池脇さんですか?
 自分でも驚くほど冷ややかな声が出た。早口で、突き放すような声だったと思う。
 僕の問いに文乃さんは慌てた様子で、
「え?」
 とだけ発した。
「彼と話をしました。あなたにはすでに、心に決めた人がいると」
「…ああ」
 それは、ああ、ではなく、溜息に似た吐息の音だった。
「僕は彼に、文乃さんの事が好きなんですかと、尋ねました。すると彼は、自分にも決めた女がいると答えました。しかし、それが文乃さんではないと、そういう風には仰いませんでした」
 訪れた沈黙は僕を責める空気ではなかった。しかし悲しいぐらいに、自分の幼さを自覚した瞬間だった。
「…新開さん?」
「…」
「新開さん?」
「はい」
「竜二君は、…彼はそういう恋愛の駆け引きをするような人ではありません。タネ明かしをすれば、あの時私は皆さんの体に触れて、内側から力を解き放つ、なにかそのようなイメージで、波動を流しました」
「…はい」
「その時、ほんの一瞬ですが、皆さんの心が少しだけ私の中に逆流してくるんです。意図するわけではありませんし、コントロール出来る事でもないのですが」
「つまり、心を読んだのだと…?」
「結果的にはそうなります。ごめんなさい」
「いえ、さぞかし気持ち悪かったでしょうね。すみません」
「いいえ。やはりそこは、私もひとりの女ですから」
 しかし、文乃さんが嬉しいという言葉を使うことはなかった。そこには単なる、大人の女性らしい優しさがあるだけで、それがかえって悲しく感じられた。
「それに、竜二君には本当に、彼が中学時代に知り合ったという年下の恋人がいます。そして私にも、確かに心に決めた恋人がいました」
「…は」
 僕は恥ずかしさのあまり、急激に息が詰まるのを感じた。これは照れではない。恥を、感じたのだ。
「…いま、した?」
「亡くなりました」
 聞いてはいけないと感じながらも、ためらいを装いながら発せられた愚かな質問。そして、最悪の答え。
 僕は震える拳を握り締め、思い切り勉強机をぶっ叩いた。
「大丈夫ですか!?」
「…なんでもありません。すみません、馬鹿な事を聞いてしまって」
「いえ。…新開さんは、大学では何を勉強されていますか?」
 突然の質問に、思考が停止する。
 どういう意味だろうか。お前は一体、大学で何を学んでいるんだ、この出来損ないが。そういう意味だろうか。
「何学部なんですか?」
「あ、え、えーと、文芸、いえ、文学部です」
「文学部。というと、もしかして小説をお書きになられたりとか?」
「お恥ずかしいですが、そのような時もあります。ですが主には日本文学と英文学を専攻にとっています。物語の背景や、その歴史を学ぶ事が好きなので」
「素晴らしいですね。あ、竜二君と言えば今日、やはり新開さんの事をオカルト研究会だと思っていたそうです。あいつ面白いなーって、変な風に褒めてましたよ」
 文乃さんの口から池脇さんの名前を聞くだけで、胸がチクりと傷んだ。むろん嫉妬ではない。浅はかな自分の愚かさに腹が立つだけである。
「そうなんですね。オカ研といえばうちの辺見先輩も、僕の体質を利用して時たま勝手にオカ研を名乗ったりしますね」
「先日も、そうでしたね」
「ええ」
「たくさん、好きな事を学ぶべきだと思います」
 文乃さんのその言葉に、僕はボロボロと涙をこぼした。
 それは僕が振られてしまった現実や、淡い恋心の終わりなんかよりもずっと、消えてしまった命の大切さを思わせる、心のこもったエールだったからだ。
 僕は今、好きだと思いを寄せた女性から、自分の人生を応援されている。こんな経験は生まれて初めてだった。電話で話をしていなければきっと、嗚咽してしまいそうなほど切なく、そして胸が張り裂けそうなほど嬉しかった。
「はい。…ありがとうございます。頑張ります」
「短い間でしたが、良い人たちに巡り会えたと、感謝しています」
「はい。僕もです」
「ありがとうございました。無意味な恐怖を植え付けただけで終わってしまい、本当にごめんなさい」
「いえ」
「どうか一日も早く、忘れてください」
 それは恐怖ですか? あなたのことですか?
「それではどうぞ、お元気で」
「文乃さん」
「お身体に気をつけて…」
「文乃…」

 その時、僕の鼻を何かがかすめた。
 実体のある何か、しかしそこにはない何か…。

「…くさい」
 と僕は無意識に呟いていた。
「文乃さん。…文乃さん!」
「…かいさん?…新開さん?」
「文乃さん!そこはどこですか!? あなたは今どこにいるんですか!」
「…かいさん?…かいさん?」


 …かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?…かいさん? …かいさん?


 臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い臭い…


 突然通話の音声が途切れ、僕の耳に再びノイズが入り込んで来た。
 僕は立ち上がって部屋の中を歩きまわり、ひたすら文乃さんの名前を叫び続けた。
 と、声が聞こえた。
「…れ。…れ。…く、で…れ」
 それは明らかに、文乃さんの声ではなかった。
 僕は歩くのをやめ、携帯電話を握りしめた。
「…く、…け。…いけ」
「なんですか!? なんて、あなたは! 誰なんだお前は!」
 僕はその声を聞いた事があると思った。確かに聞いた事のある人間の声だ。しかしいつどこで聞いた声なのか、それが誰の声なのか、全く思い出す事が出来なかった。
「文乃さん!」
 ほとんど泣いているに近い声で、僕は叫んだ。
 突然、誰かが僕の耳元で絶叫した。

「早く行け!」
「全速力で走れ!!」

 僕は携帯電話だけを握り締め、そのほかは何も持たずに家を飛び出した。