「おむすびはまだ仕事があって大変でしょ? ミャオは私たちが一緒にいるわ」
「ミャオちゃん、一緒に芋煮の列に並ぼう」
ミャオちゃんが私を手伝っていることに気づいた響さんと碧さんが、声をかけてくれた。ミャオちゃんもうなずいて碧さんにぴったりくっついているし、私はほっとして頭を下げた
「じゃあよろしくお願いします。私は一心さんと一緒に芋煮を配ってきますね」
一心さんの横に戻ると、「お疲れ」と短くお礼を言われた。私も「はい」と小声で返事をする。私もこちらの――こころ食堂の主催者側にいるんだなと実感して、紺色のエプロン姿が少しだけ誇らしくなる。
「一心くん。こっちのお鍋はなあに?」
中くらいの鍋に興味津々なのは大場さん。ぎっくり腰はすっかり回復して、今は同居が始まった娘さん夫婦のために忙しそうだ。お孫さんも、もうすぐ生まれるらしい。
「渋皮煮です。食後に振る舞おうかと作ってきました」
「まあ、本当? 作るのが大変だから、渋皮煮なんてもう何年も食べてないわ。楽しみだわ~。余ったら少し持ち帰ってもいいかしら。大好物なのよ」
「はい、もちろん」
「それで、こっちのお鍋は?」
蓋をかぶせたままの小さなお鍋を指差す大場さん。
一心さんは蓋を取って中を見せることなく、「どうぞ」と話を遮るように芋煮汁を手渡した。
全員に芋煮汁が行き渡り、私と一心さんも食べようかと目で合図をしたとき。土手の階段を、ほっそりした小柄な女性と体格のいい男性が下りてくるのが見えた。
「一心さん、あれって」
私の視線の先を確認した一心さんは、一瞬目をみはった。
「親父と、母さんだな。来るなんてひとことも言ってなかったのに……。店はどうしたんだ?」
一心さんの疑問に、司さんがしれっと答える。
「あじさわも、今日の昼営業は休みだよ。親父さんがそうしたんだ」
「そこまでして来なくても」
「まあまあ。親父さんも心配だったんだよ。たきつけたのは自分だし」
階段を下りた一心さんのお父さんとお母さんが、にこにこしながら近付いてくる。私が挨拶をすると、「いつも一心を支えてくれてありがとう」とお礼を言われた。うれしくて光栄で、なんだか心がくすぐったい。
「一心、うまくやっているみたいだな」
芋煮汁を手渡しながら、お父さんと一心さんが会話している。和解する前はあんなにぴりぴりしていた空気も、今はほっこりあたたかい。お父さんは今まで離れていたぶん、息子を構いたくて仕方がないんだろうな。
「親父、わざわざ店を休みにしたんだって? 土曜日はかき入れ時なのに」
「あら、一心。私だって様子を見に行きたいってお父さんにお願いしたんだから、あんまり怒らないでくれる?」
「母さんもか……」
一心さんは一心さんで、親に世話を焼かれることに慣れていない様子。優しさと不器用さをぎこちなく贈り合っているみたいで、ふたりの関係性がとても微笑ましい。
「本当はもう少し早く来る予定だったんだが、今朝急に庭でとれた栗を届けてくれた人がいてな。これを作っていたら遅くなってしまった」
お父さんが一心さんに風呂敷包みを差し出す。包まれていた重箱を開けてみると、栗ご飯のおにぎりがきっちり詰められていた。
「わあ、栗ご飯!」
私の歓声とはうらはらに、お父さんは失敗したような表情で頭をかいていた。
「おっと、おにぎりならもうすでにあったのか……。余計なことしちまったかな」
メニューがかぶってしまったことに対して気にしている様子だったが、一心さんはふっと表情をゆるめて栗ご飯のおにぎりにかぶりついた。
「――うまいな。ありがたくいただくよ。小ぶりのおにぎりならふたつくらい食べられるだろうし、みんな喜ぶと思う」
「そうか」
お父さんは照れくさそうな表情を隠そうと必死になっていて、お母さんはそんなふたりを見て口に手を当てて微笑んでいた。
芋煮汁を渡したお父さんとお母さんは、テーブル近くに用意された折り畳み椅子に揃って腰かける。
私と一心さんも自分たちの芋煮をよそい、芋煮とおにぎりのおかわりは自由にどうぞということと、一心さんのお父さんから栗ご飯おにぎりの差し入れがあることも声を張ってアナウンスした。
さて、やっと芋煮汁が食べられる。私は親子団らんをジャマしちゃ悪いかなと思って響さんたちに合流しようとしたのだが、お母さんに手招きで呼ばれた。
「あの、いいんですか?」
「なにがだ? おむすびも来い。早く食べたいだろ」
「は、はい」
一心さんも気にしていない様子なので、そわそわしながら味沢一家の輪に加わった。
「結さん、先日はありがとうね。お父さんの体調もすっかり良くなったし、そろそろお礼の食事会を開こうと思うんだけど、いつがいいかしら」
元気なのはお父さんの溌剌とした様子を見ていればわかった。関節炎も、薬でだいぶ改善したらしい。
「あ、私はいつでも……。あ、でも響さんも呼ぶなら、バーの定休日かお昼がいいと思います」
「そうか、なら食堂の定休日の昼に来てもらうか。今日も店は一日休みにしたんだろう? 慰労が必要といっても、あまり親が何度も休ませるのもな。過保護だと思われてしまう」
「もうすでに思われているんじゃないか?」
からかうような口調の一心さんと、むっとするお父さん。ふたりのやりとりを聞きながら、お母さんと一緒に笑ってしまった。
冷めないうちに、プラスチックの器によそった芋煮汁に口をつける。
「わ、芋煮、おいしいです! 豚汁の味を想像していたんですけど、具だくさんだからもっとまろやか! 汁物と煮物の中間みたいな感じですね」
崩れた里芋がとろっとしていて、味噌の汁自体がおいしい。野菜の旨みがぎゅっと詰まっている感じ。
「そうか。おむすびが気に入ったならよかった」
「はい。たくさんおかわりしちゃいそうです」
まだ半分も食べていないのに、身体がぽかぽかしてきた。お出汁と味噌の濃さも絶妙で、おにぎりも進んでしまう。栗ご飯のおにぎりは、もち米で炊かれていて食べごたえがあった。栗の控えめな甘さとホクホク感、お米のもちもち感、ごまの塩加減がマッチしていて感動のおいしさだ。
一心さんもそうだけど、プロの仕事ってすごい。なにげないものを作っても、真心と手間のかかったおいしさを感じられるんだから。
「ところで、一心」
芋煮汁を食べ終わったお母さんが膝に器を置いてハンカチで口をぬぐう。今日はパンツスタイルのラフな洋服だけど、着物姿のときみたいに仕草が上品だ。
「ああ」
一心さんは、芋煮をすすりながら返事をする。
「こころ食堂の裏メニューなんだけど」
一心さんの肩がぴくりと動き、一瞬時間が止まる。
「母さん、どこでそれを?」
ゆっくりと器から顔を上げた一心さんは、気まずそうな顔をしていた。おそらく、気恥ずかしいから『おまかせ』のことは親には知られたくなかったんだろう。
「司さんに聞いたのよ。叔父さんにチキンカツレツを作ったんですって? お父さんははらこ飯を作ってもらったし、私だけまだなにも、一心のおまかせ料理を作ってもらっていないのよ」
「司さんは叔父さんと一緒に来てくれただけだし、親父のは見舞いだからそういうつもりじゃ」
言い訳を並べる一心さんの肩を、お父さんがぽんぽんと叩く。
「母さんはうらやましいんだとさ。お父さんだけ思い出の料理を作ってもらってずるい、って言われちまったよ」
一心さんは、はっとしたようにお母さんを見た。お母さんはちょっとだけさみしそうな笑みを浮かべながら首を傾ける。
一心さんと連絡が取れなかった数年間、いちばんつらかったのはお母さんなんじゃないかと、私も気づいていた。
「だからね、お母さんにも今日『おまかせで』なにか作って欲しいのよ。私が食べたいもの、一心だったらわかるわよね」
あっ、と口に出しそうになった私に一心さんも気づいたようで、目配せされた。あれは、もしかして……。
「母さん。実はそれは、もう用意してある」
「えっ……?」
驚くお母さんの肩に手を添えて、一心さんは立ち上がった。
「少し待ってくれ。芋煮にうどんを入れたものを配ってくる。デザートはそのあとだな」
「あ、私も手伝います」
からになったお椀とお箸を持って、私もあとを追う。
「デザートは、栗の渋皮煮じゃないのか?」
背中にお父さんの疑問の声がかかったが、一心さんは足を止めることなくお鍋に向かっていく。その横顔は、今日見た一心さんの表情の中で一番、楽しそうだった。
芋煮うどんバージョンが全員に行き渡ったあと、一心さんは中鍋に入っている渋皮煮を小皿に分け始めた。私はそれに楊枝を添え、食べ終わった人に配っていく。あたたかい緑茶も淹れられるよう準備をしてきたので、大人たちにはそちらも。
一心さんのもとに戻ったときには、小さな鍋の中身はぐつぐつ煮えて、甘い香りが漂っていた。
「それ、お母さんのためのものだったんですね」
デザートがふたつもあるなんて妙だなとは思ったのだが、それが伝統なのかなと思って詳しくは訊かなかった。
「ああ」
私の問いに、一心さんはいたずらっぽく笑う。
「お母さん、きっとびっくりしますね」
「驚かせたかったわけじゃないんだが、向こうが『おまかせ』を注文したんだ。こういうのもいいだろ」
お椀に入れたそれをお母さんに差し出したとき、案の定驚いた顔をしていた。
「一心、どうしてこれ……。だって、今日来るなんて話してなかったじゃない」
「母さん、芋煮会から帰ったあと、いつも『甘いものが食べたい』って言ってこれを作ってただろ。そのとき、必ず俺のぶんも作ってくれて……。母さんが来ても来なくても、俺にとっても芋煮のあとはこれだったんだ」
その言葉を聞いて、お母さんの持ったお椀の中身がふるふると震えた。
粒を残したあんこに、コンロで焼き目をつけたお餅を入れたお汁粉。それがあの小鍋の中身だった。
「栗の渋皮煮も作ったし、食べ足りない人だけに配ろうと思っていたから量は少なめなんだが……」
それで大場さんに『念のため』と話していたのか、と納得する。
「お父さんばっかりって思っていたけれど、私と一心の間にも、ちゃんと思い出の料理があったのね」
「当たり前だろ。親父と過ごす時間は長かったかもしれないけれど、家での食事を用意してくれていたのは母さんなんだから」
瞳の表面で揺れていた膜が、とうとう涙になってお母さんの頬を伝った。
「私……。一心が家を出て行くのを止めなかったこと、ずっと後悔していたの。いくつになってもかわいい息子だったし、本当はずっと一緒に暮らしていたかったのよ」
鼻をすすりながらそう語るお母さん。お父さんも兄弟子たちも、一心さんが出て行くのを止めなかったと司さんから聞いたとき、私は『ひどい』と思ってしまったけど……。お母さんの場合は、止めたくても止められなかったんだ。
初めて聞くお母さんの本音だったのか、一心さんの表情もつらそうだった。
「でも、たくさんの経験のおかげで今の一心がいるなら……、私はあのとき子離れしてよかったと思うわ」
さっぱりした顔で笑うお母さん。本当の意味で味沢家がひとつになったのは、今日なのかもしれない。
「で、親父はいつも、餅はふたつだったよな。餅はやわらかめが好きだったから、母さんのより長めに煮込んである」
「俺のぶんもあるのか?」
一心さんがお父さんのぶんのお椀を差し出すと、驚いて眉毛を上げながら受け取った。
「いつも三人で食べてただろ? 芋煮会が終わったあと、家の台所で。親父と母さんは毎回疲れた顔をしていたけど、これを食べたらほっとしていた」
「そうだったな……」
昔を思い出すように、しみじみとつぶやくお父さん。お餅がくたくたになったお汁粉に、愛おしそうに目を落としていた。
「おむすびも、餅はふたつでよかったか?」
「はい。ありがとうございます」
一心さんがお汁粉をお盆に乗せたとき、迷うことなくお椀を四つ用意していて、私はそれが無性にうれしかったんだ。
「じゃあ、いただきます」
上品な甘さかなと予想していたお汁粉はしっかり甘くて、動いて疲れた身体に沁み渡るようだった。お餅も、柔らかすぎずちょうどいい食べごたえ。
土手や階段に散り散りになったみんなを見渡してみると、甘いものとお茶でひと息ついたあとのゆったりとした時間が流れていた。おしゃべりも緩やかになって、みんながこの空間と時間を味わっているみたい。
甘いものを食べたあとって、ほっとして、心と身体が緩んで、陽射しや風が心地よく感じるのってどうしてだろう。
第一回こころ食堂主催芋煮会。大成功で終わった今日の会。その秋の風景もみんなの笑顔も、忘れないようにしようと思って私は深く息を吸い込んだ。
これから図書館で芋煮会のレポートを書く、という子どもたちを集団で帰して、大人たちが片付けを手伝ってくれているとき、見たことのない女性が手を振りながらこちらに近付いてきた。
誰の知り合いだろう? と思ったとき、「四葉ちゃん!」と手を振り返しながら、夏川先生が女性のもとに駆けていった。
夏川先生と同じ二十代後半くらいに見えるし、お友達なのだろうか。同僚の教師だったら『四葉先生』って呼ぶはずだよね。
四葉、と呼ばれた女性は背が高くすらっとしていて、ボーイッシュなショートカットがよく似合っていた。袖をまくったラフなベージュのジャケットと、セットアップのパンツがモデルさんみたいにキマっている。儚げな夏川先生とは対照的で、きりっとした健康的な美人という感じ。
しばらく談笑をしていたふたりだが、夏川先生が四葉さんを伴ってこちらに向かってくる。
「店長さん、結さん。まごころ通りのみなさんに紹介したい人がいるんです」
夏川先生はにこにことうれしそうな顔で私たちに話しかけてくる。
「あっ、はい! じゃあみんなを集めてきますね」
不思議に思いながらも、響さんとミャオちゃん、猫カフェのオーナー夫妻を呼びに行く。
みんなが集まると、四葉さんが名刺を差し出しながら前に進み出た。
「わざわざ集まってもらってすみません。私、今度まごころ通りに出店することになったパティスリーの店主で、佐藤四葉といいます」
よく通るハスキーな声、少し男っぽい口調で説明する四葉さん。四葉、は名字じゃなくて名前だったのか。
いただいた名刺には、【洋菓子店『SWEET Clover』店主 佐藤四葉】という名前と、お店のアドレスが書いてあった。
「あの空きテナント、やっぱりケーキ屋さんになるんですね。看板がなくなっていたから、気になっていたんです」
「うん。まだ準備中だから、開店は来月からになるけどね。ケーキは好き?」
「はい、大好きです! オープンしたら真っ先に買いにいきますね」
「ほんと? ありがとう」
四葉さんが微笑みながら、頭をぽんぽんと撫でてくれる。その仕草があまりにも自然でイケメンじみていたから、女性なのに条件反射でドキッとしてしまった。
「あんた……そっちの趣味あったの? 早く言ってくれればいいのに」
それに気づいた響さんがからかうような目で見てくる。
「ち、違います! 四葉さんがその、かっこいいから」
「四葉ちゃん昔から、女の子にモテるのよね。実は私の初恋も四葉ちゃんなんです。そのときは男の子だと思っていたんですけど」
夏川先生はうふふ、と笑っているけれど、それは笑いごとですませられる思い出なのだろうか。
「SWEET Cloverっていうのがお店の名前なの? 自分の名前とかけてる?」
「ご名答」
手を顎に添えながら首をかしげる響さんに、四葉さんはニッと笑う。
「あたしのバーも、自分の響って名前をつけてるの。センスが同じ者同士、仲良くやりましょ」
「ええ、ぜひ」
響さんの伸ばした手を、四葉さんがしっかりと握る。
女性的な響さんに、男性的な四葉さん。不思議なコンビだけど、姉御肌な雰囲気が共通しているから、意外と気が合うのではないだろうか。
「それで、夏川先生と佐藤さんはどういった知り合いなんですか?」
それまで静かに私たちのやり取りを聞いていた一心さんが、一番気になる質問をする。
「実は、四葉ちゃんとは幼なじみで。保育園から中学校までずっと一緒だったんです。四葉ちゃんが自分の店を持ちたいって言っていたのを思い出して、まごころ通りにあった空きテナントを紹介したんです」
「変わった店主が多いけれど、みんないい人だから絶対気に入るはず、って言ってたよね」
「ちょっと四葉ちゃん! そ、そんなことは言ってないです! ただあの、個性的な人が多いよとは説明したかもしれないですが……」
しどろもどろになっている夏川先生は、いつものしっかりした『先生』の顔じゃなくなっていた。
当たり前だけど、『先生』にもプライベートがあって、そこでは年相応の若い女性なのだなと実感する。今までは夏川先生の教師としての一面しか見ていなかったけれど、四葉さんのおかげで夏川先生が素の自分を出してくれた。まごころ通りになじんで気を許してくれたんだって、そのことをすごく光栄にうれしく感じる。ずっと気を張ってがんばってきた夏川先生だから、なおさらまごころ通りでは自然体でいてほしい。
「まあ、個性豊かなのは事実よね。あたしを筆頭に。でも四葉さんなら、この濃いメンツに混ざっても大丈夫な人に思えるけど」
「私もそう思って紹介したんです。若くしてお店を持つってことに、友人として心配する気持ちもあったんですけど、まごころ通りなら大丈夫だろうって」
四葉さんは製菓学校を卒業したあと、有名なパティスリーで下積みの修行をしていたそうだ。立場も上がって後輩の指導も任せてもらえるようになり、お金も貯まったのでそろそろ独立、と考えていたところの空きテナント発見だったらしい。
「それじゃ、私は店に戻るので。オープンの際は買いに来てくださいね」
「まごころ通りから、開店祝いのお花を贈るわ」
「本当ですか。ありがとうございます」
オーナー夫妻とミャオちゃんとも、「猫が苦手じゃなければ遊びに来てね」「大好きです。必ず行きます」と約束して、四葉さんは颯爽と去っていった。
甘い店名とはギャップのある四葉さんの後ろ姿を見送りながら、クローバー色の新しい風がまごころ通りに吹き込むのを感じた。