「いやー、間に合ったか!」
 安堵の表情を浮かべ、三神さんが声をあげた。
 深夜の病棟には相応しくない声量だったが、その胸の内は察するに余りある。本来、三神さんは愛弟子であり家族でもある彼女の来訪を好ましく思っていなかったのだ。それでも今、辺見先輩の容態悪化という苦境に向きあうにあたり、幻子(まぼろし)の到着に一縷の望みを見出したように思えたのだ。
「話は後です」
 と少女は言った。
 聞いていた十七歳という年齢から想像される容姿よりかは、幾分幼く見える。長い黒髪を真っすぐに降ろし、ボタン周りにささやかなフリルが装飾された、黒か紺色のブラウスを着ている。下は濃いえんじ色のロングスカートだ。軽薄さのない大人しめの服装だけみれば、もっと上の年齢に思えなくはない。だが細い肩にちょこんと乗っている化粧っけのない真白な顔は、まるで子供ようだった。
「あ、おい、それは」
 と、三神さんが目を見開いて一歩前へ出る。
 幻子の右手には数珠が握られていた。彼女はそれを胸の高さにまで持ち上げ、
「取り返してきました」
 と言って薄く微笑んだ。
 どういう事なのか。三神さんは確か、乗車したタクシーの中に置き忘れたと言っていたはずだ…。
「やーやーやーやー!助かった、これでなんとかワシも…」
 手を伸ばしてその数珠を掴みにかかった所、三神さんの鼻先で幻子の手が、ふいっと上に持ち上がった。
「お借りします」
 幻子はそう言うと、三神さんの数珠をヘアゴム替わりにして自身の長い髪を後ろで縛った。
 おいおい、切れる切れる。心配する三神さんの横を通り過ぎ、幻子は廊下を奥へと歩き始めた。辺見先輩のいる処置室へ向かうらしい。
 僕は彼女のもとへ追い付いて、頭を深く下げた。
「先輩を、よろしくお願いします」
 ずると幻子は両手を前に突き出して上半身を後ろへ遠ざけ、僕から顔を背けた。
「…やれるだけやってみます」
 口調は穏やかだった。しかし幻子の顔には嫌悪感が浮かんでいる。僕は少なからず傷付き、後ずさった。
 黙って彼女の背中を見送る僕の隣に、文乃さんが立った。
「ちょっと変わった子ですけど、良い子ですから。それに腕は、折り紙付きです」
「…はい」
 だが、事は簡単に良い方向へと転がってはくれなかった。


 廊下の奥から、激しくリノリウムの廊下をこする足音が聞こえて来た。現れたのは白衣を着た若い男性看護師だった。僕らのいる総合待合まで来ると、その看護師は一同を見渡して誰ともなくこう言った。
「彼女は、何かの病気なんですか?」
 はあ?
 一同に怒りにもにた強い動揺が広がる。医者が、看護師が、病院が、それを言うか?
 看護師は着けていたマスクを取ると真青な顔をさらし、早口に捲し立てた。
「処置にあたっている先生も混乱しています。栄養失調か、過労か、初めはそのような体力の消費が著しい症状を見て点滴などを打って経過を観察していたのですが、どうにも血圧と体温が低すぎるし、その後も緩やかに下がり続けていくんです。皮膚の表面にひどく血色の悪い箇所がいくつもあり、打撲痕かと思われました。それで内部にも何か疾患を抱えているかもしれないと疑い、今さっきCTを撮りおえました。そしたらあの患者さん…先生いわく、体内の色んな部分が、欠けていると言うんです」
 悪臭が、鼻をかすめた気がした。僕は口を押えて吐き気を堪えた。
 すると突然、池脇さんが待合の椅子を蹴った。
「だからなんだ!医者であるお前らが何を呑気にくっちゃべってんだ!死ぬ気で治せ!血が欲しいならいくらでもくれてやる!とっととしやがれ!」
 看護師は気圧されて何度も頷いた。
「確かにその通りです、血が必要です、しかも大量の!」
 分かった。と恐ろしく低い声で三神さんが言った。
「ワシら全員、適合するならなんぼでも血を分けあたえよう。その前に一つだけ答えてくれ。あの子の身体の、…何が足りないって?」
 肉です。
 看護師はそう言った。
「内臓が欠損しているわけではありません。ですが本来そこに筋肉があったであろう部分に亀裂が生じていて、外傷もないのにじわじわと出血が続いているんです。レントゲンを見ればわかりますよ。無数です。無数にそんな箇所があるんだ。あの子は一体、なにをされたんですか?」
 看護師の後ろを、音もなく幻子が通り過ぎた。


 結局、辺見先輩の血液型と適合したのは僕と池脇さんだけだった。血の採取を終えて再び総合待合へと戻って来た僕と池脇さんは、通路を挟んで隣合って座る文乃さんと三神さんのもとへと歩み寄った。ここへ戻って来る途中、処置室の前で祈るように膝を付き、まるで中の様子が見えているかのように扉を見つめている幻子の姿があった。僕はもう一度そんな彼女に頭を下げて、その場を後にした。
 先手をうたれた、と三神さんは表現する。
「まるで全てが手の平の上、そんな印象を受けるよ。これはもう言ったかもしれないが、ワシは昨日タクシーの中で肌身離さぬ仕事道具を置き忘れるという、これまで一度としてありえんかった事態にあいまみえた。事故を起こしている車の側を通り過ぎてな。大量の血痕が生々しく残る現場をただ素通りする事がためらわれて、祈るべく数珠を手にした。だがその先を覚えていない。…して、この西荻のお嬢は、同じくタクシーで来る途中、車内で何度も吐いたそうだ。そうだな?」
 文乃さんは口を閉じたまま、頷いた。彼女が少し遅れて現場に到着した裏には、そんな事があったのか。
「池脇のも、帰るすがらでそれらしい事を言うておったな?」
 自分を見上げる三神さんの目に、池脇さんは正直に頷いた。
「俺の場合はあんたらとちょっと違うけど、家を出る間際に、一緒に住んでる連れ合いからどこへ行くのかとしつこく聞かれた。普段そんな事は一切ないからびっくりして。まあそれだけならアレだけど、俺には昔っから一緒に苦楽を共にしてきた幼馴染が三人いてな。…そいつら全員から電話がかかってきた。今日はなんの用事だったか、こっちへは顔出さねえのか…。あいつらとは普段電話なんかしたこともねえのによ。正直これには、びびったね」
 三神さんは何度も頷きながら、僕らの顔を見渡した。
「ワシは、それぞれの欠けた部分を補いあえる良いチームだと思う。だがそれは各人が上手く立ち回り、補い合えたらの話だ。それをしっかりと崩しに来た、ワシにはそうとしか思えんのだよ」
 そこでだ、と三神さんは茫然と立ち尽くす僕を見上げた。
「お前さんとあのレディは、…一体何者なのかね」
 僕は聞かれた質問の意味が分からず、何度も頭の中で反復した。
 何者?…なにものとは?
 僕の視線の先に座っていた文乃さんは、険しい表情を俯かせていた。
 三神さんは続けてさらに、こう言った。


「お前さんは本当に、自分が何者なのか分かってはおらんようだね」