警察署の建物内は、独特の冷たい雰囲気に満ちていた。
思わず尻ごみしてしまいそうな気持ちを勇気づけ、私は受付で名前と用件を告げる。
すぐに担当の刑事さんがいるという部屋に案内されたが、あいにくと外出中だった。
そこは大勢の人が忙しく出入りする大きな部屋で、周りにいる刑事さんたちも、気さくに椅子に座ることをすすめてくれて、正直ホッとする。
取調室なんかでなくて良かった。
婦警さんがお茶を淹れてくれたことで、緊張でガチガチだった心も、ほんの少し和らいだ。
海君は少し離れた長椅子で、壁にもたれかかって座りながら、私を待ってくれている。
もの珍しそうにあたりをきょろきょろと見ている様子に、また少し、私の心は穏やかになった。
「やあ、お待たせしたね」
出先から急いで帰ってきてくれたのだろうか。
来ていた上着を椅子の背に掛けて、私の目の前に腰を下ろした担当刑事さんは、汗だくだ。
「ひとまず例の彼を自分の部屋に送ってきたよ。今はまだ顔を会わせないほうがいいと思ったんだが……余計なお世話だったかな?」
人好きのする笑顔を浮かべているわりに、刑事さんの目は鋭い。
私は慌てて頭を下げた。
「いえ……ありがとうございます……」
「うん」
様々な書類が積み重ねて置いてある机の上から、一冊のファイルを取り、刑事さんはパラパラとめくる。
「一晩ここで頭を冷やして、今はすっかり落ち着いてる。自分がしたことを申し訳なかったとも言ってたし……もうこんなこと、起こさないといいんだが……」
「はい……」
頷く私に、刑事さんは少し声の調子を変えてつけ足した。
「ただ……こういう問題は、簡単には片づかないことが多いからね……」
私の胸はズキリと痛んだ。
「少し詳しく話を聞かせてくれるかな?」
「はい」
それから私は村岡さんというその刑事さんに問われるまま、幸哉との関係について話をした。
出会った頃のことから、最近の関係に到るまで。
できる限り詳しく話した。
順を追って、覚えている限りのことを全て聞いてもらった。
正直、人には聞かれたくない話もあったけど、警察に協力を仰ぐためには、情報提供は不可欠だ。
村岡さんはまめにメモを取って、私の話をちゃんと聞いてくれた。
私はと言えば、少し離れたところにいる海君が、気になって仕方がなかった。
(できれば海君には聞かれたくない……なんて……私の身勝手だよね)
またズキリと胸が痛んだ。
「実は私たち警察にできることは、そんなに多くはないんだ。岩瀬君――だったかな? 彼に対して、君に近寄らないように警告を出すこと。それに従わない場合には、さらに禁止命令を出すこと。これくらいだ。検挙すれば懲役や罰金も課せられるが、それにはまず先に、キミが彼を告訴しなければならない……」
聞き慣れない言葉の羅列は、まるでテレビドラマでも見ているような気分だった。
しかしこれは私の現実だ。
私と幸哉との間の話なのだ。
「懲役……? 告訴……?」
事態の深刻さに、私はただ呆然とするしかなかった。
村岡さんはそんな私を見て、表情をさらに柔らかくする。
何も知らない小さな子どもを見守るように、どこか悲しそうな目をした。
「そこまでおおごとだとは思っていなかったかな? でも彼がやっていることは、あきらかにストーカー行為だよ。法的にも認められている犯罪なんだ」
諭すように一言一言告げるその口調は、どこか故郷の父を思い出させた。
「だけど……!」
幸哉をそこまで糾弾する権利が、私にあるんだろうか。
いつまでもダラダラと関係を断ち切ることさえできず、ほんのついこの間まで傍にいた私に。
「もちろん君がそれを望まないなら、私たちに強制する権利はない。そこまでやったら、正直、あとには憎しみとか負の感情しか残らないからね。君も彼もまだ若いし、今日の様子だったらしばらく時間を置けば解決するんじゃないかとも思う。あくまで私の意見だがね」
私の感情をちゃんと気遣ってくれる優しい口調に、頭が下がった。
「とりあえず、もしまた何かあったら、すぐに連絡しなさい。私のほうでも、時々彼のことは気にかけておくから……」
村岡さんは俯いてしまった私の頭をポンと優しく叩くと、目の前に名刺をさし出した。
朗らかな声で、
「大丈夫だよ。君にはちゃんとボディガードもいるようだ……」
ふり返り、少し離れたところに目を向ける。
顔を上げた私は、いつの間にか海君が真っ直ぐにこちらを見ていたことに気がついた。
村岡さんに向かってペコリと頭を下げている。
「今のところはとりあえず、様子を見よう……そのほうがいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
せいいっぱいの感謝をこめて、私も頭を下げた。
村岡さんの言うとおり、時間が解決してくれるのならそれが一番いいと思った。
夕日が空を真っ赤に染める中、海君と手を繋いで家までの道を帰った。
警察署に向かっていた時とは真逆に、気持ちがどんどん落ちこんでいく。
夕暮れ時はもの悲しい――海君との別れの時間が近づくから。
どこから来てどこへ帰っていくのか、私にはわからないけれど、いつも今ぐらいの時間になると、「また明日」とニッコリ手を振って、海君は帰ってしまう。
別れ際の約束がある限り、きっと明日も来てくれるんだろう。
だって海君は約束を破らない。
でもそれはいったいいつまで続くのか。
私にはわからない。
確かな保証は何もない。
寂しい気持ちでちょっと俯きがちに下を向いて歩くと、綺麗に舗装された歩道に、私たちの影が仲良く並んで伸びていくのが見えた。
けれど実際には、私たちは警察署を出てから一言も話をしていなかった。
まったく口を開かない海君に、
(さっきの話どこまで聞こえたんだろう? 海君はどう思ったかな……?)
いろんなことが気になっている。
どうしようもなく胸が痛む。
「真実さん」
ふいに名前を呼ばれてドキリとした。
いつもの声と全然違う、すごく真剣な調子だったから、私は二つ並んだ影法師に目を向けたまま、海君のほうを見ないで返事した。
「何?」
海君は長い時間、何も言わなかった。
ただ黙って歩き続けるだけ。
だから私も呼びかけられたことは気にしないで、黙って一緒に歩き続ける。
目が痛くなるほどに見つめ続けた二つの影は、だんだん長くなって、そのうち夕闇にまぎれて見えなくなった。
いくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えて、私のアパートが近づいてくる。
私の足はどんどん歩くのが遅くなり、そのうちピタリと止まってしまった。
自然と海君も立ち止まることになってしまう。
(もしも、部屋の前で幸哉が待ってたらどうしよう……?)
心の中で呟いた不安の声が、まるで聞こえたかのように、
「大丈夫だよ」
海君が囁いた。
見上げてみたら、薄闇の中、泣きたくなるくらいに優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
「俺がついてるよ」
短い言葉が嬉しかった。
けれどそれと同時に不安な心も大きくなる。
私は首を横に振った。
(海君を巻きこみたくない……! 海君をひどい目にあわせるようなことになるのが、一番怖い……!)
私の思いはきっと海君には通じているだろう。
だけど彼もまた、静かに首を横に振る。
「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」
強い口調できっぱりと言われて、私はまた俯いた。
「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」
私の不安を打ち消すように、海君が繋いだ手に力をこめた。
「大丈夫。殴りあいになったら、確かに分が悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」
そして、胸ポケットから出したその秘密兵器を、得意そうに私の目の前で振ってみせる。
ごく普通の携帯電話。
「えっ? ……携帯?」
いぶかしげに見つめる私に、
「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」
ひどく真面目な調子で、海君は答えた。
その真剣な顔が、言ってることまるでチグハグで、私は吹き出さずにいられない。
「やだもう! 海君ったら!」
海君はそんな私の様子を見て、
「やっと笑ってくれた」
と、大きなため息を吐いた。
心の底から安堵したような声だった。
「海君……」
彼がずっと私の様子を気にかけていてくれていたことに、私はこの時初めて気がついた。
そういえば、警察署に入ってからはずっと、不安と恐怖ばかりが心に渦巻いて、私はとても笑うような心境ではなかった。
その上思い出したくないようなことも思い出さなければならず、聞かれたくない話を海君にも聞かせることになったかもしれない。
そう思うとやるせなくて辛くて、沈む気持ちばかりが心の中で折り重なっていた。
だけど海君は、その間もずっと私の心配をしてくれてたんだ。
そうわかっただけで、笑顔が自分の中で、何倍にも何十倍にも広がっていくのを感じた。
「ありがとう」
それだけを言って、誰よりも優しい人の顔を見上げる。
「どういたしまして」
海君はいつもどおりに、すました顔でそつなく答える。
そのことが嬉しくて、また私は笑顔になった。
わざとゆっくりと、歩く速度を遅らせて、たどり着いた私の部屋の前に幸哉の姿はなかった。
ホッとして、隣に立つ海君の顔を見上げる。
彼は私と目があった瞬間、いたずらっ子のように笑った。
「なんなら部屋の中までついて行こうか?」
途端、頭の中で、昨日部屋の中で二人きりになってとんでもなくドキドキしたことを思い出した。
「い、いいよ!」
慌てて手を振る私に、
「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」
海君は前髪をかき上げながら、いかにも意味ありげに笑ってみせる。
「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」
私は大好きなはずのその笑顔に、こぶしを振り上げた。
「いいです! 一人で帰ります!」
キッパリと宣言して、海君に背を向ける。
「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」
海君がしきりに謝っているけど、聞いてなんかやるもんか。
私は彼の声を無視して、玄関のドアへと手をかけた。
――その瞬間。
それがギイッと音をたてて簡単に内側に開いたことで、私の体も思考も凍りついた。
「真実さん!」
海君がすぐに私とドアとの間に入りこんで、自分の後ろに私を庇おうとする。
「やだ! 海君!」
私は彼のシャツをぎゅっと握りしめて、背中に額を押しつけた。
「大丈夫だよ」
彼が用心深く開いたドアの向こうに、人の気配はなかった。
でも、中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
引出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆる物がひっぱり出され、テーブルも椅子もひっくり返っている。
「……どうして…………?」
しばらく呆然と立ち尽くしたあと、私は海君の後ろから歩み出て、ヨロヨロとした足取りで力なく部屋の中へ入った。
一通り見てまわって、特になくなっているものや、壊されているものはないと確認する。
(ぐちゃぐちゃに荒らされただけ……だよね……?)
それが誰の仕業なのかは、考えなくてもわかった。
私は唇を噛みしめる。
クローゼットの前に散乱する下着類をかき集めながら、顔を上げないで、
「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」
とお願いした。
「ああ……うん」
海君はすぐにドアから出て行って、誰かに携帯で連絡を取ってくれているようだ。
きっと村岡さんだろう。
警察が来る前に、人に見られたら困るものだけでも片づけようと、私は歯を食いしばって必死に涙をこらえながら、ぐちゃぐちゃになった自分の下着を一つ一つ拾い集めた。
学で使うテキストやノート類も、全て残らず鞄と本棚からひっぱり出されていた。
そういえば、幸哉は私が大学に行くことを極端に嫌っていた。
(……破かれたりしてないかな?)
部屋中に散乱するレポート用紙やルーズリーフの山に、絶望的な気持ちで目をやった時、偶然にか、故意にか、ドア近くの紙の山のてっぺんに載せられた私の写真が、目に止まった。
私が自分で持っていた写真ではなかった。
幸哉に暴力を受けた直後の姿だろうか。
傷だらけの体を丸めて、死んだように幸哉のベッドで眠っている私。
(……こんなの海君に見せられない……!)
手の中に握りこんだ写真をギュッと握りつぶしながら、私は怒りと悲しみで体が震えるのを感じた。
(ひどいよ……! こんなの嫌だ……)
他にもないか、必死で探し回る。
床を這いつくばって確認しているうちに、じっと自分に注がれている視線に気がついた。
おそるおそる後ろをふり返る。
ドアの向こうにいる海君が、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目があった瞬間、今の私と同じくらい、彼もまた泣きそうな顔をしていると思った。
(見たんだね。海君)
それはどんな現実よりも、今の私には受け入れがたい絶望だった。
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
駆けつけてくれた村岡さんはため息を吐いて、とても悲しそうな顔で私を見つめた。
でもその目の奥には、厳しい光を宿している。
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。キミにもよく考えてほしい……」
残念そうに、それでもキッパリと宣言されれば、私に反論する力はもう残っていない。
「はい」
静かに頷いて、打ちのめされたような思いで胸に手を当てる。
村岡さんの背後に目を向けて、もう一度海君の顔を見る勇気が、私にはなかった。
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私たちがしばらく見張っておくから」
優しく気遣ってくれる村岡さんに頭を下げる。
「ありがとうございます」
それから村岡さんと、一緒に来ていた刑事さんに手伝ってもらって、簡単に部屋の片づけをした。
海君も、いつの間にか部屋には入ってきたけれど、照明器具やテーブルなんかの大きな物を片づけるばかりで、細かな私のものには手をつけようとはしなかった。
私のほうを見ようともしない彼に、私もわざと背中を向け続ける。
でも背中越し、ずっと彼の動きばかりを気にしていた。
(こっちを見てよ。海君)
彼がいったい何を考えているのか。
気になって仕方がない。
いろんな思いが頭の中を駆けめぐって、気を緩めると涙が零れそうになる。
だから歯を食いしばって、必死に部屋の片づけを頑張る。
(何か言ってよ。海君)
これ以上、彼に何を望めるというのだろう。
私には、もうどうしようもなかった。
「好きだから」という思いだけで傍にいてもらうには、今の私の現実はあまりにも厳しいものだ。
このまま優しさに甘え、自分の感情に溺れていたら、もっと彼を傷つけることになる――きっと。
彼が私に感じてくれている好意は、果たしてそれに見あうほどのものなんだろうか。
私と同じくらい強いものなんだろうか。
わからない。
自信なんて全然ない。
だから私は目を閉じる。
耳を塞ぐ。
確かめもせずに、彼の前から逃げだしたい衝動に駆られる自分を、これ以上引き止めることなんて、もうとてもできそうにない。
愛梨に連絡して、その日は彼女の部屋に泊めてもらうことになった。
「大丈夫……居候の彼氏なんかすぐに追い出すから! いつまでだってここにいなさい!」
携帯の向こうですごい剣幕で叫んでいる愛梨は、「だからあんなに言ったじゃない!」なんて私を責めるような言葉は、決して口にしない。
その優しさが今は心に染みる。
「ありがとう……」
心からのお礼を言って、携帯を切った。
愛梨のおかげで、ほんの少しだけ気持ちが明るくなったような気がする。
でも、ドアの向こうで私を待っている海君の背中を見たら、またすぐに泣きそうな気持ちになった。
海君が私の顔を見てくれない。
それがくり返されるたび、胸の痛みはどんどん大きくなる。
ブランコと滑り台しかない小さな公園に入った海君は、本当にブランコに座ってキーキーと軋む音を立てながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。
私ももう一つ並んだブランコに腰かける。
でも、とても漕ぐような気にはなれない。
静かな公園に、海君の座ったブランコの音だけが響いた。
私たち二人の間には、ただ長い長い沈黙だけが続く。
これから海君がどんな話を切り出すつもりなのか。
想像しただけで、心が握り潰されそうだった。
(どうせサヨナラするんなら早いほうがいい。そうじゃないと、私はどんどん海君を好きになってしまう。望めるはずもない夢ばっかり見てしまう。そうなってからじゃ……きっともっと辛くなる……)
自分に言い聞かせるかのように、そんなことばかりを考える。
いつの間にか、深く俯いていた頬を、涙が伝って落ちた。
「泣かないで」
海君がふいにそう言って、ブランコから飛び下りた。
私の傍へとやってくる気配がする。
すぐ目の前で止まる、見慣れたスニーカー。
「泣かないで真実さん」
頭上から降ってくる声は、胸を締めつけられるくらいに優しかった。
私の髪にそっと触れた手が、そのまま頬を撫でるようにして涙をすくい取り、肩の位置まで下りて止まる。
「泣かないでよ、真実さん」
まるで壊れものを扱うかのように、優しく抱き寄せられて、もう涙が止まらなくなった。
「ごめんね、海君……」
何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
でも――。
「ごめんね……ごめんね……」
涙と一緒にその言葉しか、私の口からは出てこなかった。
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
胸いっぱいに抱えこんでいた気持ちを全部さらけ出すかのように、ただ謝り続ける私を、ぎゅっと抱きしめて海君は囁く。
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
しゃくりあげるばかりだった私は、息が止まるような思いで、海君の腕の中から彼の顔を見上げた。
月明かりの中。
確かに海君はいつもとは別人のように、冴え渡った表情をしていた。
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
「海君?」
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそ俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
「海君!!」
息をのんだ私に、海君は実に彼らしくない、形だけの笑い方をした。
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
もう言葉も出てこない。
彼は本当に私のよく知っている海君だろうか。
それとも別の誰かだろうか。
そもそも『海君』という青年は、私が勝手に名づけた、本当には存在しない人物だ。
でも私は知っている。
私の目の前にいるこの彼は、とても太陽の下が似あうこと。
明るく屈託なく笑うこと。
私を見つけ出し、暗闇の中から救ってくれたこと。
――そして誰よりも優しいこと。
私はそんな彼に憧れて――どうしようもなく好きになった。
だから――
(私のせいで、傷つかないで……!)
願うような、祈るような気持ちで、その胸にもう一度顔を埋めた。
誰かを大切にしたいという想いは、祈りによく似ている。
(どうかこの人が幸せになれますように……)
自分のためならば願いもしないようなことも、その人のためならば、願わずにいられない。
代償に自分が不幸になってもかまわない。
そんなことはどうでもいい。
(ただこの人が幸せならば……)
出会ってからずっと、私が海君に感じていた想いは、いつだってそんな――祈りにも似た願いだった。
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつを許すんだ。結局、許してしまうんだ……ねぇ、そんなにあいつが好き?」
私を抱きしめたまま、海君は思いもかけないことを言いだす。
驚いて顔を上げた私は、月の光を背中に受けながら、真っ直ぐに私を見つめている海君と目があった。
怒ったような、傷ついたような、初めて見る表情だった。
「……どうして?」
彼が言ったことの意味がわからない。
そんなことがあるはずない。
驚きのあまり目を見開く私を、彼はほんの少し目を細めて見る。
どんな時だって真っ直ぐなその瞳に、一筋の影が落ちる光景が、たまらなく私の胸を灼く。
「私が好きなのは……!」
彼の両腕をしっかりと掴んで、声を荒げて主張しようとした私の声は、同じように大きな海君の声に遮られる。
「俺でしょ! ごめん。わかってる……ちゃんと知っている。でもどこかであいつを許してる真実さんがいる……できることなら、あいつにまともに戻って欲しいと望んでる真実さんがいる……もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
胸にかき抱くように私を抱きしめて、海君は押し殺したような声で呟く。
その声が、言葉が、痛いくらいの腕が、私の胸に刺さった。
「そんなはずないじゃない!」
涙と一緒に溢れだした言葉が、ちゃんと海君に伝わるだろうか。
こんなに傷つけて、こんなに苦しめて、それでも傍にいて欲しいと願わずにはいられない人。
――どうやったらもっと、彼に私の想いを伝えられるのだろう。
自分だけが、あの地獄のような日々から抜けだして幸せになるのは、なんだかズルいことのような気がして、私は幸哉にも幸せになって欲しいと願った。
でもそれは、私の自己満足であり、偽善だ。
幸哉が私を望むかぎり、幸哉の願いは叶わない。
絶対に叶わないのだから――。
(わかっているのに望んだ。願わずにいられなかった。全部私のわがままだね……)
どうしようもない思いに、私は海君の腕の中で、固く目を瞑った。
(私のわがままで、海君を傷つけた……!)
それなのに、まるで誰にも渡さないという意思表示のように、彼は私をきつく抱きしめる。
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
「海君……!」
どうしよう、涙が止まらない。
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方なんて、そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
小さな叫びのように、私の耳元で囁かれる言葉は、私だけのものだ。
私だけに海君が向けてくれた、これ以上ない強い想いだ。
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
一つまちがえれえば彼を奈落の底に突き落としてしまいかねない、それは恐ろしい言葉のはずなのに、嬉しくてたまらない。
泣かずにいられない。
この言葉は、きっと私の一生の宝物になる。
この先もしも一緒に歩けない日が来たとしても、海君が私に与えてくれた最高の贈りものになる。
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
その胸に頬を押し当てたまま、くり返し伝える言葉に、彼は長い息を吐き、私の髪に頬を押し当てた。
「うん。真実さん」
いつものように優しい調子に戻ったその声が、張り裂けそうだった私の心を、そっと優しく包みこんでくれた。
愛梨のアパートまでの道を、海君と手を繋いで歩いた。
私のアパートよりは繁華街から遠い静かな道。
静まり返った住宅街に、私と彼の足音だけが響く。
(この道がどこまでも続けばいいのに……)
一歩先を歩く背中を見つめながら、そんなことを思った。
けれどアパートよりはずっと手前の曲がり角で、うす暗い街灯の下、私を待ってくれている愛梨の姿を見つけたら、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。
「あっ来た! 真実ー!」
大きな声で叫びながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を振る元気な姿は、いつも変わらない。
「愛梨!」
手を振り返す私を海君は見下ろして、ちょっぴり笑った。
まるで自分のことのように嬉しそうな顔。
優しい瞳が「良かったね」と声にならない言葉をかけてくる。
(うん)
私も声に出さないで頷いてから、繋いだ手に力をこめた。
ありがとうの思いをこめて握りしめた。
まさか海君が私を送ってくるとは、さすがに愛梨も予想していなかったらしい。
「こんばんは」
と笑って頭を下げた海君に、ほんのり頬を染めて、かなり慌てている。
「こ、こんばんは」
愛梨の視線がじいっと、私と海君が繋いだ手に注がれているのを感じた。
思わず放そうとした私の手を、海君は自分の手ごと軽く持ち上げて、「はい」と愛梨にさし出す。
「う……海君!」
焦る私にニヤッと悪戯っぽい笑顔を向けると、海君は愛梨の手の上で私の手を放した。
「こっからは交代。よろしくお願いします」
もしうぬぼれてもかまわないならば、私を見つめる海君の瞳はこの上なく優しい。
まるで慈しむように、惜しむことなく注がれる優しい眼差し。
「OK。お姫様は確かに預かるからね」
冗談めかして愛梨が私の手をしっかりと受け取った。
根が陽気な愛梨は、きっとこんなやり取りが大好きだ。
海君のことをかなり気に入ったはずだと、私にはわかる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
いつもと同じ約束を残して、海君は私たちに背を向ける。
すっかり見慣れたその背中を、私はちょっぴり寂しい気持ちで見送った。
「ありがとー! 海君!」
愛梨が私と繋いだ手をぶんぶんと振りながら、大声で叫ぶ。
海君は笑顔でふり返って、もう一度愛梨に頭を下げる。
その背中が遠くの角を曲がって、すっかり見えなくなってから、愛梨は改めて、ポツリと呟いた。
「真実……きっと今度は幸せになれるよ……」
余計なネオンがないおかげで、このあたりは私の部屋がある界隈よりよく星が見える。
愛梨は夜空を見上げながら、独り言のようにくり返した。
「幸せになれる。きっと。海君と一緒だったら……」
胸が痛かった。
「うん。そうかもしれない……」
口ではそう答えながらも、きっとそうはならない予感が私にはある。
海君は私に何も教えてくれない。
あれこれ聞かれるのを好まないのには、きっと何か理由があるはずだ。
私の知らない『何か』。
その『何か』がある限り、あまり夢を見てはいけないと、私は自分に言い聞かせる。
でも今は――少なくとも今この時だけは、また明日来てくれると言った彼の言葉を喜ぼう。
喜んで――幸せな気持ちで、嫌なことも全部忘れて眠りにつこう。
「私……今でも、幸せだよ……」
夜空を見上げながら自然と笑顔になれた私の顔をのぞきこんで、愛梨もぱあっと華やかに笑う。
「それはどうも……ごちそうさま!」
「あははっ」
あんなに嫌なことがあった夜だというのに、私は笑っていた――笑えているのは、海君や愛梨のおかげだということを忘れてはならない。
夜空を見上げながら、二人がいてくれたことに心から感謝した。
「でもさ……警察が動きだしたんだったら、さすがに岩瀬も、もうこれで諦めるんじゃないかな? ……犯罪者にまではなりたくないんじゃない?」
ベッドが一つしかない愛梨の部屋。
私は愛梨のお母さんが田舎からやってきた時用の布団をベッドの隣に敷いて、ベッド上の愛梨と並んで横になっている。
突然出てきた幸哉の名前にドキリとしながらも、できるだけ普通に聞こえるように返事した。
「うん。そうだね」
愛梨は、幸哉が私にふるった暴力の全てを知っているわけではない。
どんどんおかしくなっていく幸哉が、私は怖くてたまらなくて、次第に誰にも言えなくなったから、愛梨だけじゃなく他の誰も、本当のことは知らない。
言うつもりもなかった。
ただ私が一人で耐えていればいいのだと――我慢していればいいのだと、ずっと自分で自分に言い聞かせていた。
でも本当は――
「できたら……もう私のことは忘れてほしい……それで前の幸哉に戻ってほしい……」
口に出して言葉にして、初めて、願いは誰かに届くものなのかもしれない。
「きっと、そうなるよ」
愛梨の返事は、優しい彼女の慰めの言葉であるだけではなく、目には見えない誰かの言葉のようにも聞こえた。
本当に幸哉に変わってほしいと願う私の心が、その時初めて、その誰かに届いたような気がした。
(幸せになって、とはもう願わない……だからどうか……私のことはもう忘れて)
今度こそ、その願いが叶うといいと、私は心から祈った。
「ねぇ真実。せっかくだからさ……明日一緒に大学に行かない?」
もう眠ったのかと思っていた愛梨が、ふいにそう問いかけてくる。
突然だったのに、どうしようなんて迷う間もなく、私の口は勝手に、
「うん。行こうかな」
と答えていた。
しーんと一瞬、部屋の中に静けさが広がる。
ひょっとしたら返事が聞こえなかったのかと、布団から身を起こしてベッドの上の愛梨をのぞきこんだ私はびっくりした。
愛梨はベッドに仰向けに転がったまま、ポロポロと涙を流していた。
「やっと……やっと真実の口からその言葉が聞けた……」
ぐいぐいと手の甲で涙を拭きながら、嗚咽する愛梨の姿に、あっという間に私の視界もかすんで見えなくなる。
面倒見が良くて人情家の、思いやりに満ちたこの親友を、私は今までどれだけ傷つけてきたのだろう。
時と共に誰もが私という存在を忘れて行く中、たった一人でくり返し声をかけてくれるには、いったいどれだけの勇気をふり絞ってくれていたんだろう。
「愛梨……」
ボタボタと涙をこぼしながら呼びかける私の顔を見て、愛梨は泣きながらふき出した。
「ブッ。真実ったら泣き顔ちょっと不細工……そんなんじゃ海君に逃げられちゃう」
涙でぐしゃぐしゃな自分の顔は棚に上げておいて、よく言う。
「愛梨だって! その顔じゃ彼氏に逃げられるわよ……!」
負けずに言い返した私に向かって、愛梨はイーッと顔をしかめてみせた。
「残念でしたー。しょっちゅう喧嘩するから、時男は私のこんな顔ぐらい見慣れますー。今更そんなことくらいじゃ、私たちはどうにもなりませーん」
「………………!」
負けるものかと何か言い返したかったけれど、それ以上はもう何も言えなかった。
海君と出会って一ヶ月にも満たない私じゃ、二年も恋人と一緒に暮らしている愛梨にかなうはずがない。
「ふふふっ」
勝ち誇ったように笑った愛梨は、起き上がっていたベッドの上にもう一度ゴロンと転がった。
私ももう一度、布団に横になって、天井を見上げる。
「真実は変わったなー」
同じように上を見たままの愛梨が、笑いまじりに呟いた。
「そうかな?」
自分では全然そんな気はしなくて。
でもそう言われるとなんだか悪い気もしなくて。
私もついつい頬が緩む。
「変わった。変わった」
おどけたような愛梨の声が――ダメだ。
嬉しくって、もう笑わずにはいられない。
「ふふっ。だとしたら嬉しいな」
笑いながらも素直に気持ちを語ってみると、間髪入れずに愛梨から、鋭い指摘が返ってくる。
「彼のおかげだね」
「うん」
頷いてから私は、そっと目を閉じた。
愛梨が「抱き枕変わりに」と貸してくれた柔らかな手触りのクッションを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
――目を閉じれば浮かんでくるのは、いつだって海君の笑顔。
(あの笑顔の隣にいたい……!)
その思いだけが私を衝き動かす。
「良かったねー……ほんと良かった……」
何度も何度もくり返す愛梨の声が、胸に染みる。
その一つ一つに私は、「うん」「うん」といつまでも返事し続けた。
翌朝、大学へ向かおうと二人で愛梨の部屋を出た途端、、少し離れたバス停に立っている海君の姿が目に飛びこんできた。
私たちの姿を見つけると、遠目にもはっきりとわかるくらいに、ニッコリと微笑む。
「すごい……笑顔が眩しいわ……!」
いつも心の中でこっそりと考えていたことを、愛梨に口に出して言われてしまって、私は思わずふき出した。
「あははっ」
そんな私たちに歩み寄ってきた海君は、ほんの少し目を細めて、いっそう笑顔になる。
「おはよう。楽しそうだね」
「おはよう」
負けないぐらいの笑顔で返事した私の手を、海君はすぐにいつものように捕まえる。
「じゃ行こうか」
「えっ? どこへ?」と聞き返す暇もなく、海君は私の手を引き歩きだした。
そうしながら、あまりにもサラッと、
「行くんでしょ? ……大学」
私がこれから言い出そうとしていたこと、そのものズバリを当ててしまう。
「ど、どうしてっ!?」
大声で叫んだ私をふり返って、海君はかなり意味深な表情で、じいっと私の顔を見つめた。
「真実さんのことなら俺はなんだってわかるから」
私が次に何かを言うまでは、決して崩れないその大真面目な顔は、いつだって私をこの上なくドキドキさせる。
私をからかうのが大好きな海君は、きっと何かを企んでいるんだろうに、私はまたそれにまんまと引っかかって、焦りまくってしまう。
「ど、どうしてっ……?」
海君はもうたまらないとばかりに、大笑いを始めた。
「もちろんただのカンだよ。ゴメン。そんなに素直に俺を信じないでよ……ハハハッ」
悔しい。
海君にはもう、かなわない。
全然かなわない。
「まいったなー。これは本当に本物だわ……!」
感嘆しながら腕組みをする愛梨を、一人置いてはいけないと私は必死でふり返るのに、当の愛梨は早く行けとばかりに、ヒラヒラと手を振る。
「どうぞ私のことは気にしないで。うーん……なんだか二人を見てたら、私も時男に会いたくなって来ちゃった……」
時男とは、私が転がりこんだせいで現在愛梨の部屋を追いだされている、彼女の恋人である。
「これ以上当てられると、ちょっと寂しくなってくるんで……どうぞ私のことは放っておいて下さい……」
冗談めかしてペコリと頭を下げた愛梨に、海君も立ち止まり、大きく体を折り曲げてお辞儀した。
「それでは、これより姫は自分が責任を持ってお預かりします」
「うんうん。いいよ」
「ちょ、ちょっと……姫って……!」
芝居めかしたやり取りが、すっかり気に入ってしまったらしい海君と愛梨は、二人揃って笑いながら、焦る私を見つめている。
優しい思いに満ちた、穏やかな眼差し。
全てが私のためだと、私の気持ちを明るくするためだと、気づいてしまったらまたきっと泣いてしまうだろうから、私はしらんふりりする。
ふたりの優しさに気がつかないフリをする。
「帰りも迎えに行くよ。ここまで送るから、大学どんなだったか、話を聞かせて」
余裕たっぷりで微笑む海君に、たまにはちょっとやり返してみたい気がして、私はわざと問いかけた。
「……それって、もしかして歩いて?」
顔が笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、せいいっぱい真面目な顔を作る。
『俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車に乗るぐらいしかないんで』
なんて、以前笑って言った時の、海君の茶目っ気いっぱいの子供みたいな笑顔を思い出して、ドキドキと反応を待つ。
海君は愛梨が一緒にいることをまったく気にしていないかのように、繋いだ手を強く引いて私を抱き寄せ、ぎゅっと自分の腕の中に抱きこんでしまった。
「もちろんそうだよ。何? もっと他の方法がいいの?」
私の意志をうかがうポーズとはいえ、そんなに近い距離から、瞳をのぞきこまないでほしい。
そんなに真っ直ぐに見られたら、息がかかりそうに近い位置から見つめられたら、ドキドキと心臓が口から飛び出してきそうになる。
どうしようもなく胸が鳴って、平静な顔なんてもうできるわけがない。
「……真実さん」
「な……な、何?」
「トマトみたいに顔が真っ赤だよ」
「…………………!」
ニヤリと笑った海君は、次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
(まったくかなわない! かなうわけがない!)
内心かなり怒っているはずなのに、やっぱり私はそんな彼の笑顔から、一瞬も目を逸らすことができない。
眩しくって、綺麗で、見つめずにはいられない。
「ゴメン。ゴメン。行こっか」
クシャッと私の頭を撫でる大きな手に、心臓を鷲づかみにされたような気分になる。
これではどう考えても私のほうが余裕がない。
その笑顔に、何気ない行動に、どうしようもなくドキドキさせられて、年上の威厳も何もあったものじゃない。
「これは……真実じゃなくっても、やられるわ……」
愛梨の小さな呟きが思いがけず耳に入ってきて、私はますますドキドキする。
赤くなる。
「あっ、またトマト!」
目ざとく見つけてしまう海君を、また喜ばせるばかりだった。
幅の広い舗道がずっと続く先に、レンガ造りの大学の正門が見えてきた。
私は立ち止まって大きく息を吐く。
春休みからこっち、一度もくぐることのなかった門だから、まるで入学したあの日のように、緊張と不安の気持ちが入り混じる。
「真実」
少し先を歩いていた愛梨が、ふり返って私を呼んだ。
それに呼応して、私の手を握っていた海君の手に、ぎゅっと力がこもる。
「行こう。真実さん」
海君は私の手を引いて、先に立って再び歩き始める。
自然と私も、もう一度踏みだすことができた。
愛梨のところまでたどり着いたら、海君はまるで昨夜と同じように、儀式めいた動作で私の手を愛梨へと引き渡す。
傍から離れる瞬間、
「がんばれ」
耳元近くでひとことだけ囁くと、私たちに背を向けて、すぐに今来たばかりの道を帰り始めた。
「海君!」
私は思わず呼びかけたけれど、彼は後ろ手に大きく手を振りながら、そのまま行ってしまう。
(海君……)
寂しいような心細いような私の気持ちがわかったかのように、海君は絶妙のタイミングで、ふいにクルリとこちらをふり返った。
「ガンバレ!」
満面の笑顔で大きく手を振りながら、彼が叫んだ言葉に胸が熱くなって、私も必死に両手を振り返す。
(うん。きっとがんばる!)の思いをこめて、振り返す。
海君がもう一度こちらに背を向けたのを合図に、私も大学へ向かって歩き出した。
離れていてもいつも繋いでいるような右手の感触が、何よりも頼もしかった。
それは私の、勇気のみなもとだった。
「普通な……三ヶ月も講義に出てなかったら、もう名簿から名前が抹消されてるところなんだよ……」
数十分後。
私は広めの講義室の、後方よりの四人がけの長机の真ん中に座っていた。
今日はあまりにもひさしぶりだから、大学の様子だけ見てすぐに帰るつもりだったのに、愛梨に「いいから。いいから」と手を引っ張られ、気がつけばしっかりと、本当は一緒に履修していたはずの『心理学』の教室に座っている。
「白川真実さん」
出席を取られる時、しっかりと私の名前も呼ばれたことが驚きだった。
右隣に座っているのは愛梨。
左側にはあろうことか、これまで私のぶん、この『心理学』の授業に出席してくれていたという奇特な二人の人物が座っている。
――同じ教育学部三年の、須崎貴子と瀬戸口花菜。
入学したての頃は愛梨も含めた四人で、よく一緒に行動していたけれど、私が幸哉に束縛されて学校を休みがちになった頃からは、徐々に疎遠になっていた友だちだった。
特に貴子とは、「もう彼氏とは別れたほうがいい!」「それはできない!」と言いあいになって、それっきり会っていなかったので、てっきり見限られたとばかり思っていた。
それなのにいくつかの講義で、私の学生証を使って、代わりに出席してれていたのだという。
私は自分の学生証が手もとになかったことにも、今日気づいたというのに――。
「だっていくらなんでも愛梨ひとりじゃ、荷が重過ぎるだろ……?」
まるで男の子みたいな口のききかたをする貴子は、鋭い目をした理知的な美人だ。
さらさらストレートの髪を耳にかけながら、眼鏡越しに私の目を真っ直ぐに見つめる。
「真実がこのままフェードアウトするとは、私は思ってなかったし……」
自分で決めた目標に向かって真っすぐに生きている貴子だから、勉強や将来の夢よりも幸哉との恋を選んだ私を、きっと軽蔑していると思っていた。
まだ友だちだと思ってくれてたなんて、想像もしていなかった。
「貴子……」
思わず涙ぐみそうになった私に、貴子の向こうからひょっこりと顔を出した花菜がぶんぶんと手を振る。
「ちょ、ちょっと待って。なんか全部貴ちゃんの手柄みたいになってるけど……私! 真実ちゃんのふりして座ってたのは私よっ!」
小柄な私よりも更に五センチも背が低い花菜は、栗色の巻き毛を肩に垂らした可愛らしい女の子だ。
小動物のようなクリクリとした目が印象的で、どんな時でも、私は花菜の笑顔以外の顔を見たことがない。
「当たり前だろ。私や愛梨に真実の真似ができるか。チビの花菜が化けるのは当然だ……!」
花菜とは対照的に、笑顔が想像もつかない貴子に冷たいことを言われても、
「えー。それは確かにそうなんだけどー」
ニコニコとやっぱり笑っている。
懐かしかった。
みんなと一緒に普通に大学生していた頃に、時間を超えてポンと帰ってきたようで、本当に嬉しかった。
「真実……」
愛梨の心配そうな声に、慌てて零れ落ちた涙を拭う。
筆記用具もテキストもそれを入れている鞄も、全部愛梨からの借りものばかりだから、ハンカチがなかなか見つからない。
ポロポロ涙を流しながら、鞄の中を必死に漁る私に、貴子がスッと自分のハンカチをさし出してくれた。
しっかり者の貴子と、おっとりと可愛らしい花菜。
華やかで明るい愛梨。
三人とはこの大学に入学してから知りあった。
きっかけは簡単なこと――名簿順で並んだ入学式の席が、たまたま近かったから。
だけど、親元を離れて初めて一人暮らしを始めたこの街で、知っている人も誰もいない中、友だちになるのなんて、そんな些細なきっかけでじゅうぶんだった。
性格も見た目も、成績さえ違うのに、いつも一緒の四人。
何をするにも四人。
その四人組を壊してしまったのは私だ。
「あんな男とつきあうのはやめな」という貴子の忠告に、私が耳を貸さなかったせいで、私たちの仲は終わりになった。
あれから半年。
懐かしい顔が揃って、私を歓迎してくれていることが嬉しい。
ずっと私と口もきいてくれなかった貴子が、真っ直ぐに私の顔を見て、
「まったく遅いんだよ……真実は……」
なんて冷たく言い放ってくれるのが嬉しい。
再び貴子の向こうから、花菜がひょっこり顔を出した。
「ねえ真実ちゃん。これでも貴ちゃんは嬉しくてたまらないんだからね。ずっと『真実はまだか。真実はまだか』って愛ちゃんに催促してたんだから……もちろん私だって嬉しいよ。お帰り真実ちゃん」
余計なことは言うなとばかりに向けられた貴子の冷たい視線も、まったく気にせず、花菜はニコニコしている。
見ている私まで思わず笑顔になった。
幸哉に殴られた傷が日ごとに増えていく私を、「真実ちゃん大丈夫? 本当に大丈夫なの?」とずっと心配してくれていた優しい花菜。
「平気だよ」と嘘を吐き続けてきたその笑顔に、もう嘘をつかなくてもいいことが、何よりも嬉しかった。
「こういうことだから、大人数の講義はほとんど真実も出席にしてある。でもさすがに少人数のは無理だったから、テストでがんばるか、また来年だね……わかってると思うけど、休んでたぶんの授業内容を聞くなら貴子にね。まちがっても私には聞かないで!」
朗らかに笑いながら、こそこそと小さな声で報告してくれる、大好きな愛梨。
大学に来なくなった私にも、直接連絡を取り続けてくれた愛梨がいたからこそ、私はこの場所に帰ってこれた。
どんなに感謝したって、とてもしきれない。
照れたように笑う顔に、本当に頭が下がった。
「それにしても良かった……真実の目が覚めて……」
昼休み。
特別棟の三階にあるカフェテリア。
丸いテーブルを挟んで真向かいに座る貴子は、眼鏡越しに、まるで探るように私の表情を観察している。
「うん。そうだね」
素直に頷いた私に、貴子の目の鋭さがほんの少し弱まったように感じた。
幸哉とのことが、辛い思い出ばかりになってしまったのは悲しいが、確かに今の心境は、やっと悪い夢から抜け出せた気分だ。
貴子の言葉は正しい。
「まだしばらくは安心できないけどね……」
用心深く周囲を見回す愛梨に、取り成すように花菜がコロコロと笑う。
「大丈夫だよ。きっと」
私もそっと、周囲の様子をうかがってみた。
私たちの大学には、もっとちゃんとした食事ができる食堂が三つもある。
だけど私が幸哉に会う可能性が少しでも減るようにと、なるべく人が少ないこの場所をみんなが選んでくれた。
昨日あんなことがあったばかりで、幸哉が大学に来ているとは思えなかったけれど、ひょっとしたらと考えると、やっぱり怖い。
私を守るように、みんなが取り囲んでくれていることが心強かった。
私は、やっと幸哉に別れを切り出せたことを、みんなに改めて報告した。
幸哉を露骨に嫌っている貴子は、大きなため息を吐いて腕組みをし、何度も頷いた。
「当然だ。というか……まだつきあってたのか?」
「うん。この間まで」
私は曖昧に笑った。
「長い間、ご心配をおかけしました」
テーブルに手をついて頭を下げる私の頭上から、
「うん。ほんとに心配したんだよ」
花菜の優しい声が降ってくる。
(ああ……私にはもう、帰る場所もないって思ってたけど……そんなことなかったんだなぁ……)
コツンとテーブルの上に頭を置いたまま、みんなの笑顔を見上げていると、胸の奥につかえていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
(またここに帰ってきても良かったんだ……私はまだやり直すことができるんだ……!)
そのことが何よりも嬉しい。
(少しずつでもいい……『彼』の隣にいるのにふさわしい人間に、私はなりたいから……!)
私の心にはやっぱりいつも、ど真ん中に海君がいた。
「それで? 噂のカレはどこで待ってるんだよ……?」
放課後、海君が待っているであろう正門前へと向かう私に、愛梨ばかりか貴子も花菜もついてくる。
「あのね、海君っていってね。たぶん年下なんだろうけど、なかなかしっかりしてて、これがまたいい男なのよー」
私は海君のことをみんなに話すつもりなんか全然なかったのに、愛梨がぺらぺらっと自慢してくれたおかげで、貴子も花菜もすっかり興味津々になってしまった。
でも――
「高校生なの? 何歳?」
そんなごく当たり前の質問にさえ、私は答えることができない。
照れ臭いとか、もったいぶってるとか以前に、――だって、私も知らないから。
何を聞かれても曖昧に笑ってごまかすしかない。
ニコニコと笑ってばかりの私に、
「別に教えたって減るもんじゃないだろ?」
不機嫌そうに目を向ける貴子には、特に本当のことを知られるわけにはいかなかった。
『海君は自分のことを、私には何も教えてくれない』
なんて貴子が知ったら、
「そんな男とはさっさと別れろ!」
と怒鳴られるに決まっている。
いつも淡々としている貴子が、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて大声で怒鳴るのは、いつだって私のためだ。
それはわかっている。
でも、だから尚更、「また厄介な恋に引っかかったのか……!」と呆れられたくはなかった。
それに――
(海君と私って、恋人同士……じゃないよね……?)
私が海君に感じている――海君が私に示してくれる――強い気持ちには、自信があるけれど、それをなんと呼んでいいのかは、正直私にはわからない。
(海君を私の『恋人』とは呼べない……今はまだ……)
厳しいものから目を背けて、楽なほうに流れようとしている自分のズルさが、どうしようもなく嫌になった。
私は唇を噛みしめる。
「ねえ、真実。あれじゃないの?」
愛梨に呼びかけられて顔を上げてみれば、いつの間にかもう正門がすぐ近くに迫っていた。
「どれ? どこ?」
私を押し退けんばかりの勢いで、門の外に突進して行く三人の後ろ姿を見ながら、私は心の中で海君に手をあわせた。
(ごめん。海君)
海君は愛梨が目ざとく見つけたとおり、やっぱり正門の前で、私を待っていた。
ガードレールに軽く腰かけて、長い足を投げ出しながら私を待っている間、彼はいつもどんなことを考えているんだろう。
私が何時に帰ってくるとか、特に今日みたいな日はちゃんと約束しているわけじゃないから、ひょっとするとずいぶん早くからこの場所で待っていてくれるのかもしれない。
携帯をいじるわけでもなく、本なんかを読むわけでもない。
ただ街や空や通り過ぎる人々に、ゆっくりと視線を向けている海君は、いろんなものからすごく自由な存在のように見える。
何にも縛られない、自由な存在。
――だけどそれは、そんな海君が羨ましいという気持ちと共に、私に不安を呼び起こさせる。
本当はいつ私の傍からいなくなってもおかしくない海君のポジションと、彼の自由な雰囲気があまりにも合致し過ぎるから。
だから――
(いやだ……! いなくなったりしないで……!)
勝手に心の中で悲鳴を上げた瞬間、海君がこちらに視線を向けた。
曇りのない真っ直ぐな瞳が、おそらくは私の姿を見つけて、それはそれは嬉しそうに微笑む。
――何の根拠もない不安なんて、その笑顔を見た瞬間に、頭の中から全部吹き飛んだ。
「あっ! おーい。海くーん!」
ぶんぶんと大きく両手を振る愛梨が、なぜか私よりも先に、海君に駆け寄っていく。
「ちょ、ちょっと……愛梨!?」
慌ててその背中を追うと、いつの間にかもうすでに、海君の目の前には貴子が立っていた。
細身の体の背中までを覆う真っ直ぐな髪を、サラリと耳にかけながら、貴子は海君に問う。
「あんたが真実の海君?」
(ま……『真実の』って……! 貴子!?)
私は顔がカッと赤くなったのが自分でもわかるくらいなのに、どうして海君はあんなに平気なんだろう。
どうしてなんの躊躇いもなくすぐに、
「はい」
と頷いてしまうんだろう。
嬉しいのだか恥ずかしいのだかもうよくわからない感情で、私は真っ赤になって俯いた。
腕組みしたまま、じっと海君を観察していたらしい貴子が、
「よし。合格」
と呟いた声を聞いて、ハッと顔を上げる。
貴子は髪を翻して、そのまま海君の横をすり抜けていくところだった。
思わずポカンとしたまま、その背中を見送ってしまいそうになってから、私はハッと我に返った。
「ちょっと! 貴子!」
貴子は一瞬ふり返って、唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、私に微笑んだ。
――ような気がした。
「うん。いいんじゃないか?」
再び歩きだす貴子を小走りで追いながら、花菜も私にふり返り、笑顔で叫ぶ。
「私もいいと思うっ! 真実ちゃんとっても可愛くなったもん。私は今のほうが、ずっと真実ちゃんらしいと思う」
隣にいた愛梨は、私の顔をまじまじと見つめながら、プッとふき出した。
「確かに! 見た目、まるで高校生みたいだけど……へたしたら海君より年下に見えるけど……!」
ムッとむくれる私に、海君が更に追い討ちをかける。
「ハハハハッ。俺も、そう思ってる!」
「もうっ! 海君!」
こぶしをふり上げるポーズはしてみたものの、空に輝く太陽よりも眩しい笑顔を見ていたら、どうしたってふり下ろす力はみんな、海君に奪われてしまうのだった。
もし今誰かに、「あなたは幸せですか?」と尋ねられたら、私はまちがいなく「はい」と答えるだろう。
諦めかけていた大学に復学して、大好きな友だちに囲まれて、傍には海君がいてくれる。
でもふとした瞬間、――たとえば愛梨がバイトで夜、留守にした時なんかに、どうしようもなく不安な思いが、胸を過ぎる。
(ひょっとして幸哉が私の居場所をつきとめて、ここに怒鳴りこんできたりはしないだろうか?)
考えないようにしようとは思っても、その恐怖はどこまでも私を追いかけてくる。
警察から警告が発せられたことはわかっていた。
大学にいる間はみんなが、登下校の間は海君が、部屋に帰ったら愛梨が、私をいつも守ってくれているということも――。
でもそれでも、私の心の奥深くにある恐怖が、まったく消えてしまうということはない。
いくら「もう大丈夫」と自分に言い聞かせても、悪夢を見て、夜中に飛び起きる夜はなくならない。
人が変わったように激しく私に詰め寄る幸哉の顔。
くり返される暴力と投げつけられるひどい言葉。
グチャグチャに荒らされた私の部屋。
ふとした折に甦るそれらの記憶が、私を戦慄させる。
なのに私の毎日は、まるでそれと相反するかのように、平和で何事もなく、静かに過ぎていった。
海君はあいかわらず、毎日決まった時間になると、私を迎えに来た。
愛梨のアパートの近くで待っていて、大学まで送ってくれる。
放課後はまた、正門のところで待っていて、私を愛梨のアパートまで送り届けてくれる。
まるで当然のように、毎日くり返される、その行動に、
「ねぇ……本当は何者なの?」
愛梨が首をひねるのも無理はなかった。
「ひょっとして学校には行ってないのか?」
貴子は、私自身も前に一度、海君に尋ねたことがある疑問を口にする。
「別にいいじゃない……あんなに真実ちゃんを大切にしてくれてるんだから……それでじゅうぶんでしょ?」
笑いながらみんなに言える花菜は、実は私たちの中で一番大人なのかもしれない。
――でも私自身は、花菜ほどは大人になれないから。
(海君は、あの夜どうして私なんかに声をかけたんだろう……?)
いくら海君が、「俺は俺のしたいようにする」と宣言したからといっても、私にはやっぱり、それが一番の大きな疑問だった。
「……海君」
手を繋いでいつもの道を歩いている最中。
突然呼びかけた私に、隣を歩いていた海君は、ゆっくりと顔を向けた。
汗ばむような陽気の中。
まるで気温を感じさせない涼しい顔。
いつもの笑顔。
いつもの距離。
少し目を見開く動作だけで、(何?)と簡単に聞き返されて、私はたまらないほどドキドキしていた。
(なんて聞いたらいいんだろう……?)
たいした決意もなく、その場その時の感情だけで話をしがちな私は、海君の顔を見ただけで言葉に詰まってしまう。
言葉はよく選ばなければならない。
秘密だらけの彼のルールに反しないように。
ごまかさずにキチンと答えてもらえるように。
――最大限の注意を払って、選び抜かなければならない。
決して人通りの少なくはないこんな道の真ん中で、なんの前置きもなく切り出してしまったことを、今さら悔やんでみてももう遅い。
変な汗が額に浮かんで来そうな気持ちで、私はなんとか言葉をひねり出した。
「どうして初めて会った夜に……私に声をかけてきたの?」
海君はすかさず真剣な顔を作って、私の顔をじーっと真正面から見つめた。
「それはもちろんナンパだよ……可愛い子が歩いてるなって思って……それで…」
いかにも面白そうに言いかけて、私の表情を見て、途中でやめる。
私の頭の上にポンと右手を載せて、少し真面目なトーンに声を切り替えた。
「ゴメン……あまり面白くなかった?」
私は静かに首を横に振る。
その張り詰めたような静かな雰囲気に、海君もようやく、本物の真剣な顔を見せてくれる。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
反対に尋ねられて、私は途方に暮れた。
(どうしてって……どうしてだろう?)
自分自身でもわからなかった。
私が求めているのは、いったい何なんだろう。
海君との出会いにもっともらしい理由を見つけて、それで納得して、いったい何を安心したいんだろう。
何を守りたいんだろう。
名前もわからない。
いつまで一緒にいられるのかもわからなくても、「海君が好きだ」と思ってしまったあの瞬間から、もう全ては始まっているのに――。
どうしようもない想いに、誰よりも自分が引きずられているのに――。
「うん……やっぱりいいや……」
真剣に私を見つめる海君の瞳に笑いかけて、私は繋いだ手にギュッと力をこめた。
(大事なのは私の気持ちだから……私が海君を好きで、一緒にいたいと思うこの気持ちだから……)
私が一人で納得して、歩き出そうとしたその時に、本当に思いがけなく、海君は口を開いた。
「正直……自分でもよくわからないんだ。俺は誰にも必要以上に関わらないって決めてたし……実際今まではそうしてきたし……でも……胸が痛かったから……!」
切れ切れの言葉に、私は思わず足を止める。
今までになく、自分のこことを話してくれる海君の顔を、驚いて仰ぎ見る。
そして――
「海君?」
私を見下ろすその表情に、たまらずドキリとした。
大学からの帰り道。
今、私たち二人は、まちがいなく真昼の雑踏の中にいるのに。
初めて出会ったあの夜からは、すでにたくさんの時間が過ぎているのに。
海君は確かにあの夜の、私が生涯忘れられないであろう笑顔で、私を見つめていた。
「傷ついてる真実さんを見て、どうしようもなかったから……声をかけずにいられなかったから……」
そして自分で言っておいて、今初めて気がついたとでも言うように、フワッと笑う。
「あれ? これじゃやっぱりナンパだ……うん。でもそれだけじゃない……」
かなり強い力で、海君は私を引き寄せた。
腕の中に抱えこんで、私がどこにも逃げれないようにしてから、じっと顔をのぞきこむ。
「一目惚れだよ」
そう言って甘くきらめいた海君の瞳に、思わず眩暈がした。
ごく至近距離から真っ直ぐに見つめられて、私は自分でも気がつかないうちに自然と息を止めていた。
冗談じゃなく本当に、『今この瞬間に死ねたら、どんなに幸せだろう』なんてことまで頭を過ぎった。
なのに当の海君は、私の背中に腕をまわして、悪戯っぽく笑いかける。
「でも……真実さんだってそうでしょ?」
ハッと、私は瞳を瞬いた。
「俺に一目惚れしたでしょ?」
それだけ自身満々で言い切られると、たとえそれが事実であっても、今、とてつもなく幸せな気分に浸っていたとしても、思わず「そんなこと……」と、反発せずにはいられない。
それでも、「ない」とは言い切れず黙りこんだ私に、海君は、
「ある……でしょ?」
ニッコリ笑ってダメ押しする。
(あぁーもう! くやしいっ!)
本当に、海君には全然かなわない。
悔しくって俯く私の頭を、海君がそっと撫でた。
長い指が、短く切りそろえた私の髪をサラサラとすくう。
「……ありがとう」
勝手に決めつけて、その上お礼の言葉まで言ってしまった海君に、私はもう降参した。
上目遣いに見上げた顔が、私の大好きな屈託のない笑顔だったので、もうそれ以上の抵抗は諦めた。
何よりそれはやっぱり、彼の言うように今さらごまかしようのない、事実だったのだから――。
誰かを好きだと思った瞬間に、相手も自分を好きになったなんて、そんな奇跡みたいなことが本当にあるんだろうか。
私の世界から全ての音が消えて、たった一人の声だけが心に響いたあの瞬間。
同じように彼の時間も止まったんだったら、もうそれだけでいい。
他にはもう、なんの保証もいらない。
愛梨の部屋に転がりこんでから一週間。
私はようやく、自分の中である決意を固めた。
「やっぱり私……引っ越そうと思うんだ」
大学のカフェテリアで、私たち四人は今日も遅めの昼食を取っている。
大きな窓から射しこむ光が眩しいくらいの窓際のテーブルが、ここ最近の私たちの指定席。
朝から早起きして私が作った大きな四人ぶんのお弁当を、今まさに開こうとしていたところだったのに、私の突然の宣言で、一瞬みんなの動きが止まる。
「うん。そのほうがいいと思うよ」
すぐに再び動き始めたのは花菜だった。
椅子から立ち上がって、お弁当の包みを開き、ニコニコと笑う。
蓋が開けられたお弁当に、愛梨は思わず「わあっ」と歓声を上げてから、改めて私に目を向けた。
「まだ私の部屋に居たっていいんだよ……?」
心配そうに眉を寄せる愛梨は、いつも優しい。
でもその優しさにずいぶん甘えてしまっている自分を、私は感じている。
私を受け入れるために、愛梨は一緒に暮らしていた自分の恋人を部屋から追い出した。
でも夕食や朝食を一緒に食べに、毎日足繁く彼のもとへと通っている。
学校が終わったらすぐに彼のところへ行って、それからバイトに行って、それでも必ず夜には私が待つ部屋へと帰ってきてくれる。
一人きりになるのがまだ恐い私のために、夜は必ず傍にいてくれる。
そんな律儀な愛梨だから、かなり無理をさせてしまっていると思う。
いくら「だって私は真実が大事だから」と言われたって、これ以上迷惑はかけられない。
「でも新しく部屋を探すとなると、けっこうたいへんだよね……。敷金とか礼金とか、お金もかかるもんね……」
四人の皿に手際よく料理を取りわけながら、花菜は呟く。
貴子が「なんだそんなことか」と言わんばかりに、ふっと薄く笑った。
料理を食べるのに邪魔だったらしい髪を耳にかけながら、皿に盛られたばかりのから揚げを一つ、箸でつまみ上げ、花菜に目を向ける。
「それは問題ない。私の隣の空き部屋を、もう大家に交渉してある。おんぼろなアパートだから敷金や礼金なんていらないし、家賃もサービスしてくれるってさ」
さっさと言い終わるとすぐに、から揚げを口の中に放りこんだ。
ほっぺたを膨らませながら、涼しい顔をしている貴子のほうに、愛梨は驚いて身を乗り出す。
「えっなに? 真実が引越ししたいって……貴子は知ってたの?」
貴子はちょっと優越感に浸ったような顔で、こっくりと頷いた。
「えー、なんでー? どうして私に言ってくれなかったのよー」
むくれたようにドカッと椅子に座り直した愛梨に、花菜が笑いながら料理の載った皿を手渡す。
「私だって今聞いたばかりだよ……はい。愛ちゃん」
私はなんだか申し訳ないような気持ちになって首をすくめた。
「ご、ごめんなさい……」
二つ目の唐揚げを箸でつかんだ貴子は、人の悪い微笑みを浮かべているばかりで、とても助け舟を出してくれそうにはなかった。
「真実さあ……引っ越ししたほうがいいんじゃないか……?」
そう切り出してきたのは貴子からだった。
自分が愛梨の負担になっていることはわかっていたし、だからといって、いつまた幸哉がやってくるかもわからない部屋に帰る決心はなかなかつかずにいた私は、曖昧に頷いた。
「うん。それはそうなんだけど……」
貴子はサラリと髪を揺らして、私の顔をのぞきこむ。
「やっぱりあの部屋がいいのか?」
慌てて私は首を横に振った。
「ううん、そういうわけじゃない。でも、部屋を探すのもたいへんだし……お金のこともあるし……」
みなまで言い終わらないうちに、貴子は私の腕をむんずとつかんで歩きだしていた。
「だったらいいところがある。学校にも近いし、ちょっと古いけど、そのおかげで家賃は破格値だ」
連れて行かれた所は、貴子の住んでいるアパートだった。
ずっと以前に遊びに来たことがある。
「隣に住んでたOLのお姉さんが、結婚して出ていったんだ。知らない奴が引っ越してくるよりは、真実のほうがいいなってひらめいて……どうだ? 隣に私が住んでたら、あの最低男だって手出ししにくいぞ……?」
真剣なのか冗談なのかよくわからない言葉に、私は思わず苦笑がもれた。
貴子は幸哉のことを、はじめっから毛嫌いしていた。
そのせいで幸哉も、貴子だけは苦手で避けていたことを思い出す。
あまり大きく表情の崩れることはない貴子も、珍しく歯を見せてにっこりと笑う。
「大家に言って部屋は押さえておくから……ここに引っ越して来たらいい」
「うん……」
私も笑顔で答えたのだった。
しかし問題は、なんといってもお金だ。
「いくら家賃が安いっていったって、やっぱり引っ越し自体にはお金がかかるんだよね……ここは自分で、運べるものだけでも少しずつ運ぶしかないかなぁ……」
自分が巻いたのり巻きを食べる愛梨の姿を見ながら、(今日はよく巻けたなあ)なんて考えていた私は、ふうっと気の重いため息をついた。
それを聞いた花菜が、目はお弁当に向けたまま、手も忙しく動かしながら、コロコロと笑う。
「あら……? 真実ちゃんだったら、すぐにお金を作れる方法があるでしょ?」
「えっ?」
意外なセリフに、私はまじまじと花菜の横顔を見つめた。
愛梨と貴子もお互いに顔を見あわせて、何のことだかわからないといったふうに首を振りあっている。
「何か怪しい方法? 違うよな?」
探るような視線を向ける貴子に、花菜はあっけらかんと笑った。
「もちろん違うわよ。もっと普通の方法……リサイクルショップ!」
「………………?」
答えを聞いても、どうしてだかよくわからなくて、顔を見あわせあう私たちに、花菜が語ってくれた話はこうだった。
「真実ちゃんの要らなくなったバッグや靴を、リサイクルショップに持っていけばいいのよ。服も、以前に真実ちゃんが着てたのはけっこうブランドものばっかりだったから、もし、もういらないんだったら、結構いい値段がつくんじゃない? 引っ越しの荷物も減るし、一石二鳥。ね、簡単な方法でしょ?」
見事な笑顔に、ただただもう感心するしかなかった。
実際、お金に換金できるどれだけのものがあるのか。
私はその日の放課後、海君についてきてもらって、ひさしぶりに自分の部屋に帰ってみることにした。
懐かしい気持ちと、恐い気持ちが半々。
(もし幸哉がいたら? またあの時みたいに、部屋がめちゃくちゃになってたら?)
不安に思う気持ちは大きかったけど、繋いだ手が頼もしかった。
微笑みを含んで私を見つめる海君の視線が、嬉しかった。
「大丈夫。俺がついてるよ」
くり返し囁かれる言葉に、目が眩みそうなくらいの幸せを感じていた。
玄関にはちゃんと鍵がかかっていた。
そっとドアを開けてみると、締めきっていた部屋の淀んだ空気が、細いすき間から一気に流れ出してくる。
カーテンもちゃんと閉まっている。
部屋に誰かが入った形跡もない。
緊張のあまりに止めていた息を、私はため息と共にふうっと吐き出した。
(よかった。もう諦めたのかな……)
それならいいと思ういっぽうで、簡単にそうはならないだろうと確信している私がいる。
(そういえば最近……携帯も全然鳴らなかった……?)
予想外の沈黙はかえって不気味で、不安が心に重くのしかかってくるような気がする。
「真実さん大丈夫?」
気遣ってくれた海君に、黙ったまま頷く。
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
驚いて見上げた顔は、悪戯っ子みたいな笑顔だった。
私の目を見て、海君はさらに意味深に、ニヤリと笑う。
「そうしよっか?」
「だ、大丈夫よ!」
慌てて断りを入れる。
海君がいつだって私をからかおうとしているってことは、いいかげんわかってきた。
きっとこの後に続くセリフは――あれだ。
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
(やっぱり!)
でもわかっていたのに、まんまと引っかかる自分を止められない。
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
ふり上げた私の腕をつかんで、海君は笑いながら私を引き寄せた。
あまりにも体勢が崩れてしまって、倒れそうになる私の体は、海君に両腕で抱き止められる。
「危ないなぁ。気をつけて」
これではもう、どっちが年上なんだか本当にわからない。
悔しくって私は報復に出た。
「ごめんね」なんて言ってすぐに離れることもできたのに、あえてそのまま、海君の背中に腕をまわしてみた。
「真実さん?」
たまには海君のとまどう姿だって見てみたくて、ドキドキする胸を必死に我慢しながらそうしたんだったのに、彼は全然平気な様子で、かえって私をギュッと力強く抱き締める。
心臓が爆発しそうにドキドキして、もう我慢できなくなった。
「う、海君……」
ギブアップの思いで見上げた顔は、やっぱり悪戯っ子みたいな笑顔だった。
結局私は、自分は海君にはかなわないってことを、再確認しただけだった。
あらためて部屋の押入れやクローゼットの中を探してみると、確かに花菜の言うとおり、たくさんのいらないものが出てきた。
そのほとんどが、幸哉に貰ったバッグや靴や洋服。
幸哉は私にプレゼントするというよりは、好みの服を着た女の子を連れて歩きたくて、私にいろんななものを買い与えてくれた。
私がバイトで稼いだお金も、ほとんどは幸哉に取られて、こんなものになっていったんだから、私のものだとして勝手に処分してしまっても、問題はないだろう。
確認するようにその中の一つを、手にとって見てみた。
かなりヒールの高い華奢なパンプス。
これはもうきっと、私には必要ない。
(うん。ほんとにちょうどいいのかもしれない……)
大きな紙袋に何袋も、洋服を綺麗に畳んで入れながら思った。
(幸哉と関係あるものの処分にもなるし、前の私と決別する意味でも……これでいい)
がらんとなってしまったクローゼットがすっきりしたのと同時に、私の心のほうも、さっぱりとしていた。
合計八袋にもなった紙袋を、私は海君に手伝ってもらって、リサイクルショップへと持ちこんだ。
花菜が言ったとおり、それらの多くはかなり高額で引き取ってもらえ、私は引っ越し代金と少しの貯金を手に入れた。
(これで準備はできた。もうすぐ新しい生活が始まるんだ!)
少し前までは、想像もできなかった毎日に、私は今、暮らしている。
(いくら感謝しても、しきれないなあ……)
隣を歩く海君の笑顔を見上げて思った。
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
こういう時だけ年上ぶって、余裕の気持ちで笑ってみたのに、海君は笑顔のまま、間髪入れずに、
「じゃあ真実さんがいい」
と返事する。
(負けるもんか!)
いくらポーカーフェイスを気取ろうと思っても、オタオタして赤面してしまうのはいつも私。
年下のくせに、すました顔で私をからかうのはいつも海君。
「また……! そんなこと言う!」
今日も何度目か、真っ赤になった私を、海君は余裕の表情で見下ろしている。
(たまには『いいよ』って、言ってみようかな? そしたら海君も少しは慌てるかな?)
こりもせず悔しまぎれにそう思って、隙のないその笑顔を見上げて口を開きかけた時、海君のシャツの胸ポケットから、軽快な音楽が流れた。
(携帯……?)
思わずじいっと見つめる。
珍しいなと思った。
海君が携帯を持ってることは知っているけど、私と一緒にいる時に、それが鳴ったことはこれまで一度もない。
――たぶんこれが初めて。
海君は私に少し頭を下げて、背中を向ける。
相手を確認した様子もなく、軽い調子で、「はいはい」と電話に出たあと、「うっわ、忘れてた!」と大きく叫んだ。
一瞬、何のことだろうとその背中を見上げる。
彼は私に背を向けたまま、ゆっくりと前髪をかき上げている。
(なんだ……電話の相手に言ったのか……)
もう一度海君から視線を逸らしながら、私は正直、少し困っていた。
(こんな時って、いったいどうすればいいのかな? 近くにいると、聞き耳立ててるみたいだし、今更離れて行くのも、意識しているみたいで変だし……)
他の人のことだったら、別に気にしない。
でも好きな人だと話は別だ。
些細なことが気になってどうしようもない。
(海君は私に、自分のことは知られたくなさそうだし……)
かなり本気で困っていた。
(だって私って、海君の連絡先、何も知らないんだよ……?)
自分で考えておいて、悲しくなる。
立ち尽くしたままの自分の足に、視線をちょっと落としたその時、何か話しこんでいる様子だった海君の声から、
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
なぜかその言葉だけが、バッチリと私の耳に届いてしまった。
(……ひとみちゃん?)
こういうことにだけ過剰に反応するなんて、絶対嫌なのに、
(誰……? 女の子……?)
私の頭の中からは、もうその言葉が消えてくれない。
(だから……だから、絶対に好きになっちゃいけないって思ったのに!)
たった一言だけで、思考がそこまで飛躍できるのは、恋している時だけの特別な能力かもしれない。
自分自身に対する怒りにも似た、後悔の中、
(こんなことで動揺してるなんて、絶対に海君に知られたくない……!)
こんな時ばかりむくむくと、年上としてのプライドが頭をもたげる。
(海君が秘密だらけなんて、最初からわかってたことだもん……これぐらいどうってことない! 私は平常心!)
自分で自分に言い聞かせるかのように、何度も心の中でくり返している段階で、もはやすでに『平常心』とはほど遠い。
気持ちとは裏腹に、私の心臓はみっともないくらいの速さでドキドキと脈打っている。
(あー。もう、悔しいよー)
そんな私の目まぐるしいばかりの表情の変化に、あの海君が、気づかないわけがない。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
私の顔をのぞきこむようにして、本気で申し訳なさそうな表情をしながら、手をあわせる海君の顔を見たら、
(あーあ、やっぱりバレバレだ……)
と感じた。
「うん。別にいいよ」
なんてさらっと笑って言えるようなクールな女に、一度でいいからなってみたい。
みっともなく笑顔を引きつらせて、「うん」と答えるのがせいいっぱいだなんて、
『私は海君が大好きです。行っちゃったら寂しいです』
って、自分から告白しているようなものだ。
その上、
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
と海君に謝られて、クールどころか呆然とした顔になってしまう。
海君はもう、必死で笑いをこらえた顔で私を見ている。
(ほんとに百面相。ほんとにみっともない!)
情けなさと、本当に心からの寂しさで、胸が張り裂けんばかりの思いで、私はやっと返事を口にした。
「うん。わかった」
海君が頭を下げながら、私の髪をかき混ぜる。
「寂しいだろうけどゴメンね」
その時、ほんの少しだけ残っていた私の年上としてのプライドが、奮い立った。
「別に大丈夫だよ?」
理想どおりに、サラッと言う事が出来たつもり。
でも海君に、
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
瞳をのぞきこまれながら顔を近づけられたら、ささやかな抵抗も、もうそこで終わりだ。
――海君の真っ直ぐな瞳に、私は嘘を吐けない。
「嘘だよ……寂しいよ……」
しゅん、とうな垂れた私を、海君は大笑いしながら抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
「ちょ、ちょっと海君」
口では抵抗しながらも、私の両腕もしっかりと、彼を抱きしめ返した。
(明日からどこに行くの? ……誰と会うの?)
まったく気にならないと言ったら嘘になる。
でも口に出して確認するほどの勇気は私にはない。
『何も聞かない、何も知らなくていい』
それが私と海君の暗黙のルールだ。
それを破った時、私達の関係はどうなるのか。
海君が何かを言ったわけじゃないけれど、私は怖くて想像だってしたくない。
だから――素朴な疑問。
ちょっとした疑惑。
――そんなことだって、私にとっては全然簡単なことなんかじゃない。
でもどんなに苦しくても、寂しくても、こんな恋しなければよかった、なんて私が思うことはきっとないだろう。
その結論にだけは、私はきっとたどり着かない。
だから私は、これから先もきっと、こんな胸の痛みと何度も何度も戦っていくんだ。
(あーぁ、馬鹿みたいなのは私のほうだよ、海君……)
悔しいからせめて、想いの大きさが伝わるように、海君の体を思いきり抱きしめた。
(海君を好きな気持ちは、きっと誰にも負けない。だからこの想いの大きさが、どうか海君に伝わりますように……!)
願いをこめて、ただ抱きしめた。
宣言したとおり、海君は本当にその次の日から、私のところに来なくなった。
「私はどうってことないよ」という強がりと、「少しは一人でもがんばらなくちゃ」という独立心から、私は海君がいない間に引っ越しをした。
手伝いに来てくれたみんなには、
「あれっ? 海君は?」
と散々聞かれたけれど、
「何か用事があるみたい」
となんでもないようにさらっと答えた。
「女の子から電話がかかってきて、どうやらその子のところに行ったみたい。しばらく私のところには来れないんだって」
なんて、絶対に言えない。
可哀相なんて思われたくなかったし、自分だってそう思いたくなかった。
貴子に、「そんな男はやめておけ!」と叫ばれたくもない。
でも、これまで毎日一緒にいた海君と会わないということは、寂しいというよりも、不満というよりも、なんだか不思議な感じだった。
朝、大学に行こうと思って玄関のドアを開ける。
――道の向こうに、海君の姿はない。
大学から帰る時、正門の前で、思わず明るい色の少しクセがかった髪を探す。
――やっぱり、海君はいない。
思わずため息が出てしまうほどの、喪失感。
(このまま、もう会えなかったりして……)
根拠の無い不安でさえ、打ち消すことができない。
(だって私たちには、確かなものなんて何もないんだもん……)
改めてそのことを、思い知らされたような気分だった。
前期も終わりに近づいた大学の講義は、そろそろまとめの時期に入っている。
半分以上講義に出ていなかったんだから、こんな時こそしっかりと遅れを取り戻さないといけないのに、私の頭の中には常に海君のことしかない。
教授の声は頭のどこかを素通りしていくばかりで、私は気がつけばいつも、窓から空ばかりを眺めている。
(あーあ、悔しいな……)
ペンを持ったままの右手で頬杖をついて、軽く頭を振る。
――払っても払っても浮かんでくるのは不安な気持ちだった。
誰がどれくらい誰のことを思っているのかなんて、結局は比べようもないから、安心もできないし、油断もできない。
(私が思うくらいに、海君は私のことを好きなのかな? ……本当はもっと好きな相手が、他にいたりしないかな?)
考えれば考えるほど、何の根拠もない不安はあとからあとからからどんどん湧いてくる。
(こんなはずじゃなかったのになあ……)
講義に集中しようとするけれど、頭の中では、情けない思いばかりが大きくなる。
これ以上頭と体が別々の作業を続けることに無理を感じて、私は諦め、ペンを机に置いた。
もう一度、講義室の窓から見える青い空を見上げてみる。
海君がいない間に、空は日一日とその色を濃くしているようだった。
(もうすっかり夏だな……)
二人で行ったあの初夏の海は、今頃たくさんの人でごった返しているんだろう。
(もう一度、二人で行けるかな……? 今度はあの砂浜を、手を繋いで歩けるかな……?)
私をふり返る海君の笑顔を思い出すだけで、胸が締めつけられるように痛くて、どうしようもなかった。
(誰かを好きになるって、こんなに大変なことだったかなあ……?)
目を細めて、太陽を見上げる。
私にとって海君は、この光よりも眩しい存在。
頭をひねって、いくら記憶をたどってみても、こんなに大きな想いを抱えたことは、今までなかった気がする。
(まさか、『こんなに好きになったのは初めて』なんて嘘っぽいセリフ……本気で頭に浮かぶ日が来るなんて、思わなかったよ……!)
自嘲するように、降参するように、私は講義そっちのけでいつまでも空を眺めていた。
その向こうに思い出す海君のことをいつまでも考えていた。
「ねえ……やっぱりおかしいって……!」
アイスコーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら、愛梨は組んでいた足を左右組替えて、声高らかに主張する。
かなり丈の短いそのスカートを、眉をひそめて見ていた貴子も、チラリと私に視線を流しながら、うんうんと頷いた。
「私も同感だ」
「でも……何かわけがあるのかもしれないでしょ……?」
私の代わりに返事してくれる花菜は、今日もみんなのお皿におかずを取り分けている。
昼食時のお給仕役は、もう彼女以外には考えられない。
「だってあんなに毎日来てたんだぞ?」
「それがパッタリって……ねえ?」
花菜のフォローも虚しく、それでも貴子と愛梨は私に問いかけるような視線を向ける。
「絶対おかしいって……!」
確信するように頷かれて、私は正直、たいへん困っていた。
いつものカフェテリア。
私が作ったお弁当にプラスコーヒーという形で、私たちは四人は今日も遅めの昼食を取っていた。
近くなった試験の話や、私が急いで詰めこまないといけない講義の内容。
今年はもう諦めるしかなくて、来年にまわさないといけない単位の話。
――話題はたくさんあるはずなのに、なぜかみんなの話は、すぐに海君のことへと流れていく。
海君が私のところに来なくなってから、十日が経っていた。
それまでが毎日毎日、正門の前で私を待っていてくれただけに、みんなの疑問が尽きることはない。
「ねえ……なんで海君来なくなっちゃったの?」
いくら聞かれても、自分自身その答えを知らない私には、小さく首を傾げて、
「さあ……」
と答えることしかできない。
みんなは私が何かを隠していると思っているのかもしれないが、本当に私には、
「わからない」
としか答えようがなかった。
「ま、いいさ。真実のことだったら、私がちゃんと守るし……」
引っ越しして、同じアパートの住人になった貴子は、長いサラサラの髪を耳にかけながら、わざと意味ありげな含み笑いをする。
貴子の真正面に座っていた愛梨は、綺麗に手入れされた眉をほんの少しだけ上げて、
「へえ……ひょっとしてそうじゃないかと思ってたけど、やっぱり貴子ってそうだったんだ……」
同じく意味深な言い方をした。
私はわけがわからず、隣に座る愛梨の顔をのぞきこむ。
「どういうこと?」
でも愛梨はニヤニヤと笑っているばかりで、何も答えてくれない。
貴子も同様。
首を捻るばかりの私を見かねて、花菜がそっと耳打ちしてくれた。
「つまり……貴ちゃんは、真実ちゃんが好きってことよ」
(…………?)
私だって貴子の事は大好きだ。
それをどうしてこんなに、こそこそと話さなければならないんだろう。
「それが……どうかしたの?」
首を傾げながら言いかけて、ようやくみんなの何か含みのある表情の原因に思い当たった。
(え? でも、まさか……?)
疑惑の思いで目を向けた貴子は、なんとも言えない真剣な表情で、私のことを見つめている。
「ええええええっ!?」
悲鳴を上げて、椅子を倒しながら私が立ち上がった瞬間、三人は申しあわせたように、お腹を抱えて大笑いを始めた。
「嘘だよ。嘘」
「もう……冗談に決まってるでしょ!」
「真実ちゃんダメだよー。そんなに簡単になんでも信じちゃー」
楽しそうに笑い転げる三人を前に、私は真っ赤になって叫んだ。
「もうっ! 私はみんなのおもちゃじゃないのよっ!」
こぶしを握りしめて叫んだ途端、私をからかってばかりいた海君の顔が、一瞬、チラッと頭をかすめた。
悪戯っ子みたいな顔。
私を見つめる笑いを含んだ瞳。
嬉しそうな満面の笑顔。
悔しいくらいにあまりにも脳裏に焼きついていたから、私はぶるぶると頭を振って、その面影を追い払う。
(別に平気だもん……海君がいなくっても、私はどうってことない……!)
わざわざ自分に言い聞かせているあたりが、もう全然平気ではないのだけれど、私はそれでもまだ、強がりを貫きとおす。
(……負けないもの!)
海君の秘密にも。
彼を恋しがる自分自身にも。
――その強がりがいったいいつまで持つのかは、もはや微妙な段階だった。
大学からの帰り道。
みんなと一緒に買い物に行った時、一度だけ海君によく似た人を見かけたと思った。
歩いていた私たちと、すれ違うように反対向きに走り抜けて行ったタクシー。
初めて会った夜に、海君がタクシーから降りて来たことを思い出して、私はドキリとした。
(……まさかね?)
一瞬だけ見えた、後部座席の人が海君に見えた。
でも、背もたれに体を預けるようにして寄りかかる姿。
堅く閉じた目。
透きとおるほどに白い顔。
――その全てが、私の知っている海君とはあまりにもほど遠い。
(そんなわけないか……)
そう結論づける。
でも何かが心に引っかかる。
(あれ? ……でもあんなふうに、あまり顔色のよくない海君を……私、どっかで見たことなかったっけ?)
細い記憶の糸を必死にたどろうとした。
その時――
「真実ー、何してるの? 置いてっちゃうよー?」
私を呼ぶ愛梨の声がした。
さっきまで四人で並んでいたはずなのに、気がつけばいつの間にか、私だけが取り残されている。
慌てて追いかけ始めたら、考えごとは中断せずにいられない。
「ははーん。あいつのことを考えてたな?」
貴子がわざと意地悪に、唇の端をほんの少しだけ上げるようにして笑うから、
「そっ、そんなことないわよ……」
それに対抗するように、答えずにはいられない。
海君について考えることを、放棄せずにはいられない。
「本当かー?」
「本当だもん!」
大急ぎで走ってみんなに追いつく。
(本当に私は平気なんだから! 海君がいなくたってどうってことないんだから!)
私の虚しい悪あがきは、自分だけじゃなく三人にもきっと、もう筒抜けだった。
ちょっと気を抜いてボーッとしていようものなら、
「ほら、またあいつのことを考えてる」
なんて貴子が私をからかう。
呆れたようにため息を吐いて、
「それで……本当はどうしてこなくなったんだ?」
何度も何度もくり返した質問を、また私に投げかける。
「さあ……?」
他に答えようはないのかというくらいその返事をくり返した結果、さすがに貴子も飽きたらしく、最近では海君のことには、あまり触れなくなった。
「まあ、気にするな……たとえあいつがいなくても、真美の世界は別に終わったわけじゃない……」
実に彼女らしいスケールの大きな言い方で、これはひょっとして私を慰めようとしてくれているのだろうか。
頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
本当なら一人で帰ることになるはずだった放課後。
同じアパートの住人になった貴子が一緒に帰ってくれるというのは、私にとって嬉しいかぎりだった。
もちろん――「貴子が実は私をそういう意味で好きだった」なんて冗談は抜きにして――。
私は夕食を二人ぶん作っては、毎日のように貴子の部屋に遊びにいった。
貴子は美人でテキパキしているわりには、勉強意外に気がまわらない人だから部屋は散らかり放題だ。
私は、休んでいた間の講義の内容を教えてもらうお礼も兼ねて、足繁く貴子の部屋に通い、掃除や洗濯にも励んだ。
「なんか……お嫁さんでももらった気分だな……」
貴子は例の意味深な笑いを浮かべて、私の顔を見る。
私も今ではすっかりその冗談にも慣れてしまって、
「貴子だったら絶対出世しそうだし……お嫁になるのもいいかもしんない!」
なんて笑って返す余裕も出てきた。
二人で笑いながら、勉強して、食事して、どうでもいいような話をする。
おかげで海君を気にすることも、幸哉を思い出すこともかなり少なくなって、貴子にはいろんな意味で、感謝の気持ちいっぱいだった。
だけど、ある日の午後。
早めに講義が終わって、いつものようにカフェテリアでお茶していた時。
なんの話の弾みでか、貴子に、
「真実……なんなら年下の彼氏の代わりに、夜も私が一緒に寝ようか?」
なんて言われて、思わず叫んでしまった。
「海君と私は、そんな関係じゃないわよっ!」
一瞬、私以外の三人の動きが止まる。
「ええええええっ!!」
息をあわせたかのように三人が一斉に叫んで、私たちはカフェテリア中の学生たちから注目を浴びた。
そのあまりの大声にびっくりして、
(え? 何? 今、私、そんなに変なこと言った?)
私は自分の発言を、もう一度ゆっくりと思い出してみなくてはならなかった。
「だって……あんなに毎日ベタベタしてたんだよ。てっきりそうだって思うじゃない……ねえ?」
私の顔色を伺うようにおずおずと。
でも言いたいことはしっかり口にする愛梨に、私は顔から火が出そうな思いになる。
「最近の高校生は進んでるからな……まさかそんなんじゃないなんて思わないだろ?」
遠慮を知らない貴子には、いつもの感謝の気持ちもどこへやら、一発ゲンコツで殴ってしまおうかしらと、思わずこぶしを握りしめる。
「私もね。海君の真実ちゃんを見る目は、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい優しいから、てっきり二人はそういう関係だとばっかり思ってたんだよね……」
花菜の言葉を借りるならば、三人は三人とも、「私と海君はかなり親密な関係だ」と思っていたのらしい。
私は怒りを通り越して、もうすっかり脱力してしまって、テーブルにバタンとつっぷした。
「本当にそんなんじゃないのよ……」
伏せた頭の上から、愛梨の声が降ってくる。
「じゃあ……最悪の場合。これっきり海君が来なくなっても、真実は大丈夫だよ……」
なんとなく慰められている雰囲気は伝わるのだが、言われた意味がよくわからない。
私は愛梨のいる方向に顔を向けた。
「なんで?」
頭を上げる気力さえなく、目線だけを上げた私を、貴子が勝ち誇ったように腕組みしながら見下ろしている。
「お姉さまにそういうお相手してもらうのが目的だった高校生に、真実が騙された挙句、捨てられたんじゃないってことになるだからだろ」
まさに歯に衣着せぬ言い方に、私は飛び起きた。
「なによそれ!」
「真実ちゃん、大丈夫。大丈夫だよきっと……」
慌てて間に割って入った花菜のフォローも、今回ばかりはなんだかまとが外れているような気がする。
「もうっ! ほんとに違うんだから!」
それがみんなの冗談なんだと、私をからかっているだけなんだということは、ちょっぴりわかっているが、だからといって気は収まらない。
「本当にそんなんじゃないんだから……!」
悲鳴のように叫んだ私に、その時、誰かが背後から声をかけた。
「ひさしぶり。元気そうだな……」
――言葉どおり、本当にひさしぶりなその声を聞き、まるで金縛りにあったかのように、私は全身が硬直した。
ふり返ると背後に幸哉が立っていた。
午後の眩しい太陽が射しこむガラス張りのカフェテリア。
室内は汗ばむほどの気温のはずなのに、私の背中には冷たいものが流れ落ちる。
一瞬の硬直のあと、ひきつるように自分の表情がこわばっていくのが、自分でもよくわかる。
真っ直ぐに私を見つめる幸哉の顔つきに、自然と体が震えた。
(なんだか……少しやつれた……?)
きっと気のせいではない。
どちらかというと大柄で、がっしりした体つきだった幸哉の頬が、病的なほどにこけている。
そのくせ目ばかりがギョロッと光っていて、その大きな目で、穴のあくほど私を正視している。
その目の奥の光に、言いしれない恐怖を感じて、私は思わず一歩後ろに下がった。
ガタガタガタッと椅子を鳴らして、愛梨も貴子も花菜も立ち上がる。
幸哉から私を守るように、三人が私を取り囲もうとしたその瞬間、――幸哉が私に手を伸ばした。
ガシャーンと響き渡った大きな音は、とっさに逃げようとした私が、倒してしまったテーブルの音。
カフェテリアにいた学生たちが、いっせいに私たちのほうをふり返った。
幸哉はあんなに私を殴ったけれど、学校で手を上げたことは一度もなかった。
学校ではあくまでも仲のいい恋人同士。
けれど幸哉の狭いアパートに帰ると、支配する者とされる者。
そのギャップが苦しくて、悲しくて、私の幸哉に対する気持ちはどんどん醒めていった。
その幸哉が、みんなの視線が集まる中、そんなことはまったくおかまいなしに、私に手を上げる。
「どうしたんだよ、真実?」
躊躇なくその大きな手を、私に向かってふり下ろす。
バシーンと大きな音が鳴って、何が起こったのかもわからなかったけれど、気がついたら私は、カフェテリアの床にうつ伏せで倒れていた。
シーンと静まり返る周りの学生たちと、
「ちょっと! 何すんのよ!」
と叫びながら幸哉に詰め寄る愛梨と貴子。
私は花菜に助け起こされながら、必死で声をふり絞った。
「やめて! 二人ともダメ!」
幸哉が普通の精神状態だとはとても思えない。
その証拠に、近くにいた男の子に止められながらも、目は私から一瞬も放さず、「真実! 真実!」と叫びながら近づいてこようとする。
(もう止めて!)
私は首を振った。
私を傷つけることになんの意味があるんだろう。
そうすることで、私よりもっと何倍も心に傷を負っていくのは幸哉自身なのに――。
できることなら、その傷を癒してあげられる存在になりたかった。
傷つけあうのではなく、労わりあえるような関係になりたかった。
「……やめて」
私の言葉は涙でくぐもって、叫び続ける幸哉の耳にはきっと届かない。
「真実! 真実! 俺は絶対に別れない!」
幸哉の言葉だけを聞いていたら、ごく普通の恋人同士の恋の修羅場にも見えるだろうか。
でも、もの凄い力で周りの人間をふりきりながら、私に駆け寄ろうとする幸哉は、とても普通などではない。
床に膝をついて、よつんばいのまま進んで、座りこんでいる私ににじり寄る。
立ち上がって逃げ出そうとした私は、手首をつかまれて引きずり戻され、幸哉の腕の中に捕まった。
全身の骨が軋みそうなくらいに、強く強く抱きしめられた。
「やめて! やだっ!」
必死に叫ぶ。
でも幸哉はそんなこと、まったくおかまいなしで、
「真実。真実」
と私の頭に頬を寄せる。
(嫌っ!)
本能的にそう感じて、必死に抵抗するけれども、どうすることもできない。
「ちょっと! やめなさいよ!」
愛梨や貴子に止められても、周りの学生たちがひきはがしに入ってくれても、幸哉は私を胸に抱えこむように抱きしめたまま、放そうとはしない。
そのあまりの強さに、全身を貫く激痛に、――視界が霞む。
(……海君)
こんな時でも、瞼を閉じると目の前に海君の笑顔が浮かぶ。
(……会いたいよ)
どんなに強がってみたって、私の本当の願いは結局それなんだと、改めて思い知らされた。
「真実! 真実!」
狂ったように叫ぶ幸哉の声がだんだん遠くなっていく。
それに反してどんどん強くなる腕の強さに、私は意識を手放した。
――気がついた時には、医務室のベッドの上だった。
「たいへんだったわね……」
週に何度か、決められた曜日にだけ医務室に勤務している学校医の先生の言葉を、私はぼんやりとした意識の中で、ひとごとのように聞いていた。
「……よかった。気がついて……」
泣くのをこらえたような愛梨の声がするほうへ、ゆっくりと顔を向ける。
その私の様子に、愛梨も貴子も花菜も学校医の先生も、そこにいた全員がホッとしたように息を吐いた音が聞こえた。
私を見下ろす人たちの顔を一人一人確認しながら、私は心の中で首を傾げた。
(ええっと……私、どうしたんだっけ?)
一瞬、どうして自分がここで寝ているのか、いったい何があったのかが思い出せなくて、不安になる。
(私……どうしたんだったっけ?)
ぼんやりと保健室の天井を見上げた。
その瞬間、幸哉のギラギラと光る目が、脳裏に甦った。
(私!)
常軌を逸した、幸哉のもの凄い力に、自分が屈服したことを思い出した。
(あれから……幸哉はどうなった?)
みんなに尋ねるようとするのに、声が出ない。
喉のあたりにひどい痛みを感じる。
(……何?)
そっと喉に手を押し当ててみると、
「しゃべらない方がいいわ。酸欠になって意識を失うくらい絞められていたんですもの……」
先生が、労わるように優しく忠告してくれた。
(絞められた?)
私の疑問に答えるかのように、この上なく厳しい表情をした貴子が頷く。
「岩瀬が真実を放さなくて……誰も助け出せなくて……そうしているうちにあいつがいきなり……!」
言葉を飲みこんで悔しそうに俯いた貴子に代わって、花菜が続きを語った。
「真実ちゃんの首を絞めたの。周りにいたみんなで、なんとか途中で止めることはできたけど……ごめん、真美ちゃん。遅かったね……苦しかったね……」
花菜の声は、涙で震えてた。
「ごめん真実……もし何かがあっても、きっと守れるつもりでいたんだけど……なんにもできなかった……!」
苦しそうに表情を歪める愛梨に、私は必死で首を横に振った。
(そんなことないよ……こっちこそごめん……!)
本当に辛そうな表情で私を見つめる三人に、悲しい思いをさせてしまったことが悔しかった。
実際のところは、どちらが先かわからない。
――私が気を失ったのが先か。
幸哉が首を絞めたのが先か。
けれど、騒ぎを聞いた大学の職員の人たちが駆けつけた時には、ちょうど幸哉は私の首にまわした手に、最大の力をこめるところだったらしい。
大人数で幸哉は取り押さえられ、私は助け出された。
幸哉はそのまま身柄を拘束され、連絡を受けてやってきた村岡さんに引き渡されて、警察署に連行された。
「たぶんもう……大学には来れないんじゃないかな……」
花菜の言葉は、幸哉が退学処分になりそうだということを、遠回しに告げている。
「それどころか即効刑務所行きだろ。真実に近寄らないようにって警告だって出てたのに、そんなことまったくおかまいなしだ! どう考えたって、あれは普通じゃない!」
もともと幸哉のことを嫌っていた貴子の言葉は、花菜以上に手厳しい。
全部私のために言ってくれてるということがわかる。
だから、私は静かに頷く。
「……でも、岩瀬泣いてたよ……」
愛梨の小さな呟きに、ドキリとした。
「真美が気を失って動かなくなったあと、他の人に助け出されて運ばれていくまでずっと、『真実! 真実!』って、子供みたいに泣いてた……」
愛梨は真っ直ぐに私の顔を見ていた。
それは怒っているような、哀しんでいるような、不思議な表情だった。
(……幸哉!)
両手で顔を覆おうとして、私はそうできない自分に気がつく。
腕も首もとても痛くて動かすことができない。
そこだけではない。
背中も腰も足も、ほぼ全身が、ズキズキと痛む。
「ウッ」と声にならない声を上げて、それでも右手を持ち上げた私に、
「そうとうな力で圧迫されてたのよ。今はまだ無理はしないで……」
離れたところから見守るように私たちを見つめていた学校医の先生が、優しく諭してくれた。
私は顔の上にかざした自分の右手首を見てみた。
幸哉の指の跡がハッキリと残っている。
私を放すまいとして、幸哉が抵抗した跡。
必死で自分のほうに引き寄せようとした跡。
(幸哉……!)
涙が零れた。
そんな私を労わるように、花菜がそっと頭を撫でてくれる。
「もう大丈夫。大丈夫だから……ね」
「もうあいつは二度と真実の前には現れない。私たちが近づけさせない!」
貴子はぷいっと横を向いたまま、怒ったように断言する。
全てが私のため。
――でも私の涙は止まらない。
私がどうして泣いているのか。
その本当の理由は、きっと誰からも理解してはもらえないだろう。
(幸哉……)
そっと心の中でくり返し名前を呼ぶ。
(ゴメンね)
一度も本人には言えなかった言葉。
そしてこれからも言うつもりはない言葉。
(愛せなくて……ゴメンね)
ずっと心の中に閉じこめていた懺悔の気持ちを、涙と一緒に今、全部流してしまえるのならと思った。
体中が悲鳴をあげるようなこの痛みが、幸哉の愛情の強さだというんなら、私のほうはいったいどれぐらいの想いを、彼に返すことができていたんだろう。
いくら、「好きだ」と言葉にしても信じてもらえない気持ち。
どんなに傍にいても、疑われる心。
だったらそれはもう本当に、私の想いが足りなかったのかもしれない。
幸哉が言ったように、「真実が悪い。俺はこんなに愛してるのに、お前はちっとも俺を愛していない」――そういうことだったのかもしれない。
私にはわからなかったけれど、幸哉にはそれがわかったのかもしれない。
(自分の想いよりもずっと軽い……ずっと小さな相手の想い……)
それがどんなに辛いことか。
苦しいことか。
――今の私ならわかる。
自分のほうを向いてほしくて、でも何を言っても、何をしても、それが叶わない時の気持ちは、どんなに救われないだろう。
私の知らないところで幸哉がどんなに傷ついて、どんなに苦しんでいたのか、私には結局わからない。
――わかってあげられないまま終わる。
(幸哉……)
でも不幸な私たちの関係を、このまま続けることはもうできない。
これ以上幸哉を追い詰めてはならない。
何もしてあげられない私が傍にいても、幸哉はもっと不幸になるだけだ。
傷つくだけだ。
それに――
『もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!』
私にとって何にも替えがたい海君の言葉が、心にしっかりと焼きついている。
(海君……!)
そう。
――この痛いくらいの想いが、幸哉が私に求めたもの。
そして私が幸哉に与えることができなかったもの。
(海君!)
あの夜突然私の目の前に現れた年下の男の子が、全部奪っていってしまった。
(海君!)
どうしようもないくらい、私の心を埋めつくしてしまった。
(……会いたいよ!)
新しく湧き出した違う意味の涙が、もう溢れて止まらない。
「真実……」
どこまで私の心を察してくれたのか。
間近で私を見つめる愛梨の瞳も、この上なく辛くて、切ない色だった。
(海君がいなくてよかった)
大学からの帰り道。
貴子に支えられるようにして歩きながら、私は彼と出会ってから初めて、本当に心からそう思った。
こんな姿は見せられない。
心配をかけたくない。
海君はきっと「俺がいなかったから」って自分を責めるから、気にしてほしくない。
重荷になりたくない。
『真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそのこと俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!』
月明かりの中。
私にそう告げた海君の、冷たいくらいの表情と、いつもと違う低い声を覚えている。
(そんなこと考えさせちゃいけない……! 私のせいで海君を変なふうに傷つけちゃいけない……!)
全身を襲う激痛と、心にまだ残る恐怖。
幸哉への懺悔の想い。
どんなものよりも、私にとって一番大切なのは、やっぱり海君を想う気持ちだった。
――それなのに、彼は現れた。
ふいに歩くのをやめて立ち止まってしまった私に、貴子がいぶかしげに呼びかける。
「真実? どうした?」
真っ直ぐに前を見て、息をのんで立ちすくむ私の視線を追って、貴子も前を向く。
でも貴子にはまだきっとわからない。
広い舗道を行き交う人々の中、ずっとずっと遠くからこちらに向かって歩いてくる姿。
(……ああ、ひさしぶりだ……)
そう思うだけで、胸がちぎれそうに痛い。
周りをゆっくりと眺めながら、まるで羽が生えているかのように軽い足取りで、彼は私たちに近づいてくる。
(迎えに来てくれたんだね……)
いつもより少し早く大学を出た私たちとは、ちょうど途中で出会うくらい正確な時間。
「送るよ」と何度も何度も言ってくれた優しい声が、耳の中でこだまする。
(あーぁ……本当は今度会う時は、すました顔をして「あら、ひさしぶりね?」なんて言うつもりだったのになぁ……)
どんな人ごみの中でも。
どんなに離れていても。
私にはきっと見つけられるたった一人の人が、どんどんこちらに近づいてくる。
(海君がいなくても平気だったって顔して……少しは焦らせてみたかったのになぁ……)
そんなことぐらいで、あの余裕たっぷりの笑顔が崩れるとは、私自身も思ってはいないけれど――。
「……あれ? ひょっとして……」
貴子が声を上げたのと、彼が私に気がついたのがちょうど同時だった。
「真実さん!」
眩しいくらいに笑って手を振る姿。
(ああ、声が聞けた……)
そんな些細なことが、涙が出るほどに嬉しい。
出ない声の代わりに、上がらない腕の代わりに、私はせいいっぱいに笑顔を作った。
――それは出会った夜に、他ならぬ彼が、私に思い出させてくれたものだった。
(海君……)
溢れんばかりの想いをこめて笑うことだけが、今の私にできるせいいっぱいだった。
私の様子がおかしいことに気がついて、
「……真実さん? どうかした?」
足を速めて、近づいて来る海君の姿と、
「もう! 遅いんだよ。少年!」
必死に私の体を支えながら、怒ったように投げかけられる貴子の言葉。
(ふふっ、意地悪言わないであげてよ……)
そっと貴子に笑いかけた瞬間、私の体から力が抜けた。
「真実!」
慌てて受け止めようとしてくれた貴子よりも早く、私たちの間に海君が走りこんできた気がした。
私がずっと待っていたその腕に、しっかりと抱き止められた気がした。
でもそれを確認することができない。
瞼がもう開かない。
すぐ近くで、誰かが私を呼んでいる気がするけれど、なんだか耳もよく聞こえない。
(私……どうなるのかな?)
不思議と不安はなかった。
(まあいいか……海君に会えたから……)
思わずニッコリ笑いたくなる。
最後に私の大好きな笑顔を見た。
私を呼ぶ声を聞いた。
(だから、まあいいや……)
それだけで、私はじゅうぶんすぎるくらい幸せだった。
そう思える相手が、いてくれるということが、たまらなく嬉しかった。
(ありがとう。海君……)
優しい腕の中、私の意識は白く弾けて、混濁していった。
夢を見た。
暖かくて幸せな夢だった。
私の傍に海君がいてくれる。
「真実さん」
優しい声で、私の名前を呼んでくれる。
指先にいつも繋いでいた海君の指の感触を感じる。
(嬉しいな……)
絡めた指先から、幸せが駆けのぼってくる。
感覚だけでも沸きあがってくる愛おしさ。
だけど――
(どうして、顔が見えないんだろう?)
ふと疑問に思う。
海君の優しい声からすると、私の大好きなあの笑顔で、きっと見つめてくれているはずなのに――。
(どうして見えないの?)
すぐにハッと気がついた。
(目を開けなくちゃ!)
夢の中、私は固く目を瞑っている。
(目を開けなきゃ、見えるわけないじゃない!)
自分でもおかしくなって、決心する。
ううん、それほどたいしたことではない。
(目を開けよう……!)
改めてそう思っただけ。
ちょうどその時、
「真実さん」
と海君が私を呼ぶ声が、もう一度聞こえた。
目を開くと、私を見下ろす海君の顔が見えた。
私の大好きな曇りのない真っ直ぐな瞳。
華奢な輪郭。
白い頬。
どうしても彼に触れたくて、私は手をさし伸べた。
あんなに痛くて、私の言うこことを聞いてくれなかった腕が、なんとか持ち上がる。
(ひょっとしたら、これはまだ夢かもしれない……)
その思いが、私を大胆にさせた。
(夢だったら……少しくらい本音を言ってもかまわないよね?)
私は海君の頬にそっとてのひらを当てて、その感触を肌で感じながら、
「会いたかったよ」
と囁いた。
海君は少し笑って、私のその手に、自分の手を添えた。
「俺もだよ」
優しいその声が。
私の手を包む海君の大きな手の感触が。
夢にしてはやけにリアル過ぎはしないだろうか――。
(夢……だよね?)
そう思った瞬間、海君のうしろから、とてつもなく不機嫌な声がした。
「いちおう、私もここにいるんだけどね……なに? 真実、気がついたの?」
貴子だった。
ベッドの上に横たわる私を、ひざまずいて見守る海君のうしろから、のぞきこむように貴子も見ている。
そういえば、天井の模様が私が新しく引っ越した部屋の天井と似ているような気がする。
壁紙も。
しかも貴子まで、今ここにいるということは――。
(夢じゃなくって、現実じゃないの!)
私は飛び起きようとして思い止まった。
さすがにまだそんなには、体は機敏に動いてくれないらしい。
「痛っ」
代わりに声が出て、少しホッとする。
と同時に、とてつもなく恥ずかしくなった。
(どうしよう……やっぱり夢じゃないよ!)
その証拠のように、私の動揺に気づいた海君は、とてつもなくおかしそうに笑っている。
「海君?」
一縷の望みをかけて、見上げた笑顔は、
「うん。なに?」
ますます綻んだ。
『穴があったら入りたい』とは、まさにこういう時の心境をいうのではないだろうか。
私は途方に暮れた。
(この手! ……この手をいったいどうしたらいいの?)
海君の頬に添えた自分の右手を恨みがましく見上げる。
海君は絶対面白がっている。
頬に添えられた私の手を、絶対に放すもんかと握りしめている。
貴子は貴子で、
「真実も大丈夫そうだし、お邪魔になるのもなんなんで……じゃ、私はそろそろ帰ろっかな……」
と、あてつけがましく立ち上がる。
(待って貴子! 行かないで!)
すぐに言えないのは、やっぱり喉に少し違和感があるせい。
そして、私を見つめる海君の瞳に、今まで以上にドキドキが止まらないせい。
玄関まで歩いてから、貴子はゆっくりとこちらを振り返った。
「おい。相手は怪我人なんだから、無茶するなよ少年。真実の悲鳴が聞こえたら、私がすぐに飛んでくるからな」
海君に向かって、牽制とも挑発とも取れることを言い放つ。
「貴子!」
必死に声をふり絞った私を、海君は半ば抱き起こすように抱きしめて、
「はい。約束はできないけど、努力はします」
ニッコリ笑いながら返事した。
その声が、笑顔に反してあまりにも真剣過ぎる。
「海君!」
何か言ってやりたいんだけど、言葉が出てこない。
そんな私に海君は優しく笑いかける。
だから尚更何も言えなくなる。
貴子は海君の返事と、私に対する態度がいたくお気に召したらしい。
「よし。じゃ後はよろしく!」
後ろ手に手を振りながら、さっさと部屋から出て行ってしまった。
バタンとドアの閉まる音に、私の心臓は跳ね上がる。
(よろしくって……ちょっと貴子!)
困り果てて見上げた海君は、まだ笑っている。
思わず、
「海君は……まだ帰らないの……?」
と尋ねて、
「うん。今日はひさしぶりだし……もう少し傍にいるよ……」
と答えられ、余計にどうしようもなくなった。
ずっと会いたかった。
本当は聞きたいこともたくさんあった。
でも、二人きりの狭い部屋で、こんなに寄り添っていたら、顔もまともに見れないし、話もできない。
それに、私のどうでもいい質問なんかより、海君のほうこそ私に聞きたいこことがあるはずだ。
それなのに、彼は何も言わない。
貴子が部屋を出て行ったのを見送った体勢のまま、ずっと私をただ抱きしめている。
(何か言ったほうがいいのかな?)
沈黙に耐えかねて、その顔を仰ぎ見る。
いつの間にか貴子がいた時の穏やかな笑顔は消えていて、海君はひどく真剣な顔をしていた。
どこを見ているのか。
何を考えているのか。
私には本当にはわからない。
だからたまらない気持ちで、私はそっと呼びかける。
「……海君」
海君はゆっくりと私に顔を向けた。
目の前に迫った綺麗な瞳は、まるで泣いているようだった。
それぐらい悲しい色をしていた。
「……海君」
もう一度呼びかけた私に、彼は小さく笑って、私の体をそっとベッドの上に横たえた。
肩まで布団を掛け直してくれる。
その様子があまりにも悲しげだったから、思わず言葉が、口をついて出てしまった。
「海君は何も悪くないよ……」
きっといろんなことを気にして、自分を責めているだろう海君を、辛い思いから開放してあげたくて、たまには先回りして言ってみたつもりだった。
だけど海君はちょっと驚いた顔をしたあと、小さく首を横に振る。
「でも……ゴメン……」
その辛そうな顔が、苦しそうな声が、私の胸をどんどん痛くする。
「海君が謝ることは、なにもないんだよ……?」
心からそう思う。
でも私のどんな言葉も、彼の心を軽くすることはできない。
「でも……守ってあげられなかったから……」
詫びるように、後悔するように、海君は私の髪を指先でそっとすく。
その心地いい感触にひたってしまいたくて、私はそっと目を閉じた。
「ありがとう。でも大丈夫……海君がそんなふうに思ってくれてるだけで、私は本当に幸せだから……」
海君の指が触れる頭へと、髪へと、体中の神経が集中していくのが自分でもわかる。
「大丈夫だよ……私は大丈夫だから心配しないで……ね?」
どうか気にしないでほしいと思った。
傷つかないでほしいと思った。
(私のせいで傷つかないで……!)
いつかの夜。
こっそり祈ったことを思い出す。
(どうか幸せを……私よりも海君に幸せを……!)
たった一つの願いを何度も心の中でくり返す私に、海君が囁いた。
「でも……できるつもりでいたんだ……せめて真実さんを守るくらいは、俺にもさせてもらえるんじゃないかって……勝手にそう思い上がってた……!」
海君の言葉に、なんだか不思議なニュアンスを感じて、私は目を閉じたまま頭をめぐらす。
「俺はこんなにも無力だ。ちっぽけで、何も望めない存在だ。だけどたった一人だけ、真実さんのためにだけは、何かができるんじゃないかと思ってたのに……きっと俺はそのために生まれてきたんだって、ようやく胸をはって言えるって思ってたのに……!」
海君の言葉は、私を守れなかったことを懺悔しているというよりも、そうすることができなかった自分の無力さに絶望しているように聞こえた。
(そんなに苦しまないで……)
涙が零れそうになる。
秘密だらけの海君が、何に悩み、何に傷ついているのか、本当のところは私にはわからない。
けれど、それが自分の無力さを嘆いているのならば――それはまちがいだ。
「私は、何度も何度も助けてもらったよ……? 海君のおかげで、今の私があるよ……?」
うまく彼に伝わるだろうか。
喉は痛めているし、涙声だ。
でも、今、伝えないといけない。
恋の駆け引きとか、年上のプライドとか、私と海君の間には、最初からそんなもの、存在しない。
本当の気持ちしか、伝えあっていない。
だから、どんな時でも、ちゃんと伝えなければ。
自分の思いを言葉にしなければ。
「海君がいなかったら今の私はいないよ。だから海君は無力なんかじゃない……いつだって海君がいてくれるおかげで、私はこうやって笑えるんだから……」
そして、目を閉じまませいいっぱいの笑顔を作ったつもりだった。
ずっと私の髪を撫でていた海君の手が止まる。
どうしたんだろうと不安になる。
(うまく伝わらなかった? それとも私は……何か思い違いをしている?)
たまらず閉じていた目を開けると、ビックリするぐらいすぐ近くに海君の綺麗な瞳があった。
瞬きさえできずに驚いて見上げる私に、その瞳はもっと近づいてくる。
(海君?)
破裂しそうな胸の鼓動に耐えきれず、もう一度目を閉じた私は、息がかかるくらいすぐ近くで、海君の声を聞いた。
「……ありがとう真実さん。何も望めないってわかっていても……やっぱり俺は、真実さんだけは望まずにいられない……できるなら俺のものにしてしまいたい……」
眩暈がした。
甘くて切ない感情に、もう溺れてしまってもいいと思った。
でもその瞬間、すぐ近くにあったはずの海君の気配が、フッと私の上から遠去かる。
(えっ? ……海君?)
思わず目を開けた私は、彼がさっきまでいた場所に、また座り直したことを確認した。
(今のは……どういう意味だったの? どういうこと……?)
呆然とせずにはいられないくらい、私たち二人の距離はもう開いてしまっている。
頭の中では疑問が渦を巻く。
その答えは、まるで見当もつかない――。
(でも海君……その瞳を見たら私にはわかるんだよ……)
決して目を逸らそうとはせず、離れた場所から真っ直ぐに私を見ている海君を私も見つめ返す。
(何があるの? 私から遠去からないといけないどんな理由があるの? 本当にそれが大切なら……それをこれからも守りたいと思っているんなら……そんな目で私を見ないで! そんな願うような、請うような瞳で……私を見つめないでよ……!)
私は全身の力をふり絞って、そっとベッドの上に起き上がった。
「真実さん!」
驚いたように海君が私の名前を呼んだけれど、大丈夫だ。
体の痛みなんかより今は心のほうが何倍も痛い。
私は静かに、自分の顔を海君に近づける。
(そう……これくらい。これくらいの距離にさっきはいたはず……そうでしょう?)
私の声に出さない問いかけに、海君は少し頷いた。
私の頬におそるおそる左手を添える。
「でも、真実さん……本当に俺には、そんな権利ないんだよ……真実さんに触れる資格なんてないんだよ……」
その声が震えていると思った。
いつも余裕たっぷりの海君が、本気で何かを恐れていると思った。
だから私は、ふっと体の力が抜けた。
いっぱいいっぱいに張り詰めていた緊張を、
「もういいや」と思って、自分で解いた。
「権利とか資格とか……よくわからないけど、そんなものは私のほうにこそないと思う。海君が気にすることじゃないよ。でもなんだか意識しすぎちゃうから……やっぱりいつもみたいに戻ろう……? さっきのは聞かなかったことにするから、海君も忘れて……!」
一生懸命平静を装いながら、それでも本気でそう思って笑ったのに、海君は、
「でも俺は真実さんに触れたい。俺のものにしてしまいたい。その気持ちだって本当なんだ……」
真剣な眼差しで、また蒸し返す。
悪びれもせず堂々とした言い方が、いつもの海君に戻ったみたいに思えて、私はちょっとホッとした。
だから今度は心から笑うことができた。
「海君。言ってることがめちゃくちゃだよ……!」
いつもみたいに髪をかき混ぜてしまおうと、そっと柔らかい髪に手を伸ばしたのに、私の手をつかんで、海君は私を胸の中に抱きしめてしまった。
「……海君?」
彼の顔を見上げた私の上に、海君の綺麗な瞳が近づいてくる。
――今度は迷うことなく真っ直ぐに。
(目に見えない何かと戦う決意をしたの? それとも、もういいやって投げ出してしまった?)
問いかける間もなく、海君の唇は私の唇に重なった。
流れこんでくるような狂おしいほどの感情に、泣きそうになったと言ったら、彼はどうするんだろう。
いつものように、「ゴメン」って謝るのか。
それとも、もっと幻のような夢を見せてくれるのか。
どちらにしても、すぐには目を開けたくなかった。
目を閉じたまま、百年の眠りについてしまったお姫様のように、できれば永遠に、この瞬間の中に自分を閉じこめてしまいたかった。
長いキスのあと。
「ゴメン。真実さん……」
海君が本当に謝るから、私は思わず笑ってしまう。
(そう言えば海君は、いっつも私に謝ってばかりだ……!)
本当に謝らないといけないのは、私のほうなのに――。
だから私は何も答えず、海君の頬にそっと手を添える。
そして少し笑って、その頬に軽くキスをする。
――海君が何を気にしているのか知らないけれど、「私だって共犯だよ」の思いをこめて。
海君は少し驚いて、でもすぐに眩しいくらいにニッコリと笑って、改めて私を抱きしめ直した。
「ゴメンね。真実さん」
あいかわらず謝っているので、やっぱり笑わずにはいられない。
「もう……! 笑ってるくせに、何がゴメンなのよ……?」
ちょっぴり意地悪を言ってみても、海君は全然へこたれない。
「これからのことを先に謝ってんの。真実さん怪我してんのに、悪いからさ……」
妙に艶っぽい笑みを浮かべながら、私をドキドキさせるようなことを言う。
「それって……どういう意味かな……?」
思わず逃げ腰になる私の耳元で、海君は囁く。
「お願いだから、貴子さんの助けだけは呼ばないでね」
ドキリと胸がどうしようもなく跳ねた。
(それって……それって、どういう意味……?)
私はよほど慌てた顔をしていたらしい。
真剣な表情をずっと崩さずにがんばっていた海君は、遂におなかを抱えて笑いだした。
その途端、私はやっと、ハッと気がついた。
「もう! また、からかったのね!」
私の怒りの叫びに、海君はますます笑い転げる。
(もうっ! もう知らない!)
私はベッドに横になると、頭まで布団を引き被った。
「ゴメン。真実さん、ゴメン……!」
海君は謝ってくれているけれど、笑いながら言ったって、許してなんかやるもんか。
(年下のクセに、ほんとにいつも! いつもいつも……!)
悔しくって丸くなる私を、海君が布団ごとそっと抱きしめる。
「ご要望があるなら、続きはまた今度。真実さんが元気になってから是非!」
笑い混じりでそんなことを宣言されたって、
「うん。お願いします」
なんて言うわけがない。
それがわかっていて、海君はますます笑い転げる。
(いつまでもひとりで笑っていなさい!)
布団の中で貝のように押し黙ったまま、私は心の中でせいいっぱいに叫んでいた。
「真実さんを望むのは俺のわがままだ」
海君がそう思うのなら、私が海君を望むのだって、私のわがままだ。
「真実さんに触れたのが俺の罪だ」
海君がそう言うのなら、私だって同罪だ。
(何が怖いの? 何を恐れるの?)
いくら尋ねても、きっと私には教えてもらえない。
でも彼にできないのなら、私から手をさし伸べればいいと思った。
その結果、私が傷つくことを彼が恐れているんなら、そんなことはないと、くり返し伝えればいいと思った。
だから苦しまないでほしい。
一人で傷つかないでほしい。
――私はここにいる。
いつだって海君の隣にいるんだから。