未明。加波子にうとうと睡魔が少しづつ迫ってきた頃だった。亮は起き上がる。そして立ち上がった。さすがに気づいた加波子は起き上がり、思わず言う。

「どこ行くんですか?」
「…トイレ。」
「上着持ってですか?」

 亮は上着を手にしていた。加波子も立ち上がり、亮を止めようとする。未明。暗い部屋。加波子は叫ぶ。

「待って!」

 亮は歩みを止めずに玄関に向かう。加波子は亮の腕を掴み叫ぶ。

「こんな時間にどこへ行くんですか!」

 亮は加波子の手を振り払う。それでも加波子は諦めない。

「待ってください!」

 亮の腕を掴み、自分のほうへ引き寄せようとする加波子。

「行かないで!」
「離せ。」
「行かないでってば!」
「離せ!」

 亮は叫び、思いっ切り腕を振った。加波子の手は離れてしまう。男の力に女が勝てる訳がなかった。ふたりの間に距離ができる。

 遠ざかる亮。亮は玄関に向かい、スニーカーを履こうとしている。その間、加波子はキッチンから包丁を持ち、亮の前に立つ。加波子は包丁の鋭く尖ったほうを自分に向ける。

 柄を自分の左手で持ち、右手で亮の左手をとり、柄を握らせる。そしてその上から自分の右手を被せ深く握る。加波子の手は震えていた。

「どうしても行くなら、私を刺してからにしてください…。それくらい、簡単ですよね…?」

 息が上がる加波子に対して、亮はいつもの亮。そう加波子には見えた。こんな時に亮のらしさは見たくなかった。加波子は目を閉じ下を向く。

「早くしてください!」

 加波子は叫ぶ。

「目を開けたら、また行かないでって言っちゃうから…早く!」

 静寂の恐怖。恐怖の静寂。

 その後、亮は右手で加波子の手に触れる。ビクッとする加波子。亮は加波子の手を包丁から離そうとする。片手ずつ、ゆっくりと。その手つきはやさしかった。亮の手のぬくもり、加波子は胸が痛くなる。

 そして加波子の手から包丁が離れた。加波子は下を向いたまま目を開ける。包丁は亮がそっと横の棚に置いた。

「…お前が…こんなもん持つな…。」

 亮は加波子と目を合わせることなく言う。

「…必ず帰る…。ここに…必ず…。」

 加波子をすり抜けドアを開ける亮。

「亮!」

 加波子は叫ぶが既にドアは閉まっていた。

 加波子はドアに両手を当てる。頭を当てる。涙が出る。一体亮はどこへ行ったのか。一体自分はどうすればよかったのか。やりきれない想いがそこにあった。

 そして夜が明ける。加波子は仕事を休む。亮の寝ていた布団の上に加波子は座っていた。テレビはつけっぱなし。静かな部屋が怖かった。

 無心まま1日が過ぎようとしていた。テーブルには亮と自分のおにぎりはが一つずつ、お茶のペットボトルが一本置いてある。確かに亮はここに居た。

 そして夕方のニュース番組が始まった。ぼーっとしていた加波子の目が覚めるニュースが流れる。

 『今日午後5時頃、足立区の路上で男性に暴行したとして、28歳の男が逮捕されました。暴行罪の疑いで逮捕されたのは、足立区に住む会社員・平野 亮 容疑者です。平野容疑者は、今日午後5時頃、足立区保木間の路上で男性の顔や体を殴る蹴るなどして、暴行を加えた疑いが持たれています。平野容疑者は、容疑を認めているということです。
 次のニュースです…』

 この時、加波子の心の時計が止まった。