私がこころ食堂で働くようになって、はや半年。
いつものように出勤していると、金木犀の香りがふわりと鼻先まで漂ってきた。
半袖と長袖を週ごとに繰り返していた九月も終わり、いよいよ秋本番。十月になって、無事はらこ飯も季節限定メニューに仲間入りした。
秋は食べものがおいしい季節だから、どんなまかないが食べられるのかわくわくする。金木犀の甘い匂いも食欲をくすぐり、出勤前なのにお腹がすいてしまいそうだ。
秋といえば、さつまいも、栗、かぼちゃは鉄板だよね。スイートポテト、モンブラン、かぼちゃタルトみたいなスイーツ系もいいけど、栗ごはんに脂の乗ったサンマ、けんちん汁の組み合わせなんて何度食べても飽きない。
煮込み料理やスープ料理も寒くなるにつれて食べたくなってくる。和風ポトフや和風ロールキャベツなんて、これからの季節限定メニューにも良さそう。
「あれ?」
そんなことを考えながらまごころ通りを歩いていると、ずっと空いていた敷地から『テナント募集』の看板が取り外されていることに気づいた。
おそらく、もとはパン屋さんとかケーキ屋さんだったと思われる、洋風の建物が残っている空きテナント。ここに新しく入るということは、そのどちらかなのだろうか。意表をついて和菓子屋さんの可能性もあるけれど……。
まごころ通りにも新しい風が吹き込みそう。そんな予感に胸を弾ませながら、私はこころ食堂の扉を開けた。
「え? 芋煮会?」
一心さんのお父さんから電話がかかってきたのは、昼営業の終わりのこと。
「ああ、親父か」と話し始めたときは少しうれしそうにしていたのに、今の一心さんは困惑気味だ。
「そりゃあ、そうだが……。少し考えさせてくれ」
そう言ってお店の電話を切ると、一心さんはふーっと息を吐き出しながら考え事をしていた。
「一心さん、『いもにかい』ってなんですか?」
拭き掃除をしながらたずねると、一心さんは
「……ああ、そうか。おむすびは知らないのか」
と意外そうな顔をしつつ、丁寧に説明をしてくれた。
「芋煮会とは、東北地方にある風習なんだ。芋を鍋で煮るから、芋煮会。秋に河原で催されることが多いな」
「そんな行事があるんですね、初めて知りました」
茨城では、秋の行事といえば芋ほり遠足だったけれど、芋煮も収穫を祝うイベントなのだろう。
「祖母が宮城県出身だということは話したと思うが、それで親父も、町内会の人を集めて毎年芋煮会を開催していたんだ。『あじさわ』主催で、日ごろの感謝をこめて芋煮や鍋料理を振る舞っていた」
「楽しそうですね! それじゃもしかして、その芋煮会へのお誘いだったんですか?」
「いや、違う。お前のところでも、『こころ食堂』主催で芋煮会をやってみろと言われた。まごころ通りのメンバーや、お客さまを集めて日頃の感謝を伝えたらどうだ、と……。俺はそういったサービス精神に疎いから心配だ、とも言われた」
一心さんにサービス精神がないとは思わないけれど、そういった行事を先導して仕切るタイプじゃないということはわかる。お父さんなりにこころ食堂のことを気にかけてくれているんだな。
「おむすびは、どう思う」
こんなふうに、一心さんが私の意見を訊いてくれるようになったのも、はらこ飯の一件から変わったこと。それに、以前より雰囲気も柔らかくなったから、一心さんに話しかけるお客さまも増えた。
「初めて聞く行事なので、やってみたいです! 外で鍋料理を作ってみんなで食べるなんて、すごく楽しそう! 小学生のとき、林間学校でカレーを作った以来かもしれません」
「……そうか」
「私みたいに知らない人も多そうだから、きっとみんな喜んでくれると思います! 子どもたちも招待してあげたら、大はしゃぎしそう」
夏川先生のクラスの子どもたちが、わいわい騒ぎながら芋煮を食べる姿が目に浮かぶ。
「じゃあ、やってみるか。芋煮会」
「ほんとですか?」
「ああ。ここのところ、いろんな人に世話になっていることは確かだしな。響やミャオや司さん……。他にお客さまたちも呼んで盛大にやろう」
腰に手を当てた一心さんは嫌々そうではなく、表情をほころばせている。
みんなの顔を思い浮かべたら、楽しみな気持ちが一気にぐーんと高まっていった。ここに響さんかミャオちゃんがいたら、「やったね!」とハイタッチしていただろう。
「楽しみです! 芋煮のほかには、なにか作るんですか?」
「そうだな、主食は欲しいから握り飯と……。鍋ごと持っていけるなら、栗の渋皮煮もありだな」
「栗の渋皮煮? マロングラッセみたいなものですか?」
栗を甘く煮たものと言ったら、お正月の栗きんとんや、モンブランに乗っている甘露煮くらいしか知らないので想像がつかない。
「和風のマロングラッセに近いかもな。ただ、渋皮煮の場合は、殻と身の間にある薄い皮を残すんだ。その皮むきが面倒だし、煮るのにも手間がかかるから、普段店では出さないんだが……」
そんな手間のかかるものを作ろうとするなんて、一心さんもやる気みたい。
「お手伝いします! 皮むき、休憩時間にもできそうですし」
「ああ、頼む」
意気込んでそう申し出ると、一心さんは口の端を持ち上げて微笑んでくれた。
ついこの間、変化していることに気づいてしまった一心さんへの気持ちだけれど、話しづらくなることも働きづらくなることもなく、びっくりするくらい今まで通りに仕事ができている。
自覚しただけで、切なくなったりドキドキしたりの心の動きがなくて逆に戸惑っているけれど、それって今のこの距離感が心地よくて満足してるってことなのかも。
だけど――。こんな笑顔を向けてもらえたときだけは、心の奥がぽかぽかして幸せな気持ちになる。とびきりおいしいおむすびを食べたときみたいに。
一心さん本人にも、響さんにも言えない、言うつもりもないこの気持ち。響さんに隠し事をするのは心苦しいけれど、おむすびひとつぶんくらいのこんな秘密だったら、響さんも許してくれるかな。
一週間後の土曜日。昼営業はお休みして待望の芋煮会だ。
場所は、近くの河川敷。自治体への届けもばっちり済ませてある。
私と一心さんは響さんに車を出してもらって、鍋や材料、テーブルなどを会場に搬入した。渋皮煮は、もうできあがっているものを鍋ごと持って行く。
数日前から一心さんが渋皮煮を作るのを手伝っていたが、これは本当に時間と手間がかかる。
まず、皮をむいて水に浸すのに一晩。そして、茹でて味を染み込ませるのにもう一晩かかる。せっかちな食いしん坊さんには向かない料理なのだ。
大量の栗を、渋皮を傷つけないように包丁で丁寧にむくのも難しいし、茹でるときだってアクを抜くために何度も水を替えなければいけない。
ただ、それだけ手間がかかっているだけあって、その味は絶品だ。
昨日、冷ました渋皮煮を味見させてもらったのだが、ほっぺたが落ちるかと思った。
まるごと一個の大きな栗がほろっと崩れて、口いっぱいに甘さと栗の濃い風味が広がる。汁っぽくてじゅわっとしているのが市販のマロングラッセとは違う。手を痛くしながら手伝ったひいき目を抜きにしても、いくらでも食べられそうなおいしさだった。
一心さんが、芋煮会でみんなに振る舞いたいと思った気持ちがわかる。だって、みんなが食べたときの驚く顔と笑顔が想像できるもの。
「一心ちゃん、テーブルとカセットコンロはこのあたりでいい?」
「ああ。なるべく平らなところに頼む」
ドッヂボールができるくらい広めの河川敷に、芋煮用の大鍋、渋皮煮が入った中くらいの鍋、そして小鍋の三つをセッティングしていく。疲れた人用に、折り畳み椅子も何脚か用意した。荷物自体はワゴン車一台に収まるくらいの量なので、三人で手分けしたらすぐに終わってしまった。
水筒の麦茶を飲んでひと息つきながら、景色を見渡す。秋晴れの空は高く青く、陽射しを受けて川の水面がきらきらと輝いている。道路沿いのイチョウの木から落ちてくる黄色い葉っぱが、芝生と土の地面にかわいいアクセントをくれる。
動いて汗ばんだ肌に心地よいそよ風も感じられて、絶好の芋煮日和。
「今日は、碧さんも来てくださるんですよね」
響さんの元カノの碧さんとは、バーを訪ねるとよく会うようになった。休みの日も響さんとカフェめぐりやショッピングに出かけているようで、すっかり気の置けない女友達、という感じだ。
たずねると、同じように水分補給していた響さんがぱちぱちと瞬きしながらこちらを見た。
「そうよ。河原でおいしいものを食べるイベントをするのよ、って話したらふたつ返事だったわ」
「芋煮会をそんなふうに説明したのか?」
さっそくエプロンと三角巾をつけている一心さんは、なぜか眉をひそめている。今日は板前服ではないが、長袖Tシャツにジーンズと動きやすい格好だ。私はカットソーとパンツ、食堂のエプロンで仕事中と変わり映えしない姿だが、黒いパンツに白シャツをあわせた響さんは普段の私服よりもカジュアルだ。
「そうよ。別に間違ってないでしょ?」
「間違ってはいないが、バーベキューみたいな若者向けの行事だと勘違いさせてもな」
「一心ちゃんがそんなリア充みたいな行事を仕切るわけないじゃない! そのくらいわかってるわよ、碧だって」
「……そうか」
一心さんは納得しながらも、若干腑に落ちない表情をしていた。
「あと来てくださるお客さまは、司さんと司さんの叔父さん、夏川先生と子どもたちですよね。まごころ通りからは、ミャオちゃんとオーナー夫妻、大場さん」
みんなの顔をひとりひとり思い出しながら、指折り数えていく。子どもたちは、夏野菜カレーを作った学習班の五人以外にも、クラスの子が何人か参加してくれるそうだ。
「そうだ。芋煮が仕上がるころには揃うだろうな」
久しぶりに会う人たちも多く、楽しみでそわそわしてくる。集合をお昼にしたから、今は十一時を過ぎたころ。準備にもじゅうぶん時間がある。
「そろそろ作り始めるか。おむすびは芋煮の手伝いを頼む。響は小鍋の中身を煮ておいてくれ」
「はい」
「わかったわ」
一心さんは、すでに切って持ってきた材料を大鍋で炒めていく。里芋、人参、大根、ごぼう。豚肉にネギ、こんにゃくに油揚げ、まだ旬には早い白菜もまるまるひとつぶん。
火が通ったあとは、水をひたひたになるまで入れる。調味料はお出汁と味噌。
「芋煮って聞いたときは芋の煮っころがしみたいなものを想像したんですけど、豚汁に近いんですね」
煮物というよりは汁物だし、芋だけではなく根菜もたっぷりだ。
「芋煮でも県によって作り方が違うらしい。うちは祖母が宮城県出身だからそっちの作り方だが、宮城の芋煮は豚汁に近いらしいな」
「へえ、そうなんですか」
「山形のほうは牛肉を使うし、醤油と砂糖を使った甘辛い味付けだそうだ」
「同じ芋煮なのに全然違うんですね」
甘めのけんちん汁とか、汁気の多い肉じゃがに近いのだろうか。そちらの味も気になる。
「一心ちゃん。これって煮立ったら具も入れちゃったほうがいいのかしら」
響さんは、小鍋の中身を見ながら首をかしげた。
「いや、それは俺がタイミングを見て入れておく。食べるのは芋煮のあとになるだろうし、入れておくと煮込みすぎるからな」
「そうね、じゃあ水っぽさがなくなったら火を止めておくわ」
黒っぽい中身を隠すように、響さんは優雅な動作で蓋をちょんと乗せた。
芋煮のほうも、そろそろ材料が煮えてきた。手伝ってとは言われたけれど、一心さんひとりで手が足りているので特にやることがない。普段も大鍋でお味噌汁などを作っているせいか、材料が多くても一心さんは悠々と手を動かしている。
「あの、一心さん。アクを取りましょうか?」
見ているだけなのが手持ちぶさたで申し出る。
「じゃあ、頼む」
一心さんは少し迷ったけれど、私になにも仕事を頼んでいないことに気づいたのか、うなずいてくれた。