「これか? お前の言ってるマンションてのは」
池脇さんが見上げていう。
一棟マンションと聞いて、なんとなくアパートに毛が生えた規模の建物を想像していたが、八階建ての大きなマンションだった。エントランスの前に立ち、池脇さんがもと来た道を振り返った。我々がタクシーを降りた路地から、三十メートル程離れている。
「俺、住所間違って伝えたのかな。ここが現場なら、なんであんな離れたトコで降ろされたんだ?」
それは僕も歩きながら感じていた。文乃さんに案内されて現場であるマンションへと向かいながら、「あ、もっと先があるのか」という疑問に首を捻った。何故なら、マンション前のこのエントランスまでしっかりと、タクシーの乗り付けが可能な整備された道路が伸びているのである。
「僕ら、全員同じ場所で降ろされたんですね。あの、離れた道路に」
僕の言葉に、全員がもと居た場所を振り返った。
「というか、あそこが大通りっていう認識なんじゃない? ここはほら、マンションの住居人しか使っちゃいけない行き止まりというか」
辺見先輩が言うと、
「じゃあ運ちゃんは俺らが住人じゃないってどうやって判断したんだよ。行き先しか言ってねえよ、俺は」
と池脇さんが聞いた。辺見先輩は納得のいく回答を探してみたようだが、
「…それは、わかりません」
という言葉しか出て来なかった。
まるでタクシードライバーたちはこぞって、このマンションの前まで来る事を避けたみたいですね。
僕はそう言いかけたが、意地が悪いのでやめておいた。
路地の奥まった場所に建つそのマンションは、名を『レジデンス=リベラメンテ』といった。
文乃さんが携帯電話で連絡を取り、相談者であるこのマンションの所有者に一行の到着を告げた。現れたのは眼鏡をかけた五十代半ばくらいの男性で、名を長谷部さんと言った。長谷部さんの案内で僕たちは一階にある管理人室に通された。管理人室にはもう一人、こちらも六十代ぐらいの男性が待機していた。長谷部さんと二人して頭を下げたその男性は、名を岡本さんと言った。
「こちらに、お住まいなんですか?」
室内に通され一通りの自己紹介を終えた後、明らかに学生である僕と辺見先輩に怪訝な目を向ける岡本さんに対し、文乃さんがそう尋ねた。
マンション一階の一番奥に位置するその部屋は、外から見る限り他の部屋と変わらない。だが室内には生活感のある家具や調度品の類はほとんどなく、一見して管理事務所として利用されているのだと分かった。しかし玄関から入ってダイニングらしきスペースを事務机が独占しているその奥の小部屋に、敷きっぱなしの布団と毛布が見えた。
いや、と岡本さんは答える。
「ここのマンションは住み込みじゃなくて、巡回管理でやってました。近所に住んどりましてな、通いでやる分には困らんかったんですが、最近になってよう夜中に呼び出されるもんですから、ああして、布団敷いて寝泊りする事が増えたんですわ」
「そうなんですねぇ」
高齢でなくとも、夜中の呼び出しは煩わしく辛いだろう。思いやりのある表情で頷く文乃さんの後ろで、無遠慮に室内を見回していた池脇がさんが口を開いた。
「なあ、俺話聞いても分かんねえからよ、外で待ってるわ」
返事を待たずに出て行った池脇さんの背中がやがて閉じた扉で見えなくなると、マンションオーナーの長谷部さんが右手の甲を左頬に添えて、
「どえらいのと付き合っとるんだね」
と愉快そうに言った。文乃さんは笑顔を首を振り、
「付き合ってませんよ。昔馴染みというやつです」
と答えた。
「そうなの? でも一番頑丈そうな彼があんな感じだし、なんだか頼りない若者だけが残っちゃったなあ」
長谷部さんは僕と辺見先輩を交互に見ながら正直にそう言い、腕組みをして眉をハの字に下げた。
「そんな事は決してないと思いますよ。それに、本当はあともうひと方お呼びしてあるんです。事故渋滞に遭遇したようで、到着が少し遅れているそうですが」
「そうなの? ふうん、そっちにじゃあ、期待しようかな」
無礼千万、失礼極まりない態度ではあったが、実際十九歳と二十歳の大学生なのだ。僕はこういう時、間違っても言い返す事などできない。その代わり、本来であれば辺見先輩はマシンガンのように反論を並べ立てて相手を圧倒する人であるはずが、今日に限ってはやはり様子がいつもと違っていた。右手で胸の辺りを押さえ、息苦しいのか、音を殺した深呼吸をゆっくりと繰り返している。
伏し目がちに僕を振り返って僅かに頭を下げる文乃さんに僕は微笑み返すも、長谷部さんの態度なんかよりもよっぽど辺見先輩のことが気がかりだった。
「僕、ちょっと池脇さんとお話してきても良いですか?」
思い切って僕がそう文乃さんに声をかけると、おいおい、と長谷部さんが止めに入った。
「冗談だよ若者くん。こんな程度の嫌味でへそを曲げる奴があるか」
「え? あ、いや、違いますよ。ちょっと確認しておきたい事があるだけなんで、すぐに戻ります」
立ち上がりかけた僕の服をガッと掴み、
「私も行こう。それがいい」
と言って、辺見先輩が僕より先に立ち上がった。
「そうですね、そうしましょう」