「すみません。やっぱり僕は、…子供だな」
文乃さんは前を向いたまま息を吸い込み、
「今は、やめておきましょう」
と言った。
「はい。すみませんでした」
「謝っていただくようなことではありません」
「はい。…そうだ、お体は平気なんですか?」
今更思い出したように僕が尋ねると、三角座りをしていた文乃さんが両足を前に伸ばした。
「実を言えばずっと足が震えていましたが、大分落ち着きました。お茶、ありがとうございます」
「そうだったんですね。…やはり、例の?」
物凄く臭いなにか。そのなにかに襲われたということなのだろうか。
「自分が倒れていたという認識すらありませんでした。私は気が付けばこのマンションの前にいて、そして気が付けばこの部屋の真ん中に立っていました」
「…」
「これはだめだ、翻弄されちゃいけない。そう思い、新開さんに電話しました。きちんと自分の心に集中し、あなたの声に耳を傾け、気持ちを落ち着かせようと努めました。この部屋から出ようとした、その時でした。玄関の扉を開けた瞬間体中が臭くなり、そこから先は…」
文乃さんの体温をすぐ側に感じていながら尚、全身が粟立つ程に恐ろしい話だった。僕は途中から想像することをやめ、ただ彼女の横顔を見つめた。
「おそろしい。本当にそう思います」
文乃さんは目を細めて、独り言のようにそう口にした。
僕は先程、見えないことが羨ましいと言った。僕とて幽霊は怖い。心霊現象や怪談話も同様に、得意ではない。それでも僕は自分の『視える』特異な体質を自覚しているし、その分心のどこかには覚悟も用意されていて、失望や諦めに似た感情で恐怖の逃げ道を作っていると言える。僕には霊感がある。だから幽霊が見えても仕方がない…という具合にだ。
だが文乃さんにはおそらくそれがない。彼女の言葉を借りるなら、『感じとれはするが見えない』以上、僕とは似て非なる恐怖に突然心臓を鷲掴まれるはずなのだ。僕はその事に思い当たり、想像力の欠けていた先程の発言を後悔した。そんな馬鹿な僕をよそに、それでも尚、彼女は気丈にもこう言う。
「早く、なんとかして原因を特定しないと」
僕は一瞬、もう関わるのをやめたらどうかと、口にしてしまいそうになった。だがそれは、文乃さんの人生においては余計な干渉になる。今僕は、彼女を手助けできる存在でありたいと思い始めていた。彼女の選択を尊重したその上で、全てを受け入れたいのだ。
「…やはり土地でしょうか」
と彼女は小声で言った。誰か(あるいは何か)に聞かれる事を恐れるかのように、小さな声だった。
「そうかもしれません。実を言えば先程この場所に来るまでに、多くのこの世ならざる者を見ました」
「やはり、そうなんですね。私も薄々は、感じていました」
「ええ。その全てがこの建物、あるいはこの土地に向かって、まるで行進しているかのようで。今も、どんどん集まってきています」
僕が玄関を指さしながら言うと、文乃さんはじっとその方向を見据えた。そしてゆっくりと、湯飲みに口をつけた。
「…あっち」
僕は緊張感のないその声に思わず吹き出し、
「そんなに沸騰させたつもりはないですが」
と言った。猫舌ですか?
「いえ」
と文乃さんは答え、熱い物は大好物です、と答えた。
「私の危機管理が足りないせいで、予防線を張るより早く得体の知れないものに体を絡めとられてしまったようです。新開さん。今この部屋に、この世ならざる者はいますか?」
「え?いや、部屋の中にはいません」
「何故だと思いますか?」
「何故、でしょうかね。…これから来るのかも」
「あの時玄関で倒れ伏せ、そして新開さんに助け起こされてから今までずっと、私が気を張っているせいだと思います」
「え。…どういう意味ですか?」
「このお茶が熱いのも、そうです」
そう言って文乃さんが僕の手の甲に湯飲みを押し当てた。
「あっつい!…え、なんですか、これ」
普段あまり声を張り上げる事のない僕でさえ、よく素手で持ってるな、そうたまげる程湯飲みは熱かった。必然的に中のお茶はそれ以上の温度ということである。
「空気を振動させると摩擦が生じ、温度が上がりますよね。…多分」
「はい。…え?」
「そこらへんの知識を使ってうまく説明できませんかね。新開さん、頭良さそうだし」
「え、なんですか?」
「私高卒なんで、上手にあなたを納得させる原理を説明できませんが、緊張していたり怖かったりするとよく『気を張る』っていうじゃないですか。自分の身体の内側から外側に受かって空気を膨張させたり、押し退けたり、狭い範囲で振動させたり、私、そういう事ができるみたいです。…なんとなく、わかりますか?」
「そういう事ができるって、…それはつまり、空気を操作してるんですか?」
「操作しているという実感はありません。水中で手を動かすと、波が出来るでしょう。あれです。だからきっといわゆるエスパーのように、イメージ通りに物体が動くとかそういう事ではない気がします。やはり、空気なんでしょうかね」
「空気を、振動させて…」
続きを言い淀みながら僕は湯飲みに目をやる。
「いや、それってそのー」
空気を振動させるだけじゃなく、水分を発熱させた。それはつまり、人間電子レンジだ。しかしそう言いかけて僕はやめた。文乃さんにはあまり、似つかわしくないネーミングだと思ったのだ。
「やっぱり分かりません、すみません。格好つけるのはやめておきます」
「いえいえ、馬鹿ですみません。話は戻りますが、もし今回の現象を起こしているのが例えばたった一人の、たったひとつの、たった一体のナニカだと考えた時、私はとんでもないものを相手にしている気がして途方にくれそうになります」
「それは…」
それは僕も考えていた。この土地は明らかにおかしい。これまでも様々な場所で霊体を見て来たが、いわゆる心霊体験や心霊現象とは一線を画す怪異と言わざるをえない。オカルトに耐性があると思っていた辺見先輩が味わった恐怖も、精神的のみならず肉体的に負うダメージも、このマンション周辺を訪れたから初めて体験する事ばかりだ。その裏側に、「地獄さながらの悪臭をまき散らす何かが存在する」のであれば、もはやそれは幽霊や霊魂といった概念ですらないだろう。そんなものが存在するとすれば、それはもうすでに…。
「妖怪」
「…妖怪?」
思わず口をついて出た僕の突拍子もない言葉に、文乃さんの声も裏返った。
「すみません、そんなものいるわけないですよね」
「いますよ、妖怪」
「そ、そうなんですか?」
「ここに」
ぽつりとそう呟いて、文乃さんは湯飲みに口をつけた。
…あっち。