「宏樹君、他に好きな人がいるみたいだから。――ほんとは、朋也から聴く前から何となく気付いてた。
 熱を出して寝込んでいる間もね、色んなことを考えてたんだ。望みのない恋なんて、棄て去った方が楽になれるんじゃないか、って。朋也には強気なことを言ったくせにね。
 でも、忘れようと思うたびに、宏樹君とばったり、だもん。ほんと、やんなっちゃう……」

 そこまで言うと、紫織はミルクティーを胸の前まで下ろしてプルタブを上げる。
 仄かな甘い香りと湯気が、同時にふわりと立ちのぼった。

「無理して忘れる必要なんてないんじゃない?」

 涼香はそう言いながら、カフェオレを開けた。

「片想いしてたってさ、別に相手に迷惑になるわけじゃないんだし。それに、私はともかく、紫織の場合、相手がお隣さんでしょ? だったら、全く逢わないなんて無理な話だよ。紫織か向こうさん、どっちかが遠くに越さない限りは、ね」

「――うん」

 紫織は頷いた。

「ほんとに涼香の言う通りだね。――それこそ、宏樹君が結婚して家を出ないと……」


 結婚――


 自ら発した言葉に、紫織の鼓動が急激に速度を増した。

 紫織にとっては未知なる世界だが、宏樹は違う。
 近い将来、充分にあり得ること。彼が自分の好きな人と結ばれてしまったら、本当に手の届かない存在となってしまう。

(好きな人の幸せは願わなきゃいけない。それは分かってる。――でも……)

 紫織の全身がカタカタと震え出した。
 寒さだけではない。
 残酷な現実を目の前に突き付けられた瞬間、平静を保っていられるだけの自信がないと思ったからだった。