始まりは小学校二年生の時。元気だけが取り柄だった私は慢性的な頭痛と貧血に見舞われた。友達も多く学校が好きだった私が数日間登校を拒んだことを心配して、両親が病院に連れて行った。
最初は自分でもただの風邪だと思っていたし、小さな病院の医者にも同じことを言われた。
しかし症状は一向に好転しない。
それどころかしばらくすると、私は止まらない鼻血を出すようになった。
両親は嫌な予感を覚え私を大きな病院に連れて行き、そこでの検査の結果、私は自分が難病患者だと知らされた。
治療は迅速に行われ、私がことを把握するよりも早くに、病院に閉じ込められた。
よくわからないまま薬を飲んだ。
よくわからないまま検査は進んだ。
よくわからないまま手術は成功した。
いくら両親に聞いたところで返ってくるのは励ましの言葉と慰めの言葉。
また学校へ通うようになる頃には、周囲の月日は進んでいて、病院に閉じ込められていた私はまるで竜宮城から帰った浦島太郎の気分だった。
私の障害となったのは、経過した年月のズレだけではない。
闘病生活の中で髪は抜け落ち、体はやせ細り、筋力は衰えていた。
私は必死に周囲に溶け込む練習をした。学校の復帰を心待ちにし、皆に追いつけるよう勉強をし、流行りのテレビ番組を見た。
 頭の何処かでは、皆に置いて行かれてしまうのではないかと恐怖していた。
 しかし、いざ学校へ復帰してみると、皆優しく、私を迎え入れた。
 両親も長い闘病を終えた私を憐れんだのか、私の願いを何でも受け入れてくれた。
 世界に愛されているのだとさえ思った。
 そしてすぐにそれが異常だと気が付いた。
 皆、優しすぎた。
 欲しいおもちゃを与えられ。行きたい場所に連れて行ってもらえる。
 体力がなくなった私の為にクラスのみんなが外で遊ぶのを諦めて、私と室内で遊んでくれるようになった。
喧嘩になるとすぐに先生が間に入ってくれた。先生はいつでも私の味方だった。
 その時、先生がクラスの子に言い聞かせていた言葉を今でも覚えている。
「莉緒ちゃんには、優しくしなきゃダメでしょ」
 その言葉が私を正気に戻してくれた。
 特別扱いされることは嬉しいことではない。
登下校も体育も給食も、他人と違うということは、差別だった。そこに良いも悪いもない。
 卒業を控える頃には、優遇されることに疎外感を感じ、普通に憧れた。
 両親の好意には遠慮するようになり、先生にも友達にも普通に接してほしいと頼んだ。
 体がそれに追いつかないこともあったが、鞭打って皆に追いつこうとした。
 特別枠になるくらいなら、皆と同じ場所で劣等生になりたかった。
 そうして私は普通を目指した。


 中学に上がり私は孤独になった。
 特別な待遇をされるくらいなら一人の方がマシ。
 自分の病気の事を理解し始めた頃からそう思うようになった。
 周囲に溶け込むことへの執念はもはや病的だった。
 体の弱い私は体育の授業について行けず、部活にも入ることが出来なかった。
 そんな自分の体が大嫌いだった。
 おそらく私の知らないところで噂は広がっていたんだろう。
 好んで話しかけてくる生徒は殆ど居なかった。
 私は孤独な時間を様々な知識を得る時間にあてた。
 今後長い人生。今を捨てても将来が浮かばれればいい。
 現状に目を逸らすようにして、本に噛り付いた。
 その中で医学書に手を付けた時期がある。
 両親に聞いてもはぐらかされるだけの自分の体について、知らなければならないと思ったんだろう。
 そして私はその時になって初めて一つの事実を知った。
 白血病は再発のリスクがある。
 それは両親が私に隠しておきたかった情報なのだろう。
 調べればすぐに分かるこんな情報を私はそれまで知らなかった。
 そして、この情報は私にとって絶望にも等しいものだった。
 一度乗り越えれば終わりだと思っていたこの生活が、再び訪れる可能性がある。
 確率は高くはない。
 それでも引かない確率ではない。
 自分はこの先、一生再発のリスクに恐怖しながら生きていくのだと考えた時、体が凍った。
 そして、なにかがぷつんと切れた音を聞いた。
 それから私の精神状態は次第に不安定になっていき、また病院にお世話になる羽目になる。
 検査とカウンセリングをする度に私の精神は擦り減った。
 両親がこうなることを危惧していたのだろう。
 案の定、心の幼い私に抱えきれるほどの重荷ではなかった。
 強がりで抑え込んでいた感情は決壊し、私は一気に弱くなった。
 子供の様に泣きじゃくり、かんしゃくを起こすようになった。
 鬱病のように死へ縋りたくなる日々が続いた。
 中学三年の夏。初めて手首を切ろうとした。
 自分の腕に刃物を立てる緊張と、もしかしたら死ぬかもしれないという恐怖感。
 怖かった。恐ろしかった。冷や汗は止まらずに、涙が出た。
 そして同時に、自分は生きているんだと感じた。
 結局刃物は私の皮膚に触れることは無かった。
 恐怖感を欲した私には、実際に肌を切る必要性はなかった。
 そして幸か不幸か。死への恐怖が人一倍強い私は日常の些細なことで簡単に恐怖を感じ取ることができた。
 日常の中で高まる恐怖と緊張が私を安心させた。
 私は生きていると、早くなる鼓動が教えてくれた。
 一度知ってしまったこの感情には中毒性がある。
 定期的に襲われる鬱にも近い感情と、求めるように自ら手を伸ばす恐怖感。
 私は安寧を手に入れながらも一歩一歩確実に破滅へ向かっていた。



 そして高校に入った時。決意した。
 死から逃げる恐怖に耐えきれなくなり、本気で死にたいと思った時。私は死のう。
 死に追われる恐怖から唯一逃げることのできる場所が死だった。
 怖がりな私が選んだ最後の選択肢は、逃げ切ることだった。
 そう決意した時、少しだけ気が楽になった。
 なにかが吹っ切れたような気がしたんだ。
 いつ終わるか分からない人生を、全力で生きる。
 恐怖に追いつかれないように必死に楽しむ。
 死ぬ気で、好きなことをやり切る。
 そのために人生に課題を作った。
 私の人生の証明問題。
 そして毎日を後悔なく終わらせるというルール。
 私はその日から、残りの寿命全てに火を点けて燃やし始めた。
 密度の濃い時間を過ごすために、出し惜しみなくすべてを燃やした。



 それがここにいる私。
 藍原莉緒の全て。



 莉緒は私の目を見たまま淡々自分の過去を話した。
 私がここ一カ月手を伸ばして、届かなかった真相。
 藍原莉緒という人間の全て。
 彼女が読み終えた本を閉じるように、ふ―っと息を吐き儚く笑う。その瞬間、世界の音が鳴るのを思い出したかのように騒ぎ始めた。
 いつの間にかこの場に鴨田先生の影は無くなっていて、病室には私達だけが残されている。
 なにか彼女に声を掛けなくては。
 彼女を優しく抱きしめてやらなくては。
 しかし、いざ目の前に提示されると、身が竦んでしまう。
 私の目には涙が溢れていく。
 どんどんと彼女の顔が滲んでいく。
 あぁ、今気が付いた。私の中にあったこの感情の名前が分かった。
 彼女の輪郭がぼやけていくにつれて、私の心が輪郭を持つ。
 この胸の中にある感情は庇護欲でも愛情でもない。
 これは、憧れだ。
 私は彼女の目に宿る命の輝きに。彼女の心の強さに。体から漏れだすその生き方に。憧れていたんだ。
 初めて会ったあの橋の上で、確かに彼女に憧れを抱き、見惚れたんだ。
 だって、彼女は私が一番欲しかった物を持っていた。
 私が後悔し続ける過去の私とは、全く違う物を持っていた。
 もし、佳晴から逃げていなかったら。そんなことを何度も繰り返し考えた。そんな時、必ず現れる「もし」の強い自分に、彼女は似ていたんだ。
 私は震える手を抱くように自分の左手首を右手で握った。
「ねぇ、麻里さん」
「……なに?」
「私はね。麻里さんに救われたんだよ」
「だから私は何もしてないって」
 本当に。貰ってばっかりだ。
「この夏は私の人生で、一番楽しい一カ月だった」
 私は返す言葉を見つけられず、ただ俯く。
「麻里さんは、どうだった?」
「そんなの。……楽しかったに決まってる」
 莉緒は小さく笑うと、私の左腕に手を乗せた。
「麻里さん。もう一度、聞いていい?」
「うん」
「私は麻里さんを救えた?」
「うん」
 私の声は震えている。嗚咽交じりの声が、彼女に縋りつく。
「莉緒は私を救ってくれた。凍り付いた私の時間を溶かしてくれた。背中を押してくれた」
「……そっか」
「楽しかったんだよ。この一か月。本当に楽しかった」
「うん」
「だから。……ありがとう」
「うれしい」
「ありがとう」
 私は莉緒の手を握り、額につけるようにして泣く。
 子供の様に泣く声が病室中に響いた。
「麻里さん。泣かないでよ」
「……だって」
「じゃあ一つ。秘密にしていたことを教えてあげる」
「まだ秘密があるの?」
「沢山あるよ。女の子は秘密でできてるんだから」
 微笑む莉緒の顔はまだ滲んでいる。
「私と麻里さんが橋の上に会った時ね。麻里さん自分がどんな顔してたか、知らないでしょ?」
「……うん」
「ちなみに麻里さんはどんなことを考えてたの?」
「どんなことって」
 あの時は確か、夕日の赤を背負う莉緒が。
「すごく美しくて。すごく怖かった」
「変なの」
 ケタケタと莉緒は笑う。
「麻里さんね。あの時、神様を見たような顔をしてたんだよ」
「え?」
「希望って言った方がいいのかな。自分で言うのも恥ずかしいけど。死んだ目に光が灯っていくのが見えた。助かった。みたいな感じかな。たとえるなら……。あ、体育でペア組んでって言われた時に、あぶれた自分の他にもう一人見つけた人。みたいな」
 分かる? と首を傾げる莉緒に、私は大きく頷く。
「分かるよ。だって……」
 だって、その顔は見たことがある。
「なんだ……。やっぱり私、佳晴に似てるじゃん」
 また涙が溢れた。突然訳の分からないことを言い出す私に莉緒は慌てる。
「莉緒は、私のヒーローだね」
「それ、あんまり嬉しくない」
「じゃあ、救世主」
「それもあんまり」
 私は泣きながら言葉を探す。莉緒にピッタリな言葉。私を救ってくれる彼女のような存在。
「天使」
「許す」
「莉緒は私を変えてくれた天使だ」
「告白じゃん」
「そうかもね」
 莉緒は私を抱きしめた。小さく細い体で私を強く抱きしめた。
「ねぇ、麻里さん」
「うん」
「私は、もう天に帰るからさ。麻里さんはちゃんと前に進んでね」
「……莉緒、いや」
「私はもう駄目だから」
「駄目なんかじゃないよ」
「私がいなくなっても。麻里さんはこれからを生きるんだよ」
 私は莉緒の腕を振りほどいて彼女の両肩を掴んだ。
「……莉緒、やめて」
 声を振り絞った音の無いような声に莉緒は首を振る。
「莉緒……。いかないでよ」
 またもゆっくり首を振る。
「置いて行かないで」
「……ごめんね」
 私は彼女の目を見つめる。
 ずっと力強く燃えていた炎が、そこにはもうなかった。
「死なないで」
 全ての嵐が過ぎ去った目をしている。
 すべての波が治まり、静かに優しく凪いだ目は言う。
「もう、死ぬよ」
 私は取り乱す。泣き崩れながら莉緒の肩を揺らした。
 馬鹿な真似は許さないと莉緒を怒鳴った。
 どこにも行かないように強く強く彼女を抱きしめた。
 しかし、終始彼女は優しく落ち着いていて、私を抱きしめながら宥める。
 私の頭を慈しむように撫でながら、彼女も泣いていた。



「ねぇ、麻里さん。そろそろ時間だよ」
 私が落ち着きを取り戻してからどれほどの時間が流れたのだろう。私はしがみつくように莉緒を抱きしめていた。一瞬でもその手を解いてしまえば彼女はどこかに行ってしまいそうで。その小さな体を繋ぎとめようと必死に力を入れていた。
「麻里さん。ありがとう」
 ぽんぽんと私の頭に一定のテンポを保ったまま触れながら、彼女は様々な話をした。
 それは私と出会ってからの答え合わせ。
 例えば、生活の中での些細なこと。
 大皿を囲むのは、感染症のリスクを減らすために実家ではしなくなった。だとか。
 迷信とされていながらも、白血病の再発リスクがあるという噂から、生食を食べることが無かった。だとか。
 父親は莉緒の病名が分かったその日から煙草を辞めたから匂いが懐かしかった。だとか。
 生活のことを話すにつれて徐々に明らかになっていく彼女の両親像はどこまでも優しく、疑っていたことが申し訳なくなる。
 莉緒のしたいことであれば何でも許してくれる。その優しさが彼女にとっては辛いのだとしても、両親からは娘へのできることの全てなのだろう。
 この夏に娘がどこかに泊り続けることもきっと不安だっただろう。それでも送り出した両親の覚悟は尊敬に値する。
「あのお金だってそうだよ。私の人生の前借だって。軽く百万くれたの。強く生きれるようになったら、自分で稼げって言ってね」
 優しいんだか厳しいんだか分からないよね。と笑う。
「きっと私が自殺するって言っても、泣きながら許してくれるんだと思う」
 そう言って彼女は笑顔のまま泣いていた。
 彼女が自分の体調に異変を感じ始めたのは半月前。実家に帰って自分のノートを取りに行った日。あの日から徐々に体の重さを感じ始めたらしい。
 花火大会の日には本格的に倦怠感を感じて察しはじめ、温泉旅行の鼻血で確信したんだそうだ。
 それからは不安からくるストレスを始めとした、白血病患者の症状が彼女を苦しめた。
 どこからか貰ってきたただの風邪が体を蝕み、症状により抵抗力が落ち、悪化した。
 患者特有の出血時に中々血が止まらない現象と生理が重なり、旅行日から大量の出血を重ね、貧血に見舞われた。
 そしてこれまた症状の一つである痣のできやすさにより、体中に痣ができた。
 追い打ちの寝不足だ。不安で不安で眠れなかったと笑っていたが、ここまでボロボロになっていた彼女に気が付かなかった自分が情けない。
「麻里さんは鈍感だから」
「……そうだね」
 一通り話し終えた頃には空はもう真暗で、激しい雨の音だけが響いていた。
「そろそろ麻里さん帰らなくちゃ」
 別れを告げられたように思えて、肩をこわばらせる。
「明日もここに来てくれればいいじゃん。そんなに早く病気は回らないよ」
「……わかった」
「あ、でも、明日は夕方に来てくれるとありがたいかな。昼間は両親が来るんだ。色々話すから」
「……わかった」
 震えながら彼女の手を離さない私を、莉緒は子供をあやすように宥める。
 最後に頬にキスをされたが、それがどうしようもなく悲しく感じた。



 自分の部屋の玄関を開けると、地元からの荷物が綺麗な部屋に転がっていた。
 旅行鞄から荷物を取り出すと、彼女と食べようとしていたお菓子が目に入り、そっと冷蔵庫に仕舞う。様々な物を鞄から取り出し、最後に底に残ったものを拾い上げて目を伏せる。
 彼女の為に買ったガラスのイヤリングは割れていて、私はそれをそっとゴミ箱に捨てた。
 体も心も疲れきっている。それでも眠ることはできなかった。
 真暗な部屋の中、テレビが発する色取り取りの明かりがチカチカと目に焼き付く。
 明日の天気は雨のち晴れで蒸し暑い日だと、アナウンサーとマスコットが元気よく話している。
 明日で、真夏の猛暑は終わり。
 こんな暑い毎日ともおさらばですね。そう笑顔でこちらに語り掛けてくる。
 もう夏は終わり。
 あぁ、きっと明日、莉緒は私の目の前からいなくなるんだろうな。
 何故だかはっきりとそう思った。