「じゃ、とりあえず乾杯するぞ!」

 少しばかりぼんやりしていた宏樹に、瀬野が声をかけてくる。
 その手にはビールのグラスが握られていた。

「あ、ええ」

 宏樹は曖昧に頷くと、自らもグラスを手に取る。

 わずかに上げられた互いのそれは、静かにぶつけると、カチン、と小気味良い音を立てた。

 瀬野は乾杯を済ませると、中身を一気に半分ほどまで減らしてしまった。
 よほど喉が渇いていたのだろう。
 宏樹はそんなことを考えながら、グラスを口に付けたまま瀬野を凝視した。

「で、ほんとに何があったんだ? 高沢よ」

 グラスから口を離した瀬野が、不意に訊ねてきた。

 宏樹は弾かれたようにピクリと反応し、「何がですか?」と惚けた。
 もちろん、瀬野が言わんとしていることは分かっている。

 案の定、瀬野は「おいおい」と宏樹に突っ込みを入れてきた。

「ったくよお、お前のことだから俺の訊きたいことぐら分かってんだろ?」

「――仕事中、ぼんやりしていた理由、ですか?」

 全てを見越している瀬野に、どんな誤魔化しも利かないと改めて悟った宏樹は、心底面倒臭そうに言った。

「そうそう! やっぱお前、ボケたフリしてやがっただけだな? ほんとに悪い奴だなあ」

 嬉々としている瀬野を前に、宏樹の口から深い溜め息がひとつ漏れる。

 朋也や紫織にならば口で勝つ自信がいくらでもあるのだが、瀬野にはどうにも敵わない。
 と言うより、異常なほどの粘着質だから、一度その毒牙にかかると、逃げ出すことが出来なくなってしまうのだ。
 それは宏樹に限らず、他の同僚も同じらしく、たまに瀬野のいない所で彼についてぼやいているのを耳にすることがあった。