次の日、昼休みには、問題なく許可が下りたと担任教師が教えてくれた。
 成績が極端に悪かったり、出席日数を考慮し、著しく相応しくない場合以外は許可が下りるはずと分かっていたが、ほっと胸をなで下ろす。
「よかったね。わたしもね、夏休みからバイト決まったよ。駅前のうどん屋さん」
 クラスメイトのあずさが昼食のパンを食べながら言う。
「あずさ向いてそう。こう、いらっしゃい! みたいな」
「あはは。そうかも。でも乃里も旅館の厨房は似合うな。まずそのパッツン前髪に割烹着が似合う」
「和風の顔で悪かったですね」
 ふたりでギャハハと笑いあう。
 あ、忘れていた。
「萩さんに連絡しなくちゃ。ちょっと電話してくる」
「行ったり来たり忙しいな、きみは。萩さんて?」
「旅館のご主人」
 きっと萩さんのことを聞きたいに違いないあずさだろうけれど、積もる話はまだ今度だ。
 乃里は残り少ない昼休み時間を気にしながら廊下で携帯から電話をかけた。旅館の番号と、兄弟の携帯番号はもうアドレスに入れてある。
 いくつかのコールのあと「はい、旅館しろがねでございます」と男性の声。
「こんにちは。井藤乃里と申しますが」
『ああ、乃里ちゃん? 牡丹だよー』
 相手が乃里だと分かった途端に声色がよそ行きでなくなり、軽やかな牡丹の声が耳に届く。帳場にいたのが牡丹だったのだろう。
「あの、学校の許可が下りました。お願いします」
『よかった。じゃあ夏休みからお願いします』
 まだ一カ月先だが、当日の時間などを打合せし、家から移動時間を考慮して伝えると「急がなくていいから気をつけて来て」と言われ、電話を終了した。
 よかった。これで一歩また進める。
 自分でなにかを始めることがとても心地よく、家にいるとき、教室にいるとき、そのふたつでは味わえない感覚だった。
 がんばろう。わたしはわたしの居場所を作るのだ。
 決意は願いと共にある。
 携帯を握りしめ、「よし」とひとつ口にしたときチャイムが鳴ったので、乃里は教室に戻った。

 一カ月はあっという間に過ぎる。
 忙しく過ごすうち、夏休みに入った。
 乃里は高くなった気温を感じながら、しろがねに向かっていた。バス停に降り立ち、竹林の道を行くと視線の先に先日見かけた銀色の猫がいることに気が付いた。
「またあの猫だ。やっぱりこのあたりに住む子なのね」
 驚かせないようチュッと唇を鳴らしながら静かに前進すると間隔を変えずに猫が歩き出す。尻尾をぴんと立てて「こっちだよ」と言っているように感じた。
 綺麗な猫だなぁ。
 ここで猫と戯れている場合ではないので、乃里は距離を維持する猫のあとを追う形でしろがねに向かう。正面玄関まで来ると、銀色猫はスルリとどこかへ姿を消した。
 関係者通用口のドアノブを回す。
「お疲れさまです……」
 恐る恐る入ると、満面の笑みで牡丹が立っていた。
「いらっしゃい! 待ってたよ~乃里ちゃん」
「今日からよろしくお願いします!」
「今日のワンピースも可愛いね」
 服装を男性に褒められたことなのないので、乃里はドキッとしたが、なるほどこういうことの積み重ねで辞めた女子大生は牡丹に心を奪われていったのだ。
 乃里は一瞬緩んだ口元を引き結ぶ。
 わたしは働きに来ているのだ。
「ありがとうございます。牡丹さんも今日の着物、とてもお似合いです」
「ありがと」
 牡丹はえんじ色の着物に茶色の帯を合わせていた。牡丹ならばどんな服を着ても似合いそうだ。
「早速準備して、帳場へ来て貰えるかな」
「わかりました」
 面接の日に教えてもらった従業員用の部屋へいくと黒のパンツと白いポロシャツに着替え、上に割烹着を着た。ここまではワンピースで来たが、動きやすい着替えを持って来ていた。
 従業員室には鏡台もあったので、いつもポニーテールにしている髪を軽く整える。
「よし。がんばる」
 乃里は深呼吸で体に空気を満たすことで気合いを入れた。
 足早に帳場へ行くと、萩もいて牡丹と話をしていた。
「あ、乃里ちゃん。準備できましたか」
「萩さん、お疲れ様です。今日からよろしくお願いします」
「こちらこそ。今日はね、ちょっとお風呂を手伝ってほしいのです」
「お風呂、ですか」
 そういえばここは温泉旅館だった。

 牡丹は帳場に残り、風呂へ案内してくれる萩についていく。
「うちの温泉は宿泊以外に、入浴のみのお客様にも対応しております。帳場で料金を払っていただき、この浴場という大きな暖簾から入場できます。宿泊するお部屋にユニットバスが備わっていますが、温泉ではないのでね。こぢんまりとした内風呂と露天なので混雑時はそのようにご案内いたします。利用時間は朝六時から昼十二時まで、十六時から夜中零時まで。間で掃除とかをします」
 現在朝の九時になろうとしている。朝の入浴時間は過ぎているわけだが。
「今日は、宿泊客がいませんし、入浴客も空いていますから、この隙にシズさんの仕事を習っていただいて」
「シズさん、ですか?」
「ああ、お教えしていませんでしたか。うちの湯守シズさんです」
「萩さんや、呼びましたか」
 甲高い声が背後から聞こえたので振り向いたが、誰もいなかった。
 どこから声がするのだろうか。
 乃里は湯守シズの姿を探してキョロキョロした。