何かが自分を呼んだ気がした。脚が止まる。
周りを見渡すが、誰か知り合いが自分を呼んだわけではなかった。
けれど……あ、ほら、また、この音。
この音が自分を呼んでいる。
ここは都内の音楽大学。広い大学内では、常に何かの楽器の音が聞こえる。
10月も半ばになり、暑さが少し和らぎ、過ごしやすい日が増えた。
木曜日の現在時刻は午後2時すぎ。
心地よい風が、大学内の木々を揺らしていった。楽器が入った様々な形のケースを持つ音大生が横を通り過ぎていく。
飛行機の音、遠くの車のクラクション、風が木を揺らす音、学生の笑い声、ピアノの音、ティンパニーの音、ホルンの音。
そして、また、あの弦の鳴る音がする。
バイオリンのような凛とした音とは少し違う。柔らかく、深みがあり、円熟したような色気を感じる音色。東洋の音。二胡(にこ)だ。中国の伝統楽器で、二つの弦を持つことから、二胡という名前がついた。
哀愁を帯びたその音色は、人間の、特に女性の声に近い楽器とも言われている。そのためか、聞くとなぜか懐かしい気持ちになる。
ピアノやバイオリンなど、専門のコースがなく、演奏者人口が少ない異国の楽器である二胡の音色が聞けるのは珍しかった。
このメロディーは……『時の流れに身をまかせ』
台湾出身である歌手のテレサ・テンが、中国語だけでなく日本語でも歌っていた歌。約40年前に流行ったこの曲は、今でも中国や日本、アジア全域で愛されている。
テレサ・テンの綺麗な歌声と似た、ゆったりと優しい演奏だった。けれど、優しさの中で、少し緊張してるのがわかる。まるで、初デートを一生懸命エスコートしてるような感じ。時々、音の高さがズレでしまったり、伸ばし足らなかったり、少し拙さのある演奏だった。それでも、たまに、あ、ここ、いい。と感じる弾き方があり、ついつい聞き込んでしまう。
どこから聞こえているのだろうか。
誘われるように、その音色を探していると、一棟の練習棟にたどり着いた。防音の効いた小さな部屋がたくさんあり、中でいくらでも楽器の練習できる。
いくつかの部屋はドアがきちんと閉められ、中に人の気配がするが、その中の一つ、一番奥のドアが半開きだった。
練習棟の長い廊下に、二胡の音色が響く。
ドアには小さな窓があり、そこから、こっそりのぞいてみた。青年が一人、窓際に置いたイスに座り二胡を弾いていた。
小さな楽器の二胡が、ちょこんと青年の膝の上に乗っているのが、可愛らしかった。
堅い木を六角形に組んだ共鳴胴から、青年の頭の高さまで伸びた棹(さお)。本当に細くて、力を入れてしまうと折れてしまいそうだった。青年の左手は優しく、棹を撫でるように這うと、張られた弦を指で押さえる。
青年は集中していて、気持ちよさそうで、楽しそうな顔だった。
彼の動かす弓に従い、二本の弦と共に二胡は体を震わせ、音を響かせた。
青年が、弾いている自分の二胡に視線を落とした。まるで、「いい子だ」といでもいっているように、優しく微笑んだ。
拙いけれど、迷いのない音。
耳を傾けずにはいられない。
身を委ねたくなる優しい音。
なぜか、心くすぐられる。涙が出た。
二胡と戯れていた青年が、ふとドアのほうに視線を向け、目を見開いた。
目が合った。
顔が固まり、演奏も止まる。
「……………」
「……B、BRAVO!(ブ、ブラヴォー!)」
覗き見していた男子学生は拍手をし、叫んだ。
そのまま、恐る恐る部屋に入った。
青年は恥ずかしそうに、何もない壁のほうを見て、目を合わせようとしなかった。
けれど、大きな拍手に、満更でもなさそうな表情も、少し、見え隠れする。
「スバラシイデス!」
青年は片言の日本語を聞いたとたん、怪訝な顔にかわった。
「中国人?」
似た顔つきから日本人だと思っていたようだ。カタコトということは、日本以外。日本以外では、中国人の確率が高い。この学校は中国からの留学生は少なくない。
「ソウデス!ドア開いてて、聞いてシマイマシタ!」
「…………」
青年はさらに、気に入らなさそうな顔をし、小さく息を吐いた。
弦を左手で二胡本体とまとめて持つと、譜面台に乗っている、印刷しただけのペラペラな紙を意味もなく動かした。それは楽譜で、音符一つ一つの上に1,2,3と数字が書かかれていた。
「…………」
さっきまでの包み込むような優しい演奏からは想像できないような、拒絶的な態度だった。しかし、それに気づかない中国人留学生は、キラキラした笑顔で矢継ぎ早に質問していく。
「二胡好きデスカ!?」
「……嫌いじゃ、ない」
「中国の音楽、興味アルデスカ?」
「まぁな」
「わぁ、嬉しいデス!」
ボソボソと無愛想な返事だったが、中国人留学生はさらに目を輝かせる。気持ちが高ぶり思わず、中国語で質問してしまった。
「先生は?」
「独学」
ほとんど間がなく、中国語で返事が返ってきた。少し訛りは感じたものの、あまりにも自然で、留学生はそのまま中国語で続けた。
「独学?すごい!いつから弾いてるんですか?」
「んー、今年の春くらい?」
「最近じゃないですか!なのに、すごい弾けてますね!独学でこんなに弾けるなんてびっくりです!この曲、日本の人も知ってるんですね!私も大好きです!」
中国語がどんどん早口になっていく。嬉しそうにしゃべり続ける留学生に、青年は口を挟んだ。
「あー、いや、そんな早口で言われてもわかんねーし」
日本語だった。留学生はハッとしたように、また、覚えたての日本語に戻した。
「中国語デキル?」
「2年間中国、3年間香港に住んでたことがあるから。多少」
「名前はナンデスカ?」
少し、ためらうような間のあと、ぽつりとつぶやいた。
「………福原 理太郎(ふくはら りたろう)」
「フクハラ リタローさん!私、李 宇軒(リー ユーシェン)ってイイマス!ヨロシクオネガイシマス!」
満面の笑みで、リーユーシェンが笑った。理太郎はおぅと小さな声で返事を返した。
リーユーシェンは丸顔で、どちらかといえば幼そうな顔つきの、優しそうな雰囲気の青年だった。
一方、理太郎は愛想笑いの仕方もわからないような済ました顔の青年だった。少し長めの黒髪がよく似合っている。
「あ!名前!漢字でカイテ、クダサイ!」
リーユーシェンが鞄から、メモ帳のようなものとペンを出した。理太郎はふっと小さく笑うと、のろのろと受け取り、名前を書いた。
「俺、有名人でもなんでもないんだけど」
それほど、綺麗でもない普通の字。覗きこんだリーユーシェンは嬉しそうに頷くと、今度は自分がペンをとる。
「私ハ、コウ、書きマス」
同じ漢字だけど、日本の漢字とは少し違う雰囲気の文字が並んだ。中国では簡体字。
李宇軒の軒は正しくは、くるまへんが異なる。理太郎はそれをチラリと見ただけで視線を外した。
鞄を漁り、別の楽譜を取り出した。それでも、リーユーシェンはまた質問攻めを始める。
「中国ノ楽器、好きデスカ?」
「まぁ、嫌いではない」
「中国、ドコ住んでマシタ?」
「……………あー………」
やけに、雑で中途半端な返事だった。
明確な答えを言わないまま、理太郎は練習室の壁際にあるピアノの蓋を開けると、楽譜をパサッとたてた。
「悪いけど、俺、練習したいから」
こんな台詞、音大に入って初めて言った。
「ピアノも弾けるデスカ!?」
「あぁ。ピアノ専攻だからな」
今度はめんどくさそうな表情をモロに出した。
それでも、リーユーシェンは久々に中国語が話せる相手がいて嬉しかったのか、笑顔で理太郎の楽譜を見ながら言う。
「ピアノ、聞きたいデス!」
「え?」
不機嫌そうな強めの「え?」だった。さすがに、リーユーシェンは申し訳なさそうな顔になった。
「あ、スミマセン。二胡の音、ヒサシブリ、聞いた。嬉シカッタ。二胡好キな人いて、嬉しい。中国、好きデスカ?」
「…………」
数秒、視線を反らしたのち、理太郎が不敵に笑った。
さっきまでの二胡を演奏する精悍な表情から一転、半笑いで目の中はどこか睨んでいるような表情になる。一言で言ってしまえば、性格が悪そうな顔。
「親の都合で、アメリカ、オーストリア、ブラジル、タイ、ロシアいろんな国行ったり、住んだりしたけど、中国が一番最悪だな。大気汚染で町は煙だらけ。交通マナーは悪い。モノはポンコツ。パクリ製品ばっか。そこら中ゴミが散乱して、誰かいっつも怒鳴ってる。ほんと低レベルな国だったわ」
「…………」
リーユーシェンは突っ立ったまま理太郎を見ていた。一字一句理解できなくとも、言っていたことの大半はわかった。やがてリーユーシェンは苦笑いした。
「ハハハ、よく言われマス……」
理太郎は窓に寄りかかり、また不敵に笑った。窓から入る日の光が、理太郎の横顔を照らした。
「お前は覚えてる?2012年」
「えーっとぉ……」
「お前らバカみたいに反日デモしてただろ。あのとき、俺、中国にいたんだよ」
周りを見渡すが、誰か知り合いが自分を呼んだわけではなかった。
けれど……あ、ほら、また、この音。
この音が自分を呼んでいる。
ここは都内の音楽大学。広い大学内では、常に何かの楽器の音が聞こえる。
10月も半ばになり、暑さが少し和らぎ、過ごしやすい日が増えた。
木曜日の現在時刻は午後2時すぎ。
心地よい風が、大学内の木々を揺らしていった。楽器が入った様々な形のケースを持つ音大生が横を通り過ぎていく。
飛行機の音、遠くの車のクラクション、風が木を揺らす音、学生の笑い声、ピアノの音、ティンパニーの音、ホルンの音。
そして、また、あの弦の鳴る音がする。
バイオリンのような凛とした音とは少し違う。柔らかく、深みがあり、円熟したような色気を感じる音色。東洋の音。二胡(にこ)だ。中国の伝統楽器で、二つの弦を持つことから、二胡という名前がついた。
哀愁を帯びたその音色は、人間の、特に女性の声に近い楽器とも言われている。そのためか、聞くとなぜか懐かしい気持ちになる。
ピアノやバイオリンなど、専門のコースがなく、演奏者人口が少ない異国の楽器である二胡の音色が聞けるのは珍しかった。
このメロディーは……『時の流れに身をまかせ』
台湾出身である歌手のテレサ・テンが、中国語だけでなく日本語でも歌っていた歌。約40年前に流行ったこの曲は、今でも中国や日本、アジア全域で愛されている。
テレサ・テンの綺麗な歌声と似た、ゆったりと優しい演奏だった。けれど、優しさの中で、少し緊張してるのがわかる。まるで、初デートを一生懸命エスコートしてるような感じ。時々、音の高さがズレでしまったり、伸ばし足らなかったり、少し拙さのある演奏だった。それでも、たまに、あ、ここ、いい。と感じる弾き方があり、ついつい聞き込んでしまう。
どこから聞こえているのだろうか。
誘われるように、その音色を探していると、一棟の練習棟にたどり着いた。防音の効いた小さな部屋がたくさんあり、中でいくらでも楽器の練習できる。
いくつかの部屋はドアがきちんと閉められ、中に人の気配がするが、その中の一つ、一番奥のドアが半開きだった。
練習棟の長い廊下に、二胡の音色が響く。
ドアには小さな窓があり、そこから、こっそりのぞいてみた。青年が一人、窓際に置いたイスに座り二胡を弾いていた。
小さな楽器の二胡が、ちょこんと青年の膝の上に乗っているのが、可愛らしかった。
堅い木を六角形に組んだ共鳴胴から、青年の頭の高さまで伸びた棹(さお)。本当に細くて、力を入れてしまうと折れてしまいそうだった。青年の左手は優しく、棹を撫でるように這うと、張られた弦を指で押さえる。
青年は集中していて、気持ちよさそうで、楽しそうな顔だった。
彼の動かす弓に従い、二本の弦と共に二胡は体を震わせ、音を響かせた。
青年が、弾いている自分の二胡に視線を落とした。まるで、「いい子だ」といでもいっているように、優しく微笑んだ。
拙いけれど、迷いのない音。
耳を傾けずにはいられない。
身を委ねたくなる優しい音。
なぜか、心くすぐられる。涙が出た。
二胡と戯れていた青年が、ふとドアのほうに視線を向け、目を見開いた。
目が合った。
顔が固まり、演奏も止まる。
「……………」
「……B、BRAVO!(ブ、ブラヴォー!)」
覗き見していた男子学生は拍手をし、叫んだ。
そのまま、恐る恐る部屋に入った。
青年は恥ずかしそうに、何もない壁のほうを見て、目を合わせようとしなかった。
けれど、大きな拍手に、満更でもなさそうな表情も、少し、見え隠れする。
「スバラシイデス!」
青年は片言の日本語を聞いたとたん、怪訝な顔にかわった。
「中国人?」
似た顔つきから日本人だと思っていたようだ。カタコトということは、日本以外。日本以外では、中国人の確率が高い。この学校は中国からの留学生は少なくない。
「ソウデス!ドア開いてて、聞いてシマイマシタ!」
「…………」
青年はさらに、気に入らなさそうな顔をし、小さく息を吐いた。
弦を左手で二胡本体とまとめて持つと、譜面台に乗っている、印刷しただけのペラペラな紙を意味もなく動かした。それは楽譜で、音符一つ一つの上に1,2,3と数字が書かかれていた。
「…………」
さっきまでの包み込むような優しい演奏からは想像できないような、拒絶的な態度だった。しかし、それに気づかない中国人留学生は、キラキラした笑顔で矢継ぎ早に質問していく。
「二胡好きデスカ!?」
「……嫌いじゃ、ない」
「中国の音楽、興味アルデスカ?」
「まぁな」
「わぁ、嬉しいデス!」
ボソボソと無愛想な返事だったが、中国人留学生はさらに目を輝かせる。気持ちが高ぶり思わず、中国語で質問してしまった。
「先生は?」
「独学」
ほとんど間がなく、中国語で返事が返ってきた。少し訛りは感じたものの、あまりにも自然で、留学生はそのまま中国語で続けた。
「独学?すごい!いつから弾いてるんですか?」
「んー、今年の春くらい?」
「最近じゃないですか!なのに、すごい弾けてますね!独学でこんなに弾けるなんてびっくりです!この曲、日本の人も知ってるんですね!私も大好きです!」
中国語がどんどん早口になっていく。嬉しそうにしゃべり続ける留学生に、青年は口を挟んだ。
「あー、いや、そんな早口で言われてもわかんねーし」
日本語だった。留学生はハッとしたように、また、覚えたての日本語に戻した。
「中国語デキル?」
「2年間中国、3年間香港に住んでたことがあるから。多少」
「名前はナンデスカ?」
少し、ためらうような間のあと、ぽつりとつぶやいた。
「………福原 理太郎(ふくはら りたろう)」
「フクハラ リタローさん!私、李 宇軒(リー ユーシェン)ってイイマス!ヨロシクオネガイシマス!」
満面の笑みで、リーユーシェンが笑った。理太郎はおぅと小さな声で返事を返した。
リーユーシェンは丸顔で、どちらかといえば幼そうな顔つきの、優しそうな雰囲気の青年だった。
一方、理太郎は愛想笑いの仕方もわからないような済ました顔の青年だった。少し長めの黒髪がよく似合っている。
「あ!名前!漢字でカイテ、クダサイ!」
リーユーシェンが鞄から、メモ帳のようなものとペンを出した。理太郎はふっと小さく笑うと、のろのろと受け取り、名前を書いた。
「俺、有名人でもなんでもないんだけど」
それほど、綺麗でもない普通の字。覗きこんだリーユーシェンは嬉しそうに頷くと、今度は自分がペンをとる。
「私ハ、コウ、書きマス」
同じ漢字だけど、日本の漢字とは少し違う雰囲気の文字が並んだ。中国では簡体字。
李宇軒の軒は正しくは、くるまへんが異なる。理太郎はそれをチラリと見ただけで視線を外した。
鞄を漁り、別の楽譜を取り出した。それでも、リーユーシェンはまた質問攻めを始める。
「中国ノ楽器、好きデスカ?」
「まぁ、嫌いではない」
「中国、ドコ住んでマシタ?」
「……………あー………」
やけに、雑で中途半端な返事だった。
明確な答えを言わないまま、理太郎は練習室の壁際にあるピアノの蓋を開けると、楽譜をパサッとたてた。
「悪いけど、俺、練習したいから」
こんな台詞、音大に入って初めて言った。
「ピアノも弾けるデスカ!?」
「あぁ。ピアノ専攻だからな」
今度はめんどくさそうな表情をモロに出した。
それでも、リーユーシェンは久々に中国語が話せる相手がいて嬉しかったのか、笑顔で理太郎の楽譜を見ながら言う。
「ピアノ、聞きたいデス!」
「え?」
不機嫌そうな強めの「え?」だった。さすがに、リーユーシェンは申し訳なさそうな顔になった。
「あ、スミマセン。二胡の音、ヒサシブリ、聞いた。嬉シカッタ。二胡好キな人いて、嬉しい。中国、好きデスカ?」
「…………」
数秒、視線を反らしたのち、理太郎が不敵に笑った。
さっきまでの二胡を演奏する精悍な表情から一転、半笑いで目の中はどこか睨んでいるような表情になる。一言で言ってしまえば、性格が悪そうな顔。
「親の都合で、アメリカ、オーストリア、ブラジル、タイ、ロシアいろんな国行ったり、住んだりしたけど、中国が一番最悪だな。大気汚染で町は煙だらけ。交通マナーは悪い。モノはポンコツ。パクリ製品ばっか。そこら中ゴミが散乱して、誰かいっつも怒鳴ってる。ほんと低レベルな国だったわ」
「…………」
リーユーシェンは突っ立ったまま理太郎を見ていた。一字一句理解できなくとも、言っていたことの大半はわかった。やがてリーユーシェンは苦笑いした。
「ハハハ、よく言われマス……」
理太郎は窓に寄りかかり、また不敵に笑った。窓から入る日の光が、理太郎の横顔を照らした。
「お前は覚えてる?2012年」
「えーっとぉ……」
「お前らバカみたいに反日デモしてただろ。あのとき、俺、中国にいたんだよ」