衣鶴の方を向いて尋ねる。

「僕も水薙の家に行ったことありますけど、階段の急さに驚きました」
「……わかった。じゃあ気をつけてね、階段に」

担任が立ち上がろうとしたのを見て、あたしは息を吸う。

「先生、あたし三月一杯で学校辞めます」

ぱっと衣鶴の顔がこちらに向いたのが分かった。

「どうして?」
「勉強が嫌になりました」
「高校は卒業しておいた方が良いと思うけど」
「今度書類とかを貰いに行きます」

立ち上がって、先に教室を出る。
すぐそれを衣鶴が追いかけてきた。

肩を掴まれる。振り払うと、衣鶴はすぐに離れる。


前に喧嘩で肩を脱臼して、以来ずっと肩に触れられることに不快感を覚える。

「本気か?」
「本気だし正気だ」
「それって、俺が留学したのと関係あるか?」

その質問に、笑わずにいられなかった。
自己防衛で笑ったんじゃない。
可笑しくて、堪らなかった。

「あたしにはお勉強よりも喧嘩の方が合ってる。あんたには、喧嘩よりもお勉強の方が合ってる。それだけの話だろ。あんたのことは、あたしには何も関係はない」

廊下の窓の鍵を開ける。開くと、外の空気の匂いがした。

「水薙、待て」
「あたしはイヌじゃない」


窓枠に足をかける。

「”マテ”ができるわけないだろ」

舌を出す。足に力を入れてサッシを蹴った。
「ばか」と衣鶴の声が聞こえる。

二階から降りるくらい造作もない。すとん、と地面に着地。

「あ、上履きだった」
「おい水薙!」
「窓閉めといて、あとスライド終わらせろよ」

じゃあ、と靴を替えるために昇降口へと向かう。
足早に駅へと向かった。バスに間に合うように。

一度部屋に戻って私服に着替える。それから橋を渡った。

蓮奈たちにはあれから会っていない。
他の目的があって、あたしはその街に戻る。



最近、駅の前でずっと待っている。
たまに知っている顔を見る。

顔を逸らす人間、挨拶をしてくる人間、喧嘩を売ってくる人間。
色々いる。

紙煙草を吸って、煙を吐く。
膝を抱いて、ずっと待つ。

あたしのガレージに火を放ったのは、蓮奈をカツアゲしかけたノライヌたちだ。
きちんと裏も取れている。

きっとここで待っていたら、向こうから現れる。
あいつらが火を放ちたいのは、ガレージでもなく机でもなく、あたしなのだ。

くだらない、このループはここで終わりにしたい。そうしないと蓮奈たちにも、帰国した衣鶴にも迷惑がかかる。


いや、日本にいない内に起こったことだから、衣鶴には関係ないことだけど。
考えがぐるぐると回る。

夜が満ちて、駅前の人通りが本格的に少なくなった。
何本目かの煙草を消して、立ち上がる。今日も来なかった。

情報網はどこで仕事をしているのか、と溜息を吐く、途中で止めた。

バイクのエンジン音。複数の足音。

きた。







「衣鶴くんってリュウガクするんでしょ?」

メイクポーチの中身を広げながら、宇賀が言った。

リュウガク。漢字がまず出てこなかった。

留学。あとから知った。外国に勉強しに行くことらしい。ちなみに衣鶴が行くのはアメリカ。


あとから、全部知った。

「俺、半年アメリカに留学する」

うちで祖母の作った夕飯を食べていたとき、最後に本人の口から聞いた。

「アメリカって、英語出来るんか」
「そりゃ勉強したし」
「半年って長くねえか」
「いや多分あっという間」

祖母が矢継ぎ早に質問した。衣鶴は何でもないことのように答える。

半年。季節を二つ通りすぎる。

「おい聞いてる?」
「あー、まあ」

衣鶴はそれを一人で決めたのだから、誰も止める術はない。

学校を作るには、とりあえず知識が必要だと衣鶴は言った。だから高校に進むことにした。


あの街を出て、勉強をした。

知識は武器だ。力となる。自分を裏切らない。強さに直結する。

衣鶴はそれを教えてくれた。だから何となく同じ夢を持ってると思っていた。そういう勘違いを自分の中で起こしていた。

そりゃあ衣鶴は頭も良いし、自分の夢があるに決まっている。同じ高校に通って、一緒に勉強しても、向いている先が違った。

留学とか、アメリカとか、あたしには無縁でよく分からない世界だけれど、衣鶴が進みたい場所へ、

「行くべきだと思う」


幸せを知ることは不幸なことだ。

もっと不幸なことは、幸せを知らないことだ。


『52Hzの鯨、知ってるか?』

いつかの帰り路、衣鶴が言った。

『クジラ? 周波数?』
『鯨とかイルカは周波数で意思疎通を図る。でも52Hzの周波数で鳴く鯨は唯一だって言われてる』
『自分以外の人間は違う言語話してる、みたいなこと?』

想像して話すと、衣鶴が「おお」と感心していた。

『そういう感じ。もっとも孤独な鯨って言われてる』
『へえ、それは難儀な。でもまだ、出会ってないだけだろうな』

世界は広いのだから。
どこかにはきっといる。
誰かが憐れんで孤独だと呼んでも、その鯨はどこかで出会う。

自分の唯一に。



ハッと意識が戻ったのは、殴られる直前だった。左に避ける。
いや、何度か殴られた後だったけれど。

なんか今、走馬灯みたいに色んなことが頭を過っていたような。

「ちょろちょろと動きやがって……!」

半分は倒れている。あたしの肩は脱臼していないけれど、鎖骨が痛い。たぶん折れた気がする。

泥沼みたいな喧嘩になってしまった。固まった鼻血なのか、顔の出血なのかを拭いながら思う。

「俺はなあ、あの後お前にやられたって噂が広まってカノジョにもフラレたんだ!」
「噂は事実だし、そんなことで振るようなカノジョと別れられて良かったな?」
「あ? テメエ馬鹿にしてんのか」