一瞬で燃え尽きる激しさで


 これは私と彼女が出会い、そして別れるまでの、ひと夏……。三十日間と少しの話。
 この話には、湿度にまみれてねっとりと纏わりつく空気と、脳を揺らす断続的な激しい蝉の音が、よく似合う。
 出会いの日も、例外なく空は湿度と蝉の音で充満していた。
 私は上半期の仕事に一つの区切りが付き、今年の夏は何をしようかなんて頭を巡らせる。正直夏は嫌いだ。学生の頃はそれなりにはしゃぎもしたけど趣味もなくなってしまった今ではただ暑いだけの日々。
 海にも川にも行く予定はないし、行く友達も少ない。ただ漫然と耐えるように今年の夏も過ぎていくんだろう。あ、でも一つだけ。ビールが美味しいのは嫌いじゃない。
 いつもより遅いテンポでコツコツと、まるでゾンビの様にヒールを帰路に鳴らす。今はただ家に帰って冷たい缶に触りたい一心だ。
「あっつ……。ほんと死ぬよ……これ」
 全身に滲む汗に嫌悪感を抱きながら、水分不足と疲労でくたくたの身体をふらふらと前に進める。
 明日からは夏の日差しの下に出ることも無い。エアコンの効いた天国で堕落の限りを尽くす。そんな非生産的な幸せが手に入る。
 今この瞬間だけは脳の端に居座る不安感から目を逸らすことができた。
 私立高校の非常勤講師として契約して三年目。一昨年、去年と二年連続で取り損ねた教員採用試験も今年は順調。一次試験を終え、結果を待つばかり。それで受かっていたら二次試験を受けるだけだ。まだ一次の結果すら出ていないけど、恐らく今年は合格できるだろうと謎の自信で溢れている。しかし、非常勤講師という立場も案外気楽なもので、こうして他の教員が喉から手を出してでも欲しがるであろう長期休暇も楽にとることが出来る。
 その分、職員室での肩身が狭いのと、休みを取ることへの白い眼差しは応えるものがあるが、それを差し引いても満足してしまっている私がいる。
 贅沢をするような性格でもないし、今の小さなアパートにも慣れてしまった。
 まぁ、それでも、なんだかんだ言って、どうせ私は周囲の流れに合わせるように教員試験に合格し、めでたく今の学校からおさらばするんだろうな。なんて思う。
 向上心なんてものは無いが、流れに逆らう気力も持ち合わせていない。
 額に張り付いた前髪を払い、ふと左手首の時計を見る。
 十九時半。最後の仕事の片付けに手間取ったせいか、それとも死体の様にゆっくりと歩いていたせいか。いつものバスの時間はとうに過ぎ、数本後の発車時刻まであと少し。記憶上これを逃すと次は三十分後。この暑さの中それだけの時間を待つなんて地獄もいいところだ。
 慌てて足を速め、川を渡す大きな橋に足をかける。百メートル程の橋を渡り切った先がゴールのバス停。さながら真夏の百メートル走。それなのに私の下半身は言うことを聞かない。終業式中ずっと立ちっぱなしだったからだろう。パンパンに張った脹脛は悲鳴を上げていて持ち上げることすら億劫で、愉快に自分の体と格闘している私の隣を無感情にバスは通り過ぎていく。
 橋に足を掛けたばかりの私と橋を渡り切ったバス。到底追いつけない距離を引き離され、次のバスを待つという地獄を甘んじて受け入れた。
 田舎とも都会とも言えない中途半端なこの町で考えれば、バスが三十分の間隔で来るのはむしろありがたい話なのかもしれない。遥か遠くのバス停で乗り降りする人間を数えるのに片手で十分足りる。その証拠に車通りも少なく、バス以降私を追い抜いていく車は無かった。不幸中の幸いというやつだ。そう考えよう。
 軽く走って息切れを起こした私は、膝に手を付くようにして息を整える。これでも学生時代は球技とか長距離走とか結構得だった筈なんだけどな。
 二十歳を超えてから急激に体力が衰えると聞いていたけれど、今まさにそれを実感している。まだ二十代も折り返し地点なのにこんなに……。自分の老いを自覚すると結構メンタルに来る。
 この橋を歩ききらなきゃならない事への絶望。次のバスまでのニ十分間この外気を耐えることへの絶望。そして体力が落ちたことへの絶望。
 我ながら安い絶望感たちだ。絶望の意味を一度調べた方がいいかもしれない。
 その証拠に次の瞬間。息を整え歩き始めようと顔を上げた時。脳内にあった様々な感情は目の前に広がる光景に塗り潰され、私は感嘆の息を漏らした。
 視界に広がったのは夕暮れに相応しい真赤な空。
 少し黒を混ぜたような、重い赤。
 その中に、雑に千切られた雲が真っ黒な影を落として、浮かんでいる。
 どうしようもなく綺麗な景色だった。
 でもそれだけではない。
 私が目を奪われたのは、そのすべてを背負う少女。
 橋の中央で手すりの向こう側に立ち、頭上の夕暮れを仰ぐ少女。彼女の立つ場所の後ろには、綺麗に靴が二足並べられている。
 幼い体形を見る限り中学生だろうか。小柄な体躯に短い髪。そしてこの季節には不釣り合いなニット帽。
 袖口から露わになる肌はあまりに白く、そしてニット帽から覗く髪は空の黒にも負けない黒。
 背景の夕暮れをバックにする少女の立ち姿はまるで一枚の絵画のようで。
 釘付けになる私はそれに美しさを感じると同時に、恐怖を抱いていた。
夕焼けを反射するように光る彼女の眼にはまるで刃物のような剥き出しの鋭さがあった。それはまるで野生動物が獲物を狩る瞬間のような。張り詰めた空気の中に生と死が渦巻いていた。
 それは日常生活を送る人間には絶対に縁のない雰囲気。
全身からその気迫を漂わせる彼女を見て、私の身体は小動物のように震えていた。
 さっきまの暑苦しい汗とは違い、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
 その時、私の視界の中で静止画の様に佇んでいた彼女が、私の気配を察知したかのように振り向く。
 蛇に睨まれた蛙のごとく体を固める私をじっと見ながら、少女は微笑む。そしてゆっくりと口を開いた。
「大丈夫ですよ。飛び降りたりなんかしません」
「……え?」
 そうしてようやく、少女が今にも橋から飛び降りることができる体勢であることに気が付いた。橋はかなりの高さがあり、自殺するには十分。彼女がその身を投げ出す映像が脳内に浮かび全身に悪寒が走った。
 慌てた私の足は気づけば動くようになっていて、思考を回すよりも先に少女の元へ走る。
「いやいや、むしろ勢いよく来られた方が危ないですって。今戻るんで落ち着いてください」
 パニック状態で駆け寄る私に、彼女は穏やかな落ち着きを見せながら静止の言葉を掛ける。
 そして死の淵に立つ少女はまるで机の上にでも座るかのように、ひょいと手すりに一度腰を掛けると、そのまま体を回転させ私の目の前に着地する。
 私はその光景を唖然と見つめ、彼女が橋に足をつけた瞬間、咄嗟に少女の肩をつかんだ。
「早まっちゃだめ! そりゃ、辛いことだってあるかもしれないけど!」
 焦りに任せて言葉を投げかける私にまた彼女は笑う。
「落ち着いてください」
「……飛び降りるなんて駄目!」
「だから大丈夫ですって。ほら。もう私は手すりのこっち側にいるでしょ?」
 半ばパニックになる私を宥めるように優しい声色を投げかける。
 私は震える手で彼女の肩を掴んだまま、不規則に跳ねる呼吸を落ち着けるように、深く息をしようと試みる。
「安心してください。今日は死にませんから」
 自殺なんてしていいわけがない。どんな理由があったって、死んだら全部終わっちゃうんだから。
「結構いい景色だったから、ふと死にたくなっちゃっただけなんです。でも、これじゃまだ足りないかなって」
「……なに……何言って」
 私は呼吸の乱れと、少女が無事なことへの安心で、その場に膝をつく。ストッキング越しに肌に小石が刺さり、じんじんと痛みが波打った。
 私は橋の手すりに背中をつけ、深呼吸をする。視界を上げると夕暮れをバックに少女の顔が中央に映った。
「落ち着きました?」
「……だいぶ」
「よかった」
 彼女は私に微笑むと私に手を差し出す。
「とりあえず、バス停まで行きません? こんな所に座ってると、車通りが少ないとはいえ変に見られちゃいますよ?」
 今の私よりも奇異な行動を取っていた少女の手を取り私は立ち上がる。少女は小走りで私が落としたバックを拾ってくると、行きましょうとバス停に向かって歩き出した。
 この少女が分からない。さっきまであれ程死の気配を漂わせていたのに、今じゃこんなに普通の女の子の顔をしている。全く別の少女を見ている感覚だった。
 ひょこひょこと歩く少女の背中を追いかけながら考える。これは学校に連絡するべきだろう。少し会話をして学校とかを聞き出して、連絡……。いや、まずは慎重に話をしないと。さっきの雰囲気はふざけて手すりを超えたなんて物ではなかった。あまり焦ってこの子のスイッチを押してしまうことだけは避けなくてはならない。
 最悪私が家なり学校なりに送り届けなくちゃ。この子がどんな問題を抱えているか分からないけど、この子を一人にしちゃ駄目。そう胸騒ぎがした。
 バス停に着き時計を見ると、次のバスまではあと十五分。彼女は何故かバス停のベンチに座っている。どうやって引き留めようか迷っていたから都合がいい。
 さて、どうしたものかと考えながら私もベンチへ座る。
「それで……」
「え?」
 私から会話を始めようと切り口を考えているうちに、彼女が口を開く。
「生徒の自殺未遂を見つけた訳ですが、どうします? 先生」
「……先生? なんで私が先生だって……」
 首を傾け聞いてくる彼女の言葉を理解するのに時間が必要だった。
「だって校内で見たことありますし」
 私の学校の生徒だとは思いもよらなかった。だってそもそも見覚えがない。そこそこ大きい学校ではあるが全校朝会の髪型チェックを担当したこともあるし、一度は見ていてもいい筈なのに。
 そもそもこの子は顔がいい。クラスでも目立つ方だろう。それなのに見覚えがないという事は、あまり学校に来ない生徒なのかもしれない。
「え……? 先生、もしかして気付いてなかったんですか?」
「……ええ」
 そして何より、この小柄な見た目は高校生にしては小さい。
 少女はあからさまに失敗したという顔をして笑う。
「校内では結構有名人だと思ってたんですけど。…………言わなきゃよかった」
「名前、聞いてもいい?」
「はい。三年の藍原です。分かりませんか? 藍原莉緒」
 藍原、藍原。脳内で必死に記憶をたどるが、ピンと来ない。そこまで多い苗字ではないけど、少ない苗字でもない。私が思いつく限り学校にこの子以外に二人藍原という苗字はいる。
 三年生という事は私と同じ時期に学校に入ってきた子か。その学年を担当したことは無いし、知らないのも無理はない。職員室で名前を聞いた気もするが、この子って確証もないし。そもそも学校にあまり来ていないならその件かもしれないし。
 つまりは結局分からない。
「……ごめんなさい。分からないかも」
「へぇ……。知らないんだ。そっか……」
 少女は顔を逸らし、私からは表情が読み取れない。ただその言葉には読み取れない含みのようなものを感じた。
「……ねぇ先生。急な話なんですけど、お願いを聞いてくれませんか」
「お願い?」
「はい。一つ……。いや、二つ」
 少女は真っすぐ私の目を見る。その目からはもう恐怖を感じることはなかった。
 お願いとは何だろうか。ただここで彼女との距離を詰めておくに越したことは無い。それに彼女を刺激しないように動くのなら、ここは頷くしかない。
「言ってみて」
「まず一つ目なんですけど。私の自殺未遂はどこにも報告しないでください」
「……」
 見事に先手を打たれた。
「報告って、そんな」
「学校とかそういう団体とか。面倒臭くなるので」
「面倒臭くって……。あなた自分がどれだけ」
「わかってますよ。でも、これは私の問題なので。……勿論先生の責任になるようなことは一切しません。先生はさっきなにも見なかった。それだけです」
「そんなことでき――」
「できるわけない、ですか?」
 まるで彼女に会話をコントロールされている気分だった。言葉を潰され何も言えなくなる私を、少女は真面目な顔で静かに見つめ続ける。
 気が付けば、私の視線は彼女の目から離れなくなっている。黒い瞳の奥に広がる大きな何かに吸い込まれるように、私は釘付けになる。
「じゃあ、先生が私を助けてくれますか?」
「――っ」
 その言葉は切なく私の鼓膜を揺らした。きっとここで私は頷かなければならない。それが大人の役割。でも、私の首も私の喉も動かない。
「冗談ですよ。……優しいですね。先生」
 そして限界まで張り詰めた糸を彼女は一気に緩める。皮膚からは今まで忘れていた分の汗が流れ出し、心臓が五月蠅くなり始める。そうしてようやく喉から声が出るようになったことを確信した私は、彼女に私が言うべき言葉を伝える。
「でも、話を聞くことはできるよ」
「そう言ってくれる人は、本当に優しい人か、狡い大人かのどっちかです」
「私じゃ駄目かな? 悩みがあるなら何でも相談に乗るよ? 私にできることなら力を貸すから」
 少女は私の言葉に小さく俯くと、次の瞬間には表情を変えて明るい顔を私に見せる。
「じゃあ、今日、家に泊めてください」
「え?」
「私、今日家出してきたんです」
 さっきまでの静かな彼女はどこへ行ったのか、今度は年相応の少女と会話をしているよう。まるで何人もの彼女と入れ替わり話しているような感覚。
「これが二つ目のお願いです。先生の事を信用するので泊めてください」
「……何言ってるの? そんなのダメに決まって――」
「話を聞いてくれるって言うのは?」
「それはもっと別の、カフェとかファミレスとか」
「それ本気で言ってます? 自殺しようとしていた人間が心の内を公共の場で曝け出す訳ないじゃないですか」
 調子が狂う。まるでクラスの生徒と話している感覚。この子がさっきまで死の淵にいたことすら忘れてしまう。
「あぁ、えっと、じゃあ……」
「それに私、今日泊まる所ないんですよ」
「でも、教師が生徒を家に上げるのも、相当倫理的に」
「じゃあ、駅前でナンパされるのを待つか、潔く死ぬことにします」
 女子生徒が休み時間に見せるような、何でもない笑顔を浮かべながら少女はそんなことを口に出す。
 これはお願いじゃなくて脅迫だ。一生のお願いを軽々しく口に出す人間は山ほどいれども、ここまで重みをもったお願いは始めて見るかもしれない。だって彼女は下手をすれば本当に死んでしまう。彼女の目には冗談の色なんて全くなく、私は細い平均台の上に立っているかのような緊張感を覚える。
「親御さんだって心配するでしょ? ちゃんと帰った方がいい」
「それ、私じゃなかったらアウトですよ。学生の自殺志願者なんて数割は家庭環境が原因なんですから。家出してきた人間に帰れなんて、死ねって言ってるのと同じです」
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ」
「私は大丈夫ですよ。そんな理由で死のうとなんて思いませんし」
「でも家に帰りたくないの?」
「はい。こうして家出しているくらいですからね。でも、虐待とかではないですよ? 親は私に優しいですし、大切にされています」
「じゃあどうして……」
「色々あるんですよ。女子高生ですもん。多感な時期なんですよ」
 ヘラヘラと他人事のように会話を進める。そこから彼女の内面は全く見えない。
「あ、じゃあ先生が泊めてくれるなら親に連絡してもいいですよ。私が家に帰らないことが伝わってれば全然問題ないですよね。お友達の家に泊るとでも言っておきます。彼氏の家に泊る学生みたいでいいじゃないですか」
 退路はもうない。彼女を家に招き話を聞かなければ、今後彼女がどうなってしまうか予想はつく。
 他人にそこまでの興味はない私でも、命を投げ出そうとしている子供を見逃すわけにはいかない。
 それだけは、絶対にできない。
「で、先生。どうなんですか? 次のバス。来ちゃいますよ?」
 時計を見ると、次のバスまであと数分。
「一つだけ聞いていいかな?」
「なんですか?」
 なぜ死に急ぐのか? なぜ家出をしたのか? なぜ学校で有名なのか? その他にも沢山聞きたいことはあったけれど、私の口から出たのはそのどれでもなかった。
「信用する大人が、私でいいの?」
 きっと私は狡い人間で、彼女が信用していいような人間ではない。それでもいいなら、私は彼女の話を聞く。それで彼女が少しでも明日を生きることができるなら、彼女の抱えている物を少しだけ持ってあげてもいい。
 私の言葉を聞いて少女は少し顔を明るくして、考える。
「……こうして。こうして偶然会っただけですけど、なんだか運命を感じたんです。それだけで私はいいんです」
 そう言ってまた彼女は無邪気に笑う。目には明るい命の輝きを宿しながら。体からは生の激しさを漂わせながら。
 そして私は、どうしようもなくそれに惹かれていた。
「話を聞くからさ。死んじゃうなんて勿体ないよ。それで明日になったら今後どうするか一緒に考えよう? 家に帰るか、それが無理なら助けてくれるところは沢山あるし。私が間に入ってもいいからさ」
「……はい。ありがとうございます。これからのことは、そうですね。はい」
 この歳の子が自殺なんてしてはいけない。話を聞いて、分かち合って、彼女に圧し掛かる物を軽くしてあげれば、きっと死ぬなんて馬鹿な考えはしなくなる。
 こんな私でも、彼女を救える。

 しかし、後から思い返せば、この時すでに私は彼女の命の激しさに見惚れていたのだと思う。
 それは、どうしようもなく尊くて、どうしようもなく儚い。
 一瞬で燃え尽きてしまいそうな程、激しく輝く炎に、釘付けになっていたのだろう。
 藍原莉緒。
 彼女は残りの命、全てに炎を灯して生きていた。
 私の家に着くや否や、彼女はテレビの前にちょこんと座った。
 私もそこに座れと言われている気がして、エアコンのリモコンを拾いながら、テーブルを挟むようにして彼女の向かいに座る。
 汗でべた付くシャツを脱ぎたい気持ちを押さえながら、彼女を見ると、私の心中を察したかのように口を開く。
「まずは自己紹介をしたいんですが、時間貰っていいですか?」
「ええ。大丈夫だけど?」
「あ、いや。先生、顔にシャワー浴びたいって書いてあったので」
「流石にお客さんが来てるのに、帰宅早々服脱ぐ訳にもいかないでしょ」
「別に私は構いませんよ? 適当に待ってますし」
「いや、本当に大丈夫。自己紹介しちゃおうか」
「了解です。先生」
 彼女の言葉に居心地の悪さを感じながら、私は自己紹介を始めようと軽く座り直す。
「私は長瀬。学校で私の事見かけたことあるんだよね? だから名前くらいは聞いたことあるかもしれないけど」
「はい。実は最初から知ってました。長瀬先生」
 悪戯っぽく笑う彼女に年相応の無邪気さを垣間見てホッとする。
「ええと、少し頼みづらいんだけど、その先生って呼び方辞めてもらっていい?」
「え? なんでですか?」
「なんだか家に帰ってきてまでその呼び方じゃ落ち着かないっていうか。まだ業務中な気がして気が滅入るというか」
「それもそうですね。じゃあ、長瀬……さん? ちなみに下の名前は?」
「麻里」
「じゃあ、麻里さんで」
「下の名前なんだ……」
「苗字で呼ばれるのも、堅苦しくて嫌かなって。あ、麻里さんも私の事下の名前で呼んでください」
「莉緒さん?」
「いや、莉緒ちゃんで」
「……莉緒ちゃん?」
「はい! なんですか麻里さん?」
 なぜか彼女はそれで満足そうに笑うので、仕方がないと納得し話を進める。
「それより自己紹介でしょ。って、私の自己紹介いる? 興味ないでしょ」
「いやいや、何も知らない人と一夜を共に過ごせないじゃないですか。してくださいよ自己紹介。軽くでいいので」
「そんなこと言われても、教員てことくらいしか言うことないよ」
「もう……。合コンとか行ったことないんですか? そもそも自己紹介は生きる上で必須じゃないですか?」
「案外そうでもないよ。名刺渡せばそれで終わりだし。それ以上聞かれれば応えればいいし」
 そんな私に呆れたのか、目の前の少女は溜息をつく。
「年齢は?」
「二十五」
「出身は?」
「福島」
「あ、こっちじゃないんですね」
「大学がこっちだったからね。地元に思い入れもないし」
 あ、今のは嘘。思い入れは十分にある。あまり帰りたくないだけ。
「大学は?」
「流石に恥ずかしいかな。そこそこの所」
「趣味は?」
「ないかな」
「休日は?」
「寝て過ごしてる……かな」
「彼氏は?」
「……いません」
 掘り下げれば掘り下げる程、私が何もない人間になっていく。だから自己紹介は嫌いなんだ。空っぽの私に向き合わなくちゃいけなくなる。
「麻里さん……。なんか無気力ですね」
 自殺しようとしていた人間に言われたくはない。でも確かに、無気力に生きている人間が自殺を引き留める権利はないかもしれない。でも、死んではいけない。死んだら全部なくなっちゃうんだから。
「……ごめんなさい」
「いや、謝らないでくださいよ。確かにびっくりしましたけど、私も人のことを言える人間ではないですし」
 少女は必死に私を励ます。何やってるんだ私。この子と話すとすぐに失敗してしまう。もっと別の選択肢があったはずなのに、どうしてこうなるんだろう。
「……じゃあ次は私の番ですね! 三年四組、藍原莉緒。麻里さんの授業は受けたことないですが、麻里さんは度々目にしてました。って言っても多分麻里さんは私の事を見たことないかもしれません。色々あって不登校気味で全校朝会とかには顔出してませんし。あ、でも出席日数は大丈夫ですよ。きっちり三分の二を計算して授業に出てますから」
 所々こちらの顔を伺うように上目にチラチラと私の目を見ながら、学校での立ち位置を説明する。不登校に対して私が怒るとでも思っているんだろうか。
 思い悩んでいる生徒にはまず肯定を与えなければならない。頭ごなしに否定すればすぐに心を閉ざしてしまう。そんなことはまともな教員であれば誰だって知っている。
 だから私は彼女を肯定して、悩みを聞いて……。
「まぁ、麻里さんが今知りたいのはそんなことじゃないですよね。なので自己紹介は手短に終わらせます。趣味……と言ったら可笑しいですけど、人生の目標は綺麗に死ぬこと。これが藍原莉緒だと思ってくれればそれでいいです」
 なのに彼女は私の想像の遥か上を行く。
「……なにそれ」
「理解して貰えないのは承知の上です」
「悩みとか……。問題とか……」
「違いますね。私は自ら進んで死を望んでいるんです」
 私が到底、肯定できない物を曝け出す。
「……なんで」
 だから私は彼女を否定するしか無くなってしまう。
「理由はあるんですけど、話せません。それは話したくないです。代わりに私の心情を噛み砕いて説明することだったらできます。それで、宿泊費になりますか?」
 彼女は一瞬また背筋の凍るような雰囲気を漂わせた後、冗談交じりにおどけて首を傾げる。
 意味が分からなかった。誰だって生きていたい筈で、死ぬことからは逃げたい筈で。それが普通だと思っていた。いや、それが普通なんだ。
 ただ、根本的なそこが彼女はズレている。だって彼女は本当に死ぬ。その言葉を安易に使う子供とは格段に重みの違う「死」を口にする。
 命の重みを知った上でヘラヘラと笑う彼女からは、まるで年寄りが命の話題を笑いに変えるような、そんな心の中を綺麗に整理した後の落ち着きを感じる。
「私が聞いてもいいなら、聞かせて」
「さっきも言いましたよね。私はなんだか麻里さんに運命を感じたんです」
「……なにそれ」
「私の口から出る運命は相当重いですよ。何せもう後先短いですからね」
 彼女の笑顔の奥には燃える炎がある。目の中に烈々と燃える命がある。
 そんな目に惹かれ、そして私は怯えた子供の様に身を震わせながらそれを見続ける。
「じゃあ、上手く言葉にできるかは分かりませんが。聞いてください」
 そして彼女はゆっくりと語り始めた。

「少し質問しますね。例えば麻里さんは今日の夕飯、何を食べたいですか?」
「……え?」
 身構えていた私に投げかけられたのは他愛もない質問だった。
「別に大した意味はないので大丈夫ですよ」
「えっと、蕎麦とか……? 暑いし。正直何でもいいかな」
「じゃあ、麻里さんは明日、何をしたいですか?」
「……特にないかも」
 また主体性のない私が出てきてしまう。何を食べるにも何をするにも大きなモチベーションはない。
「じゃあ、三日後地球に隕石が落ちてくるとしたらどうですか? 今日の夕飯は何を食べたいですか?」
「えっと……。そうだな……」
「好きな食べ物を食べたり、高級な物を食べてみたり、もしかしたら質素な物を選ぶかもしれませんけど、一度ちゃんと何を食べようか考えませんか? 多分ですけどさっきの質問よりこの質問の方がしっかり考えると思うんです。適当には答えないと思うんですよ」 
 確かにそう。結局何を食べたいかは思い浮かばなかったけれど、暑いから蕎麦と答えた時よりは考えた。
「地球が終わるとしたら、明日やりたいことも変わってくると思うんです」
「そうだね。実家に帰ったりするかも」
「はい。それが私の一つ目の理由です。自分が生きていることを一番自覚するのって死ぬ寸前だと思うんです。だって普通に毎日を平和に生きてたら、自分が生きてるかどうかなんて考えないじゃないですか。でも毎日自分の死に場所を探していると、ちゃんと命について考えられる気がするんです。あぁ、今私は生きてるんだなって感じることができるんです」
 しっかりと言い切った彼女の話に、私は目を伏せる。
 確かに理解することはできる。命について考えることは大切だ。だから食事の前には頂きますなんて言葉を口にするように教育しているんだ。
 でも彼女は考え過ぎじゃないのか。そんなに考えて生きて、本当に幸せなのか。もっと同年代の女の子たちの様に、何でもないことに笑って、何でもないことにムカついて。そうやって何も考えずに生きることはできないのか。
 たかが高校生の言葉とは思えない程にそれは重く、私を考えさせる。
 高校生に比べたら大人になっている気でいた私に、お前は何も考えていない子供なのだと突き付けられている気分だった。それもその高校生に。
 彼女の背景を私は何も知らないし。何を背負っているのかも知らない。だから下手なことは言えないけれど、確かに彼女は異質だった。
「もう一つ。こっちは子供みたいな理由なんですけど、いいですか?」
 目の前にいる小さな体躯の少女に、君はまだ子供だよ、とは言うことができず、私はそっと頷く。
「二つ目は、なんというか。私は自分が壊れていくのを見たくないんだと思うんです。これは、表現が少し難しいんですけど……。本当に大切な物は壊れてしまう前にふと無くなってほしいというか」
 言葉にするのが難しいですねと笑って、彼女は考える。きっと頭の中では完成している彼女なりの哲学をどうにか言語に直そうとしているのだろう。だから私は口を挟まずにその姿を見守る。小学校に研修に行った時に感じたものと似た感覚だった。自分の持っている言葉を組み合わせて必死に意思疎通を図ろうとする姿は、やはり幼い子供のように見える。
「例えば、極論ですけど、すっごく美容に気を使っている美女がいるとするじゃないですか。その人が優先するものが、生きることよりも美を保つことだった場合。その人は年を取って自分が醜く変わっていくことを許さないと思うんです。たまにいますよね。美しいまま死にたいっていう女性。理由は違えどあれと似たようなものです。私は自分がボロボロになって生きていくくらいなら、すぐに終わりにしてしまいたい……。ってやっぱりわからないですよね」
 ごめんなさいと真面目な表情を崩すように笑う。
「結局は私は弱い人間なんです。この先待ってる辛いことに立ち向かうなら、それが来る前に死んでしまおうって話なんですよ。多分」
 背中に冷たい汗が走って、自分がこの少女に恐怖してしてることを自覚した。
 私だって正直のうのうと生きてきた訳じゃない。それなりに苦労してきたし、考えてきた。結果的に今は無気力な人生を歩いているが、同年代より思考が熟している自信もあった。それでも目の前の少女の比ではない。
 なぜそこまで死に向き合えるのか。そしてなぜそれを飲み込んで、笑えるようになっているのか。身内が亡くなっている? 何かそんな体験をしたことがある? 理由は分からないが、彼女の中に潜む剥き出しの命に私は目を奪われていた。
 私は立ち眩みに似たものを感じ、目頭を押さえる。高校生の言葉を理解できずに頭を抱える教師の図は傍から見れば滑稽な物なのだろう。そんな私を見て何を思ったのか、少女は立ち上がると、何かを見つけて本棚の方へ歩いていく。
「麻里さん、煙草吸うんですね」
「え? うん」
 彼女は本棚の一角に置いてった煙草とライターを手に取りさっきまで座っていた場所に戻る。
 私に気を使って会話を増やしてくれたのだろうか。意図は分からないが、張り付いていた喉が少し和らいだ。
「煙草の匂いがうっすらとしたから、もしかしたらなって思ってたんです」
「あ、ごめんね、部屋煙草臭かった?」
「いや、全然大丈夫ですよ。別に気にならないので」
 ライターを手元で転がしながら、少女はわざとらしく部屋の匂いを嗅ぐ。
 引っ越してすぐは気も使ってベランダで吸っていたけど、今じゃたまに室内でも吸ってしまうから匂いがついてしまったんだろうか。
「たまに吸うの。地元にいた頃は良く吸ってたから。だからふと昔を思い出したくなる時とかに丁度よくて」
「先生さっき大学からこっちって言ってましたよね?」
「ん? ええ」
「じゃあ、地元の時って高校生じゃ?」
 あー。やってしまった。
「ごめん。忘れて」
「わかりました。忘れてあげます。……でも、煙草は辞めといたほうがいいですよ? 寿命が縮まるって言いますし」
「それ、あなたが言う?」
 するっと喉を出た軽口に少女はムッとする。何か癪に触ってしまったのではないかと不安になるが、彼女が口を開くとすぐに理由がわかる。
「莉緒ちゃん。です」
「え?」
「今麻里さん。私の事あなたって呼びましたよね?」
 そんなに名前で呼ばれたいのか。なんとなく呼びにくくて意図的に避けていたけれど、それも許されないらしい。だって人をちゃんづけで呼ぶなんてかなり久しぶりだ。もしかしたら小学校時代まで遡るかもしれない。
「えっと……莉緒、ちゃん」
「はい。それでいいんです」
 また名前を呼ばれて満足そうにする少……莉緒ちゃんは先程から手先でクルクル回しているライターを私の目の前に出す。
「また、さっきの話に戻しちゃいますけどいいですか? 例えばここにライターがありますよね。普通に使えば火は点きます。でもオイルが切れてしまって火が点かなくなったら、一生懸命何度も点けようとしますよね。必死に何度も擦ります」
ライターを何度も点けようとするジェスチャーがあまりに様になっていて、莉緒ちゃんも高校生だよなと、疑問がよぎる。それでも今は置いておこう。生活指導をしている暇なんてない。
「そうして、煙草に火が点けられなくなってようやくライターの大切さに気が付くんです。私はこのライターの大切さをずっと感じていたいし、これが思い出の品とかだったら、壊れて使い物にならなくなる前に置きものにしてしまうか、どこかで失くしてしまいたいんです。多分私の場合、失くすよりも壊れた時の方がショックは大きいんです」
やっぱり何を言ってるのか分かりませんね。と笑い、莉緒ちゃんは元あった場所に煙草とライターを戻す。
「要するにちゃんと生きてる事を実感したくて、生きた私のまま死にたいんですよ」
 へなっと笑う彼女からは弱さの片鱗が見え隠れしているような気がした。
 彼女の伝えたいことを正確に理解できたとは言えない。それでも、今の私はそれを理解しようとしている。彼女の言葉は不思議な魔力を秘めていて、耳に入る度に胸のどこかを締め付ける。
 彼女を自殺から救うという最優先事項は変わらない。それでも、このまま彼女を知らずに彼女を止めるだけではいけないと、何かが告げていた。

 結局、それ以上彼女は何も語らず、短く続いた沈黙を破ったのは私の腹の虫だった。
 もう私に話すものはないと言わんばかりに莉緒ちゃんは明るく振る舞い、小さな部屋には死の雰囲気など一切感じさせない空気が流れた。
 彼女の謎は解けないまま、私の頭の中には靄だけが増え、それを払うように冷たいシャワーを浴びた。あがった後に彼女にも勧めたが、全力で遠慮するのでそれ以上は何も言わなかった。そもそもほぼ初対面の人間の家でシャワーを浴びるのは怖いか。段々と私も感覚を麻痺してきていることを感じて一人笑った。
 冷蔵庫を開けるとそこにはいつも通りいくつかの調味料と缶ビールしか入っていなかったが、外に出る気にならず、悪あがきにと戸棚の奥を漁れば一年以上前に母親が仕送りに入れた乾麺の蕎麦を発掘した。
 二人で笑ってしまって、丁度食べたかったと蕎麦を茹でた。結局麺つゆすらなくて醤油と味醂を混ぜてその場をしのいだけれど、久しぶりの誰かとの夕飯はとても美味しく感じた。
 そうして気付けば彼女について何も分からないまま、ベッドの中で天井を見ていた。
 ベッドを彼女に譲ろうとしたがソファでいいと頑なに譲らないのでその通りに。人の家に泊めろと厚かましく迫るわりに妙な所で線引きをする女の子だ。
 真っ暗にした部屋の中で私は考える。
 これから私はどうすればいいんだろう。学校に行って彼女のことを調べるべきか。そうすれば莉緒ちゃんの親御さんの電話番号も家の場所も分かる。
 それとも約束通り詮索は控えるべきか。でもその場足、明日からどうする? 彼女の手を放すわけにもいかない。
 頭の中には様々な選択肢が並び、どれが正解かなんて見当もつかない。だからこのまま寝てしまおうかと瞼を降ろした時、私の唇は勝手に言葉を発していた。
「莉緒ちゃん……?」
「なんですか?」
「いつまで、家出しているつもり?」
「……分からないです。でも、できることなら家には帰りたくないです」
「そんなに帰るのは嫌?」
「はい。それこそ死んだ方がマシかもしれません」
 家庭の問題かそれとも莉緒ちゃんの問題か。どちらにせよ家には帰れないらしい。
 多分、正解は幾つもある。でも今から私が口にしようとしていることは、そのどれでもない。間違っているけれど一番優しい選択肢。
 だって私には家に帰りたくない彼女の気持ちが少しわかる。私の体験と彼女の体験は全く違うだろうけれど、私も家に死んでも帰りたくない日々があった。家族は優しくて誰も悪くないのに、帰りたくない日々があった。その時、私には逃げる場所があった。
 だから彼女には私が逃げる場所になってあげてもいい。何故だか彼女と話していてそう思った。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「私の事、誰にも言わないって約束。守ってくれますか?」
「……うん。約束だもん」
「じゃあ欲を出してもう一つ、お願いしていいですか。……私の秘密を知らない麻里さんでいてください。今のまま。何も知らないまま私を見ていてください。……お願いします」
「……わかったよ。じゃあ、さ。私からも約束していい?」
「はい」
「私は莉緒ちゃんの事を詮索しない。だから、自殺なんて、考えないで……。生きがいっていうのかな。他にももっと生きてるって実感できることが沢山ある筈だから。……私が言っても説得力ないかもしれないけど、私も目標があったからここまで来れたんだ、だから、さ」
「麻里さんが私のこと、殺してくれてもいいんですよ」
「馬鹿言わないで」
「ごめんなさい。冗談です。……じゃあ、死ななかったらここにいてもいいですか? ……夏休みの間だけでいいです。少しの間だけ、ここにいてもいいですか?」
「……わかった。わかったよ。夏の間だけ、ここにいていいよ」
「ほんとに?」
「ほんと。ここを莉緒ちゃんの居場所にしていい。だから、その間。いなくならないで」
「……はい。……ありがとうございます……」
 これでよかった。私はこれでいい。
「もう寝よう? どうせ明日だって話せるんだし」
「はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
 意識を手放すとすぅっと全てに靄が掛かっていく。今日は疲れた。一学期が終わって、少女に出会って、夏が始まった。
 最後の自我が途切れる瞬間、莉緒の小さな声が聞こえる。その声は今にも消え入りそうで、切ない声だった。
「私の事、見捨てないでください。できれば、愛してください」
 その後におやすみなさいと付け加えるので、私は声も出さず、それに返事をするように唇だけを動かした。
 クリーム色のカーテンを通して入る朝日が私の睡眠を阻害した。
 ほんの少しだけ浮上した意識は、真っ先に部屋の蒸し暑さを感じ、睡魔をどこかへ追いやってしまう。
 暑い。
 居心地の悪さに体を捩ると、肌と布がじっとり張り付いているのがわかった。どう寝返りを打っても纏わりつく不快感から逃げるように、私は観念してベッドから身を起こす。目覚まし時計ですら打ち倒せなかった睡眠欲に夏の不快感が勝利した瞬間だった。
「エアコン……」
 しぱしぱ不規則に光る視界を放棄して、手探りで近くに置いてあるはずのリモコンを求める。不思議な感覚だった。まるで夢の中に浸っているような。しかし、それでいて意識はずいぶんとはっきりしている。
 徐々に朝に順応していく体は、視界をゆっくりと鮮明な物にしていく。部屋の隅に置かれたベッドの上から見る光景はいつもと変わりはない。築十五年。家賃七万。約四十平米の1LDK。地上六階の比較的安い一室。
 洋室とリビングキッチンを隔てる引き戸はここ数年開きっぱなしになっているから実質LDK。ベッドから見るリビングには陽の光が差し込み、ソファの背中が明るく光っている。
 やっぱり不思議な感覚だ。何かがいつもと違う。上半身を起こした体勢でぐるっと部屋を見回してみるが、特にめぼしいものは無い。
 その代わりにベッドの隣にある机に目が留まる。そこには資料の山が出来上がっていて、片付けなきゃななんて陰鬱な気分になる。休みの日くらい仕事のことは忘れたい。
 私は違和感を追求することを諦め、もう一度ベッドに倒れこんだ。ぺちゃっと汗を染み込んだシャツが冷たく背中と髪に張り付くがお構いなしに目を瞑る。
「リモコンどこ行ったの……」
「リモコンですか?」
「うん」
「あ、ありました。どうぞ」
 手のひらにこつんと無機質が当たるのを感じ、握る。ありがとうと無意識に発しながら、運転開始のボタンをした。
「おはようございます。麻里さん」
「ん……。おはよ」
 一瞬の思考停止。そして一気にその違和感に気が付いた。
「っ! びっくりしたぁ!」
「っ! 何ですか、急に! こっちもびっくりしましたよ!」
「部屋に人がいるの忘れてた……」
 この違和感はあれだ。部屋に私以外の人の気配があることだ。
「……朝起きて、おはようって言ったの、いつぶりだろ……」
「え? 何か言いました?」
「なんでもない」
 ふーっと長い息を吐きながら今度はさっきよりも勢いよく上半身を起こす。首を曲げてさっき見た景色をもう一度確認すると、視界の真ん中に可愛らしい少女が座っている。
 ベッドの隣で正座をして、上体を起こした私の顔を見上げる彼女は藍原莉緒。少し、いや、だいぶおかしい女の子。
「夢じゃなかったんだ」
「ちゃんと私は存在しますよ」
「だって夢みたいな出来事だったから……」
「人が自殺しようとするのを止める夢なんて物騒じゃないですか?」
 私はベッドから降りることなく手を伸ばし、いつもの場所に置いてある緑色のプラスチックケースを手に取る。カラカラと子気味のいい音が鳴った。
「私は結構見るよ。そんな感じの夢」
「麻里さんも大概じゃないですか」
「そうかもね」
 プラスチックケースの蓋をペコっと外し、掌に中身を何粒か出して口に放り込む。
「それ、何ですか?」
「ラムネだよ。見たことない?」
「いや、見たことはありますけど……。おもむろに出したので中身を入れ替えた怪しい薬か何かかと」
「薬に頼らなくちゃいけない程、人生に苦しんでないよ。……いる?」
「いや、結構です。……寝起きでよく食べれますね」
「なんか癖になっちゃってさ。昔誰かから聞いたんだよ。朝はブドウ糖を直接とれるラムネがいいって。それからずっと、これ食べないと起きられなくてさ」
「ありますよね。ルーティンってやつ」
「そう。それ」
 丸い粒を奥歯で噛み潰すと、軽い音と共に粉になる。それらが口の中一杯に広がって、いつもの甘さが私の頬を叩くように眠りから起こしてくれる。
 視界もどんどんと明瞭になっていき、頭も回り始めた。実際ルーティンなんてものは薬物と似ているのかもしれない。ラムネに害はないと言っても私はこの百円もしない駄菓子に依存している。
「……おはよ。莉緒ちゃん」
「はい。おはようございます」
 私は朝起きて何度目か分からない溜息をつき、ゆっくりとベッドから降りる。
「とりあえずさ。これからどうするかは追々決めるとして、シャワー浴びてきていいかな? 汗が気持ち悪い」
「私に気を使わなくて大丈夫ですよ」
「まだ慣れなくて」
 こんな非現実的な光景に慣れたら最後だと自分に言い聞かせるように、私はぺたぺたと裸足で歩く。
「あ、莉緒ちゃんも使いたくなったら言ってね。ここに当分いるんだったら、遠慮されても迷惑だから」
「はい!」
 少し毒を混ぜた言葉に元気のよい返事が返ってくる。
「なんでそんなに嬉しそうなの……」
「だって、当分いるんだったらって」
「昨日約束しちゃったからね」
「忘れられてるかと」
「流石にそれくらいは覚えてる」
 捉え様によっては挑発されているような発言に、私は適当な言葉を返し、風呂の扉を開ける。バストイレ別とはいっても最小限の規模だ。浴槽で足は伸びないし、トイレに鏡はない。
 鍵もない扉を閉め、警戒心もなしに身の回りの布を脱ぎ捨てていく。昨日は携帯と財布くらいは脱衣所に持ち込んだけど、二回目ともなればそれをすることも無くなった。自分の危機管理意識の低さにこの歳になって初めて気が付いた。
 そんなことを考えながら蛇口をひねるとシャワーヘッドから冷水が勢いよく流れ出る。私はそれが温かくなる数秒すら待てずに頭の上にかざした。全身をべたべたと濡らしていた汗が水に流れていくのを感じ、一度その冷たさに身震いをすると、すぅっと頭が冷えていくのを感じる。
 彼女。莉緒ちゃんをこれからどうするのか真剣に考えなければならない。
 ただでさえ女子高生を長期間家に泊めようとしていることすら危ないのに、その女子高生は爆弾を抱えているとまできた。下手なことをすれば職を失うばかりか、人生を棒に振りかねない。
 自分の人生にそこまで価値を見出してはいないが、流石に恐怖心はある。事件はなるべく避けて通りたい。
 それに彼女の人生もそうだ。私の人生はこの際どうでもいいにしても、彼女が自殺することだけは見逃せない。彼女が赤の他人だとしても、私は絶対に見過ごせない。
「今、私、混乱してる」
 わざとらしく言葉を口に出してから深く深呼吸をする。
「今の私にできること」
 きっとそれは一つだけ。彼女と多くの言葉を交わして、彼女を知ること。
 その過程で彼女が改心してくれればそれでいいし、彼女が心を開いてくれれば阻止もしやすくなる。
 そして何より、私は彼女に興味がある。
 彼女の目で燃える炎の正体が気になってしまっている。だってあんな目は平和な日本ではきっと見ることはできない。何故彼女がそんな崖の淵まで進んでしまったのか、純粋に気になってしまっている。
「そんなこと、口に出せないけど」
 もう一度息を吐いて蛇口を捻る。
 全身を軽くバスタオルで拭き、洗面台の定位置にある腕時計をいつも通り左手首に付ける。
 時計を見るとそろそろ短針は真上に向きそうで、休みの初日を最高に無駄な時間にしてしまったことに気が付く。普段なら許されても、客人がいる日にそれを実行してしまう私の図太さに感動しながら、長めの髪を巻くようにタオルで絡めとり纏める。私は第一声を考えながら、下着姿で扉を開けた。
「ごめん莉緒ちゃん。私こんな時間まで寝てて。結構待たせちゃったでしょ」
 莉緒ちゃんは私の格好に一度目を大きく開いてから、淡々としたトーンで返答をする。
「いや、別に大丈夫ですよ。お邪魔しちゃってるわけですし……って。麻里さん。本当にお邪魔してる身でなんですけど、生徒の前に良く下着姿で出てこれますね」
「あぁ。ごめん?」
「大人はもう少しデリカシーがあるものだと思ってました」
「私もそう思ってた」
 つくづく私の無神経さには感心する。
「部屋に人を呼ぶ時いつもそんなことしてるんですか?」
「そもそも、ここに人を上げたの数年ぶりだし」
「友達とか来たりしないんですか?」
「社会人になってから友達付き合いなんて殆どなくなったかな」
「彼氏は?」
「それが数年前に家に上げた最後の人。それっきりここには誰も立ち入ってないの」
「寂しいもんですね」
「案外そんなことないよ」
 適当に髪を纏めながら生返事でキャッチボールを行う。
「莉緒ちゃん、お腹すいた?」
「え、まぁ、はい」
「朝ご飯どうしよっか」
「もうお昼ごはんですけどね」
「そういうのいいから」
 空腹感を感じ冷蔵庫を開けるが、昨日の今日で何かが入っているわけがない。あるのは缶ビールだけ。お腹が空いても食べるものが無ければどうしようもない。
「麻里さん絶対に料理しなさそうですよね」
「失礼。たまにするから」
「たまに料理する人の冷蔵庫にはもう少し何か入ってると思うんですけど?」
「タイミングが悪かっただけ」
 外に出るという大きな壁に阻まれていつもならこの空腹も我慢してしまうが、人がいるならそうもしていられない。大きく息を吐いて、覚悟を決めた言葉を吐く。
「買い物行くかぁ」
「スーパーですか?」
「コンビニ」
「いや、流石に……」
「スーパーに行っても総菜買うんだからどっちみち一緒」
 今度こそ少女は私に幻滅の目を向けるが、そんなものはどうだっていい。数日も一緒にいたらどうせ全部バレるんだし。
「ほら、行こ。というか、家に一人で置いておくの怖い」
「はい。行きます」
 手招くと慌てて彼女は立ち上がる。
「あ、でも先にシャワー浴びちゃって。莉緒ちゃんの服洗っちゃいたい」
「私、これ以外に服ないですよ?」
「だからってずっと着てる訳にもいかないでしょ。私の服貸すから」
「ありがとうございます。……それは、お言葉に甘えるんですけど」
「なに?」
「いや、まず麻里さんは服を着て髪を乾かしましょうよ……。そのまま行くつもりですか?」
 あぁ、忘れてた。服を着なきゃ。
「たまに忘れそうになるんだよね」
「……それは絶対にやっちゃいけない事です……」
 莉緒ちゃんの私を見る目が完全に失望に変わったのを見ないように、私はその場で視界をバスタオルで覆った。

 一歩外に出れば照り付ける日差しは肌に汗の球を作らせる。
 七月後半。梅雨は数日前に明けた。
 数日前までは毎日の雨にうんざりしていたけれど、今ではその曇り空すら恋しい。アパートから徒歩数分のコンビニまでの道のりでさえも苦行に思える。
 隣を見れば、へたっている私とは正反対に生き生きと夏の暑さの中を歩く少女。私が貸した彼女には少し大きめのシャツは決して不格好ではなく、可愛らしい容姿と相まって様になってしまっているが、ずっと私の服を貸し続けるわけにもいかない。
「色々と買わなきゃね」
「麻里さんそんなに食べるんですか?」
「違う。莉緒ちゃんの身の回りの物」
「あぁ……」
 彼女は言葉通り「その身一つ」で私の家に転がり込んだ。
 正確にはポケットに携帯電話と財布を入れていたけれど、それ以外の何も持たずに私と出会った。それこそコンビニにでも行く格好と表現するべきだろうか。
 そんな恰好で彼女は死のうとして、私はそんな彼女を引き留めた。
 だから今の彼女は何も持っていない。命すら川に捨てようとしていたのだから、当たり前と言えば当たり前か。
「服とか、他は……。食器とか歯ブラシとか?」
「同居みたいですね」
「不本意だけど、その通りだし」
「酷くないですかー?」
 外を歩きながら誰かと話すのも久しぶりだった。梅雨明けから鳴き始めた蝉の声のせいで言葉が聞き取りにくい。
「明日、ちゃんと買い物に行こっか」
「はい!」
 適当な服に生活用品を買いそろえて……。とりあえず五万円程おろしておけば大丈夫だろうか。
 社会人になって三年。趣味もなく贅沢もしない。貯金はかなりあるから、人を一か月養うくらい余裕でできる。
 私が財布を出す義理なんて無いはずなのに、自然とその思考に至ったことに我ながら驚いている。
「莉緒ちゃん?」
「なんです?」
「いや、何でもない」
「なんですかそれ……。年頃のカップルですか?」
 見上げるように私の顔を見る少女を見返し、やはり私の胸の中に違和感があることに気が付く。名前を付けることはできないが、決して優しい感情ではない事だけは確かだった。
 自分自身すら理解できない物に戸惑いながらも、私は取り繕うように笑った。
「今日は味噌ラーメンの気分だなって」
「寄りにも寄ってカップ麺なんですね……。麻里さん健康を気にしたことってないんですか?」
 今私に出来ることはたった一つ。彼女と多くの言葉を交わして、彼女を知ること。
 だから私はもう一度、彼女に笑顔を見せた。
 目覚ましの音。
 それに唸る私の声。
 窓の外で鳴る雨音。
 ラムネのボトルが揺れる音。
 奥歯で粒を噛み潰す音。
「……おはよ」
「おはようございます。すごいですね、目覚ましの音に反応してからラムネを口に入れるまで本当に寝てるみたいです」
「……え? なに?」
「何でもないです。本当にラムネで起きてるんだなって」
「あぁ……」
 口の中に甘さが広がり、覚醒途中の頭に莉緒ちゃんの声がする。
 そして彼女の言葉の後ろには雨音。そういえば僅かに開いた瞳に入る光量が少ない。
「……雨、か」
「雨ですねぇ」
「どうしよっか」
「何をです?」
「買い物」
「あぁ」
 朝起きて他人の声がする生活にはまだ慣れない。こんな喉の調子で人と話すこと自体久しくなかったから、変な感覚だ。
「麻里さんが面倒なら私は全然大丈夫ですよ。明日でも明後日でも」
「正直雨の中出かけるのは怠い」
「じゃあ後日ってことで」
「でも大丈夫? 着替えとか」
「まぁ数日くらい何とかなりますよ。服は昨日洗ってもらったのが乾いてますし」
「じゃ、明日行こ。買い物」
「はい。明日は晴れるといいですけど」
 そんな寝ぼけた会話から彼女との朝が始まる。

「莉緒ちゃん、醤油と塩どっちがいい?」
 ベッドから降りてしばらく時間が経過した後。カップ麺を両手に一種類ずつ持つ私に向けられるのは冷ややかな目だった。
「どっちがいいって。えっと……」
「朝ご飯。いや、時間的にお昼ご飯でもあるけど」
「そういう事じゃなくて。いつ買ったんですかそれ」
「昨日コンビニ行ったときだよ。ストック無くなっちゃったから買っとこうかなって」
 私は彼女の質問に答えただけなのに、なぜかまた深い溜息をつかれる。
「買い物、今日行っておけばよかったですね……」
「なんで? カップ麺駄目だった?」
「……麻里さん休みの日いつもこんな食生活なんですか?」
「うん」
「仕事の日は?」
「朝は食べないし。お昼はコンビニ」
 また莉緒ちゃんは溜息をつき、頭を抱える。一人暮らしの社会人なんて大抵こんなものだと思うし、これで十分だと思う。
「まぁ、コンビニはまだしも、朝昼兼用でカップラーメンは流石に……」
「そうかな」
 どうしようかと首を傾げると、彼女はそれに申し訳なさそうに謝り、でも今は頂きますと言うので私は電気ケトルに二人分の水を入れてスイッチを入れる。
 静かに駆動し始めるケトルを眺めていると、そっと莉緒ちゃんが私に近づき、人差し指を立ててこちらに向けた。
「麻里さん。一つ提案があるんですけどいいですか?」
「……え?」
「そんなに身構えないでください。麻里さんにも悪い話じゃありません」
 また何か大きなことを頼まれるのかと思い身構える私に、彼女は言葉を選びながらゆっくり条件を提示し始める。
「私が麻里さんの家にお邪魔している間、家事……例えば料理とか洗濯とかを私に任せてもらえませんか?」
 何が出るかと思えば、目の前に出されたのは夢のように楽な生活。
「お邪魔している間、私が麻里さんに出来ることって何だろうってずっと考えてたんです。そしたら、見る限り麻里さんは家事が苦手というか、家事をないがしろにしてるというか。なので任せてもらえないかなと。ただで居候する訳にもいきませんから」
「いや……でも」
「こう見えて結構、家事には自信あるんですよ」
「えっと」
「低く見積もっても麻里さんよりは出来ると思いますけど?」 
「いや、そういう問題じゃなくてね。なんていうか、私は別に莉緒ちゃんに何かをして欲しくて泊めてるわけじゃないしさ、そもそも莉緒ちゃんは生徒だし、教師が生徒に家事やらせるのはちょっと」
「ここでは生徒と教師の関係は止めてくれって言ったの麻里さんですよ?」
「……そうなんだけど、そもそも莉緒ちゃんはまだ――」
「子供、ですか? 別にいいじゃないですか。そもそも麻里さんと私、十個も離れてませんし。やれる人がやる。それでいいじゃないですか。それに麻里さん、私がやらなかったらろくに料理しないですよね」
 ここ一週間を振り返って一度も包丁を握った記憶がない私には、莉緒ちゃんに言い返す言葉がない。何も言われなければ今晩もコンビニでいいかと考えていたくらいだ。
「だいたい、それが駄目なんて誰が決めたんですか」
「誰って……。普通駄目でしょ」
「一般的にそれが非難されるってことなら、関係ないじゃないですか。……だって私がここにいることは麻里さんが秘密を守る限り誰にもバレないんですよ。だったら周囲からの評価なんてないようなものです」
 良く口が回るな、なんて感心しながら私は彼女の提案を天秤にかける。
「問題なのは、麻里さんが嫌かどうかですよ」
 彼女に家事をやらせるのは社会人として罪悪感がある。でもそれを拒んだ時、今の私の生活に彼女を巻き込むと考えるとそれはそれでまた罪悪感が付き纏う。
 二つの罪悪感のどっちが大きいか比べるのはそこまで難しいことではない。でも今は一度それを保留して話を進める。だって今の私達にはこれ以外にも決めなければならないことが山ほどある。
「じゃあさ、一から決めてこっか」
「なにをです?」
「二人の生活のルール。決めなきゃなとは思ってたんだ。丁度雨で外には出れないから時間もあるし」
 莉緒ちゃんが私の言葉に頷くと、タイミングよくカチっとケトルが沸騰を知らせる。
「ところで莉緒ちゃん、醤油と塩どっちがいい?」
 莉緒ちゃんは引き攣らせた笑いを顔に浮かべながら、小さく悩んだ後に「塩で」と呟いた。

 私は醤油ラーメンを自分の箸で、莉緒ちゃんは塩ラーメンをコンビニで貰った割り箸で食べ、朝のエネルギー補給を完了させた。
 家出の末、居場所を見つけそこで時間を過ごす時、私ならどうするだろうか。やはり彼女のように何かしらの役割を求めるのだろう。親切で置かせてもらっている場所は居心地が悪い。そのことを私は経験で知っている。
 そこに自分がいてもいい理由を自分なりに持っておきたいのだろう。何かから目を逸らす自分への言い訳としてその役割は大きな意味を持つ。
「よし。こんなもんかな」
 私たちは日中のほとんどを使って、この非日常的な生活のルールを作った。
 まとめ買いしていた普通の簡素な赤いノートに書き込んだそれは、結果的に数ページにしかならなかったが、いざ文字に起こしてみると何とも奇妙なものだった。
 一ページ目にはこの生活の最初の約束。
 私が莉緒ちゃんをこの家に泊めること。
 私は嫌になったらいつでも莉緒ちゃんをここから追い出すことができること。
 お互いの詮索は片方が嫌だと言えばそれ以上はしないこと。
 私は彼女の存在を学校等に連絡しないこと。
 彼女は両親に心配をかけないように連絡を定期的に入れること。
 この生活は最長で夏休みの終わりまで。ということ。
 何か問題が生じたらその都度きちんと話し合って決めること。
この家に泊まっている以上、莉緒ちゃんは死なないこと。
 私達はそんな内容を真面目に話し合って一つずつ契約書を交わすように書き込んでいった。
 その途中何度か聞き出そうと試みたが、やはり彼女は身の上を話さず、彼女自身が話してもいいと思うまで、彼女の理由も聞くことは出来なくなってしまった。
「たぶんそれだけは最後まで話さないと思います。ごめんなさい」
 そう釘を刺されてしまっては私は動けない。親密になれば教えてくれるかと小さな希望を持つが、彼女の拒否は好感度などでどうにかなる程に簡単なものではないように思えた。
 教えられない代わりに私は彼女を追い出す権利があると言う。
「素性の知らない人間を置いておくのは怖いですもんね。何かあったらすぐに叩き出してください」
 そう言って莉緒ちゃんは笑うが、追い出したら最後、彼女はきっと死んでしまう。
 結局彼女が出した案は私の選択肢にはなりそうもない。
 二ページ目からはお金関係の決め事。
 正直私はそこに関しては全部自分が出すつもりでいたから、彼女がこの話題を出してきた時には驚いた。そして。
「普通に考えて半々ですよね」
 なんてさも当然のように言うもんだから、また驚いてしまった。
 家出してきた高校生がそんな大きなお金を持っているのか尋ねると、彼女は立った二つしかない荷物のうちの一つである小さな財布を机の上に置き、淡々と話す。
「私の銀行口座に五十万円弱は入ってます。それだけあればひと夏の家出くらい余裕です。……最初にあった橋の上でお金のない素振りをしたのは、ごめんなさい。嘘です。そうしないと麻里さんは話も聞いてくれなさそうだったので。あ、でも安心してください。危ないお金じゃないですよ。詳しい話は出来ないですけど、自暴自棄になって体を売ったりはしてませんから」
 前々から思っていたけれど、彼女の会話には偶に下世話な話題が入る。教師としては一応注意したいところではあるけれど、彼女に関しては他に抱える問題が大きすぎて注意する気にもならない。
「とりあえず、私は半分払うのでそれで手を打ってください」
 頑なに譲らない彼女に負けて結局お金関係はすべて半々にすることになった。私がそれを受け取ることで彼女が安心してこの部屋で過ごせるならそれでいい。これで関係性もほぼ対等になる。
 それと前々から思っていたことがもう一つ。彼女はこれでもかと言うほどに頑固だ。一度そうすると決めたら多分動いてくれない。その点でも私がお金を受け取るというまで話が進まなかっただろう。
 その次のページからは思いついたことを片っ端から書いていった。
 その中で先ほど話題の出た家事の話も出て、結局はこれもお互い半々ずつ担当することになった。最低限しか行ってこなかった私にとっては、半分に増えたと表現してもいいかもしれない。
「全部任せてくれないって言うなら麻里さんにもちゃんと家事をやってもらいますよ。絶対そっちのほうがいいです。麻里さん生活力が無さすぎます。これから苦労しますよ?」
 私が教えますからと決定してしまったそれは、最初の私の意見からは近くも遠くもない内容だったけれど、面倒臭さは感じてしまう。これなら全てを彼女に任せてしまってもよかったのではないかなんて相当危ないことを考えながら私は条件をのんだ。
 そうしてある程度話が纏まる頃にはもう時刻は四時を回っている。
「夕飯どうしようか?」
「まさかとは思いますけど、昼夜カップラーメンは正直やめてほしいです」
「さすがの私もそれはたまにしかやらないから大丈夫」
 休日はそもそも一日カップラーメン一つで過ごしてるし。
「普通はやらないんですよ」
 莉緒ちゃんは私の低い生活力に呆れることも辞めたらしく、溜息はせずどうしましょうかと頭を傾ける。
「食べに行く?」
「麻里さんの食生活が本気で心配になります」
「みんなこんなものだって」
「そうなんですか……。まぁでも今日はそれが早そうですね。近くになんのお店があるんですか?」
「結構何でもあるよ」
 夕飯の話をしているとカップラーメンしか入れていなかったお腹が鳴る。いつもなら夜まで平気なんだけどな。会話するのは何気にカロリーを沢山消費するのかもしれない。
「雨も弱くなってきたし、早めに行っちゃう?」
 ソファから立ち上がり、窓から外を見ると、雨足は弱くなっていて、外に出る抵抗も今なら少なくて済みそうだ。
 丁度玄関には莉緒ちゃんの分の傘もある。梅雨の時期に出先で買ってしまったビニール傘が役に立つとは思ってもみなかった。
「はい。麻里さんは今何食べたいですか?」
「なんでもいいかなー」
「じゃあ、あとりあえず行きましょうか。……うっ」
 床に座っていた彼女が立ち上がろうとして、床に倒れる。何事かと慌てて駆け寄ろうとするが、それより先に間抜けな声が届く。
「足、痺れました」
 床に転がりながら身もだえる彼女を見て私は安心する。
 やっぱり彼女は普通の女子高生。こうしてみるとただ女の子だった。
「麻里さん、助けてください……」
「助けてって、何もできなくない?」
 先程まで私の生活を非難していた彼女が床に転がっているという状況に悪戯心が芽生えて、私は彼女の足を軽く突いてみる。
 悲鳴とともに私を睨む彼女の眼は潤んでいて、とても可愛らしかった。
 休日の朝にしては珍しく、目覚ましを少し早めにセットして起きた。
 昨日外に出たときに買った菓子パンを食べながら準備を済ませ、これまた休日には珍しく外に出る為に顔を作っていく。
 そういえば莉緒ちゃんはメイクなんかしていなかったな。珍しい程に完成した顔だった。そんな人間が死ぬなんて勿体ない。なんて上の空で女子高生の顔面に嫉妬しながら、肌に色を載せていく。
 生活力が無くてもメイクは出来る。周囲からの評価は基本的に顔から。言い換えれば顔を作らなければ生きていけない社会。だからこれは必須スキル。全く面倒な世の中。
「よし」
 着替えも済ませ、適当に荷物をポシェットに詰め、声を出す。
「おまたせ」
「麻里さん計画性無さすぎですよ。あと五分でバス来ちゃいます」
「大丈夫、急いで階段下りれば間に合う」
「いつもこんなギリギリで家出てるんですね……」
 慌てて靴を履き、彼女と共に部屋を出る。昨日とは打って変わって空は青い。昨日できた水溜まりが陽を反射してキラキラと輝いている。
 部屋の鍵を閉め、廊下を歩き出す頃には薄らと汗が滲み始め、高い気温と湿度にうんざりする。
 夏はどんな天気でも不快だから嫌いだ。
「麻里さん。早く」
 階段を降り始める彼女が私に手を振る。
 そんな彼女の後を追うように、私は廊下を走った。

「今日行くところって大きいんですか?」
「まぁそこそこかな」
 空調の効いたバスの中にはちらほらと乗客がいる程度。お昼前の丁度人が少ない時間帯に当たったらしい。
「人多そうですね」
「人込み苦手?」
「得意ではないですね」
「まぁ、私もなんだけど」
 バスで駅まで行って、そこから電車で二駅の場所にある大きな商業複合施設。普通の人の感覚はわからないが、出不精の私にとっては少し遠めの買い物。帰りの電車の中で荷物を抱えるのは恥ずかしいけれど、自家用車を持っていないので仕方がない。普段は自転車とバスがあれば生活できてしまうが、こういう瞬間には車が欲しいと思わないこともない。
「それより、知り合いとかに会いそうで怖くないですか?」
「……考えてなかった」
「私はまぁ友達もそんなにいないのでいいんですけど、麻里さんは学校中に知られてますし」
「理由は知らないけど莉緒ちゃんも学校で有名なんじゃなかったの?」
「まぁ、私の知名度は悪名みたいなものなので」
 自嘲気味に笑う彼女を横目に、もう一度彼女が学校で有名な理由を考えてみる。
 悪名か。なんだろう。不登校の美少女みたいな感じだろうか。悪い人って高校生には格好良く見えちゃうものだし。
「それより麻里さんですよ。もし生徒に会っちゃったらどうするんですか? 私といるのを見られたら流石にやばくないですか」
「高校生の情報網は早いもんね」
「じゃあ、とりあえず別行動しましょうか。時間を決めて落ち合えば大丈夫だと思いますし」
「了解。二人で買い物に来てるのに少し物足りないけどね」
 バスの車窓から外を眺めるようにして会話していると、莉緒ちゃんに肩を突かれる。
 振り返るとすぐ近くに彼女の顔があって、小さく驚く。
 彼女はあの日出会った時と全く同じ格好をしている。簡素なシャツにホットパンツ。涼しげな靴。そして頭にはニット帽。
 ただのファッションかと思って言及はしなかったが、やはりこうして見ると夏には不釣り合いに思えて目立つ。夏にニットを被るのが流行っているのだろうか。流行に疎いせいで、それに意味があるのかさえも分からない。
 一昨日洗濯したときには帽子は見落としていたから、一緒に洗ってあげればよかったななんて思う。
「別行動だったら連絡手段必要じゃないですか?」
「あ、そうだね。ラインでいい?」
 私は携帯を取り出しいつもの緑の画面を開く。数人の友人と親族と職場の人間しか登録されていないここに現役の女子高生が登録されると思うとびっくりだ。
 コードを表示して彼女に渡そうとすると、彼女は気まずそうな顔をする。
「ええと、もしよければ電話番号教えてもらっていいですか……?」
「もしかしてラインやってない?」
「はい。恥ずかしながら」
「友達とかと連絡したりしないの? 女子高生ってライン必須だと思ってた」
「女子高生は、必須だと思いますよ。でも私は不登校気味なので、そんな親しい友達いないんですよ。学校で話せる人はいても学校以外で連絡を取るほどじゃないです」
 彼女と話していて勝手に、この子は友達も多いんだろうななんて感じていた。話も上手かったしこっちの考えを読み取ってくれるしで、コミュニケーション能力が高いと思っていたから、友達がいない宣言が飛んでくるとは思わなかった。
 驚きが半分。同情が半分。申し訳なさそうな顔を浮かべる彼女に番号を教えないという選択は選べず、私は彼女の携帯を受け取り、自分の番号を打ち込む。
「ありがとうございます。この携帯に登録されてる人、これで四人目です」
 感情の読めない笑顔を向けられて私も戸惑う。普段携帯を使わないお年寄りでももう少し登録されているんじゃないか。四人。私と両親と、あと誰だろう。姉妹でもいるのだろうか。
 彼女を盗み見ると私の番号を登録している途中で、そんな彼女に振る話題が見つからず咄嗟にニット帽について尋ねた。
「そういえば、その帽子さ」
 私が口を開いた瞬間、彼女は肩を跳ねさせるように驚き、ゆっくりとこっちを見る。
「この帽子が、なんです?」
 その声は雑談にはそぐわない緊張の音が混じっていた。
「いや、夏にニット帽って珍しいなって。流行ってるの?」
「あ、あぁ。そんな話ですか」
「ん?」
「いや、何でもないです。流行ってるんですかね。一応サマーニットってジャンルはあるんですけど、そんなに見ないですよね」
「暑くないの? 見るからに暑そうだなって」
「暑いですよ~。しかもこれ、多分そのサマーニットじゃないので普通に暑いです」
「じゃあ被らなくても」
「まぁ、好きってのはあるんですけどね。おしゃれは我慢とか言いますし。ただそれとは別にちょっとしたお守りみたいな感じにもなってて」
「お守り?」
「私、外出るの苦手なんですよ。だから鎧っていうか」
「メイクするみたいな感じ?」
「そうですそうです。暑いのがデメリットですけど、今更癖も治らなくて。まぁ気に入ってるんでいいんですけどね。可愛いし」
 体に染み付いた習慣は中々消えない。私だって朝はラムネがないと本当に起きられないくらいだし。だからそこまで膨らませる話でもないのかもしれない。
 人込みの中で見つけやすいし、悪いことではない。トレードマークとしても可愛い。
 バスが一時停止の後また走り出し、次の停留所が表示される。莉緒ちゃんが近くにあったボタンを押し、車内に軽い音が流れるのを聞いて次が目的の駅なことを知った。

 商業施設に着き、一旦屋根の下に入る。
 想像していた物より大きかったのか、莉緒ちゃんは施設を見上げながら息を吐く。
「結構大きいですね……」
 食料品日用品から家具家電、本屋に玩具屋。隣には映画館までついているそこそこ大きな場所。とりあえずここに来れば一人暮らしに必要な物は揃うだろう。なにせ数年前私もここで色々と買いそろえた記憶がある。
 世間は夏休み。予想通り施設の内外には多くの客で溢れていて、莉緒ちゃんの血の気が引いていくのが分かる。
「人込み大丈夫? 外苦手って言ってたけど。やっぱり一緒に回ろうか?」
「いや、何とかやります」
「本当? 私はマスクでもつければバレないと思うし、無理はしなくていいんだよ?」
「いや大丈夫です。麻里さんも買い物あると思いますし、二手に分かれた方が早いですもん。心配かけちゃってごめんなさい。とりあえず必要なもの一通り買ってきちゃいますね」
「こっちは気にしなくていいから。私は私で適当に回ってるし」
「すいません。私の為に。麻里さんも人込み苦手って言ってましたよね」
「いいのいいの。実は私もここに来るの久しぶりなんだよね。丁度買いたいものもあるし」
 仕事以外でまともに外に出ていなかったから、買わなきゃいけないものが沢山ある。とりあえずネットより安そうな物を探して、適当に買っていこう。
「集まるの何時にしましょう」
「どうしようね。お腹減ってたりする?」
「そんなにです」
「じゃあお昼は後でいいか」
「そうですね」
「とりあえず三時間後にフードコートに集合でいい?」
「了解です」
 じゃ、と手を振って小走りで店内へ走っていく彼女を見送っていると、少し離れたところで何かを思い出したようにこちらを振り向く。なんだろうと彼女を見ているとおもむろに携帯を取り出し、しばらくして私の携帯が震える。
『もしもし、麻里さーん』
「なに? 態々電話しなくてもいいじゃん。目の前にいるんだし」
『いや、電話番号間違ってないかなって。間違ってたら合流できないかもですし』
「じゃあこれで大丈夫?」
『はい!』
 明るい声が耳元で響き、彼女は遠くでまた私に背中を向ける。
 私もとりあえず店内に入る。空調が良く効いていて、浮かんだ汗が一気に冷えていく。私はとりあえずエスカレーターに乗り、携帯にメモした買い物リストを開いた。
 そういえば、彼女が私の家に転がり込んでから初めての一人の時間だ。数日前まで一人で行動するのが当たり前だったのに、会話する相手がいないことに手持無沙汰になってしまう。
 向こうは高校生。買い物くらい一人でするのが当たり前かもしれないが、秘かに心配してしまう。考えてみれば日用品から服まで買うのだから別行動にして正解だった。私だったら知らない大人に隣を歩かれながら下着を買いたくない。
「まずは本屋でも行こうかな」
 彼女が家にいる生活で本を読む時間が取れるかは分からないけど。

「お待たせしました!」
 集合時間から待つこと十五分。彼女からの着信に応答し場所を伝えてからまた数分。ちょっとの遅刻と共に息を荒げながら私の目の前に現れた莉緒ちゃんは、両手に一杯の袋を持ち、もう人込みは懲り懲りだと顔で訴えていた。
「お疲れさま」
「ごめんなさい。遅れました!」
「大丈夫大丈夫。もしかして走ってきたの?」
「はい。さすがに三十分オーバーはまずいと思いまして」
「そんなに気を使わなくていいのに。……とりあえず座ったら?」
 肩で息をする彼女に向かいの椅子に進めると、重りを外すように両手の荷物を地べたに置き、崩れるように椅子に座り込んだ。
「つかれました~」
「大丈夫?」
「正直だめです……」
 あーとかうーとか、あまり聞かない唸り声を上げながら、いつになく疲れた表情で机に突っ伏す。
「やっぱり人混み、辛かった?」
「それもそうですけど、この量の荷物を持っている人間に対しての、周りの目が怖かったです」
「あぁ……」
 両腕を枕にするようにして顔を机にくっつける彼女の声はくぐもって聞こえる。
 私からは顔が見えないのでニット帽が喋っているような。まぁ、この季節にニット帽ってだけでも注目を集めそうだし。この量の袋を持っていたら、そうなるだろう。パッと数えると袋は六つ。安めの洋服チェーン店の袋が二つ。ドラッグストアの袋が一つ。あとは雑貨の入った袋が二つに、ホームセンターの袋が一つ。
「よくこの短時間でそれだけ回れたね……」
「私、買いものは早い方なんですよ。特に服とか、そこまで悩まないので」
「色々見なくてよかったの?」
「いいんですよ。服なんて、ただの布です。何を着たってそんなに変わりません」
「そんなこと言う女子高生、見たことないよ……」
「とりあえずテンプレで平均点を取っていればいいんです。ほら、私、顔はいいですし」
「自分で言うんだ」
「謙遜する方がムカつきません?」
「それはそうかも」
「私に近寄ってくる人なんて、大抵顔しか見てないんで。服はおまけみたいなもんです」
「そんなことは無いと思うよ~?」
 私の目の前のニット帽は一切顔を上げないまま捻くれた言葉を吐き続ける。言われてみればニット帽に加えてその顔も十分に注目を引くポイントか。
「美人には美人の苦労がって言うもんね」
 私には分からないけど、と皮肉を込めて投げかけると、ニット帽はひょいと顔を上げてキョトンとした顔でこちらを見る。
「麻里さんは十分美人だと思いますよ?」
「なっ……」
「麻里さんこそ謙遜するタイプじゃないですか。周囲にやっかまれますよ?」
「私、美人なんて言われたことないよ?」
「絶対裏で言われてますって。麻里さんがそれに興味ないだけじゃないですか?」
「そんなことないって」
「なんとなくわかります。麻里さん鈍感ですもんね。男の人が近寄ってきても恋愛対象として見なさそう。そもそも他人に全く興味なさそうですし。それでなんとなく仲良くなったら、麻里さんの生活力の無さがバレて皆そっと離れていくんです。そんな感じじゃないですか?」
「……いや、それは流石に。でも、他人に興味がないってのは本当かも」
「ですよね。絶対人の顔とか覚えなさそうですもん」
 年甲斐にもなく恋バナのようなものをしてしまい、大学時代を思い出す。昔はもっと周りに合わせて恋愛のようなものをしていたっけ。長く続いた試しもないし、今では私に向いていないのだと割り切ってしまった。周囲が仕事仕事で恋愛の空気が無いのも影響しているのかも。
 それにしても、他人から褒められるのは久しぶりで、内心とても嬉しい。興味の無いふりをしながらも、さらっと言われた美人という言葉を反芻してにやけてしまいそうだった。
 だから無理やり話題を逸らしてみたり。
「服以外は何買ったの?」
 雑貨の入った袋を指差しながら聞いてみると、莉緒ちゃんは思い出すように指を折り数えながら次々と暗唱していく。
「えっと……。消耗品全般と、携帯の充電器と、タオルと……」
「そのでっかいホームセンターの袋は?」
「これですか? これは秘密です」
「隠したって帰ったらどうせ私の目に入るじゃん」
「それでも秘密なんです」
 頑なに拒むもんだから私はすぐに諦める。莉緒ちゃんは雑貨の入った買い物袋を手に取って中身をかき混ぜながら、買ったものを紹介していく。
「あーとーはー……。あ、食器も買いました。茶碗とか箸とか」
 そういえばと彼女は買い物袋の中から茶色い箱を取り出す。
「何?」
「いや、麻里さんにプレゼントをと思って」
「プレゼント?」
 莉緒ちゃんはその箱を開け、中から白い紙で包まれた物を取り出すと、丁寧に紙を開いていく。
「ご飯の茶碗です。料理するっ約束しましたけど、麻里さん茶碗を持っているかすら怪しかったのでプレゼントです。気に入るといいんですけど」
 ちなみに私のと色違いですと、もう一つの箱を取り出して笑う。
「ありがと……。びっくりした。でも流石に茶碗は持ってる」
「持ってたんですか。じゃあいりません?」
「いや、貰うよ。折角貰ったものだし。嬉しい」
 浅めの茶碗は白と水色のグラデーションになっていて、まるで夏の空の様な色だった。
 プレゼントを貰うのなんて何年ぶりだろう。そしてプレゼントを渡すのも何年ぶりだろう。
「実はさ。丁度私も莉緒ちゃんに渡したい物があって。いや、要らなかったから受け取らなくてもいいんだけど」
 私も自分の買い物袋から彼女への贈り物を取り出す。相手が気に入ってくれるかを考えるなんてそれこそ久しく感じて無かった感覚だ。
「丁度夏もの見てたらサマーニットってあってさ。今莉緒ちゃんが被ってるやつより涼しそうだし、いつも被るなら複数個あってもいいかなって」
 私が明るい灰色のニット帽を取り出すと、様子をうかがっていた彼女の顔も徐々に明るくなっていくのが分かる。
「良いんですか?」
「うん。それが気に入ってるなら無理にとは言わないけどね」
「嫌なわけないじゃないですか! ありがとうございます! 大事にしますね」
 ふわっと軽いそれを受け取ると、さっそく今被ってる帽子を机の上に放り出して、新しい物を被ってみせる。
「どうです?」
「うん。可愛い。でもタグ付いてるから、家までは今日被って来たので帰ろ」
 私の指摘でタグに気が付き恥ずかしくなったのか、顔を赤らめて帽子を取ると、大切そうに胸に抱きしめる。
「ほんとに、ありがとうございます」
「そんな大袈裟だよ……。喜んでくれて嬉しいけど」
「喜ぶに決まってるじゃないですか」
「服なんてただの布って言ってなかった?」
「プレゼントは別ですよ! 嬉しい布です!」
「なんだかなぁ……」
 ニコニコと眩しい笑顔を作る彼女はテーブルの上に並んだニット帽と茶碗を袋に仕舞う。
「どうします? 麻里さんはお腹すきました?」
「食べよっか。丁度空いてきたし」
 何食べますかと、いつもの様な会話と共に私は小さくお腹を鳴らした。

 私も莉緒ちゃんも家に帰るや否や、一日人込みに揉まれた疲労から瞼を重くしていた。夏の空はまだ明るく、寝るには早すぎる時間だったけれど、すぐにでも眠ってしまいたかった。
 毎日だらだらと同じことを繰り返し、楽しみもない毎日をただただ消化していく日々に慣れてしまった私には、刺激の強い一日だった。久しぶりだと感じるものも多くて、これもまた彼女のお陰かななんて感謝してしまう。
 私は先にシャワーを浴びてすぐにベッドに倒れこんだ。湯船に浸からないと明日の筋肉痛が酷いだろうなと考えながらも、そんな体力はもう残っていない。
 莉緒ちゃんはいつの間にか買ってきた物の整理を終えていて、私と入れ替わりでシャワーを浴びる。できた子だななんて感心しながら、私は目を瞑る。
 心地よい疲労感が上から圧し掛かり、金縛りの様に動けなくなっていく。疲労に幸福感を抱いたのはいつぶりだろう。凝り固まったものが解かれていくような感覚。
 明日は彼女と何をしようか。
 暖かな物が胸の奥にあるのを感じながら、私の体重はベッドの奥底へ吸い込まれていった。




 どうして。どうして。
 いかないで。いかないで。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 わたしが――

「――っ!」
 ベッドから飛び起きるようにして、目を覚ました。
 視界がぐるぐると渦巻いている。
 眩暈がする。吐き気がする。心臓が五月蝿い。
 朝、ではない。外は真っ暗だ。
 落ち着くために深呼吸をすると、少しだけ視界がクリアになる。
 またこの夢だ。子供の頃から呪いのように見続ける悪夢。
 脳裏にこべりつく記憶を忘れようと首を振りベッドに倒れこむ。
 もう一度寝てしまおう。そうすればきっと忘れられる。
 そうしてまた意識を手放そうとした時、不意に足音が聞こえ、体が跳ねた。
「麻里さん?」
「――っ!」
「……ごめんなさい。起こしちゃいましたか」
 小声で囁くような莉緒ちゃんの声に驚くが、すぐに冷静を取り戻す。
 家に人がいることに体はまだ慣れていないらしい。
「ううん。大丈夫。……何かあったの?」
「いいえ、トイレです」
「そう。おやすみ」
 瞼をゆっくりと閉じようとした時、視界の端に莉緒ちゃんが映った。
 夜の黒の中、月明かりに照らされる彼女の肌はあまりに白く美しい。
 そして。
 月明かりを反射して、彼女の目がギラリと光った。
 その目は、あの日のように。
 燃え盛るように力強い生の光を宿していた。
 一瞬の浮遊感と共に目を覚ました。目を開けた私は息を上げていて、天井を見ながら肩で呼吸をする。
 またあの夢だ。
 そういえば昨日の夜に一度目を覚ました。あれから眠りについてまた同じ夢を見てしまったのだろう。
 目元を押さえると私は知らぬ間に涙を流していて、それが固まって粘々と目元を覆う。溜息交じりに手を伸ばし、いつものケースを手に取って一粒口に放り込んだ。
 意識が世界に昇ってくるにつれ、部屋の中にいつもなら感じることのない何かを感じていく。フライパンが何かを焼く音。香ばしい匂い。少女の鼻歌。
 私はベッドから立ち上がりリビングへ出て、キッチンに朝の挨拶を投げる。
「おはよ。莉緒ちゃん」
「あ、おはようございます。麻里さん」
 キッチンを覗くとフライパンにはベーコンと卵が乗り、手鍋には味噌汁まで準備されている。
「すごい……。ちゃんとした朝ご飯だ」
「麻里さん、朝はご飯で大丈夫でした? 普段は食べないって言っていたのでパンにするかご飯にするかで迷ったんですけど」
「大丈夫だよ。ていうか、豪華すぎて驚いてるくらい」
「昨日色々と買い込みましたからね。初日の朝くらい張りきります」
「私には難しいかも」
「何言ってるんですか。麻里さんも朝ご飯くらい作れるようになりましょ?」
 彼女はご機嫌に会話をしながら素早く料理を創り出していく。そんな姿に申し訳なさを感じ、私も何か手伝わねばと、普段あまり触らない食器棚を開ける。
「食器、増えてる……」
「あ、昨日買っといたんですよ。どうせお皿も少ないだろうなと思って」
「気の効く子だねぇ」
「それほどでも」
 私は真新しい平皿と汁椀を取り出し、軽く水で流す。
「あ、多分もうご飯炊けてるんで、お願いしていいですか?」
「はーい」
 どっちが年上か分からない会話をしながらもう一度食器棚を覗くと、昨日莉緒ちゃんから貰った青の茶碗が目に入る。それを手に取ると上にもう一つ重なっておかれた茶碗が目に入る。これが昨日彼女の言っていた色違い。彼女の茶碗は赤。空のような模様は共通なので夕暮れにも見える。
 それらに炊き立てのご飯をよそり、リビングのローテーブルに置く。テレビとソファが向かい合っているので、その二辺ではない残りに向かい合うように置いてみた。片方がソファで片方が床に座るのもなんとなく嫌だし、二人でソファに座るものでもないだろう。
 それにこのソファはなんとなく莉緒ちゃんのベッドというイメージがついてしまった。
「お待たせしました」
「ありがと」
 莉緒ちゃんが平皿を持ってくるので、私はキッチンに味噌汁を取りに行く。
「莉緒ちゃん昨日買った箸ってどこに置いたの?」
「あ、場所分かんなかったのでまだ出してないです」
 二人分の味噌汁と自分の箸を持ってリビングに戻り床に座っていると、彼女が遅れて箸を持って向かい側に座る。
「食べましょ。麻里さん」
「ありがと。頂きます」
「いただきます」
 こんなにちゃんとした朝ご飯をこの家で食べたのは初めてだ。って、また初めてができてしまった。
「そういえば莉緒ちゃん。ソファで寝て痛くない?」
「大丈夫ですよ。もう慣れましたし」
「昨日布団とか買えばよかったね」
「いいですよそんな。まぁ、つらくなったらまたその時に買います」
 会話をしながら口に物を放り込んでいく。少し気まずくなってテレビでもつけようかとリモコンを探すと、彼女が話題を振ってくれる。
「麻里さんは今日なにか用事あります?」
「ないかな」
「じゃあ何するんですか?」
「うーん。勉強でもしようかなって」
「……勉強?」
「うん。今私、教員試験受けてるんだけどさ、一次試験の結果待ちなんだよね。二次は筆記ないんだけど落ち着かないから勉強でもしとこうかなって」
「真面目ですね」
「そうでもないよ。一次受かってたら八月の頭に二次なんだけど、そっちの対策はなーんにもしてないし」
「えっと……。そっちはやった方がいいんじゃないですか……? 面接とかですよね」
「だって今年でもう四回目だよ? もう飽きる程対策した。多分そろそろ受かるでしょ」
「麻里さんてそんなに楽観的だったんですね」
「別に受からなくてもいいかなって思ってるくらいだし」
 流れに身を任せここまで来たはいいものの、最後の難関は超える意思が無ければ乗り越えられないのかもしれない。まるで川に流される木の枝だ。最後の最後で網に引っかかって動けないままでいる。
「じゃあ今日はなんで勉強するんですか? 二次試験でも使わない、受かる気もないのに勉強する意味ないじゃないですか」
「一応私教師だよ? 継続は力なりって言うでしょ。生徒に言って自分でやらなきゃ意味ないじゃん。……それに、問題解いてると落ち着くんだよ。昔からそうなの」
 身に降りかかる不安から目を背ける為に私は取り憑かれたように勉強してきた。いや、するようになったと言った方が正しいかもしれない。そのおかげで気づけば学力は身についてしまっていて、やる気もないのに名ばかりの学歴を首からぶら下げる羽目になってしまった。
 今では学歴なんて重りでしかない。教員採用試験を突破できない名門卒なんて鼻で笑われる。
「莉緒ちゃんは?」
「え?」
「莉緒ちゃんは勉強嫌い?」
 自分の話はここまでにしておこうと莉緒ちゃんに話題を振ると、彼女はゆっくりと私から視線を逸らす。それだけである程度の事情は察する。
「夏休みの課題とかあるよね?」
 面白がってもう少し攻めてみると、今度は首ごと私から逸らそうと回し始める。
「いや、まぁ、何とかなります……よ?」
 これはあれだ。夏休みの課題をやってこないだけでなく、逃げ続けて踏み倒そうとするタイプだ。不登校ならそれがまかり通ってしまう現状も知っている。
「まぁ、私も厳しく言わないけどね。そもそもここでは教師も生徒もないって約束だし。あ、でも勉強見てあげるくらいはできるよ? これでも偏りなく全教科できる方だし」
「それは勘弁してください……」
「勉強にアレルギー出るタイプ?」
「そこまでじゃないですけど……。興味の無い教科はダメダメです。数学とか……あ」
 つい苦手教科を口に出してしまい、何かに気が付いたのか彼女は口を手で押さえる。私はその仕草に笑いを堪え切れず吹き出す。
「莉緒ちゃん。私の担当科目知ってる?」
 ニヤニヤしながら質問を投げかけると、彼女はまた目を逸らした。
「あー。大丈夫です。それ以上は何も言わないでください」
「実は二次試験で実技試験があって、模擬授業とかあるんだけど……」
「ごちそうさまです!」
 彼女を揶揄うことに面白さを見出してしまって、つい調子に乗る。莉緒ちゃんは自分の食器を持ってそそくさとキッチンへ逃げていく。流石にここらへんで引いておこう。私だって嫌いなものに誘われ続けたらその人も一緒に嫌いになってしまう。例えばクラブとか? 私とは正反対の人間がいるような場所。そもそも私をそんな場所に誘う知り合いなんていないけど。
「ごちそうさまでした」
 残っていたベーコンと白米を口に詰め、手を合わせる。キッチンからは「お粗末様です」と小動物が鳴いた。



 朝ご飯を終え、お互い食後の休憩をした後、何もない一日が始まる。
 私はテキストを開いていつも通り黙々と勉強を続け、莉緒ちゃんは暇だと文句を言いつつ部屋の掃除をし、洗濯を回し、ある程度の家事を終えてしまった後、昨日私が買った小説を捲っていた。
 その時間に音を上げたのは勿論莉緒ちゃん。考えようによっては最初から音を上げていたように思えなくもないが、時計が正午を過ぎ暫く経つ頃には、お昼ご飯を食べに行こうと口を開いていた。
 昨日買った食材はまだ大量に冷蔵庫に詰まっていて、外に出る必要はない。しかし彼女は太陽光を浴びないと光合成を行えないと言わんばかりに、外に出たがる。
 実際私も勉強をする必要性はなく、単なるリラックス法でテキストを捲っていただけだったので彼女の要望に応え、今はこうして近所の公園を散歩している。
「麻里さん、用事が無ければ本当に外に出なさそうですね」
「インドア人間だからね」
「引き籠りはインドアとは違いますよ?」
「仕事ある時は外に出てるから私は引き籠りとも違います」
 散歩しているのは比較的大きな地方公園で、夏休みともあって子連れが多く見受けられる。徒歩圏内にこんな良い場所があるというのにまともに中を歩いたのは初めてだった。
 蝉の声が充満する中、私達は青々とした木で生い茂る道をゆっくりと雑談しながら歩く。
「木漏れ日が綺麗ですね」
「そんなロマンチックな言葉、良く口から出てくるね」
「ロマンチックですか?」
「私は夏の木を見たら、虫が出るから嫌だなとしか思えない」
「それはそれで問題じゃないですか?」
 舗装された遊歩道の両側に一定間隔で並ぶ木には「ケヤキ」とプレートが掛かっている。名前くらいは知っている木だけど、興味がないせいでそれから何も連想できない。
「カブトムシとかいるのかな?」
「カブトムシ好きなんですか?」
「嫌いだけど」
「でしょうね。……でも多分、ここにはカブトムシもいないんで安心してください」
「なんで?」
「記憶が正しかったらケヤキに虫は来ませんよ。樹液とか出ないんじゃなかったでしたっけ。クヌギとかコナラじゃないですか、虫が来るの」
 莉緒ちゃんは、曖昧ですけどと言いながらも知識を披露して自慢げな表情を見せる。
「詳しいんだね。虫好きなの?」
「いや、どっちかっていうと植物ですかね。ただの勉強は嫌いですけど、興味がある物は良く調べるので」
「学校の勉強するより、そっちの方が断然いいよ」
「先生がそんなこと言っていいんですか?」
「学校の勉強ができたって、幸せになれるとも限らないしねぇ。……逆も言えるけど」
「なんか、麻里さんって他の先生と違いますね」
「そう?」
「なんか変な感じです」
 悪い意味には聞こえないその評価を受け取りながら、私は足を進める。
 他の先生と違う、か。理由の一つは思い当たるけれど、別に口に出すような事でもない。
「だから麻里さんには特別に、ほんの少しだけ話しちゃいます」

「なにを?」

「雑談ですよ。なんの手掛かりにもならない、ちょっとした話です。私さっき植物について調べたって言ったじゃないですか。それ、なんで調べてたかって言うと、自分が死んだときにどんな植物を植えようかって考えてたんです」

「――っ」

 突然の話題に私は驚き、一歩分だけ足を止めてしまう。慌ててまた歩き出すと、彼女を追うような形になり、表情が見えなくなった。

「樹木葬って知ってます? お墓の石の代わりに木の苗木を植えるんですよ。その木は私の骨から栄養分を吸って成長してくれるんです。なんだかこれこそロマンチックじゃないですか?」

 目の前の少女と過ごしてもう五日目になる。初日こそ彼女の荒々しい命の輝きに目を眩ませたが、それからの数日、私の目には彼女はただの女の子に見えていたのだ。生死などとは一切関係なく、ひょんなことで笑う、胸に何かを抱えた女の子。そんな風に考えが動いていた。

 彼女があまりにも可愛く笑うものだから、彼女の自殺未遂など頭の隅に追いやっていたのかもしれない。しかし、こうして彼女の口から死の話が語られることで、あの出会いが夢でなかったことを改めて思い知らされる。

「だから自分の死に相応しい木を探してたんですよ。どうせなら好きな木がいいなって。どうです? 麻里さんならどんな木にしますか?」

「私は……。そんなこと考えたことも無かったよ」

「まぁ、そうですよね。変なこと聞いちゃいました」

 ごめんなさいと謝ると、くるりと振り返る。後ずさりするように私の進行方向に進む彼女の表情は読めない。

「何でもない雑談でした。そんな顔しないで下さいよ。私から命の話が出ることがそんなに嫌でしたか?」

「……なんでそんなに笑って話せるの?」

「簡単ですよ。よく考えて、飲み込んだからです」

 彼女は儚げに微笑んで、遊歩道を外れる。そして土の上を小走りに移動すると、一番近くにあった木に手を当てて、目を瞑る。
「いつでも考えているんです。あの木の下に眠ってみたらどうだろう、とか。あの木は首を吊るのに適していないな、とか。そうやって考えているから、こうやって落ち着いていられるんです。それだけですよ」
 脳裏に彼女が公園の木で首を吊る映像が浮かび、吐き気を催して必死に振り払う。瞬時に全身の汗が冷たくなった。
「前も言いましたよね。死ぬことを考えている時が、一番生きてるって感じるんです。だから私はこうして外を歩いて、視界に入ったものについて色々考えるんです。やっぱり、思考を巡らせるのは楽しい、それこそ生きてるって感じ――」
「……やめて」
 私は思わず彼女の言葉を遮る。彼女を否定してはいけないと分かっていたのに、どうしても耐え切れなかった。
「……ごめんなさい。でも別にいつでも死ぬことを考えてる訳じゃないですよ? 言い方が悪かったですね」
 彼女は目を開けてこちらに弁解する。
「例えば、何でしょう。この木目の木は始めて見たな。なんていう木だろうとか。今日の空は雨が降るかもしれないなとか。外って色々と情報が溢れてるじゃないですか。そういうのに触れるのって、生き生きしません? 日の光を浴びると動物は生を実感するって話もありますし」
 彼女は私に歩み寄ると、私の顔を下から見上げる。木漏れ日が彼女の姿をキラキラと輝かせていた。
「ごめんなさい。私、人に物事を伝えるのが下手で。何が言いたいかって結局は、麻里さんを外に連れ出したかったんです」
「……え?」
「だって今日の麻里さん、すごく沈んだ顔してましたよ? 出会った時と同じ顔をしてました。採用試験の結果が気になってナイーブになるのも分かりますけど、そんな顔してちゃ勿体ないです」
「……そんな顔してた?」
「はい。感情の無いロボットみたいな顔で勉強してました」
「そっか……」
 私はこの少女に心配をかけていたのか。死の淵を歩く少女にそう思わせてしまうなんて。やっぱり私はこの少女が相手だと上手く立ち回れない。
 それと、勉強をしている私はそんなに思い詰めた顔をしていたのか。
「ありがと」
「麻里さん。時間が大丈夫なら明日から毎日ちゃんと外に出ましょう? それだけで結構変わりますよ。仕事がないからって引き籠っちゃだめです」
 どんどんと私の生活が矯正されていく。だがそれも彼女が隣にいると思うとさほど悪くない。
 死にたがりの少女に手を取ってもらって、生き生きとした生活を目指すなんて奇妙な話だ。それこそやはり彼女が自殺をしようとしていた光景を嘘だと思いたくなってしまう。
「わかった……。明日から毎日ここで散歩しようか」
「はい!」
 帰りましょうかと彼女は私の手を引く。部屋に帰ったら勉強は辞めて彼女に家事でも教わろう。
「あ、麻里さん、さっきの話で一つ誤解しないでおいてほしいことがあります」
「なに?」
「私、首吊りは嫌なんで安心してください。苦しいし綺麗じゃないですし。死ぬときはもっと綺麗に死にますから」
 今日の夕飯のメニューを話題に出すようにするすると彼女の口から悍ましい単語が飛び出し、私はまた現実を見る。彼女に握られた手は熱いはずなのに、それがどんどんと冷たくなっていくように感じた。
 私はもう一度そこで明確に、目の前の少女に恐怖を抱いた。







 夜、また夢を見た。
 何度も何度も繰り返し見る夢だ。
 私の目の前で――――――。
「待っ――」
 跳ねるように目を覚ます。
 周囲を見回すとそこはいつもの部屋。大丈夫。私はもう大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
 深く深呼吸していると、キッチンの方から声が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
「……莉緒ちゃん?」
「ちょっと、眠れなくて」
「暑いもんね。エアコンつけよっか」
「はい」
 カチャカチャと莉緒ちゃんの方から何かを弄る音が聞こえる。コップ? いや違うな、もっと小さい物だ。ベッドからはキッチンが見えず何をしているのかまでは分からない。
「水でも飲もうかな」
 わざとらしく言葉にして立ち上がると、莉緒ちゃんは物音を大きくする。
 数歩歩いて視界に入る莉緒ちゃんは私と目を合わそうとしない。顔を逸らすように下を向く彼女の首筋は汗で濡れていた。
「汗、タオルで拭いた方がいいよ。エアコンつけたら風邪ひいちゃう」
「はい。そうします」
 私の隣を小走りで走り去る彼女の手には何かが握られていたが、暗がりでは良く見えなかった。
 私はガラスコップで水を飲み、それを軽く流して逆さに置く。
 リビングでエアコンのリモコンを見つけスイッチを入れると、機械音の後に冷たい風が流れ始めた。
「莉緒ちゃん大丈夫? 眠れない?」
 ソファに座る彼女は何故か息が上がっている。私にバレまいとしているのか、呼吸音は抑えているものの、肩がゆっくりと上下していた。
「いえ。何でもないんです。麻里さんこそ大丈夫ですか? うなされてましたよ」
「私はいつもあんな感じだから」
 ベッドに戻り体を投げ出す。蹴り飛ばしてしまったであろう薄いタオルケットを探してお腹に掛け、ソファに再び目線を向ける。
「おやすみ。莉緒ちゃん」
「おやすみなさい」
 ひょっこりソファの背から顔をこちらに出す彼女は、やはり鋭い目をしていた。
『長瀬麻里さんのお電話で宜しいでしょうか』
 朝、携帯が震え慌てて耳にあてると、スピーカーの向こうから堅苦しい畏まった言葉が聞こえる。私は慌てて綺麗な声を作ると、莉緒ちゃんが気を利かせて紙とペンを持ってきてくれる。
「はい。はい。大丈夫です。ありがとうございます」
 喉を緊張させながら音を捻り出し、何とか電話を終える。社会人になっても電話には慣れない。
 大きく息を吐くと、近くに莉緒ちゃんが寄ってくる。
「なんの電話だったんですか?」
「一次試験の結果」
 彼女は興味があると言わんばかりに目を開くが、すぐに顔を引き締める。駄目だった時の事を考えてしまったのだろう。
「大丈夫。受かってた」
「――!」
 表情に花が咲く。
「本番はこれからだからそんなに喜べないんだけどね」
「それでも通ったんだからもっと喜びましょうよ!」
「ペーパーテストには自信あるんだよ。でも面接とか討論とか、あと模擬授業とか、別の難関がね」
 私が自虐気味に笑うと、莉緒ちゃんは断腸の思いをする様な苦しい顔をしながら言葉を出す。
「……私で、練習します……?」
 その顔があまりにも面白くて私は吹き出す。
「そんな嫌がってる人に模擬授業とかできないでしょ」
「あ、じゃあ討論だったら強いですよ!」
「莉緒ちゃん、討論は本当に強そうだから心折れそう」
「じゃあ面接は?」
「莉緒ちゃん相手じゃ笑っちゃうよ」
「麻里さんが頑なに対策したくないのは分かりました……」
「わかった?」
「そんなんじゃ二次試験おちちゃいますよ……」
「その時はその時」
「今、息子が働かない親の気持ちが分かった気がします」
「私はちゃんと働いてるから」
 彼女につかれる溜息はこれで何回目だろうか。どんどんと私の素の部分が出ているという事は、彼女相手に私が心を開いているという事だろうか。彼女の心を開かなければならないのに私が開いてどうするんだ。
「じゃあ、とりあえずお祝いという事で、夜は少し豪華な物作りますか?」
「それは嬉しいな」
「何言ってるんですか。麻里さんも作るんですよ」
「じゃあ簡単なのでいいや」
「私が教えますから」
 なんでもない会話をする彼女はやはりただの女の子で、また私はあの出会いの日が夢だったらよかったのにと思ってしまう。

「そういえば、莉緒ちゃん、実家に連絡入れた?」
 私の家に泊める代わりに実家にはきちんと報告を入れる。そういう約束をした。
「しましたよ。行方不明で捜索願い出されても困りますし」
「何も言われなかったの?」
「はい。なにも」
 一か月家を空けると報告され何も言わない親がいるとは思えない。正直彼女の親に僅かな期待を抱いていた節もある。何かしらのアクションを起こしてくれさえすれば、良くも悪くも事態が動くと思っていたのに。
 これは彼女の親にもなにか問題があるのかもしれない。
「厳しい親御さんって訳じゃないんだ」
「まぁ、ある意味放任主義って言うんですかね。もしかして、厳しい人だと思ってたんですか? だから私が逃げてきたって」
「それもあるかなって」
「親は私に優しいって最初に言ったじゃないですか。あれは本当ですよ。ちゃんと大切にされてます」
「放任主義は大切にされてるとは思えないけど?」
「私がそれを望んだので。そうしてくれてるだけです。過度な干渉が愛情って訳でもないじゃないですか」
 過度な干渉。私の記憶にもあるそれを思い出すが、彼女の言う通り決して純粋な愛情と言っていいものではなかった。
「そうだね」
「学校に親が乗り込んでくるパターンってあるじゃないですか」
「いわゆるモンぺとか?」
「そうです。あれって子供の為に怒ってるんじゃないと思うんですよね。なんとなくニュースを見てて思いました」
「現場の意見としても、同意」
 いかに上手くいっている学級でも文句の電話や直接的な抗議が無い訳ではない。私だって自分の抱える学年に数人の危険分子は認知しているし、たまにヒヤヒヤさせられることもある。
「ああいう人達って、きっと自分の為に怒ってるんだと思います。誰だって自分の所有物を害されたら怒りますもん」
「所有物……。何割かはちゃんとした意見を持ってくる人もいるけどね」
「でも、身に覚えはあると」
「実際いるから。私の子供にって怒る人。それに……」
 過干渉の親についての話題が深まるにつれて、昔の記憶が浮上してくる。ドロドロとした重い感情が胃の底に溜まっていく感覚があった。
「昔、友達にいたんだ。親に拘束されてる子」
「その子は幸せでしたか?」
 勉強机に縛り付けられる人間の姿が頭に浮かんで、吐き気を催す。
「絶対に幸せじゃなかった」
「極端な話をしたい訳じゃないですけど、そういう事です。干渉することが必ずしも幸せになるとは思えません」
「飛躍しすぎだよ」
「そうですね。すいません。でも、私は今これで十分なので」
 彼女は幸せとは言わない。
「多感な時期なんですよ。なんてったって、花の女子高生ですから」
 生と死の狭間で一人孤独に咲く花は、諦めるような笑いを浮かべた。
 意識が浮上して、ラムネを口に放り、手首に時計をつける。
 ルーティンの中で意識を覚醒させ、最後に彼女におはようを告げる。
「莉緒ちゃん。おはよ」
「おはようございます。ちょっとずつ起きる時間が早くなってきてますね」
「寝るのも早いからね。莉緒ちゃんと生活してると嫌でもリズムが整うから」
 毎日三食に軽い運動。人と会話も行い、早めに寝る。なんて理想的な生活。
 昨日からは朝に散歩まで行うようになった。公園を歩くと夏休みの子供たちがラジオ体操を行っていて、私は自分が子供たちと同じ時間に起床していることに驚く。
 ちょっと前まで休日は午前中に起きれば良い方だった私にとって、これは劇的な進歩だった。
 ふと気になって壁にかかったカレンダーを見る。今日の日付の右上には終業式を祝わんばかりに大きく赤のマジックで丸が書かれている。彼女と出会って七日目の朝だった。
「あぁ、丁度一週間なんだ……」
「早いですね」
「もう慣れた?」
「はい。実はもう結構前から慣れていました」
「そうだったね」
 彼女と出会って一週間。仲は確実に良くなったけれど、根本的な問題を何一つ解決していない。私と仲良くなったから彼女は自殺を辞める? そんな筈はない。このままでは彼女は私の部屋を出ていくと同時に命を捨ててしまう。そう考えることが強くなってしまったことだけが、この一週間で得られた進歩だった。
 タイムリミットは一か月を切った。始業式が八月の二十六日だから今日を含めて残り丁度三十日。それまでに彼女の抱えている物を少しでも知り、問題を解決しなければならない。
 詮索をしてはいけないと決めてしまったから、なるべく慎重に。
 依然として私に出来ることは、彼女と会話をすることだけ。
「とりあえず、散歩行こっか」
「はい。すぐに準備しますね」
 夏は本番。空は青く高い。
 蝉時雨と入道雲の下、私達は生活をする。


「麻里さんの部屋は窓を開けるだけで風が通るので涼しいですね」
「六階だからね。風が強すぎて外で洗濯物干せないけど」
「そのための乾燥機じゃないですか」
「でも布団とかは外干ししたいじゃん?」
「まぁ、それはそうですね」
 散歩を終えシャワーを浴びた私達は、窓から入り込む風に涼みながら何もしない時間を満喫していた。
「ずっと気になってたんですけど」
「ん?」
「麻里さんて部屋の中でもずっと腕時計つけてますよね」
「……あぁ、これ?」
「邪魔じゃないですか? 私、腕時計苦手で。締め付けられてる感じがして落ち着かないんですよ」
 私は返答を少し考える。身に着けるのが普通になっていて不便さなど感じたことが無かった。
「私は逆……かな。この締め付けがないと落ち着かないというか。何か手首に圧迫感がないと駄目なんだ」
「じゃあリストバンドとかの方が室内だと楽じゃないです? あとは、シュシュとか。女子高生が良くやってたじゃないですか。最近はあまり見ないですけど」
「私にシュシュが似合うと思う?」
「似合いませんね……」
 私がシュシュをつける姿を想像したのか、沈黙の後に彼女は笑いだす。
「そもそもあれはなんで手首にシュシュをつけてるの?」
「オシャレなんじゃないですか?」
「実用性無いじゃん」
「私が言える立場じゃないですけど、オシャレに実用性求めちゃ駄目じゃないですか? そういう事言っちゃうのが麻里さんって感じはしますけど」
「そう? あ、でも髪が邪魔になった時にすぐ纏められるのは便利かも」
「あとはリストカット痕を隠したり?」
「……これからそういう風に見ちゃうじゃん」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 悪びれる様子もなくぺこぺこと儀式的に頭を下げる莉緒ちゃんに目を向けつつ、私は机の上の麦茶を手に取り、会話に区切りを入れる。
「麻里さん。そう言えばなんですけど、髪長いのってどうですか? 邪魔じゃないですか?」
「え? 髪?」
「はい。私、髪の毛を伸ばしたことが無くて」
「ずっと短いの?」
「肩より下に伸びたことは一度もないですね」
「伸ばしたいの?」
「……分かりません。これで慣れちゃった自分がいるので、今更伸ばしても違和感が出るかも」
「私はそこまで髪の毛に気を使ってないけど、大きくなってからはあまり短くしてないかも」
「なんでですか? 麻里さんなら邪魔だって言ってすぐに切りそうなのに」
「なんでだろ。それこそ小学生の頃は邪魔で短かくしてたけどね。理由かぁ……」
 いつから私は髪を伸ばし始めたんだろう。中学の卒業アルバムは短かった気がする。高校のアルバムは……そうだ。あの時にはもう伸ばし始めていたっけ。じゃあ、その間か。
 記憶の断片が次々集まってくる。パズルのピースが揃うにつれて、鮮明に声が聞こえてくる。
 あぁ、そうだ。思い出した。あの言葉が始まりだった。
『まーちゃんは絶対に髪を伸ばした方が似合うよ』
 目の前には私に笑顔を向ける人がいて……。
「――っ」
 ……思い出してしまった。
『だって、まーちゃんは、綺麗な――』
 脳内に響いた声に体が跳ねる。まるで夜道で驚かされた時のように、動悸が激しくなり、口から出る息が感じられる。
「……大丈夫ですか?」
「あ、うん。……大丈夫。ちょっと昔の事を思い出しちゃって」
 こんなにすぐに思い出してしまう物なのか。これまで故意的に目を逸らしてきた記憶。見ないうちに風化していると思っていた記憶は久しぶりに振り返ってみても、まだ綺麗なままそこにあった。
「どうして思い出してそんな反応になるんですか?」
「……ちょっとね」
「良くない思い出とか?」
「ううん。ただ昔、私は髪が長い方が似合うって言われたんだよ。それから伸ばし始めたんだと思う」
「青春じゃないですか。彼氏ですか?」
「違うって」
「えぇ、でもそれ絶対、男の人じゃないですか。あれですか、片思いしてた部活の先輩とか、そんな甘酸っぱい話ですか?」
 違う。そんなんじゃない。
 あれはもっと。
「……違う、かな」
 なんとか否定の言葉だけを口に出す。年相応にはしゃぐ彼女はそれ以上何も言及してこない。私の顔を見て話題から足を引いてくれたのだろうか。それならば正直ありがたい。
「でも、その人はいいことを言いますね」
「なにが?」
「だって、麻里さん、髪長い方が似合ってますもん。短くてもかっこいいですけど、髪が長いかっこよさの方が麻里さんには合ってます」
 言葉にされるとやっぱり照れてしまう。それにしても髪の長い格好良さとはどんなものだろう。仕事を熟すキャリアウーマンの様な姿を思い描くが、私とは似ても似つかない。
 連想をしながら彼女を見ていると、またその口から誉め言葉が飛んでくる。
 しかし、その言葉に私は目を見開くことしかできなかった。
「それに麻里さん。綺麗な黒髪してますもん」
 あぁ、あの時と同じだ。あの人と同じだ。
 どうしてだろう。彼女と一緒にいると、こんなにも記憶を掘り起こしてしまう。
 それがどうしようもなく、胸を抉った。




 

 まただ。
 またこの夢だ。
 ここ数日、この夢を見続けている気がする。
 それは彼女があの頃の――に似ているからだろうか。それとも――に似ているからだろうか。
 いいや。似てはないか。
 だって莉緒ちゃんは。
 
 私は何かを聞いている。
 手にはお下がりの参考書。
 勉強しなきゃと私が私に言う。
「勉強は嫌い」
 でもやらなきゃ。
「どうしてやらなきゃならいの」
 そうしなきゃ、浮かばれない。
 前を向くとあの人が笑っている。
 手を伸ばすけど届かない。
「どうして」
 伸ばした手が霞むのは涙か夢の終わりなのか。
「どうして」
 視界は真白になり、嫌な匂いだけが鼻に残った。
 
 また、この夢……。
 そっと目を開けると、暗い天井が映る。
 ここ数日はこの夢を見る機会が増えた。
 前までは月に何度か見る程度だったのにな。
 仕事が休みになって空白の時間が増えたからかもしれない。
 空白を餌に過去の記憶は脳内で膨らんでいく。
 そして記憶は私をあの時間に引き戻そうとする。
 これだったら仕事があった方がよかった。忙しさにすべてを忘れることができれば心が穏やかなままだった。
 ふと耳に何かが聞こえる。
 風の音?
 いや、これは息の音?
 ハァ ハァ ハァ
 私の呼吸?
 いや、違う。私の呼吸は小さく別の音を出している。
 じゃあ、これは何の音?
 断続的な息の音が聞こえる。
 それはまるで喘息患者のようだった。
「莉緒ちゃん……?」
「――っ!」
 返ってきたのは短い悲鳴のような息と、何か金属のようなものが落ちる甲高い音。
 音はキッチンから聞こえた。だから彼女の姿は私から見えない。
 ただ、耳に入る息の音から彼女が通常な状態でないことは容易に察する事が出来た。
「……大丈夫?」
 私はベッドから降り、足を進める。
 喘息の対処は教師ならある程度は知っている。もし喘息じゃないなら救急車? でもどうやって私達の関係性を説明する?
 脳内はパンク気味に加速する。
「来ないで!」
 もう一歩を踏み出そうとした瞬間、彼女の鋭い声に体が硬直する。
「今は駄目。……駄目です」
 私はまるで、だるまさんが転んだをしている時のように足を軽く浮かせたまま固まる。
「大丈夫ですから。こっちに来ないでください……」
 彼女の息はやはり上がっていて、大丈夫だからと言われてすぐに引き下がれる物ではなかった。
 私は浮かせていた足をゆっくり前に下ろし、体を少しだけ前に傾ける。
 そうして。
 彼女と目が合った。
「――っ」
 私と合った目が大きく見開かれた。月光でほんのりと照らされる彼女の額には汗が光る。
 そして目にはあの日と同じ色が映っていた。
 それは命を燃やすように激しくぎらついた眼。
 私はあの時のように冷や汗をかきながら、その目に吸い込まれていた。
「大丈夫なので。心配しないでください。ちょっと……。気分が悪くなっただけです」
 キッチンに両手をつきながら、肩で息をする。見上げた顔からは、切羽詰まった何かを感じた。
「……今、何をしてたの?」
「関係ないです」
「教えて。だって……今」
 私の言葉にピクリと体が動く。その時、彼女の手の中で何かが光った。
「大丈夫です。麻里さんの考えてることじゃないと思います」
 彼女は息を整えながら片手をそっと上げ、私に見せる。
「ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?」
「――」
「大丈夫です。本当に。だからもう寝ましょう」
 動けない私を見ながら彼女はコップに水を汲み、それを飲み干す。大きな深呼吸をしてもう一度こちらを見る彼女の目は普段の少女の目になっていた。
「おやすみなさい。麻里さん」
 私の意識はそこで途切れた。
 雨が降っていた。
 静かな朝だった。
 本当に、静かな朝だった。

 目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
 こんな日に見る天井は特別に暗い。。
 私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックのケースを手に取る。
 あれ、いつもの音がしない。
 私は軽いケースの蓋を開け、口の上でひっくり返す。そこでようやく、このケースの中に何も入っていないことに気が付いた。
「……空じゃん」
 ここ数年、この行動がルーティンと化してしまってからは一度も切らしたことが無かったのに。こんな陰鬱な朝にそれが初めて起こるなんてついてない。どうして昨日買っておかなかったんだろう。もう今はそんな疑問も睡魔に飲まれる。
 あぁ、二度寝なんて久しぶりだ。
 ここ一週間。同居人がそれを許してくれなかった。
 今日は彼女の声もしないし、キッチンから香ばしい匂いも漂ってこない……。
「……莉緒ちゃん?」
 ふと、目を瞑りながら彼女の名前を呼んでみる。
 返事はない。まだ寝ているのだろうか。彼女も熟睡できているならそれはそれでいいことだ。ここ最近、あまり上手く眠れてないようだったし。
 再び意識を手放そうとすると、フラッシュバックするようにとある光景が浮かぶ。
『ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?』
「――っ!」
 あれは、夢?
 昨日はいつもの悪い夢に目を覚まして。そしたら彼女がキッチンにいて。
 一瞬で全身に寒気が走った。
 慌ててベッドから飛び降り、ソファーを覗く。
 そこに藍原莉緒はいなかった。
「莉緒……ちゃん?」
 首を回すが彼女の姿は視界に映らない。廊下に飛び出して風呂とトイレの扉を開く。電気は消えたままで人影はない。
「どこ行ったの……」
 そんなに広い部屋じゃない。彼女がこの部屋にいないことはすぐに分かった。だから余計に不安に駆られ、正常な思考ができなくなる。
「莉緒ちゃん?」
 もう一度、声を上げてみる。
「莉緒ちゃん?」
 頭は真白だ。
 焦っているのが分かる。
 焦っている。
 焦る。
 どこへ行った?
 もしかして。
「――っ」
 慌ててベランダに出ようとするが、そこにはきちんと鍵が閉まっていて胸をなでおろす。
 それなのに何故か鍵を開けて私はベランダに出てみる。
 人影はない。
 風に煽られた雨水が私を濡らす。風は勢いが強く、壁面はおろかガラス戸にも雨粒を叩きつけている。開けたままの扉を通り越し、ビチャビチャと音を立てて室内のフローリングにも水が飛び散った。
「莉緒……」
 静かな朝だった。
 空は灰色。雨音はもう聞こえていない。
 なぜ視界に色がないんだろう。まるで古い映画を見ているようだ。
 なぜ私の息の音しか聞こえないんだろう。これは夢の中なのか。
「どうして」
 チカチカと視界が揺れる。
 私の部屋が捻じれていく。
 ここは。あたしの部屋?
 私は部屋の真ん中で膝をつく。
 ここはどこ? 
 数年間過ごした部屋の筈なのに、ここが自分の部屋だという確証が持てない。
 こんな物、買ったっけ?
 ここにはある筈の無い物が私の部屋に重なって見える。
 ここはどこ?
 あたしはいつから地元に帰った?
 ここは、あたしが高校生の頃に通っていたあの部屋。
 ……違う。
 ここは私が社会人になってから借りた部屋。
 外を見る。
 そこにはもう雨空はない。
 明るい光が部屋にさし込む。
 床に飛び散った筈の雨粒はどこにも見えない。
 あたしの視界には綺麗な朝焼けが広がっていた。
 あたしはこの朝焼けを知っている。
『まーちゃん』
「――っ!」
 声が聞こえた。
 懐かしい声。
『まーちゃん――――』
 辺りを見回す。
 声の主はどこにもいない。
「どこ?」
『――――』
「どこにいるの?」
『――――』
 再び空を見上げると鉛色の空。
 景色が白く煙るほど強い雨が降っている。
 違う。あの日はこんな雨の朝じゃなかった。
 あたしが知っているのはもっと綺麗な朝。
 藍色に染まった美しい空。
「行かないで……」
 あたしは虚空に手を伸ばす。
 そこには何もない?
 本物が何かも分からない。
 周囲を見回す。
 周囲を見回す。
 周囲を見回す。
 本棚。机。ソファ。ぬいぐるみ。
 あれ、ぬいぐるみなんていつ買ったっけ。
 茶色いクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、それはホログラムのようにあたしの腕をすり抜け、消えていく。
 その代わりにあたしの手に触れたのは、あたしの部屋に転がり込んできた少女の荷物だった。
「……莉緒」
 瞬間、激しい雨音が鼓膜を揺らした。
 その衝撃に平手打ちされたかのようにあたしは目を覚ます。
 視界に広がるのは紛れもなく今のあたしの部屋。
 今いなくなったのは、藍原莉緒。
 莉緒。
 どこに行ったの。
 莉緒。
 消えないで。
 莉緒。
 おいていかないで。
 あたしは座り込んだ状態から、慌てて立ち上がり走り出す。
 足を何かにぶつけ、鈍い音がしたが痛覚は働いていなかった。
 ドアの鍵は開いていて、ドアノブに手を掛けるとすんなり外側に開く。
 あたしは靴も履かず、寝間着のまま外に飛び出した。
 行かないで。
 行かないで。
 置いて行かないで。
 夏なのに肌寒い。
 そんな朝がやはりあの日を思い出させる。
 ラムネは食べていない。
 手首に巻いた重さもない。
 ここ数年必ず続けてきたルーティンが無いあたしは、あの日のあたしと同じだった。
 歩幅が変わっていることに違和感を覚た時、あたしの足は縺れコンクリートに体を打ち付けていた。
 おかしい。あたしの身体ってこんなに大きかったっけ。数ミリの身体の違いが気持ち悪い。まるで一回り大きな自分の皮を被っているみたいだ。
 体を起こそうと地面に手をつき、顔を上げる。急に視界の半分が黒く染まり、あたしは悲鳴を上げる。
 髪……。あぁ、髪か。そういえば伸ばしていたっけ。
 あたしはふらふらと立ち上がり、階段を目指す。
 一人にしないで。
 あたしを一人にしないで。
 前に進むことだけを考え、階段を見る。
 見下ろした先の踊り場。六階と五階の狭間に、莉緒はいた。
「あ、麻里さ――っ」
「莉緒!」
 あたしは転がるように階段を駆け下り、彼女の腕を掴み思いっきり引き寄せると、肩を命一杯に抱きしめる。
 彼女の手から何かの袋が落ち、グシャと歪な音が鳴った。
「何――?! ちょっ、麻里さん?」
「駄目。駄目……。駄目だから」
 彼女の体を下方向に引き、膝を付かせる。そんな彼女をあたしは上から抱きしめる。
 これで、飛び降りたりしない。
 手すりにすら手は届かせない。
「行かないで……」
「は?」
「置いて行かないで。……ずっと。ここにいて」
 莉緒はあたしの手を振り払おうと身を捩る。逃がしたりなんてしない。ここで手を離したらあたしは一生後悔する。
「――――――――」
 莉緒が何かを言っている。あたしの耳元で何かを言っている。
 だがすべては雨音に掻き消されて、消えていく。
 もう、何も言わないで。
 全て受け入れるから。
 あなたの悩みを分かってあげられるから。
 一緒に考えていけるから。
 だってあたしはこんなに大人になった。
 大人になったんだよ。
 強く強く抱きしめると、次第に音も光も、頭の中の声さえも消えてなくなった。



「……ん」
 目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
 こんな日に見る天井は特別に暗く感じる。
 私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックの……って、少し前に同じ行動を取った気がする。
 頭を横に倒すと額から白い何かが転がり落ちた。
「あ、麻里さん。起きました?」
「……私」
 意識が朦朧とする。視界もゆらゆらと揺れている。
「麻里さんすごい熱ですよ。今おかゆ作ってるんでそれ食べて寝た方がいいです」
「え……」
 言われてみれば目頭が熱い。顔に手を当ててみると夏のアスファルトの様だった。
 身じろぐと脛に鈍い痛みが走る。
 どこかでぶつけた? いつ?
 悪い夢を見た気がする。彼女が部屋からいなくなって必死に探す夢。
 とても嫌な夢だった。いつもの悪夢と混ざったモノクロで残酷な夢。あの夢の結末はどうなったんだっけ。
 キッチンから何かが沸騰する音と、ほんのり甘い匂いが漂う。
 目を瞑ってその幸せを胸いっぱいに吸い込むと意識はするりと抜け落ちた。





 
『君、ここを辞めるの?』
『……誰ですか?』
『別に誰だっていいじゃない。僕は君が辞める訳を知りたいんだ』
『なんで他人に喋らなきゃ……』
『だって君、中三だよね。この時期に辞めるなんて変だなって』
『なんであたしの学年……気持ち悪』
『酷いなぁ』
 ヘラヘラと笑う男はあたしの隣に立つ。
 数年通っていた塾の廊下は初めて来たときよりも狭く感じた。
 塾を辞める手続きの為に廊下で待たされて数分。隣に立った知らない男に声を掛けられて数秒。あたしは隣の男から逃げるわけにもいかず、二メートル程隣から向けられる視線を無視し続ける。
 こんなやつ、同級生にいたっけ。見たことないな。新人かな。
『あ、僕? 僕は高一だから君は僕の顔を知らないかも』
 なにそれ、気持ち悪い。あたしのことを一方的に知ってるってこと?
 ちらりと視線を向けて声の主を見る。身長はあたしより十センチ大きいくらい。体は細く、なよっとした印象。真面目な髪型もその印象に拍車を掛けていた。
『君、僕と同じ目をしてるから気になってたんだ。受験前にそんな目をしてる人はここにはいないから、珍しくて』
『……目?』
『うん。よく言われるんだ。目が死んでるって。君は鏡で見る僕の目と同じ目をしてる』
 失礼な人。声を掛けておいて目が死んでるなんて最低な口説き文句だ。
『ごめんね。気を悪くさせたなら謝るよ。僕は本当に君がここを辞める理由が知りたいだけなんだ』
 それでも尚しつこく食い下がる男を無視しておくのも頭にきて、不機嫌な声で返答を投げ捨てる。
『なんかもう。どうでもよくなって』
『へぇ……』
 どうしても知りたいと言うから教えてやったのに、当の男は曖昧な相槌を返してくるだけ。流石にイライラしてくる。
『用は済んだ?』
『もう一つだけ』
『は?』
『僕も先生を待ってるんだよ。だからそれまでにもう一つ』
 男と目を合わせないように職員室の扉を見ていたあたしの目の前に男は立つ。視界の中央に入った男の目は、彼が自称するように光を写していなかった。
『君は何のためにここに通ってたの?』
 なにを聞かれても答える気は無かったけど、その質問だけは別だった。あたしがここ数カ月抱えていた鬱憤を晴らすのに丁度よかった。誰にも言えない愚痴を吐き出せるなら、知らないこいつでもいいかと思ってしまったんだ。
『……母親の為だった。でも』
『でも?』
『裏切られた』
 男の目にガンを飛ばしながら、ガムでも吐き捨てるように言葉を喉から出すと、男は静かに笑った。
『じゃあ、僕と同じだ』
 その笑みは体育の授業でペアを見つけられなかった生徒が、視界の端に一人で歩く人間を見つけた時の様な。そんな救いの光を見つけた時の笑みのような気がして、とても気持ち悪かった。
『僕は鈴鹿佳晴。良ければ、友達になってくれないかな?』
『嫌だよ。気持ち悪い……』
 それが彼との出会いだった。



 通っていた塾は三カ月ごとに月謝を払っていたから、先生に辞めると伝えた後も一カ月近くは足を運ぶ羽目になった。一刻も早く辞めたいと思うのに、勿体ないが先行してしまうのを考えると貧乏が脳に染み付いてしまっているのかもしれない。
 そして気持ち悪いことに、あたしが教室と玄関を繋ぐ廊下を歩くたびに、この男は待ち構えていたかのように自習室から顔を出し、あたしに声を掛けた。
『君、今日が最後でしょ?』
『……は?』
『今日月末だしさ。さっきも先生と話してたの見たから』
『うるさいストーカーがいなくなって済々する』
『寂しいなぁ』
『全然』
 始めは真面目に無視を決め込んでいたあたしも、懲りずに声を掛けてくる男に投げる文句と苛立ちが募り、出会って二週間もすればあたしはこの男にきつい言葉を吐くようになっていた。
『高校受験はどうするの? このタイミングで辞めたら大変じゃない?』
『えり好みしなければどこだって入れる』
 中学三年生の冬。学校の友達は大抵が受験勉強に精を入れ、初めての受験戦争に備える中、あたしはその目前で立ち止まっていた。マラソンで皆がラストスパートをかける中で立ち止まるあたしに、皆驚きの顔を見せるけど、正直ゴールまで走る気力はどこにも残っていなかった。
 こんな人間を一般に「グレる」と表現するのだろうか。去年までは我ながら良い生徒だったと思う。学力だって校内で上位一割には留まっていたし、部活だってそこそこ頑張ってきた。先生からも信頼され将来を期待されていた、と思う。そんな人間が家庭の事情なんていう有り触れたものでこうなってしまうんだ。呆れられて当然かもしれない。
 荒んで周囲に合わせられなくなったあたしの周囲からは徐々に人が減っていった。友達も減り、教師からの言葉も減り、そして家で母親と話すことも減った。そんな中ここで意気揚々と話しかけてくるこの男は感情の良い捌け口だった。
『あんたこそ、なんで毎日こんな勉強してんの? 受験も終わったんだしこんなとこ来なくてもいいでしょ』
『……まぁ、僕にはこれしかないからね』
 ヘラヘラと笑う男に溜息をつき、あたしは廊下を進む。
『もう帰るの?』
『いや、駅前のゲーセンにでも行こうかなって』
『もう十時過ぎるよ? 危ない』
『今日はちょっと家に帰れない事情があんの』
 頭にチラつくその事情にイライラしながらあたしは靴を取り出す。
 ここも今日で最後。この男とももう会うことは無い。なのに。
『じゃあ、うち来る?』
『……は?』
 この男はまるで駅前の女に掛けるようなセリフをあたしに投げかける。
『いや、別に変な意味とかじゃなくてね。君にとって僕の部屋は逃げ込むには丁度いいと思うよ』
『意味わかんないし』
『だから言ったじゃん。分かるんだ。君の気持ち。だって君は僕と同じ目をしてる』
 またも軽い笑みを浮かべる男にあたしは警戒心を抱かなかった。
 男の家なんかに足を運んだらレイプされるんじゃないか。なんて年相応の思考を巡らせるけれど、すぐにその考えは消えてなくなってしまった。目の前の男からは性欲なんて俗世じみたものは一切感じない。上っ面を取り繕って清潔感を醸し出そうとする男が浮かべる汚い笑顔とは根本的に違う。まるで、煩悩を全て捨ててしまったような、仏のような顔をしていた。
 だからあたしはこの男の提案を受け入れる。
『その、君って呼び方やめてくんない? ある人を思い出してイライラする』
『じゃあ何て呼べばいいの?』
『麻里』
『上の名前は?』
『嫌いだから教えない』
『変な人だね』
『あんたもね』
 あたしに強い言葉を投げられて嬉しそうに男は笑う。そういう性癖なのかな。ますますキモい。
『じゃあ、まーちゃんだ』
『は?』
『名前で呼ぶのって恥ずかしいからさ。だからまーちゃん』
『こっちが恥ずかしいからやめろ』
 男はあたしの言葉にまた笑った。



『なにこれ……』
 男の家を案内され、あたしは口を開けたまま固まる。
『知らなかったの?』
『知ってるわけないでしょ』
『結構有名だと思ってたけど』
 案内されたのは駅から徒歩一分以内にあるマンションの一室。一家族が住むには小さい部屋。ただ高校生が一人で住むには大きすぎる部屋
『一人暮らしをしている高校生なんて珍しいからさ。良く噂になるんだ』
『親は?』
『ちゃんと生きてるよ。僕が一人暮らししたいって言ったら借りてくれたんだ』
『ボンボンじゃん』
『残念ながらね』
 室内にはほとんど物がない。ベッドと机と本棚。カーペットもなく床は剥き出し。引っ越したばかりと言われても頷いてしまう程に生活感が無い。
『まぁ座ってよ。眠気覚ましの珈琲しかないけど、飲む?』
 あたしが頷くとこれまた生活感の無い冷蔵庫の中から缶珈琲が二本、机の上に置かれる。
『この季節に冷たいのって』
『眠気覚ましだからね』
『おもてなしって言葉を知らないの』
『ごめんて。これでも友達を部屋に入れるのは初めてだから緊張してるんだ』
『これだったらマックで徹夜した方がマシ』
『そう言わずにさ。……それよりもびっくりしたよ。僕の噂を知らない人と話すのはこんなに楽なんだね』
『今からそれも全部聞くけど?』
『まーちゃんならきっと、聞き終わった後でも何も変わらずに接してくれると思うよ』
『だからその呼び方』
 男。佳晴は缶珈琲のプルタブに指を掛けながら、ゆっくりと自己紹介を始める。
『みんな知ってるんだ。僕の家が金を持ってるって。一人暮らしなんてしてるくらいだから、言われても仕方ないのは分かってるけど。有る事無い事、正直うんざり』
『金があるんだから、仕方ないでしょ。その分良い暮らしをしてる。うらやましいくらい』
『そうだね。みんなそう言う。でもね。金は人をおかしくするんだよ』
 そうして佳晴はあたしに様々なことを話していく。
 家は隣町にあって父親はどうもお偉い外科医だという事。噂の通り家にはかなりの金があって裕福な暮らしをしていること。高校はこの近くにある日本でも有数の進学校に通っていること。そして母親の狂気じみた学習支援の事。
『ごめんね。こんな話』
 また彼は軽い笑顔を張り付ける。薄い皮を一枚剥げばきっと笑顔なんてどこにもないんだろう。その証拠に彼の目は深く死んでいる。
『無理に笑わなくてもいい。その顔、気持ち悪いし』
『ほら。まーちゃんは普通に接してくれる』
『印象は変わった』
『やっぱり。まーちゃんは優しい。僕の見立て通りだ』
 あたしを何も知らない彼があたしを褒めることに居心地の悪さを感じる。だから仕返しとばかりに、どんどんと彼のテリトリーに土足で入り込んでいく。
『母親にはどんなことをされたの?』
『聞きたい?』
『興味はある』
『そっか。でも別に面白い話はないよ』
『面白さを期待してないから』
『……勉強するときはいつも僕の後ろで見張っていて、覚えが悪かったり勉強の進みが悪いと怒鳴り始めるんだ。それがエスカレートしていくと手も出る』
『……』
『とりあえず僕を拘束して勉強勉強勉強。それ以外のことは片っ端から禁止。普段は良い人なんだけどね。自分の思い通りに成長しないと怒りだすんだ』
 まるで育成ゲーム。あたしもやったことがある。特定のステータスを上げる為に同じモンスターを何度も何度も繰り返し倒し続ける。段々とそれが作業になっていって、上手く完成しなければ時間の無駄だったと割り切って捨てる。
 彼が話す内容から考えられるのは、そんな作業を子供でやっている毒親。
『そしていつも言うんだ。ママを将来幸せにしてね。って』
『……反抗しないの?』
『昔はしてたかもね。でも、もうその気力もなくなった。最後の反抗として母親から逃げて一人暮らしを始めた癖に、毎日勉強ばかりしてるんだ。おかしいよね。もう僕の頭は勉強しかできない頭になってるんだよ』
『バカみたい』
『はじめて言われた』
 話から逃げるように珈琲を口につける。真黒の缶に入っているその液体は、まだあたしの舌には美味しく感じない。ただ少しでも大人に近づきたくてそれを一気に喉に流し込んだ。
『まーちゃんが抱えてる物は今は聞かない。でも、好きな時に僕を捌け口にしていい』
『一生そんな機会訪れないから大丈夫』
『僕は僕を増やしたくないんだよ。……こんなの、間違ってる』
『そんな善意であたしに声を掛けたの?』
『それ半分、僕自身が救われるの半分』
『そう』
『だからまーちゃんはいつでもここに逃げてきていい。辛ければいつでも』
『……気持ち悪い』
 そうだねと笑う彼の目は、あたしよりも暗く深い。その目を見ているとどこか落ち着く様な、そんな気さえしていた。


 その日から結局、あたしはこの男の部屋に足を運ぶようになった。
 二週に一回が週に一回になり、それが週二回になり。反抗期の中学生が家に帰るのを少しでも遅らせようと、学校に居座るのと同じように、あたしはこの部屋を居場所にした。
 流石にこの部屋で朝を迎えることは無かったものの、いずれここで夜を明かすことになることは容易に想像ができた。それほどに居心地が良かった。
 似たような人間と一緒にいることはとても楽で、深く呼吸ができる。気が付けばあたしの事情も彼に話してしまっていた。それでも、お互いの事情を知りながら口を出すことは無く、無干渉のままただそこに二人で居る。それにどこか温かさを感じた。
『まーちゃんは結局高校どうするの?』
『適当な所に入る。これでも今まで勉強してきた分があるからある程度の所には入れるし』
『それでいいの?』
『うん。別に目標もないし』
『そう』
 担任にも同じことを言われた。目標が無くてもより良い高校を目指せとも言われた。勿体ないとも言われた。その言葉で担任もあたしの中では敵になった。
『なんでいい高校に行くんだろ』
『いい大学に行くためじゃない?』
『なんでいい大学に行くの?』
『いい所に就職する為じゃない?』
『つまんない』
『そうだね』
 走ってきた道を立ち止まるあたしと、敷かれたレールの上を走り続ける彼。対極の二人だけれど確かに似ていた。
『まーちゃんはさ、夢とかないの?』
『……ないな』
『考えたこともない?』
『前までは公務員とかになるんだと思ってた。安定した職について、安定した生活をして、お母さんを養って』
 前までは。
『でも、その目標もいらなくなっちゃったから』
『そう』
 この男はあたしの意見を否定しない。無感情な相槌だけを入れてくれる。それがとても心地よかった。だから人間相手に話さない悩みもここでならするりと喉を通って出てくる。生気のない彼を壁か何かだと思っているのかもしれない。
『僕はね。夢があるんだ』
 だからそんな彼が自分の夢を持っていると言い放った時には驚いた。
 いつもは暗い沼の底を写しているような彼の目が一瞬だけ光を宿す。
『僕にはもう分からなくなっちゃったけど、まーちゃんと話していて少し理解はできた。僕が過ごしてきた勉強漬けの生活はやっぱりおかしい。でも今更僕の過去は変えられない。だから、少しでも僕のような人間を減らしたい』
『大層な夢。政治家にでもなるの?』
『ううん。もっと身近な存在だよ。空高くから見下ろしたって蟻の実態は分からない』
 おかしな言い回しを使う。勉強し過ぎるとこんな捻くれた比喩を使うようになるのか。こうはなりたくない。
『僕はね。教師になりたいんだ』
 あたしが見た鈴鹿佳晴の顔の中で、その瞬間が一番生き生きとした色だった。