クリーム色のカーテンを通して入る朝日が私の睡眠を阻害した。
 ほんの少しだけ浮上した意識は、真っ先に部屋の蒸し暑さを感じ、睡魔をどこかへ追いやってしまう。
 暑い。
 居心地の悪さに体を捩ると、肌と布がじっとり張り付いているのがわかった。どう寝返りを打っても纏わりつく不快感から逃げるように、私は観念してベッドから身を起こす。目覚まし時計ですら打ち倒せなかった睡眠欲に夏の不快感が勝利した瞬間だった。
「エアコン……」
 しぱしぱ不規則に光る視界を放棄して、手探りで近くに置いてあるはずのリモコンを求める。不思議な感覚だった。まるで夢の中に浸っているような。しかし、それでいて意識はずいぶんとはっきりしている。
 徐々に朝に順応していく体は、視界をゆっくりと鮮明な物にしていく。部屋の隅に置かれたベッドの上から見る光景はいつもと変わりはない。築十五年。家賃七万。約四十平米の1LDK。地上六階の比較的安い一室。
 洋室とリビングキッチンを隔てる引き戸はここ数年開きっぱなしになっているから実質LDK。ベッドから見るリビングには陽の光が差し込み、ソファの背中が明るく光っている。
 やっぱり不思議な感覚だ。何かがいつもと違う。上半身を起こした体勢でぐるっと部屋を見回してみるが、特にめぼしいものは無い。
 その代わりにベッドの隣にある机に目が留まる。そこには資料の山が出来上がっていて、片付けなきゃななんて陰鬱な気分になる。休みの日くらい仕事のことは忘れたい。
 私は違和感を追求することを諦め、もう一度ベッドに倒れこんだ。ぺちゃっと汗を染み込んだシャツが冷たく背中と髪に張り付くがお構いなしに目を瞑る。
「リモコンどこ行ったの……」
「リモコンですか?」
「うん」
「あ、ありました。どうぞ」
 手のひらにこつんと無機質が当たるのを感じ、握る。ありがとうと無意識に発しながら、運転開始のボタンをした。
「おはようございます。麻里さん」
「ん……。おはよ」
 一瞬の思考停止。そして一気にその違和感に気が付いた。
「っ! びっくりしたぁ!」
「っ! 何ですか、急に! こっちもびっくりしましたよ!」
「部屋に人がいるの忘れてた……」
 この違和感はあれだ。部屋に私以外の人の気配があることだ。
「……朝起きて、おはようって言ったの、いつぶりだろ……」
「え? 何か言いました?」
「なんでもない」
 ふーっと長い息を吐きながら今度はさっきよりも勢いよく上半身を起こす。首を曲げてさっき見た景色をもう一度確認すると、視界の真ん中に可愛らしい少女が座っている。
 ベッドの隣で正座をして、上体を起こした私の顔を見上げる彼女は藍原莉緒。少し、いや、だいぶおかしい女の子。
「夢じゃなかったんだ」
「ちゃんと私は存在しますよ」
「だって夢みたいな出来事だったから……」
「人が自殺しようとするのを止める夢なんて物騒じゃないですか?」
 私はベッドから降りることなく手を伸ばし、いつもの場所に置いてある緑色のプラスチックケースを手に取る。カラカラと子気味のいい音が鳴った。
「私は結構見るよ。そんな感じの夢」
「麻里さんも大概じゃないですか」
「そうかもね」
 プラスチックケースの蓋をペコっと外し、掌に中身を何粒か出して口に放り込む。
「それ、何ですか?」
「ラムネだよ。見たことない?」
「いや、見たことはありますけど……。おもむろに出したので中身を入れ替えた怪しい薬か何かかと」
「薬に頼らなくちゃいけない程、人生に苦しんでないよ。……いる?」
「いや、結構です。……寝起きでよく食べれますね」
「なんか癖になっちゃってさ。昔誰かから聞いたんだよ。朝はブドウ糖を直接とれるラムネがいいって。それからずっと、これ食べないと起きられなくてさ」
「ありますよね。ルーティンってやつ」
「そう。それ」
 丸い粒を奥歯で噛み潰すと、軽い音と共に粉になる。それらが口の中一杯に広がって、いつもの甘さが私の頬を叩くように眠りから起こしてくれる。
 視界もどんどんと明瞭になっていき、頭も回り始めた。実際ルーティンなんてものは薬物と似ているのかもしれない。ラムネに害はないと言っても私はこの百円もしない駄菓子に依存している。
「……おはよ。莉緒ちゃん」
「はい。おはようございます」
 私は朝起きて何度目か分からない溜息をつき、ゆっくりとベッドから降りる。
「とりあえずさ。これからどうするかは追々決めるとして、シャワー浴びてきていいかな? 汗が気持ち悪い」
「私に気を使わなくて大丈夫ですよ」
「まだ慣れなくて」
 こんな非現実的な光景に慣れたら最後だと自分に言い聞かせるように、私はぺたぺたと裸足で歩く。
「あ、莉緒ちゃんも使いたくなったら言ってね。ここに当分いるんだったら、遠慮されても迷惑だから」
「はい!」
 少し毒を混ぜた言葉に元気のよい返事が返ってくる。
「なんでそんなに嬉しそうなの……」
「だって、当分いるんだったらって」
「昨日約束しちゃったからね」
「忘れられてるかと」
「流石にそれくらいは覚えてる」
 捉え様によっては挑発されているような発言に、私は適当な言葉を返し、風呂の扉を開ける。バストイレ別とはいっても最小限の規模だ。浴槽で足は伸びないし、トイレに鏡はない。
 鍵もない扉を閉め、警戒心もなしに身の回りの布を脱ぎ捨てていく。昨日は携帯と財布くらいは脱衣所に持ち込んだけど、二回目ともなればそれをすることも無くなった。自分の危機管理意識の低さにこの歳になって初めて気が付いた。
 そんなことを考えながら蛇口をひねるとシャワーヘッドから冷水が勢いよく流れ出る。私はそれが温かくなる数秒すら待てずに頭の上にかざした。全身をべたべたと濡らしていた汗が水に流れていくのを感じ、一度その冷たさに身震いをすると、すぅっと頭が冷えていくのを感じる。
 彼女。莉緒ちゃんをこれからどうするのか真剣に考えなければならない。
 ただでさえ女子高生を長期間家に泊めようとしていることすら危ないのに、その女子高生は爆弾を抱えているとまできた。下手なことをすれば職を失うばかりか、人生を棒に振りかねない。
 自分の人生にそこまで価値を見出してはいないが、流石に恐怖心はある。事件はなるべく避けて通りたい。
 それに彼女の人生もそうだ。私の人生はこの際どうでもいいにしても、彼女が自殺することだけは見逃せない。彼女が赤の他人だとしても、私は絶対に見過ごせない。
「今、私、混乱してる」
 わざとらしく言葉を口に出してから深く深呼吸をする。
「今の私にできること」
 きっとそれは一つだけ。彼女と多くの言葉を交わして、彼女を知ること。
 その過程で彼女が改心してくれればそれでいいし、彼女が心を開いてくれれば阻止もしやすくなる。
 そして何より、私は彼女に興味がある。
 彼女の目で燃える炎の正体が気になってしまっている。だってあんな目は平和な日本ではきっと見ることはできない。何故彼女がそんな崖の淵まで進んでしまったのか、純粋に気になってしまっている。
「そんなこと、口に出せないけど」
 もう一度息を吐いて蛇口を捻る。
 全身を軽くバスタオルで拭き、洗面台の定位置にある腕時計をいつも通り左手首に付ける。
 時計を見るとそろそろ短針は真上に向きそうで、休みの初日を最高に無駄な時間にしてしまったことに気が付く。普段なら許されても、客人がいる日にそれを実行してしまう私の図太さに感動しながら、長めの髪を巻くようにタオルで絡めとり纏める。私は第一声を考えながら、下着姿で扉を開けた。
「ごめん莉緒ちゃん。私こんな時間まで寝てて。結構待たせちゃったでしょ」
 莉緒ちゃんは私の格好に一度目を大きく開いてから、淡々としたトーンで返答をする。
「いや、別に大丈夫ですよ。お邪魔しちゃってるわけですし……って。麻里さん。本当にお邪魔してる身でなんですけど、生徒の前に良く下着姿で出てこれますね」
「あぁ。ごめん?」
「大人はもう少しデリカシーがあるものだと思ってました」
「私もそう思ってた」
 つくづく私の無神経さには感心する。
「部屋に人を呼ぶ時いつもそんなことしてるんですか?」
「そもそも、ここに人を上げたの数年ぶりだし」
「友達とか来たりしないんですか?」
「社会人になってから友達付き合いなんて殆どなくなったかな」
「彼氏は?」
「それが数年前に家に上げた最後の人。それっきりここには誰も立ち入ってないの」
「寂しいもんですね」
「案外そんなことないよ」
 適当に髪を纏めながら生返事でキャッチボールを行う。
「莉緒ちゃん、お腹すいた?」
「え、まぁ、はい」
「朝ご飯どうしよっか」
「もうお昼ごはんですけどね」
「そういうのいいから」
 空腹感を感じ冷蔵庫を開けるが、昨日の今日で何かが入っているわけがない。あるのは缶ビールだけ。お腹が空いても食べるものが無ければどうしようもない。
「麻里さん絶対に料理しなさそうですよね」
「失礼。たまにするから」
「たまに料理する人の冷蔵庫にはもう少し何か入ってると思うんですけど?」
「タイミングが悪かっただけ」
 外に出るという大きな壁に阻まれていつもならこの空腹も我慢してしまうが、人がいるならそうもしていられない。大きく息を吐いて、覚悟を決めた言葉を吐く。
「買い物行くかぁ」
「スーパーですか?」
「コンビニ」
「いや、流石に……」
「スーパーに行っても総菜買うんだからどっちみち一緒」
 今度こそ少女は私に幻滅の目を向けるが、そんなものはどうだっていい。数日も一緒にいたらどうせ全部バレるんだし。
「ほら、行こ。というか、家に一人で置いておくの怖い」
「はい。行きます」
 手招くと慌てて彼女は立ち上がる。
「あ、でも先にシャワー浴びちゃって。莉緒ちゃんの服洗っちゃいたい」
「私、これ以外に服ないですよ?」
「だからってずっと着てる訳にもいかないでしょ。私の服貸すから」
「ありがとうございます。……それは、お言葉に甘えるんですけど」
「なに?」
「いや、まず麻里さんは服を着て髪を乾かしましょうよ……。そのまま行くつもりですか?」
 あぁ、忘れてた。服を着なきゃ。
「たまに忘れそうになるんだよね」
「……それは絶対にやっちゃいけない事です……」
 莉緒ちゃんの私を見る目が完全に失望に変わったのを見ないように、私はその場で視界をバスタオルで覆った。

 一歩外に出れば照り付ける日差しは肌に汗の球を作らせる。
 七月後半。梅雨は数日前に明けた。
 数日前までは毎日の雨にうんざりしていたけれど、今ではその曇り空すら恋しい。アパートから徒歩数分のコンビニまでの道のりでさえも苦行に思える。
 隣を見れば、へたっている私とは正反対に生き生きと夏の暑さの中を歩く少女。私が貸した彼女には少し大きめのシャツは決して不格好ではなく、可愛らしい容姿と相まって様になってしまっているが、ずっと私の服を貸し続けるわけにもいかない。
「色々と買わなきゃね」
「麻里さんそんなに食べるんですか?」
「違う。莉緒ちゃんの身の回りの物」
「あぁ……」
 彼女は言葉通り「その身一つ」で私の家に転がり込んだ。
 正確にはポケットに携帯電話と財布を入れていたけれど、それ以外の何も持たずに私と出会った。それこそコンビニにでも行く格好と表現するべきだろうか。
 そんな恰好で彼女は死のうとして、私はそんな彼女を引き留めた。
 だから今の彼女は何も持っていない。命すら川に捨てようとしていたのだから、当たり前と言えば当たり前か。
「服とか、他は……。食器とか歯ブラシとか?」
「同居みたいですね」
「不本意だけど、その通りだし」
「酷くないですかー?」
 外を歩きながら誰かと話すのも久しぶりだった。梅雨明けから鳴き始めた蝉の声のせいで言葉が聞き取りにくい。
「明日、ちゃんと買い物に行こっか」
「はい!」
 適当な服に生活用品を買いそろえて……。とりあえず五万円程おろしておけば大丈夫だろうか。
 社会人になって三年。趣味もなく贅沢もしない。貯金はかなりあるから、人を一か月養うくらい余裕でできる。
 私が財布を出す義理なんて無いはずなのに、自然とその思考に至ったことに我ながら驚いている。
「莉緒ちゃん?」
「なんです?」
「いや、何でもない」
「なんですかそれ……。年頃のカップルですか?」
 見上げるように私の顔を見る少女を見返し、やはり私の胸の中に違和感があることに気が付く。名前を付けることはできないが、決して優しい感情ではない事だけは確かだった。
 自分自身すら理解できない物に戸惑いながらも、私は取り繕うように笑った。
「今日は味噌ラーメンの気分だなって」
「寄りにも寄ってカップ麺なんですね……。麻里さん健康を気にしたことってないんですか?」
 今私に出来ることはたった一つ。彼女と多くの言葉を交わして、彼女を知ること。
 だから私はもう一度、彼女に笑顔を見せた。