雲一つない快晴の空のように青い髪をしている。その髪と吊り上がった瞳が、ガラの悪さを醸している。身長差は俺と五センチもない。
――ん?
奴が着ていた白シャツと学ランのズボンの所々に血がついていた。
――こいつ、自殺する前に見かけた男だ。
俺、こいつとあの茶髪の男に助けられたんだ!
涙が零れた。
やっと死ねると思ったのに……。
神様はひどい。
いじめてとも、姉を殺してとも、親を殺してとも頼んだつもりはない。それなのにおれをいじめて、みんな殺した。俺だけ生かした。そんなの頼んでないのに。
俺は姉が家にいるだけでよかったんだ。
毎日姉が帰ってくるのを待てるだけでよかった。それだけで幸せだった。
俺がお帰りと言ったら、ただいまといって笑ってくれる姉と一緒にいるだけでよかったのに……。
誰でもいい。
殺人鬼でも、強盗犯でも、いじめっこでも、その親でもいい。
誰でもいいから、頼むから俺を殺してくれ……。
俺は祈るような想いで頭を抱えた。
足の痛みが折れたせいではなく、ナイフとかで刺された痛みだったらよかったのに。
「――おい、大丈夫か?」
俺の腕を掴んで、青髪の男が言う。
いつの間にか起きていたらしい。
「触んなっ! なんで、なんで生かしたんだよ!! 俺は死にたいのに……っ」
掠れた弱々しい声が漏れた。
殺されたかったのに……。
「そんなこと言うなよ。死んだら何もかも終わりだ」
「だから、俺は終わらせたかったんだよ?」
声が枯れる勢いで叫ぶ。
殺されたかった。生かされたくなかったのに。
「……死んだら楽になんのか」
「あんたは死んだら幸せなのか? あんたは死ねたら喜ぶのか?」
俺の胸倉を左腕で掴んで、男は叫んだ。
その腕を掴んで、俺は叫び返そうとする。
「……ああ、そうだよ! 俺は生かせなんて頼んでない!]
だが、間ができた。けれど、その理由は考えないことにした。
自分は殺されなきゃいけない。――それ以外は許されないのだから。
「……お前、死にたいなんて思ってないだろ」
予想外の言葉に目を見開く。
――死にたいと思ってないだって?
「潤。あー、お前を助けた時、一緒にいた奴がいってたんだよ。高ければ高いほどリスクが高くなって、十五階以上だとほぼ確実に死ねるって。本当に死にたいなら、そうすんじゃねぇの?」
「……足場が悪かったから、それより低くても死ねると思っただけだ」
「じゃあわざわざ俺達の目の前に落ちたのは? 反対側でもなんなら隣のビルのもっと上の階でもよかったよな。その方が死ねた」
「それは……」
探すのがめんどくさかったから、あそこにした。そのハズだった。実際めんどくさいと本気で思ってたハズなんだ。けれど、何故かそう言おうと思っても、声が出なかった。
矛盾している。
死に場所を探すのがめんどくさいから、死ぬのもめんどくさいのではなく、死にたいのに探すのはめんどくさいなんて。
心の底から死にたいと思ってるなら、もっと確実に死ぬ場所を選ぶことだってできたのに。それな
のに、俺はそうしようとしなかった。
めんどくさいとかではなく、たぶんまだ心のどこかで死にたくないと思っていたから。
「――目の前で死ねば、助けてくれると思ったんじゃないのか」
果たしてそれは、俺が一番聞きたくない言葉だった。
「思ってない。帰れ」
掠れた自信なさげな声が漏れた。
「奈々絵」
「帰れ!!」
大声で言う。
俺はもう何も聞きたくないと言うかのように、布団を頭にかぶった。
「また来る」
布団の上から俺の頭を撫でて、あづは言った。
何がまた来るだ。くそが!!
親戚も同級生も、みんな死ねって言ったんだ。俺が息をしてるのは許されない。
本当は怖かった。
飛び降りようとした時、足が震えた。涙が流れそうになった。
けれど、それがなんだ?
怖いことは死なない理由にはならない。
死刑を言い渡された人間が、そんな感情一つで罰が軽くならないのと同じように。
死ねって言われたら、死ななきゃいけない。
だって、そうしないと毎日死ねって言われるんだから。そんなの地獄でしかない。それなのに、何で否定しなかった。
嘘でも否定しろよ!! でないと、あいつは俺がまた死にに行ったら、また止めるのに。
涙が頬を伝う。
……本当は死にたくない。
俺は布団をぎゅっと握りしめた。
翌日、また奴はきた。
「なーなえ」
陽気な雰囲気を醸しながら、俺を呼ぶ。俺は掛け布団をかぶって、聞こえないフリをした。
「奈々絵!!」
掛け布団を俺からとって、奴は満足そうに笑った。
「寒い。あと、奈々絵って呼ぶな」
不満げに俺は言う。
今は春、四月だ。そんな季節に布団なしで寝っ転がるなんて寒い。
携帯も持ってないから、こんなとこじゃ寝ることでしか時間を潰せないのに。
「やっと返事したな?」
奴は口角を上げて、満足そうに言った。
「うざい」
毒を吐く。
「で? 奈々絵が嫌ならなんて呼べばいいんだよ?」
傷ついた素振りも見せずに、奴は笑う。
「……なえ」
小さな声で言った。
「それ却下。だって、なえってない、ねえ、なえからきてるだろ。あづもそう思うっしょ?」
病室のドアにもたれかかっている男が言う。茶色い髪をした垂れ目の男だ。――俺の自殺を止めたもう一人の男。
足音が聞こえなかった。青髪の奴――あづと話してたから聞こえなかったのか。
「んー、言われてみれば?」
あづって、察するの下手なんだな。頭が回らない。
いま同意しとけば、俺のこと名前で呼べたかもしれないのに。まぁ意地でも呼ばせないが。
「とにかく、俺はなえじゃねぇと返事しねえ」
「あーはいはい。わかったよなえ」
茶髪の男が雑に俺をあしらう。
「潤雑だなー」
「いつも適当な奴に言われたくねぇよ」
潤は不満げに言う。
「なっ?」
「フッ、冗談」
頬を赤くしたあづをみて、潤は満足そうに笑った。
……仲良いんだな。別に羨ましくないけど。
「なえさ、なんで自殺なんてしたんだよ?」
あづが首を傾げる。
「……どうでもいいだろ。そんなの」
何もかも教える義理はない。
命の恩人だから教える義務なんてない。それになにより、嫌なんだ。いじめや家族のことを話すの
は。思い出すのが辛すぎるから。
「よくねぇよ。気になる」
「……いいから、早く帰れ」
それで忘れてくれ、俺のことなんか。頼むから、もう二度と来ないでくれ……。
「嫌だね。お前が話してくれるまで、ここにいる」
にやっと口角を上げて、あづは笑う。
「だって自殺なんて、かなりひどいことがないとしようと思わないだろ?」
あづは俺を見下ろし、笑って言う。その態度が癪に障った。
「そんなのお前が辛い目に遭ったことがねぇから言えんだよ。いいよな恵まれてる奴は」
何も知らないくせに。
「あ? もういっぺん言ってみろよ。殴んぞ」
鋭い眼光で俺を睨み付け、あづは俺の腕を掴んだ。
「じゃあ殴れば? 病人に怪我させたら大問題だけどな」
「あーもうやめだやめ。こんな奴話すのも無駄だわ。あづもう行こうぜ」
手を顔の前で左右に振ってから、潤はあづの腕を掴む。
「……わかった」
俺の胸ぐらからあづは手を離した。
「じゃあさっさと帰れ」
あづはベッドの上にあった枕を掴むと、それを俺の顔に向かって放り投げた。
「わっ!?」
受け身も取れずに俺はベッドに倒れ込む。折れている足に激痛が走って、俺は思わず顔をしかめた。
「奈々絵のバーカ! 明日は絶対話聞かせろよ!」
そう叫ぶと、あづは大きな足音を立てながら病室を出ていった。
「おっ、おいあづ! 空我!」
潤はずんずん歩くあづを呼び止めるかのように名前を呼ぶ。空我って名前だったのか。
枕を顔からどかしながら、俺は二人の声を聞いた。
「空我って呼ぶな!」
そんな叫び声の後、二人が走る音が聞こえた。走って病院を出てくつもりなのだろう。
「……なんなんだあいつ」
足音を聞きながら、俺は小さな声で呟いた。
あづは変だ。異様なほど俺に構ってくる。俺に構ってくる奴なんて家族以外一人もいなかったのに。
普通、自殺未遂をした上、助けてくれたお礼も言わない奴にあんなに話かけるものだろうか。俺なら絶対にそんなことしない。
明日も来るつもりみたいだし、本当に意味が分からない。なんであんなに俺に構うんだ。……俺といたって楽しくないハズなのに。
「だから、来んな。帰れ」
翌日、また二人は来た。
「帰んねぇよ?」
「あづ、やっぱりもういいよ。せっかく助けてやったのにコイツお礼も何も言わねえし。常識がなってないんだよ。話すだけ時間の無駄だ」
首を振って潤は言う。
あづは目を見開く。
「お礼いわないから、常識がないからなんなの? 話しちゃいけねぇの?」
今度は潤が目を見開いた。
「それは……っ」
潤は言葉に詰まった。
「そんな決まりないだろ何処にも」
その言い方はまるで、死んだ姉のようだった。
――なんだこいつは。
――何を言っている? 意味が分からない。
〝姉弟だってこと以外、仲良くする理由いる?〟
草加に女みたいな弟と仲良くして嫌じゃねぇのって言われた時に、姉が言った言葉を思い出す。家族でもないくせに、何でそんな言い方するんだよ……。
「話しちゃいけないとかじゃなくて、一緒にいてもつまんねぇだろ!」
潤が叫ぶ。
「つまんないから、一緒にいちゃいけないのか?」
「もういい!」
すねるように言い、潤は病室を出て行った。
「……追いかけなくてよかったのか?」
「あいつと俺親友だし、すぐ仲直りするから問題ない」
首を振って、得意げにあづは言う。
「……あっそ」
親友ね。
昨日は冗談言い合ってたし、本当に仲良いんだな。断じて羨ましくはないが。
翌日も、そのまた翌日も。あづは毎日のように病室に来た。潤は俺に邪険にされて気が滅入ったのか、あづと喧嘩したあの日以来来なくなったのにだ。本当になんなんだこいつは。
邪険にしとけばそのうち来なくなると思った。それなのにあづは、来ないどころか、邪険にすればするほど早い時間から病室に来るようになった。
知り合って二週間が経った頃には、平日にも土日にも朝からも来るようになった。学校があるハズなのにだ。
平日は毎回朝からきてたわけではなかったが、一週間にある五日間の平日のうち三日は朝からきていた。
親に叱られたらどうするんだと思ったが、それで来なくなるなら来なくなればいいと思い、俺は平日は来るなとは言わなかった。
でも、それから一か月以上過ぎてもあづが来なくなることはなかった。
俺はあづに会うのが嫌だった。あづは俺がどんなに突っぱねても来る。そのしつこさが俺は気にくわない。それに、異常だ。――子供が学校をさぼってるのを親が気にしないなんて。
さぼってるのを知らないわけではないだろう。あづが言わなくても、先生とかから連絡が来るはずだ。――まさか、親が休ませてるのか?そうだとしたら休ませる訳はなんだ。虐待。いや、金を稼がせるためか? そうだとは思えなかった。
あづは底抜けに明るく、俺と正反対の奴だ。
虐待を受けたり、親にこき使われたりしているようにはとても見えない。それならなんで平日も朝から来れるんだ。
神様が言っていた。――これ以上関わったらろくなことが起きないと。いや、第六感が告げていた。仲良くなるなと。
それでも俺はあづを拒否れなかった。さっさと捨てればいいのに。姉のことをいったら、どうせこいつも俺を捨てるのに。どうせこいつも、親戚や同級生と同じように俺を人殺しというに決まっている。そう思うのに、俺はあづの優しさを拒否れなかった。帰れって言うくせに、医者に言って病室から追い出したりする気になれなかった。
「なえ、おはよ!」
「……帰れ」
知り合って一か月半が経っても、懲りずにあづはやってきた。
「それ毎日言われてるんだけど。まじ嫌だわお前のそういうこと」
丸椅子に座り、顔をしかめてあづは言う。
「嫌なら来なければいいだろ」
「来るよ。嫌なのそこだけなんだから」
「……あっそう。お前めんどくさいな」
「それお前にだけは絶対言われたくねぇ。お前の方がよっぽどめんどくさいからな? どんだけ心開く気ないんだよ。頑固か」
あんなことがあれば頑固になって当然だ。
「うるせぇ。お前学校は? 今日平日だろ」
今日は水曜日だ。学校がないわけがない。それなのにあづは朝から病室に来た。
「サボった」
「なんで」
「そんなのお前に会いたかったからに決まってんじゃん」
笑いながらあづは言う。
「なっ! お前もう帰れ」
戸惑い、俺は叫んだ。
そんな風に言われたのは、初めてだった。
会いたいなんて同年代に言われる日が来ると思ってなかった。どうしようもなく胸が締め付けられる。泣きそうだ。俺は慌てて顔を隠した。
「だから帰んねぇって。なんでそんなに帰って欲しいんだよ。俺邪魔か?」
「そうじゃねぇけど……」
あづから顔を背ける。
邪魔ではない。付き合い方がわからないんだ。会いたいとか、話聞きたいとか言われても困る。なんてかえせばいいか分からないから。
「じゃあいいじゃん」
嬉しそうに笑ってあづは言う。
「ああもうわかった。……好きにしろ」
頭を抱え、小声で俺は言った。
その日から俺は確実にあづに魅かれ始めた。いや、俺はたぶん、あづが姉みたいなことを言ったあの日から、少しだけあづに興味が湧いていたんだ。その興味がこの出来事でかなり強くなった。
帰れって言う頻度が日に日に減っていった。
知り合ってから二か月以上が経った頃には、帰れと全然いわなくなっていた。
ある日、俺は看護師を呼んで、あづが病室に来る前に図書室に連れてってもらった。足が折れたままなので車椅子で行くハメになったが。
図書室は文庫本や哲学書、図鑑、新聞、絵本など様々なものが置かれていた。病院の図書室だしどうせ種類は豊富じゃないだろうと思っていたが、全然そんなことはなかった。シリーズものの今月出た新刊とかもあった。患者のことがよく考えられている。
本は好きだ。辛い現実から目を背けるのに最適だから。休み時間に草加達が絡んで来ないときは必ず本を読んでいた。でも、姉が死んで読むのをやめてしまった。姉も俺と同じように読書家だったから。本を読むと死んだ姉を思い出してしまう気がしたから。二か月経って姉が死んだのを少しずつ受け入れられるようになってから、やっとまた本が読みたくなった。
「あ、いた! なえー!」
「げっ!」
文庫本コーナーで何を読もうか考えていると、図書室の入り口にいるあづに声をかけられた。
「げってなんだよげって!」
俺の頭を軽く叩いて不満げにあづは叫ぶ。
「うるせぇ。ここどこだと思ってんだよ」
「あっ、わりぃ。お前、本なんて読むんだな」
小声であづは言う。
「まぁ、病室でぼーっとしてても暇だからな」
「いや暇なら俺と話せよ!」
また大声を出してあづは言う。
「話す訳ねぇだろ馬鹿が。後何度もいうけどここ図書室。うるさくすると出る羽目になるぞ」
「じゃあ出ればいいじゃん。早く本選べよ」
「……車椅子なんだから出らんないだろ」
車椅子は両手で動かせるけど、出入り口のドアは一人で開けられない。
「なんで? 俺が車椅子引いてドア開ければいいだけだろ。さっ、病室戻るぞ」
何気ない様子であづは言う。
こいつのこういう所が気にくわない。何でもない様子で自殺した俺を助けたり、毎日どんなに邪険に俺が扱っても何食わぬ顔で会いに来るところとか、足が痛くて顔をしかめたら心配をしてくれると
ことか。あづの優しさに俺は慣れない。姉を思い出すし、なにより心を開いてしまいそうになるから。開いたら絶対にダメなのに。
本棚から本を取ってから、俺は本当にあづに車椅子を引いてもらい、図書室を出た。