平成十一年、九月。  
 彼女と出会った当時僕はまだ十九歳で、東京郊外にある大学の文学部に所属する一回生だった。  
 事の発端を振り返るならば、大学生活にようやく慣れ始めた秋口の、まだ暑さの残るある日の午後、駐車場にて一人、バイトのシフトを確認していた僕に声をかけて来た者が、そうだと言えよう。

「ものすごく臭いモノの話知ってる?」

 バイトのシフトを携帯電話で確認していた僕は飛び上がる程驚き、はずみで軽く手の上に乗せていただけの携帯を取り落とした。  
 声をかけてきたのは、僕の所属する『詩の間際』という風変わりな看板を掲げる文学サークルのひとつ年上の先輩で、辺見希璃という名の女性だった。
「ごめんなさい」
 と謝って僕の携帯を拾い上げた女性を見て初めて、それが辺見先輩だと分かった。
「びっくりした。お疲れさまです。今なんて言いました?」
 辺見先輩は僕に携帯を手渡しながら、
「君はだって、自分以上に霊感の強い奴なんていないとか、そうやって豪語してるもんね?」
 と、さらに挑発的な質問を重ねて来た。
「いや、だから。そんな風に言った覚えなんてないですけど、先輩もご存じの通りなんじゃないですか? それなりにだとは思いますよ。それが霊感かどうかってのは僕の判断なんで、辺見先輩が期待してるようなものかはわかりませんけどね」
「じゃあさ、じゃあさ」
 辺見先輩は声を落とし、

「私の後ろに何がいるか、わかる?」

 騙し打ちのような唐突な問いかけに、僕は正直に言えば少しだけ、ひやりとした。
 霊感があるというだけで、別段恐怖に強いとか麻痺しているわけではないのだ。怖いものは怖いし、見たくない物は見たくない。僕は肩の上で切りそろえられた辺見先輩の左側の髪に焦点を集め、そこからゆっくりと視線を右側へスライドさせて、背後を見た。
 そこに立っていたのが、文乃さんだった。


 僕は、いわゆるあの世の存在、この世ならざる者達の姿を見ることができる。
 物の本で多いのは「半透明」で「足がなく」、「白い服を着た」「女性」というものだが、僕の目に映る彼らは基本的に人とほとんど区別がつかない。ただひたすら血の気のない無表情で、じっと動かない。ただしひと度動けばたちまち輪郭がぼやけて崩れ、残像を引きずりながら移動していく。幸いこれまで、ほとんど動く霊体を見た事はなく、その他は服装も立体感も特別な差異は見受けられない。
 以前この話を辺見先輩に聞かせてからと言うもの、大学構内でそれらし一風変りな人物を見かけるごとに、「あれはどうかな?」と聞いてくるようになった。失礼極まりない、と思う。
 それでいて辺見先輩は人としてとても奥行きのある女性で、素敵な表現を駆使して他人に説明できない僕らの文芸サークルに所属していること自体、理解に苦しむほどの高い社交性と美貌を併せ持っていた。
 だからでしょうか、と、いつだったか文乃さんは僕に言った事がある。
 あの日出会った辺見先輩がとても丸みのある素敵な空気を身にまとっていたから、彼女に道案内を頼んだのかもしれないと、文乃さんはそう僕に教えてくれた。それは素敵な偶然だったのだ、と。
「お客さん。…僕にですか?」  
僕はもう一度辺見先輩の肩越しにその女性を確認して人間である事に安堵しながらも、拭い去れないモヤモヤがそのまま眉間に浮き出ていたように思う。辺見先輩はそれを素早く見てとり、
「ここ来るまでにちらっと聞いたんだけど、ものすごーく、臭いんだって!」
 と、両手をぶるぶると震わせながら言った。その仕草はとても可愛らしかったが、言葉の内容は少しも可愛くなかった。おそらく辺見先輩の声は背後で待っているその女性にも聞こえていたはずだが、彼女がどんな表情でこちらの出方を待っているのかまでは分からなかった。
「辺見先輩、すみません。ちんぷんかんぶんです」
 僕が言うと、辺見先輩はきょとんとした顔で「そっか」と言い、諦めた。そして僕から見て左側に体をひるがえし、僕の視界を開けた。
 その女性がゆっくりと、こちらへ歩みよってきた。十九歳の僕には三つ四つ年上に思える人で、丸い輪郭によく似あうショートヘアの小柄な女性だった。
 僕と辺見先輩のやり取りが面白かったのか、僅かに首を傾けて微笑む彼女を間近で見た瞬間から、僕はたちまち恋に落ちた。
 白いニットのトレーナーに、ダークベージュのロングフレアスカート。僕は女性の服装に詳しいわけではないが、とても彼女に似合っていたと思う。その女性は辺見先輩の隣までくると、両手を差し出して、
「初めまして、西荻文乃といいます」
 と言って僕の顔を見つめた。僕は慌てて携帯をしまい、彼女の手をとって頭を下げた。
「新開水留です、初めまして。あの、水溜まりみたいな字を書くんで、小学生の頃はよく名前でいじめられました。だけど僕、文学作品が好きなので、ちょっと変わった字も、ミトメっていう響きも今では気に入っていて…」
 文乃さんは僕の手を振り解こうとはせず、傍らの辺見先輩を見て笑った。声は出ていなかったように思う。小馬鹿ばかにするでもない彼女の楽し気な表情は、ますます僕を舞い上がらせた。
「いつまで握ってんだっつーの」
 辺見先輩が空手チョップで僕の手をゆっくりと叩き、慌てて僕は手を離した。
「お伺いしたい事があって来ました。ご予定を確認して日を改めるのが筋だとは思いますが、もしお時間がよろしければ、このまま」
「…僕にですか?」
「はい」
 文乃さんは困惑する僕を見上げて確かにそう答え、バイトまでまだ時間のあった僕は興奮気味に頷いた。普段根暗な態度しかとらない僕の様子が余程気になったのか、辺見先輩はしばらく思案した後、首を縦に振った。
「じゃあ、私も」