湯同然の麦茶はそう簡単に口をつけられるような代物ではない。
それをよく知っているという事もあり、さやはいつものように『この香り好き』と言って、マグカップから漂う湯気と香りを楽しむだで口を付けようとはせず、俺と奴との間にある緊張感など全く感じていないように和んでいた。
俺は最初から半分以下しか注いでいない自分のマグカップを手に取ると、やけどに気を付けながら一口すすった。
さあ、開戦だ。
「昨夜も妹と一緒でしたよね?」
俺が問いかけると、奴は慌ててカップから手を離した。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
何を謝っているのか知らないが、奴は額がマグカップに当たりそうな勢いで頭を下げた。
「あなた、警察官でしたよね?」
俺の問いに、奴は懐から警察手帳を取り出して見せた。
「宮部尚生と申します。階級は巡査部長です」
見せられた警察手帳は、両親の事故や、あの災害の時に何度も見せられたものと同じで、偽警官ではなさそうだ。
「宮部さん、あなた、いったい何が目的で妹を連れまわしているんですか?」
語気を荒くしてて訪ねると、奴が後ろに下がった。『逃げるのか?』と、思わず腕をつかもうとした俺の前で、いきなり奴は床に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。紗綾樺さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて戴いております」
俺には奴の言っている言葉の意味が理解できなかった。それだけ『交際』という言葉も、『結婚』という言葉も、さやからは縁遠いものだったからだ。
本当なら、さやだって同級生達と変わらず、二十歳を過ぎたら何時でも結婚適齢期なんて言う、近所のジジババが自分達のことのように楽しげに話す噂話のネタにされてもおかしくない歳だ。
兄の贔屓目と言われてしまえばそれまでだが、実際、中学の頃から男子に告白されて困っていると相談されたこともある。
でも、今は違う。あの地震と津波がさやからすべてを奪い、さやを変えてしまった。
「は? あんた一体何を言ってるんだ?」
驚くというよりも、呆れる俺の腕をさやがつかんだ。
「本当なの」
感情のこもっていないさやの言葉からは、真偽を確かめることができない。
「そんなこと、いきなり言われて、はいそうですかって信じられるわけがないでしょう」
俺はさやの言葉を聞かなかったことにして、宮部に言い放った。
「確かに、お兄さんのお気持ちはわかります。この交際は、自分が紗綾樺さんに一目ぼれして、お付き合いして戴いているんです。でも、自分は結婚を前提とした、清く正しいお付き合いを続けていきたいと思っています」
奴の言葉に、怒りが燃え上がった。
二回目のデートでさやをホテルに連れ込んでおいて、何が『清く正しい』お付き合いだ。ふざけるな!
思った瞬間、左手がちゃぶ台を思いっきり叩いていた。
「最近の警察官は、平気で嘘をつくんですね。あなたが、今日、妹をどこへ連れて行ったかなんて、わかってるんですよ!」
普通に座っていてくれたら、胸倉をつかむくらいしてやりたかったのに、奴はまだ土下座したままだった。
「カラオケです」
「カラオケ」
奴と、さやが、ほぼ同時に答えた。
「さや、お前がカラオケに行かないことくらい、俺が一番よく知ってるんだ」
俺が言うと、さやは緊張感のない態度でお茶を一口飲んだ。
「結局、機械の使い方とか、いろいろ教えてもらったけど、歌を知らないから、お話だけして帰って来たの」
さやのことばに、奴が頭を上げた。
「ほんとうです。お話しかしていません」
いや、別にカラオケに行ったんなら、あんたは歌を歌ったってかまわないんだよ、そんなことをとがめる気はないんだから。でも、一番の問題は、二人して俺を騙そうとしているところなんだよ。
苛立ちを抑えるため、俺は香ばしい麦の香りを大きく吸い込んでお茶をすすった。
「どうしてそんなに怒っているの? 二人っきりでカラオケに行くのは悪い事なの?」
不思議そうにさやが尋ねた。
「カラオケなら別にいいんだよ。まあ、密室で二人っきりというのは問題がないとは言えないが、今の問題は、二人が口裏を合わせて嘘をついているってことなんだよ」
「嘘じゃありません。いまお見せします」
奴は言うと、自分のスマホを取り出し、地図を開いて場所を説明した。
確かに、俺がさやの居場所を調べた時に表示された場所のすぐ隣だった。
「店の裏側がちょっと風紀の悪い場所なんですが、店長が知り合いで予約が取りやすいので自分はよく利用するんです。あ、証拠のレシートがどこかに・・・・・・」
地図まで見せられて説明されると、これ以上追及するための根拠もないので、俺は仕方なく怒りの矛をおさめるしかなかった。
「本当に、お兄さんにご挨拶もしないまま交際を始めて申し訳ありません」
奴は床に頭をこすりつけそうなくらい平身低頭していた。
「頭をあげてください。状況は分かりました」
俺は言うと、さやの方に向き直った。
「さや、本当に、この人と付き合うつもりなのか?」
俺の問いに、さやはこくりと頷いた。
「さや、交際するっていう事がどういうことかわかっているのか? その、大人の男と女が交際するってことがどういう意味か・・・・・・」
俺の言葉が露骨だったのか、奴の顔が真っ赤になったが、さやは何のことかわらないと言った様子で、キョトンとして俺の事を見つめた。
「さや、他人と付き合うってことがどれだけ大変か、お前はよくわかってないんだ」
俺は言うと、さやの手を取った。
さやの手は冷たく冷え切っていた。あの日以来、さやの手はいつも冷たい。以前の、温かかった手とは全く違う。さやの手を握る度、俺は本当はさやも失ってしまっていて、さやが隣にいる夢を見ているだけなんじゃないかと不安になる。
「さや・・・・・・。お前は、人と違うんだ。わかっているだろ」
俺は説得するように話しかけた。
「紗綾樺さんの力の事なら、自分は全面的に信じていますし、知っています」
俺とさやの会話に、奴が割り込んできた。まったく、なんて奴だ。怒りが腹の底から溢れてくる。
「さあ、どうでしょうね。あなたは、妹の何を知ってるんですか?」
俺はさやの手を握ったまま奴に再び向き直った。こうして、ずっと握り続けていたら、いつか昔の温かいさやの手に戻るんじゃないかと、俺は今も思っている。
「紗綾樺さんは、とても的中率の高い占い師で、自分をはじめ人の考えを読める能力を持っていると思っています」
奴は真っ直ぐに俺の目を見つめ返して答えた。
「それ以外は?」
「それ、以外ですか・・・・・・」
途端に奴の声のトーンか下がった。
「すいません、いつも紗綾樺さんが自分のことをわかってくれるもので、自分は紗綾樺さんのことを知ってるつもりでしたが、本当は何も知りません。自分が知ってるのは、紗綾樺さんが素敵な女性であることだけです」
「それで、あんたは遊びじゃなく、本当に結婚をしても良いと思えるのか? この先、あんたが浮気をしたら、妹はすぐにわかる。あんたがちょっとほかの女に興味を持っても妹にはわかる。そのうち、それが嫌になって、最後は厄介になって、妹を捨てるんじゃないのか?」
俺は遠慮なく言葉をぶつけた。本当に俺以外の誰かがさやのことを理解してくれて、側にいてくれるなら、それはとても喜ばしいことだ。でも、人間はそんなにキレイな生き物じゃない。すぐに秘密が無いことに耐えられなくなる。どこまでさやに知られているのか、疑心暗鬼になる。そして、最後は化け物呼ばわりでお終いだ。
もう二度と、あんな悲しくて、つらい思いをさやにはさせたくない。
「自分は、紗綾樺さんを裏切るようなことをするつもりはありません。傷つけたり、苦しめたりするつもりはありません」
そう、恋する男にとって試練は燃焼促進剤みたいなものだ。俺が反対すれば、それだけ奴は燃え上がる。だから、反対するのは間違いだ。そんなこと、もう若くない俺ならよくわかる。
「わかりました」
俺があっさり承諾すると、奴は驚いたような表情を浮かべた。それに対して、さやは表情一つ変えずにお茶を飲んでいる。
この温度差が、正直俺には理解できない。どう考えても、さやが結婚を前提に奴と交際しようとしているように思えない。でも、本人達がそう言うなら信じるしかない。
「そのかわり、デートの予定は保護者代わりである自分に報告すること」
「あの、紗綾樺さんは、既に成人されてますよね?」
恐る恐る訊くあたり、本当にこいつはさやのことを何も知らないらしい。
「とにかく、妹と交際しようと言うなら、条件は飲んでもらいます。妹を成人していると思わず、未成年の女の子と付き合っている位の用心深さで、清く正しく交際すること。デートの日は、帰りは送ってくること。いいですか?」
俺の言葉に不承不承、奴が頷いた。たぶん、奴にはなぜ俺がさやのことを未成年扱いさせようとしているのかがわからないんだろう。まあ、当然と言えば、当然だが、交際を続けていれば、そのうちわかるはずだ。
「お兄ちゃん、お茶ちょうだい」
こういう、重要なときでも、さやは何も変わらない。俺はさやの願い通り、ティーポットからお茶を注ぐ。
「あついぞ」
念の為、一声かけると、さやはコクリと頷いた。
「あの、お兄さんの連絡先を教えていただけますか?」
奴の問いに、俺は手近なメモに携帯電話の番号を走り書きして手渡した。
不服そうな奴の表情から、名刺が欲しいのだとはわかる。でも、今の俺はしがない派遣スタッフで、名刺なんてものは持たされていない。今やっている仕事だって、元々自分がやっていた設計士の仕事ではなく、設計士のアシスタント業務だ。
「すいませんね。名刺なんて洒落た物を持てる仕事に就いてないんですよ」
俺が言うと、奴は返事に困ったように沈黙した。
「あ、もう一つ、条件があります」
俺が言葉を次ぐと、さやが少し鋭い視線を向けた。
「さやの過去を知ろうとしないでください」
俺の要求が意外だったのか、さやはすぐに視線を緩めた。
「さやに家族のこととか、昔のこととか、訊かないでください。それが、最後の条件です」
確かに、俺の言葉は矛盾している。さやの何を知っているのかと問うたのに、知ろうとするなと言うなんて、大きな矛盾だ。でも、さやにつらい思いをさせないためには、それしかない。奴が勝手に調べるなら仕方ないが、何も覚えていないさやを質問責めにして苦しめられるのは困る。何しろ、さやは何も覚えていないんだから。
「あの、お兄さんのお名前も伺ってよろしいですか?」
奴が控えめに言う。
「天生目です」
「あ、下のお名前です」
言われてから、奴が苗字を知らないはずがないことに俺は気付いた。
「ああ、すいません。天生目宗嗣です」
「宮部尚生です。よろしくお願い致します」
奴は礼儀正しく名乗りなおし、頭を下げた。もしかしたら、俺が思っているほど悪い奴ではないのかもしれない。
「お茶を戴きます」
そう言うと、奴は飲み頃になった麦茶に口を付けた。その向かいで、さやが大きなあくびをした。
「宮部さん、ご覧の通り、妹も疲れていますので、今晩はこの辺で」
俺が声をかけると、奴は一気に麦茶を飲み干した。警察官になるくらいだ、俺が思っていたよりも、根性があるらしい。
「お兄さん、では、今日はこれで失礼いたします。遅い時間から、お茶までご馳走になったあげく、快く紗綾樺さんとの交際も認めていただき、本当にありがとうございました」
奴はもう一度、深々と頭を下げた。
「さや、宮部さんはお兄ちゃんが見送るから、お前は早く風呂に入りなさい」
俺は言うと、さやの正式な交際相手となった宮部を見送りに外まで出向いた。