「また、紫織に風邪を引かせたりしたら、今度は朋也にぶん殴られかねないからな」

 紫織にコートを預け、スーツだけの格好になった宏樹は微苦笑を浮かべた。

「遅くまで付き合わせて悪かったな。――それじゃあ、おやすみ」

 宏樹が背を向けた瞬間、紫織は堪らず「待って!」と引き止めていた。

 宏樹は首だけをこちらに動かした。

「あの……。ひとつ、訊いてもいい?」

「ん? どうした?」

 紫織は少しばかり躊躇い、だが、すぐに思いきって口にした。

「ずっと……、私の側に、いてくれる……?」

 宏樹のポーカーフェイスが崩れた。
 思考を巡らすように目を宙にさ迷わせていたが、やがて、「ああ」と囁くように答えた。

「紫織が、ほんとの幸せを手に入れられるまでは、ね」

 宏樹はそう言うと、今度こそその場から離れた。

 静かな足取りで、自宅へと消えてしまった宏樹。

 紫織はしばしの間、同じ所へ立ち尽くしていた。
 コートからだけではない。
 心なしか、紫織の周りには、先ほど感じた大人特有の匂いが漂い続けているように思えた。