果たして狐が狐たる由縁はどこにあるのだろうかと蔵王キツネ村(宮城県白石市にある狐たちと戯れられる最高の施設であるらしい)の狐たちが沈思熟考しているかといえばそのようなわけでもいわけでもないだろうと断言するのも憚られるが如く、己は己のことを顧みたことがあるだろうか、と彼は独り、最寄駅で先月に営業を再開したマクドナルドのカウンタ席で、宣う。
 己の行動を頭の先の先の髪の毛の先から、足のつま先まで制御できていると自惚れるほどに自身過剰ではないし、そもそも思いどおり想いどおりに行かぬ事象が多い。己が身体でさえ斯様であれば心などは言わぬまでもなかろうもの。何がしたいあれがしたい然様にあるべきである、本来の己はこのようなものではないのだ、などといくら嘯いたところで、実際のところは手持ちの金があれば使い切らずにはおられず、目の前ならまだしも家中にアルコールと称するものが存在するならば、唯々諾々と酒の神(とやらが実在するとしてだが)にそそのかれずともおのずから酒杯に手を伸ばし、酩酊こそが我が人生と高らかに吼えた翌日には体重で薄いかまぼこのようになってしまった布団の中で「ああ辛い、どうして自分だけが」などと人生の不遇にのたうち回るのだ。
 さて、先だって狐を例えにだして独り言を繰り始めたのには故あってのことであり、回収すべき伏線は伏線にならずうちに回収してしまえば伏線未遂、或いは未必の伏線だろうと著名な作家が書き連ねたとか書き連ねなかったとか、どうだったかはインターネットに接続をしてリソースを検索するば直ぐに判ることであり、趣のなき世の中になったものよ、然もありなん。