円城寺士門の謎解きディナー〜浪漫亭へようこそ〜

時は大正。
北の大地に初夏が訪れ、六月の木々が日に日に緑を濃くしている。
東京以北最大の都市と呼ばれる函館(はこだて)は、ハイカラな洋館が当たり前のように建ち、人々の叡智と夢を詰め込んだような路面電車が走る街。
けれども電車通りから外れた住宅地は、和風木造家屋が建ち並んで、明治から変わらぬ古めかしい景観である。
その住宅地で、茜がかる日差しを浴びて歩いているのは、濱崎大吉(はまさきだいきち)だ。
彼は函館商業高等学校に通う学生で、十七歳。
床屋に行ったばかりの硬めの黒髪は、学生らしく短めに整えられ、卵形の顔に二重の丸い瞳をしている。
詰襟の黒い学生服に学帽を被り、裸足の足元は下駄だ。
教科書を入れた綿のズック鞄を斜めがけにしている大吉を、級友ふたりが挟むようにして歩いている。
彼らも学生服を着ており、小脇に勉強道具を入れた風呂敷包みを抱えていた。
帰路の途中にある三人は、授業内容について話していたが、大吉の左側を歩く級友が、なにかに気づいたように「おっ」と声をあげた。
七分刈りの頭にひょろりとした体型の彼は、幸治(ゆきじ)という名である。
「見ろよ、あの子いいな。この辺りを歩いているということは、愛心女学院の生徒だろうか?」
幸治が注目したのは、前方からひとりで歩いてきた少女で、矢絣(やがすり)の着物に海老茶袴(えびちゃばかま)、編み上げの洋靴を履いている。
長い髪をお下げにし、大きな朱色のリボンで飾っていた。
少女は色白で頬がほんのりと赤く、確かに愛らしい顔立ちをしている。
大吉の右側を歩くのは、(きよし)という名の少年だ。
清は、三人の中では一番体格が良く、陽気な性分である。
普段は口数の多い彼も、「いいな」と呟いた後は、幸治と一緒に黙って見惚れていた。
級友ふたりは足を止め、すれ違った少女を目で追って鼻の下を伸ばしているが、大吉だけは少しも心を動かされない。
なぜなら、その女学生が好みとは違っていたからだ。
少女の姿が道の角を曲がって見えなくなると、大吉はフンと鼻を鳴らした。
「まだ十四、五の子供じゃないか。色気が足りない。あんな娘っ子に惹かれるとは、君らはまだまだ青いな」
腰に手を当てた大吉は、優勢に立ったつもりで胸を張る。
けれども顔を見合わせた級友ふたりが同時に吹き出し、肩を揺すった。
「僕らより三寸も背丈が低い大吉が、なにを偉そうに」
「学校一の童顔でもあるな。大吉が子供扱いして良いのは、小学生以下だろう」
頭ひとつ分小柄で華奢な大吉を、両脇に立つ幸治と清がからかう。
肩を叩かれ頭を撫でられて、愉快そうに大笑いされては、大吉の頬が膨らむ。
学生服を着ていなければ、小学生にも間違われそうな大吉なので、それをいたく気にしていた。
だからこそ、悔しくて堪らない。
(僕は確かに小柄だけど、これから伸びるはずだ。いつかふたりを追い抜いて、頭上から笑ってやるからな)
反論は心の中だけに留めて、ムッとしたまま先立って歩き出した大吉だが、ふと思い直して足を止めた。
あどけなさの残る唇の端をニッと吊り上げ、級友たちに振り向くと、形勢逆転とばかりに強気に言い放つ。
「これを見ても、まだ僕をからかえるのか? 昨日入手したばかりの新しいコレクションだぞ」
英国人のような巻舌で“コレクション”とかっこつけて発音した大吉は、学生服のポケットからそれを取り出して印籠のように見せつける。
期待通りに級友たちは目を見張り、「いいな」「もっと良く見せてくれ」と食いついてきた。
大吉が手のひらにのせて前後を返しながら見せびらかしているのは、“カフェー”のマッチ箱である。
表には西洋画風の色っぽい美女が描かれ、裏には店名と住所の他に『酒と煙草、女給(じょきゅう)の美』と目立つ朱色で印字されていた。
カフェーとは純喫茶ではない。珈琲とアルコールを提供し、蓄音機で洋楽が流れるホールに、紳士の集うサロンがある特殊喫茶である。
流行りの玉突き台があり、美人揃いの女給が着物に白いエプロンをまとって、濃厚な接客をしてくれるそうだ。
カフェーなるものの存在を大吉が知ったのは、尋常小学校に通っていた九歳の時のこと。
六つ離れた長兄が隠し持っていた大人の雑誌を見つけ、こっそり盗み読みした。
あの日から大吉はカフェーに強い憧れを持ち、大人になったら自分もカフェー通いができる紳士になろうと夢見ている。
色っぽい女給のお姉さんたちに構われたいと思い、今は真面目に商学を勉強しているのであった。
大吉ほどではないが、幸治と清もカフェーには興味を持っている。
十七歳の彼らにとって、それはある意味健全な証拠であろう。
背広を着てネクタイを締め、革靴を履き、大手商社に勤めて裕福な生活を送る……大人になった自分を頭に描いて目を輝かせる彼らは、道端に五分ほど足を止め、マッチ箱ひとつに興奮するのであった。

やっと歩きだした彼らは分かれ道まで来ると、「また明日、学校で」と手を振り別れた。
ひとりになった大吉は、マッチ箱を羨ましがられたことで気分良く帰宅する。
そこは商店街の一角にある、“坂田屋”という練りもの店だ。
明治の中頃に建てられた二階建ての和風家屋で、一階の三分の二をかまぼこやちくわ、魚のすり身揚げを作って売る店舗としている。
夕食の買い出しも混み合う時間が過ぎたのか、店内には客がふたりしかいなかった。
「ただいま帰りました」
開けっ放しの格子戸から店内に入った大吉は、商品陳列棚の横で学帽を脱いで会釈する。
帰宅の挨拶をした相手は坂田屋の店主とその妻で、四十代のふたりは大吉の親ではない。
大吉の実家は函館から乗合バスで二時間半もかかる漁村である。
父と祖父、長兄が漁師をしており、母と祖母も魚を仕分けたり網の補修をしたりと、忙しく手伝っていた。
五人兄弟の真ん中に生まれた大吉は、ひとりだけ故郷を離れ、去年からここで下宿生活を送っている。
決して裕福ではない実家だが、函館で学び将来は商社勤めをしたいのだと大吉が両手をついて頼み込んだら、両親はなんとか費用を工面してくれた。
「大吉君、お帰り」
奥の調理場から顔を覗かせ、挨拶を返してくれたのは、着物に割烹着と三角巾姿の女将。
明るく少々慌てん坊な性格で、ふくよかな体型をしている。
菜箸を手にしたまま、草履(ぞうり)をパタパタと鳴らして駆け寄ってきた女将は、嬉しそうに大吉に報告した。
「“揚げかまぼこサンド”、今日もあっという間に売り切れたよ。今、急いですり身を揚げているところさ」
「この時間から作って、また売るのですか?」
「買えなかった常連客にせがまれて、その人の分だけさね。大吉君のおかげで商売繁盛。ありがとうね」
「僕は、自分が食べたいものを言っただけですから……」
学帽を被り直した大吉は、照れたように笑った。
他人に褒められた経験は多くない。
面と向かって感謝されると、恥ずかしくなる。
その褒められた理由である、揚げかまぼこサンドとは、三日前に大吉が考案した坂田屋の新商品。コッペパンに切れ目を入れ、千切りキャベツと揚げかまぼこを挟み、マヨネーズをかけたものである。
マヨネーズは瓶詰めのものが市販されるようになったが、まだまだ庶民の間に浸透しておらず、特に年配層には受け入れられにくい調味料のようだ。
どこかの男性が、ポマードと間違えて髪に塗った、という話も聞いたことがある。
しかしながら大吉は、何年も前から手作りしてマヨネーズを食べていた。
彼は小柄ながら大食漢である。
食への興味は人一倍で、特に洋食には憧れのような気持ちを持って育ってきた。
とはいえ実家は田舎の漁師なので、食卓に並ぶのは刺身や魚の煮付け、塩焼きばかりで、大吉は不満であった。
洋食が食べたいと駄々をこねれば、忙しい母親に『自分で(こしら)えなさい』と言われ、作ってはもらえなかったのだ。
せっかく函館に来ても、下宿先は祖父の知り合いの練りもの店で、夕食のおかずはおでんや煮物、売れ残りのかまぼこがそのまま出されることもしばしばである。
それで大吉は、こういうものが食べたいと、女将の負担にならないように、かまぼこを使った簡単な料理を提案した。
それが店の商品となり、飛ぶように売れているらしい。
揚げかまぼこの親しみやすい洋食というのが、年齢層問わず受け入れられた要因であるようだ。
褒められた大吉が照れていると、客の会計を済ませた坂田屋の店主も、笑顔で寄ってきた。
中肉中背で頭に手ぬぐいを巻き、たくし上げた着物の下にはズボン。腰に黄ばんだ前掛けを締めた店主を、大吉は“大将”と呼んでいる。
大将も揚げかまぼこサンドの売れ行きに気を良くし、「大したもんだ。商業学校に通うほどだからな。大吉は頭がいい」と褒めてくれた。
その後に、「他に新商品の案はねぇか?」と問いかけてくる。
「あります!」と大吉は張り切る。
あれもこれも食べたいと自ら言うのは図々しい気がしていたが、大将の方から案を求めてきたのだ。遠慮する必要はないだろう。
「チーズを練り込んだかまぼこはどうですか?」と自信満々に言って、大吉は下唇を舐めた。
函館の隣町には大きな修道院があり、そこでチーズを生産しているという。
話には聞いても、売られているのを見たことはなく、一度食べてみたいと思っていた。
商売人なら買い付ける手段もあるだろうと期待し、チーズかまぼこを提案したのだ。
けれども、「チーズ?」と眉を上げた大将に、渋い顔をされてしまう。
「いっぺん食ったが、ありゃ西洋人の食いもんだ。俺らの舌には合わねぇな。かまぼこに練り込んだら、けったいな食いもんになっちまう」
隣では女将も同調して頷いている。
試作するに値しないと言いたげな表情だ。
自信があった分がっかりした大吉だが、すぐさま次を提案する。
「それなら、カレー粉を混ぜたちくわは?」
「チーズよりは良さそうだけどよ……売れねぇな。煮込めば、おでんなのかライスカレーなのか、わかんなくなっちまう」
腕組みをしていた大将は、息をついて大吉の肩をポンと叩くと、気を取り直したように笑って言った。
「無理に考えんでもいい。なにかひらめいた時に教えてくれ。まずは勉強道具を部屋に置いてこい」
「はい……」
ちょうど客が来たので大将は持ち場に戻り、女将も「あらやだ、揚げ物の途中だった」と慌てて調理場へ戻っていった。
大吉は店舗の奥に進み、土間で下駄を脱いで板の間に上がる。
すぐ横には二階へと続く踏み幅の狭い急階段があり、そこを上った。
二階に一室、四畳半の部屋を借りている。
寝具や着替え、勉強道具に洗面用具などの全ての私物は、その部屋に置いてある。
(きし)む二階の廊下を歩きながら、大吉は「なんだよ」と不満を呟いた。
試しもしないで、新商品の提案を却下されたのが面白くないのだ。
(今日の夕食も売れ残りの煮物だろうな。せっかく函館に住んでいるのに、ちっとも洋食を食べられない……)
仕送りは生活するのにギリギリの金額で、洋食レストランに行けるはずもなく、トンカツやビーフシチュー、オムレツライスは今もなお、憧れのままである。
それらを頭に描いた大吉は、空腹を感じつつ自室の襖を開けたのであった。

時刻は午後六時半。

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