神様、お願いがあります。
――俺を殺してください。
新学期になったばかりの春。
「アハハ!! 死ーね、死ーね!」
耳元でささやかれたその声が、俺の胸をぎゅっと締め付けた。
「なぁ、奈々絵、お前これ履けよ。こいつより似合うんじゃねぇの?」
スカートを俺の前に投げ捨て、草加は言う。
「返しなさいよ!!」
体操着のズボンを履いている佐藤が涙目でそう言ってるのを見て、少し申し訳ない気持ちになった。
ここは公立の小学校の四階の隅にある教室だ。窓にはカーテンがかかっている。故に佐藤を助けにれるのなんて、せいぜい廊下にいる人間しかいない。もちろん、俺を助けられるのもだ。
それに、今は十分休みで廊下に出てる奴も少ないから、俺と佐藤は誰にも助けてもらえない。
「おい、奈々絵」
赤羽奈々絵なんて名前、大抵の奴が女だと思う。俺はこの名前も自分の容姿も嫌いだ。
女みたいに長い、七ミリくらいあるまつげ。細い小五の平均体重より十キロは軽い身体。百四十くらいの身長。本当になんでこんな気持ち悪い身体で生まれたのか。神様は最低だ。
俺は元々人付き合いが得意な方ではなくて、クラスに一週間たっても馴染めなかった。それが気にくわなかった草加達に目をつけられ、毎日いじめられている。もういじめられてから一週間は過ぎた。
「無視してんじゃねえよ、履けよ。でないと、口にスカート突っ込むぞ」
床に投げ出されているスカートを掴んで、草加は言う。
女っぽい名前と容姿だからって恐ろしすぎる脅しだ。質が悪い。
「「「「はーけ! はーけ!」」」
俺と佐藤の周りを取り囲んでいた男達が、一斉に声をあげた。草加の取り巻きだ。ざっと五人くらいはいる。
「痛っ?」
取り巻きのうちの一人が、左手で俺のズボンを引っ張っる。もう片方の手でベルトを外し、ニィっと悪魔のような笑みを零す。思わず寒気が走った。
「アハハ!! おい蘭、流石にそれはひでぇんじゃねぇの?」
草加が声を上げて笑った。哀れみに満ちたような、ひどい笑い方だ。
「だってこれじゃあ、拉致が明かねぇだろ。お前らも手伝えよ。逃げらねぇよう、足でも踏んどけ」
「痛っ!!」
両足を掴まれ上履きを脱がされる。靴下の上から、足にカッターを刺された。踏むのと痛みが雲泥の差だ。
羞恥心と辛さと痛みでどうにかなりそうだ。思わず涙が零れる。
「うわっ、こいつ泣いてんだけど。まじ女子なんじゃねぇの?」
「草加、それじゃあ女はみんな泣き虫だと思ってるみたいに聞こえるぞ」
蘭が呆れたように言う。
「えー泣き虫っしょ。佐藤だってたかがスカートで泣いてるし」
お前らの基準が狂っていると毒づきたくなった。
ズボン脱がされそうになって泣くなって、大抵の男が無理だろ。スカートもそうだ。ノリでされたにしたって辛い。酷いにも程がある。
「草加、カッター抜け。ズボン脱がす」
足首まで刷り降ろされた俺のズボンを見ながら、蘭は言う。
「はいはい」
「痛っ!!」
抜かれた二本のカッターから、血がポタポタと垂れていた。床も俺の血でかなり赤く染まっている。
――悪魔だ。非情にもほどがある。最低だ、この二人。この光景を笑いながら見てる取り巻きの奴らも。
「じゃあ履かせちゃいますかー?」
草加の声に頷き、蘭は俺からズボンを完全に脱がせた。
スカートに俺の足を片足ずづ入れて、草加は笑う。
「やめろっ!!」
掠れた弱々しい声が漏れた。
「黙れよ。でないと、ズボン捨てるぞ」
完全に脅しだった。
「じゃ、いきまーす!」
スカートのチャックを上まで上げて、草加は俺の背中を叩いた。
「お前、マジで女子じゃん!」
本当に狂っている。
「うわっ!?」
俺は草加の手を振り払い、逃げようとした。だが、草加に足をかけられ、盛大に転んだ。
「おい、誰が逃げていいって言ったんだよ。まだ上が終わってないだろうが。黙って従えよ。そした
らその分佐藤も早く制服が着れんだから。人助けだと思って頑張れよ」
何もかも狂っている。
つまり草加は、俺と佐藤の服を取り換えようとしているのだ。
いじめにしたって限度がある。
「……あんたが、履け」
掠れた声で言う。
「は?」
俺は草加の足を掴んだ。両手で草加の足を引っ張る。机の上に座っていた草加は、床に尻餅をつく。
「痛っ!」
草加は苦痛に顔をゆがめる。
「草加! 大丈夫か。立てるか?」
蘭は片手を差し出し、草加を立ち上がらせる。その隙を見て俺は立ち上がり、廊下に飛び出した。
一つ下の階に降りて、辺りを見回す。五年二組の教室の向かい側に、空き教室があった。俺は中に人がいないのを窓を見て確認してから、そこに入った。
「はぁっ、はぁっ……」
床に座って、息を整えながらうち履きと靴下を脱いだ。
「痛っ!」
両足が血で真っ赤に染まっていた。顔をしかめながらYシャツのポケットからハンカチを取り出し、血を拭った。こんなの気休めにしかならないけど。
「奈々絵ーどこ? 奈々絵ー?」
涙を拭っていたら、廊下から姉の紫苑の声が聞こえた。俺は窓を見上げた。すると廊下では、姉が俺を呼びながら歩いていた。よく見ると、俺の制服のズボンを持っている。姉の数歩後ろに佐藤もいた。きっと彼女かその友達が中等部に行って姉に言ってくれたのだろう。スカートを掃いてるのを見られるのが嫌だった俺は、ドアを叩いているのを教えた。
「奈々絵! 無事でよかった!」
ドアを開けて中に入ると、姉は血まみれの俺を抱きしめた。
「姉ちゃん……うっ、うああぁぁっ!」
涙が堰切ったように溢れ出す。怖かった。怖すぎたんだ。生きていけないと思った。地獄に突き落とされた気がした。姉が来てくれて、本当によかった。
「赤羽くん、大丈夫? 着替えられる?」
泣き止んだところで、佐藤が控えめに声をかけてくる。
「ああ、着替えるよ。巻き込んでごめんな佐藤」
「ううん、いいよ。大丈夫。草加達が悪いし」
首を振って佐藤は言った。
「じゃあはい!」
俺にズボンを渡して、姉と佐藤は後ろを向く。直ぐにズボンに履き替え、スカートを佐藤に渡した。それから俺は後ろを向いて、佐藤が着替え終わるのを待った。
「もうこっち向いて大丈夫だよ」
「ああ」
佐藤にいわれ、俺は振り向く。
「奈々絵これからどうする? 保健室行ったらすぐ帰る?」
姉が首を傾げて言う。
「うん、帰りたい」
「私も帰ろうかな」
「じゃあ二人で帰ったら? スクバは今から私が持ってくるから! 佐藤さん席何処? 奈々絵は一列目の一番前だよね?」
俺は頷いた。まだ席は出席番号順なんだ。
「右から二列目の一番後ろです」
「おっけー! すぐに取ってくる! 待ってて!」
姉は急いで俺達の教室に向かった。
それから姉は二分くらいでスクバを持ってきて、直ぐに中等部に戻ってしまった。
保健室で足の応急処置をしてもらってから、俺は佐藤と一緒に帰った。
「……紫苑先輩っていいお姉さんだよね」
「ああ、すげぇいい姉さんだよ」
佐藤の声に俺は笑って頷いた。
姉はいつも俺を助けてくれる。教室に乗り込んできて草加に思いっきり説教をしてくれたり、俺が泣いていたら笑って励ましてくれる俺のヒーロみたいな人なんだ。
それから二年の月日が流れた日、俺は更なる地獄に突き落とされた。――姉が交通事故で死んだ。
小学校を卒業したその日、俺は家族とステーキ屋に向かっていた。
要は卒業祝いだ。
いじめがあったから半分以上登校を拒否ってたのに手にした卒業を祝うのはどうなのか。そう思っていたのに、姉の紫苑が上機嫌で祝おうというから、その強引さに推されついのってしまった。
あんなことになるとも知らずに。
結論から言うと、姉は死んだ。いや、姉だけでなく、両親もだ。俺の家族はみんな死んだ。
飲酒運転してるトラックが前から突っ込んできてみんな死んだ。姉に小さな体を庇われて、俺だけ生き残った。俺と姉は三歳差で、姉はその時十五歳だった。俺は身長が高くなかったから、姉と十センチくらい差があった。俺が姉を殺した。姉に庇われて俺は死なずに済んだ。自分の分まで姉に怪我をさせてしまった。
その酷い事実は、すぐに親戚中に広まった。多少脚色されて。
俺が涙目で姉に助けを求めて、姉が思わず庇ってしまったと、そう広まったのだ。
姉は優しい人だった。
いじめられていたせいで毎日のように泣いていた俺は、いつも姉に励ましてもらっていたから。
絵に描いたような理想の姉だったからこそ、その脚色は余計真実味を帯びた。
嘘だと思う奴なんて、一人もいなかったんだ。
「何でお前が生きてるんだ! 何で紫苑じゃなくてお前なんだよっ!」
突然、従兄弟の爽月《さつき》さんに首を絞められた。
爽月さんは姉と交際関係にあった人だ。兄弟はダメだけど、従妹同士は交際も結婚もできるから。従妹同士の交際を冷やかす人もいた。それでも、爽月さんはそれをもろともせず交際を続けた。
そういうことをする人がいるくらい姉は魅力的で、正義感が強い素敵な人だった。死ぬにはあまりに惜しい。――やっぱり、俺が死ねばよかったんだ。
「さっ、爽月さん、すみませ……」「黙れっ!!」
俺の言葉を遮って、爽月さんは叫んだ。
「プロポーズするつもりだったんだよ、卒業したら! 必ず安定した職に就いて、迎えに行くって、そういうつもりだったのに……っ!!」
首から手を離して、爽月さんは泣き崩れる。
「はぁっ、はぁっ。爽月さん、……本当にすみませ」
息も絶え絶えになりながら言う。
「黙れ! 紫苑に似た声で呼ぶな!!」
俺の言葉を亘っていい、爽月さんは俺を鋭い眼光で睨みつけた。