マンションの前に立ち、屋上の辺りを見上げて煙草を吸っていた池脇さんに声を掛けた。ただそこに立っているだけで見栄えのするシルエットだと僕は羨んだが、振り返った彼の顔はやはり怖かった。
 僕の隣には自らついて来る事を希望した辺見先輩が立っていたが、その視線はどうにも池脇さんから逸れているように思えてならず、顔色も、やはり良いとは言えなかった。
「大丈夫ですか?」
 と小声で問うも、返事はなく胸を押さえたまま頷くのみだった。僕はそれ以上深入りする事をためらい、池脇さんに顔を向けた。
「お伺いしたい事がありまして」
 と切り出すと、池脇さんは意外そうな表情で僕を見返し、
「俺に? 俺、なーんも知らねえでここに来たんだぞ?」
 と笑った。
「今回の件で言えば、僕もほとんど把握していません。ですがそもそも、何故僕がここに呼ばれたのか、それが一番分からないんです」
「…ん?」
「文乃さんとお会いしたのはつい先日の事です」
「へえ」
「池脇さんは、知り合って長いそうですね」
「どうかな」
 長そうだな。
「僕の事を、何か聞いていらっしゃいますか?」
「何も」
「何ひとつ?」
「自分にないものを持ってる連中に助けを頼んでるって。他にも誰か呼んでるっつー話はしてたかな。だけどそれがお前らの事だなんて俺が知るわけねえしよ。今回の話で俺はあいつと一回しか電話で話してねえんだよ。だからほとんど全部、共通のツレから依頼というか、助けてやってくれーみたいに言われて来ただけだから」
 自分にないもの。…目のことだろうか?
「先程の紹介で、文乃さんはあなたを物理系最強アタッカーだと言いました。それを聞いた時僕は、池脇さんには霊感はないんだろうなと直感しましたが、違いますか?」
「ねえよ」
「そうですか。では、文乃さんの体質についてご存知ですか?」
「なんでそんな事お前に教えなきゃなんねえんだよ」
 これは、知っている時の反応だ。
「お前はデカか。これは職質かなんかか?」
「すみません。不愉快にさせたなら謝ります。だけど先ほども申しました通り、僕は何故ここに呼ばれたのか、いまだに分かっていないんです」
「お前阿保なのか。なんでそれを聞かねえでこんなトコまで来たんだよ」
 自分だってよくわからずに来たくせに。
「それも、わかりません」
 射貫くような池脇さんの視線が、僕の顔に突き刺さった。
「…もしかして、あいつに惚れてんのか」
「そうかもしれません」
「ほー。正直でいいな。なら悪いことは言わねえ、やめとけ。あいつには決めた男がいる」
「…そうですか。池脇さんは、文乃さんの事を好きなわけではないんですか?」
「好きさ、ツレとしてな。けど俺には俺で、決めた女がいる」
「そうでしたか」
「あいつなんかよりも、そこの可愛い姉ちゃんを大事に見てやれよ」
「へ? あ、辺見先輩とは、それこそこの春に出会ったばっかりで」
「文乃より長いじゃねえか」
「いやいや、そんなそんな」
「あ」
 池脇さんはそう言って、吸い終わった煙草をブーツの踵に押し当てて火を消した。
「そう言えば、あいつなんか、おかしな事言ってたな。…なんだっけなァ」
「なんです?」
「確か、『その二人には会ったことがないんだ』、とか」
 鳥肌が。
 蜘蛛の巣を張るように全身を走った。僕たちのやりとりを大人しく聞いていた辺見先輩が、あえぐように空気を吸い込み「はぁ」と喉を鳴らした。
「なんだよ」
 異変を感じ取ったのか、池脇さんは目を細めて僕を睨んだ。
「おかしいと思いませんか」
 と僕は尋ね返したが、その声は震えてとても小さかった。
「ああ?」
「『その二人』というのが僕と辺見先輩であるなら、僕の頭に渦巻いている謎はまさにそこにあります。文乃さんは僕に会った事がないにもかかわらず、僕が通う大学のキャンパスまで足を運んでくださいました。何故僕がそこにいると分かったのか。何故会った事もない僕に会いに来たのか。そして何故、池脇さんにお話をされる段階で、これから会うのが『僕たち二人』だと分かっていたのでしょうか。僕は何故か、その事を聞かないままでこの現場を訪れています。…何故なんでしょうか、これは」
 長い沈黙の後、池脇さんは平然と答えた。
「知ーらーねえーよ」
 まるで止まっていた呼吸が再開したように、僕たちは大きく息を吐いた。机の上に散らばった紙屑を突風が吹き飛ばすような、そんなある種の爽快感が池脇さんの声にはあった。僕はあまりの気持ち良さに身震いし、そういうスタンスだから竜二君が必要なんだ、と語った文乃さんの言葉を少しだけ理解した気がした。
「何だお前、何故何故くんか? 普通よ、出会った時にそれは聞いておくもんなんじゃねえの? あなた誰ですか、何でここへ来たんですかって」
「そうなんですよね。そうなんですよ。だけど、何故だかタイミングを逸してしまって」
「誰かの紹介とかなんじゃねえの? あとは、俺らが知らねえだけで、実はお前ら二人はすげえ有名な『何故何故オカルトハンター』かもしれねえだろ」
「違います」
「知らねえよ俺は!」
 池脇さんが声を荒げた瞬間、熱風が僕と辺見先輩に向かって吹き付けるのを確かに感じた。すると今の今まで黙って塞ぎ込んでいた辺見先輩が、手を叩いて笑い声を上げた。
 …ああ、いつもの辺見先輩だ。
「いやー、愉快だわ、新開君。痛快だね、この人。こーれは、うん、凄いわー」
 感心しきり拍手を続ける辺見先輩に、池脇さんは怒るかと思われた。しかし彼は明るい辺見先輩の様子にニンマリを笑みを浮かべ、
「遅せえよ、気付くのが」
 と言った。


「なんじゃあ、ここ。よう、こんな所に住めるもんだなぁ。なぁ、お前さんら、よう住んでんな、こんなとこに」
 作務衣の上に黒のMA-1という、おかしな風体をした男が現れた。四十代から五十代、短く刈った清潔感のある髪は白髪混じりだが、優しい表情の中に浮かぶ両の目は眼光鋭く、肌艶も良い為一見しただけでは年齢不詳である。男の背後に走り去るタクシーの音が聞こえ、これで四台目か、と僕は心で呟いた。
「お前さんら、こんなとこ住んでて体なんともないのか?え?」
 表情はニコニコとして穏やかなのに、軽妙な口振りから発せられる言葉の内容は不躾であると言わざるを得ない。
「あの、僕らここの住人じゃないですよ。それにもし住人だったら、失礼ですよ、その言い方は」
 僕たちのいる方向へマンションを見上げながら歩いて来たその男性は、僕の顔に視線を下げた瞬間ピタリと足を止めた。男性はそれまで浮かべていた笑みをさっと消し、僕に向かってこう言った。


「お前さん、どっから来た」