そのマンションを訪れたのは、粘り気を感じる長雨の降り続く九月の中旬だった。
その日は僕が大学に出向いてすぐ、サークルの一つ年上の辺見先輩に捕まり「今日だ」と決行を宣告された。文乃さんと連絡先を交換したのは僕だけではなかったようで、まさか先輩まで今回の事案に同行してくるのかと思うと、心強い反面、どこか残念な気持ちにもなった。
午後になり、僕と辺見先輩はタクシーを拾って事前に知らされていた現場へと赴いた。学生二人がタクシーを使ってまで移動する場所としては珍しかったのか、住所を告げた途端タクシーの運転手が「え?」と怪訝な表情を浮かべたのが気にかかった。
僕らの生活圏内である市街地から現地までは、車で二十分を要した。先輩と割り勘して運賃を払い終え、走り去るタクシーを見送りながら、「愛想ねえー」と辺見先輩は愚痴をこぼした。
件のマンションが建つ場所はいわゆる山の手と呼ばれる高台にあり、閑静な住宅地と呼んで差し支えない。山裾にほど近いその立地は、市街地住みの僕に言わせればいささか静かすぎるように感じ、逆に落ち着かない印象すらある。
とそこへ、もう一台タクシーが滑り込んで来た。降り立ったのは文乃さんだった。
「すみません、所用をすませてから来たもので、遅れてしまいました。一番についてなきゃいけないのに、本当に失礼ですよね。あ、タクシー代、今すぐお支払いしますね」
文乃さんは恐縮し、早口に謝罪を述べながらいそいそとカバンから財布を取り出すのだが、彼女の浮かない表情には、申し訳なさとはまた違った意味合いが含まれているように思えた。
ひどく疲れているように見えたのだ。
「結構です。お役にたてると決まったわけではありませんから」
と僕が遠慮して答えると、
「おいー、移動代くらいはいただいておこうよー」
と辺見先輩は口を尖らせた。
「ええ、ええ、ぜひぜひ」
頷く文乃さんの背後に、さらにまたもう一台のタクシーが走り込んで来て、停まった。
「なんだなんだ」
立て続けにタクシーが三台、同じ時間に同じ場所へ停車した事になる。駅前ロータリーでもない住宅地でこのような事態が起きる確率はいかほどか…、文系の僕には考えたところで見当もつかない。首を伸ばしてタクシーを訝し気に見やる辺見先輩と共に、文乃さんは振り返って三台目のタクシーを覗きこんだ。…「あ」。
タクシーから降り立ったのは、ライダースジャケットを着込んだがっしりとした体格の男性だった。文乃さんと同じ年代か、少し上に見えた。目を見張るほどの高身長ではないが、体の部位全てが大きい。いわゆる骨太なのだろう。整った精悍な顔つきとそれも相まって、社会経験に乏しい僕にはその男性が近づきがたい雰囲気を放っているように見えた。
「んん?」
僕の隣で辺見先輩が低く唸った。それは恐らく無意識に漏れ出た声で、僕の耳にそれが届いた事すら辺見先輩は気が付いていない様子だった。辺見先輩の目は真っすぐに、がたいの良い男性へと注がれている。
知り合いですか、と僕が声を掛けようとしたところへ、
「竜二君。お疲れ様」
そう声をかけて、文乃さんがその男性に親しみのこもった笑みを向けた。竜二と呼ばれたその男性は文乃さんを見るなり、
「すまん文乃、金が足りなかった」
と両眉を下げて謝った。大きな体つきに比例して、ただぼそりと言った声までもが大きかった。文乃さんは声に出して笑い、停車したままのタクシーを覗き込んで支払いを済ませた。
「付き合ってんのかねー」
と、辺見先輩が僕の耳元で意地悪な声を出した。その途端、様子の変だった辺見先輩のことなど忘れてしまい、
「そうかもしれませんね」
僕はいじけてそう答え、足元に視線を落とした。
タクシーが走り去った所で、文乃さんが僕と辺見先輩を前にして「まずは」と言った。
「えー、池脇竜二君。私の親友の幼馴染で、同い年の頼れる助っ人です」
文乃さんは右手の平を上に向けながら、傍らに立つ池脇さんを紹介してくれた。僕と辺見先輩は両手を前にそろえて頭を下げ、
「新開です」
「…辺見です」
と名乗った。
「誰?」
池脇さんは年の離れた僕たちを見下ろし、当然のように疑問を口にした。
「えー、こちらの辺見さんという美人さんが助っ人ゼロ号、こちらの賢そうな新開さんが助っ人イチ号。竜二君は助っ人ニ号です」
「それ三号でいいじゃねえかよ、なんだよゼロ号って」
池脇さんのもっともな意見に「エヴァか」と僕は思わず突っ込みそうになったが、僕はエヴァンゲリオンの知識がほぼほぼない為、口に出すのはやめておいた。