雨が降っていた。
静かな朝だった。
本当に、静かな朝だった。
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗い。。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックのケースを手に取る。
あれ、いつもの音がしない。
私は軽いケースの蓋を開け、口の上でひっくり返す。そこでようやく、このケースの中に何も入っていないことに気が付いた。
「……空じゃん」
ここ数年、この行動がルーティンと化してしまってからは一度も切らしたことが無かったのに。こんな陰鬱な朝にそれが初めて起こるなんてついてない。どうして昨日買っておかなかったんだろう。もう今はそんな疑問も睡魔に飲まれる。
あぁ、二度寝なんて久しぶりだ。
ここ一週間。同居人がそれを許してくれなかった。
今日は彼女の声もしないし、キッチンから香ばしい匂いも漂ってこない……。
「……莉緒ちゃん?」
ふと、目を瞑りながら彼女の名前を呼んでみる。
返事はない。まだ寝ているのだろうか。彼女も熟睡できているならそれはそれでいいことだ。ここ最近、あまり上手く眠れてないようだったし。
再び意識を手放そうとすると、フラッシュバックするようにとある光景が浮かぶ。
『ほら。手首も腕も傷一つないでしょ?』
「――っ!」
あれは、夢?
昨日はいつもの悪い夢に目を覚まして。そしたら彼女がキッチンにいて。
一瞬で全身に寒気が走った。
慌ててベッドから飛び降り、ソファーを覗く。
そこに藍原莉緒はいなかった。
「莉緒……ちゃん?」
首を回すが彼女の姿は視界に映らない。廊下に飛び出して風呂とトイレの扉を開く。電気は消えたままで人影はない。
「どこ行ったの……」
そんなに広い部屋じゃない。彼女がこの部屋にいないことはすぐに分かった。だから余計に不安に駆られ、正常な思考ができなくなる。
「莉緒ちゃん?」
もう一度、声を上げてみる。
「莉緒ちゃん?」
頭は真白だ。
焦っているのが分かる。
焦っている。
焦る。
どこへ行った?
もしかして。
「――っ」
慌ててベランダに出ようとするが、そこにはきちんと鍵が閉まっていて胸をなでおろす。
それなのに何故か鍵を開けて私はベランダに出てみる。
人影はない。
風に煽られた雨水が私を濡らす。風は勢いが強く、壁面はおろかガラス戸にも雨粒を叩きつけている。開けたままの扉を通り越し、ビチャビチャと音を立てて室内のフローリングにも水が飛び散った。
「莉緒……」
静かな朝だった。
空は灰色。雨音はもう聞こえていない。
なぜ視界に色がないんだろう。まるで古い映画を見ているようだ。
なぜ私の息の音しか聞こえないんだろう。これは夢の中なのか。
「どうして」
チカチカと視界が揺れる。
私の部屋が捻じれていく。
ここは。あたしの部屋?
私は部屋の真ん中で膝をつく。
ここはどこ?
数年間過ごした部屋の筈なのに、ここが自分の部屋だという確証が持てない。
こんな物、買ったっけ?
ここにはある筈の無い物が私の部屋に重なって見える。
ここはどこ?
あたしはいつから地元に帰った?
ここは、あたしが高校生の頃に通っていたあの部屋。
……違う。
ここは私が社会人になってから借りた部屋。
外を見る。
そこにはもう雨空はない。
明るい光が部屋にさし込む。
床に飛び散った筈の雨粒はどこにも見えない。
あたしの視界には綺麗な朝焼けが広がっていた。
あたしはこの朝焼けを知っている。
『まーちゃん』
「――っ!」
声が聞こえた。
懐かしい声。
『まーちゃん――――』
辺りを見回す。
声の主はどこにもいない。
「どこ?」
『――――』
「どこにいるの?」
『――――』
再び空を見上げると鉛色の空。
景色が白く煙るほど強い雨が降っている。
違う。あの日はこんな雨の朝じゃなかった。
あたしが知っているのはもっと綺麗な朝。
藍色に染まった美しい空。
「行かないで……」
あたしは虚空に手を伸ばす。
そこには何もない?
本物が何かも分からない。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
周囲を見回す。
本棚。机。ソファ。ぬいぐるみ。
あれ、ぬいぐるみなんていつ買ったっけ。
茶色いクマのぬいぐるみに手を伸ばすと、それはホログラムのようにあたしの腕をすり抜け、消えていく。
その代わりにあたしの手に触れたのは、あたしの部屋に転がり込んできた少女の荷物だった。
「……莉緒」
瞬間、激しい雨音が鼓膜を揺らした。
その衝撃に平手打ちされたかのようにあたしは目を覚ます。
視界に広がるのは紛れもなく今のあたしの部屋。
今いなくなったのは、藍原莉緒。
莉緒。
どこに行ったの。
莉緒。
消えないで。
莉緒。
おいていかないで。
あたしは座り込んだ状態から、慌てて立ち上がり走り出す。
足を何かにぶつけ、鈍い音がしたが痛覚は働いていなかった。
ドアの鍵は開いていて、ドアノブに手を掛けるとすんなり外側に開く。
あたしは靴も履かず、寝間着のまま外に飛び出した。
行かないで。
行かないで。
置いて行かないで。
夏なのに肌寒い。
そんな朝がやはりあの日を思い出させる。
ラムネは食べていない。
手首に巻いた重さもない。
ここ数年必ず続けてきたルーティンが無いあたしは、あの日のあたしと同じだった。
歩幅が変わっていることに違和感を覚た時、あたしの足は縺れコンクリートに体を打ち付けていた。
おかしい。あたしの身体ってこんなに大きかったっけ。数ミリの身体の違いが気持ち悪い。まるで一回り大きな自分の皮を被っているみたいだ。
体を起こそうと地面に手をつき、顔を上げる。急に視界の半分が黒く染まり、あたしは悲鳴を上げる。
髪……。あぁ、髪か。そういえば伸ばしていたっけ。
あたしはふらふらと立ち上がり、階段を目指す。
一人にしないで。
あたしを一人にしないで。
前に進むことだけを考え、階段を見る。
見下ろした先の踊り場。六階と五階の狭間に、莉緒はいた。
「あ、麻里さ――っ」
「莉緒!」
あたしは転がるように階段を駆け下り、彼女の腕を掴み思いっきり引き寄せると、肩を命一杯に抱きしめる。
彼女の手から何かの袋が落ち、グシャと歪な音が鳴った。
「何――?! ちょっ、麻里さん?」
「駄目。駄目……。駄目だから」
彼女の体を下方向に引き、膝を付かせる。そんな彼女をあたしは上から抱きしめる。
これで、飛び降りたりしない。
手すりにすら手は届かせない。
「行かないで……」
「は?」
「置いて行かないで。……ずっと。ここにいて」
莉緒はあたしの手を振り払おうと身を捩る。逃がしたりなんてしない。ここで手を離したらあたしは一生後悔する。
「――――――――」
莉緒が何かを言っている。あたしの耳元で何かを言っている。
だがすべては雨音に掻き消されて、消えていく。
もう、何も言わないで。
全て受け入れるから。
あなたの悩みを分かってあげられるから。
一緒に考えていけるから。
だってあたしはこんなに大人になった。
大人になったんだよ。
強く強く抱きしめると、次第に音も光も、頭の中の声さえも消えてなくなった。
「……ん」
目を開くと雨の日特有の部屋の暗さが広がっている。
こんな日に見る天井は特別に暗く感じる。
私はいつも通り手を伸ばし、プラスチックの……って、少し前に同じ行動を取った気がする。
頭を横に倒すと額から白い何かが転がり落ちた。
「あ、麻里さん。起きました?」
「……私」
意識が朦朧とする。視界もゆらゆらと揺れている。
「麻里さんすごい熱ですよ。今おかゆ作ってるんでそれ食べて寝た方がいいです」
「え……」
言われてみれば目頭が熱い。顔に手を当ててみると夏のアスファルトの様だった。
身じろぐと脛に鈍い痛みが走る。
どこかでぶつけた? いつ?
悪い夢を見た気がする。彼女が部屋からいなくなって必死に探す夢。
とても嫌な夢だった。いつもの悪夢と混ざったモノクロで残酷な夢。あの夢の結末はどうなったんだっけ。
キッチンから何かが沸騰する音と、ほんのり甘い匂いが漂う。
目を瞑ってその幸せを胸いっぱいに吸い込むと意識はするりと抜け落ちた。
『君、ここを辞めるの?』
『……誰ですか?』
『別に誰だっていいじゃない。僕は君が辞める訳を知りたいんだ』
『なんで他人に喋らなきゃ……』
『だって君、中三だよね。この時期に辞めるなんて変だなって』
『なんであたしの学年……気持ち悪』
『酷いなぁ』
ヘラヘラと笑う男はあたしの隣に立つ。
数年通っていた塾の廊下は初めて来たときよりも狭く感じた。
塾を辞める手続きの為に廊下で待たされて数分。隣に立った知らない男に声を掛けられて数秒。あたしは隣の男から逃げるわけにもいかず、二メートル程隣から向けられる視線を無視し続ける。
こんなやつ、同級生にいたっけ。見たことないな。新人かな。
『あ、僕? 僕は高一だから君は僕の顔を知らないかも』
なにそれ、気持ち悪い。あたしのことを一方的に知ってるってこと?
ちらりと視線を向けて声の主を見る。身長はあたしより十センチ大きいくらい。体は細く、なよっとした印象。真面目な髪型もその印象に拍車を掛けていた。
『君、僕と同じ目をしてるから気になってたんだ。受験前にそんな目をしてる人はここにはいないから、珍しくて』
『……目?』
『うん。よく言われるんだ。目が死んでるって。君は鏡で見る僕の目と同じ目をしてる』
失礼な人。声を掛けておいて目が死んでるなんて最低な口説き文句だ。
『ごめんね。気を悪くさせたなら謝るよ。僕は本当に君がここを辞める理由が知りたいだけなんだ』
それでも尚しつこく食い下がる男を無視しておくのも頭にきて、不機嫌な声で返答を投げ捨てる。
『なんかもう。どうでもよくなって』
『へぇ……』
どうしても知りたいと言うから教えてやったのに、当の男は曖昧な相槌を返してくるだけ。流石にイライラしてくる。
『用は済んだ?』
『もう一つだけ』
『は?』
『僕も先生を待ってるんだよ。だからそれまでにもう一つ』
男と目を合わせないように職員室の扉を見ていたあたしの目の前に男は立つ。視界の中央に入った男の目は、彼が自称するように光を写していなかった。
『君は何のためにここに通ってたの?』
なにを聞かれても答える気は無かったけど、その質問だけは別だった。あたしがここ数カ月抱えていた鬱憤を晴らすのに丁度よかった。誰にも言えない愚痴を吐き出せるなら、知らないこいつでもいいかと思ってしまったんだ。
『……母親の為だった。でも』
『でも?』
『裏切られた』
男の目にガンを飛ばしながら、ガムでも吐き捨てるように言葉を喉から出すと、男は静かに笑った。
『じゃあ、僕と同じだ』
その笑みは体育の授業でペアを見つけられなかった生徒が、視界の端に一人で歩く人間を見つけた時の様な。そんな救いの光を見つけた時の笑みのような気がして、とても気持ち悪かった。
『僕は鈴鹿佳晴。良ければ、友達になってくれないかな?』
『嫌だよ。気持ち悪い……』
それが彼との出会いだった。
通っていた塾は三カ月ごとに月謝を払っていたから、先生に辞めると伝えた後も一カ月近くは足を運ぶ羽目になった。一刻も早く辞めたいと思うのに、勿体ないが先行してしまうのを考えると貧乏が脳に染み付いてしまっているのかもしれない。
そして気持ち悪いことに、あたしが教室と玄関を繋ぐ廊下を歩くたびに、この男は待ち構えていたかのように自習室から顔を出し、あたしに声を掛けた。
『君、今日が最後でしょ?』
『……は?』
『今日月末だしさ。さっきも先生と話してたの見たから』
『うるさいストーカーがいなくなって済々する』
『寂しいなぁ』
『全然』
始めは真面目に無視を決め込んでいたあたしも、懲りずに声を掛けてくる男に投げる文句と苛立ちが募り、出会って二週間もすればあたしはこの男にきつい言葉を吐くようになっていた。
『高校受験はどうするの? このタイミングで辞めたら大変じゃない?』
『えり好みしなければどこだって入れる』
中学三年生の冬。学校の友達は大抵が受験勉強に精を入れ、初めての受験戦争に備える中、あたしはその目前で立ち止まっていた。マラソンで皆がラストスパートをかける中で立ち止まるあたしに、皆驚きの顔を見せるけど、正直ゴールまで走る気力はどこにも残っていなかった。
こんな人間を一般に「グレる」と表現するのだろうか。去年までは我ながら良い生徒だったと思う。学力だって校内で上位一割には留まっていたし、部活だってそこそこ頑張ってきた。先生からも信頼され将来を期待されていた、と思う。そんな人間が家庭の事情なんていう有り触れたものでこうなってしまうんだ。呆れられて当然かもしれない。
荒んで周囲に合わせられなくなったあたしの周囲からは徐々に人が減っていった。友達も減り、教師からの言葉も減り、そして家で母親と話すことも減った。そんな中ここで意気揚々と話しかけてくるこの男は感情の良い捌け口だった。
『あんたこそ、なんで毎日こんな勉強してんの? 受験も終わったんだしこんなとこ来なくてもいいでしょ』
『……まぁ、僕にはこれしかないからね』
ヘラヘラと笑う男に溜息をつき、あたしは廊下を進む。
『もう帰るの?』
『いや、駅前のゲーセンにでも行こうかなって』
『もう十時過ぎるよ? 危ない』
『今日はちょっと家に帰れない事情があんの』
頭にチラつくその事情にイライラしながらあたしは靴を取り出す。
ここも今日で最後。この男とももう会うことは無い。なのに。
『じゃあ、うち来る?』
『……は?』
この男はまるで駅前の女に掛けるようなセリフをあたしに投げかける。
『いや、別に変な意味とかじゃなくてね。君にとって僕の部屋は逃げ込むには丁度いいと思うよ』
『意味わかんないし』
『だから言ったじゃん。分かるんだ。君の気持ち。だって君は僕と同じ目をしてる』
またも軽い笑みを浮かべる男にあたしは警戒心を抱かなかった。
男の家なんかに足を運んだらレイプされるんじゃないか。なんて年相応の思考を巡らせるけれど、すぐにその考えは消えてなくなってしまった。目の前の男からは性欲なんて俗世じみたものは一切感じない。上っ面を取り繕って清潔感を醸し出そうとする男が浮かべる汚い笑顔とは根本的に違う。まるで、煩悩を全て捨ててしまったような、仏のような顔をしていた。
だからあたしはこの男の提案を受け入れる。
『その、君って呼び方やめてくんない? ある人を思い出してイライラする』
『じゃあ何て呼べばいいの?』
『麻里』
『上の名前は?』
『嫌いだから教えない』
『変な人だね』
『あんたもね』
あたしに強い言葉を投げられて嬉しそうに男は笑う。そういう性癖なのかな。ますますキモい。
『じゃあ、まーちゃんだ』
『は?』
『名前で呼ぶのって恥ずかしいからさ。だからまーちゃん』
『こっちが恥ずかしいからやめろ』
男はあたしの言葉にまた笑った。
『なにこれ……』
男の家を案内され、あたしは口を開けたまま固まる。
『知らなかったの?』
『知ってるわけないでしょ』
『結構有名だと思ってたけど』
案内されたのは駅から徒歩一分以内にあるマンションの一室。一家族が住むには小さい部屋。ただ高校生が一人で住むには大きすぎる部屋
『一人暮らしをしている高校生なんて珍しいからさ。良く噂になるんだ』
『親は?』
『ちゃんと生きてるよ。僕が一人暮らししたいって言ったら借りてくれたんだ』
『ボンボンじゃん』
『残念ながらね』
室内にはほとんど物がない。ベッドと机と本棚。カーペットもなく床は剥き出し。引っ越したばかりと言われても頷いてしまう程に生活感が無い。
『まぁ座ってよ。眠気覚ましの珈琲しかないけど、飲む?』
あたしが頷くとこれまた生活感の無い冷蔵庫の中から缶珈琲が二本、机の上に置かれる。
『この季節に冷たいのって』
『眠気覚ましだからね』
『おもてなしって言葉を知らないの』
『ごめんて。これでも友達を部屋に入れるのは初めてだから緊張してるんだ』
『これだったらマックで徹夜した方がマシ』
『そう言わずにさ。……それよりもびっくりしたよ。僕の噂を知らない人と話すのはこんなに楽なんだね』
『今からそれも全部聞くけど?』
『まーちゃんならきっと、聞き終わった後でも何も変わらずに接してくれると思うよ』
『だからその呼び方』
男。佳晴は缶珈琲のプルタブに指を掛けながら、ゆっくりと自己紹介を始める。
『みんな知ってるんだ。僕の家が金を持ってるって。一人暮らしなんてしてるくらいだから、言われても仕方ないのは分かってるけど。有る事無い事、正直うんざり』
『金があるんだから、仕方ないでしょ。その分良い暮らしをしてる。うらやましいくらい』
『そうだね。みんなそう言う。でもね。金は人をおかしくするんだよ』
そうして佳晴はあたしに様々なことを話していく。
家は隣町にあって父親はどうもお偉い外科医だという事。噂の通り家にはかなりの金があって裕福な暮らしをしていること。高校はこの近くにある日本でも有数の進学校に通っていること。そして母親の狂気じみた学習支援の事。
『ごめんね。こんな話』
また彼は軽い笑顔を張り付ける。薄い皮を一枚剥げばきっと笑顔なんてどこにもないんだろう。その証拠に彼の目は深く死んでいる。
『無理に笑わなくてもいい。その顔、気持ち悪いし』
『ほら。まーちゃんは普通に接してくれる』
『印象は変わった』
『やっぱり。まーちゃんは優しい。僕の見立て通りだ』
あたしを何も知らない彼があたしを褒めることに居心地の悪さを感じる。だから仕返しとばかりに、どんどんと彼のテリトリーに土足で入り込んでいく。
『母親にはどんなことをされたの?』
『聞きたい?』
『興味はある』
『そっか。でも別に面白い話はないよ』
『面白さを期待してないから』
『……勉強するときはいつも僕の後ろで見張っていて、覚えが悪かったり勉強の進みが悪いと怒鳴り始めるんだ。それがエスカレートしていくと手も出る』
『……』
『とりあえず僕を拘束して勉強勉強勉強。それ以外のことは片っ端から禁止。普段は良い人なんだけどね。自分の思い通りに成長しないと怒りだすんだ』
まるで育成ゲーム。あたしもやったことがある。特定のステータスを上げる為に同じモンスターを何度も何度も繰り返し倒し続ける。段々とそれが作業になっていって、上手く完成しなければ時間の無駄だったと割り切って捨てる。
彼が話す内容から考えられるのは、そんな作業を子供でやっている毒親。
『そしていつも言うんだ。ママを将来幸せにしてね。って』
『……反抗しないの?』
『昔はしてたかもね。でも、もうその気力もなくなった。最後の反抗として母親から逃げて一人暮らしを始めた癖に、毎日勉強ばかりしてるんだ。おかしいよね。もう僕の頭は勉強しかできない頭になってるんだよ』
『バカみたい』
『はじめて言われた』
話から逃げるように珈琲を口につける。真黒の缶に入っているその液体は、まだあたしの舌には美味しく感じない。ただ少しでも大人に近づきたくてそれを一気に喉に流し込んだ。
『まーちゃんが抱えてる物は今は聞かない。でも、好きな時に僕を捌け口にしていい』
『一生そんな機会訪れないから大丈夫』
『僕は僕を増やしたくないんだよ。……こんなの、間違ってる』
『そんな善意であたしに声を掛けたの?』
『それ半分、僕自身が救われるの半分』
『そう』
『だからまーちゃんはいつでもここに逃げてきていい。辛ければいつでも』
『……気持ち悪い』
そうだねと笑う彼の目は、あたしよりも暗く深い。その目を見ているとどこか落ち着く様な、そんな気さえしていた。
その日から結局、あたしはこの男の部屋に足を運ぶようになった。
二週に一回が週に一回になり、それが週二回になり。反抗期の中学生が家に帰るのを少しでも遅らせようと、学校に居座るのと同じように、あたしはこの部屋を居場所にした。
流石にこの部屋で朝を迎えることは無かったものの、いずれここで夜を明かすことになることは容易に想像ができた。それほどに居心地が良かった。
似たような人間と一緒にいることはとても楽で、深く呼吸ができる。気が付けばあたしの事情も彼に話してしまっていた。それでも、お互いの事情を知りながら口を出すことは無く、無干渉のままただそこに二人で居る。それにどこか温かさを感じた。
『まーちゃんは結局高校どうするの?』
『適当な所に入る。これでも今まで勉強してきた分があるからある程度の所には入れるし』
『それでいいの?』
『うん。別に目標もないし』
『そう』
担任にも同じことを言われた。目標が無くてもより良い高校を目指せとも言われた。勿体ないとも言われた。その言葉で担任もあたしの中では敵になった。
『なんでいい高校に行くんだろ』
『いい大学に行くためじゃない?』
『なんでいい大学に行くの?』
『いい所に就職する為じゃない?』
『つまんない』
『そうだね』
走ってきた道を立ち止まるあたしと、敷かれたレールの上を走り続ける彼。対極の二人だけれど確かに似ていた。
『まーちゃんはさ、夢とかないの?』
『……ないな』
『考えたこともない?』
『前までは公務員とかになるんだと思ってた。安定した職について、安定した生活をして、お母さんを養って』
前までは。
『でも、その目標もいらなくなっちゃったから』
『そう』
この男はあたしの意見を否定しない。無感情な相槌だけを入れてくれる。それがとても心地よかった。だから人間相手に話さない悩みもここでならするりと喉を通って出てくる。生気のない彼を壁か何かだと思っているのかもしれない。
『僕はね。夢があるんだ』
だからそんな彼が自分の夢を持っていると言い放った時には驚いた。
いつもは暗い沼の底を写しているような彼の目が一瞬だけ光を宿す。
『僕にはもう分からなくなっちゃったけど、まーちゃんと話していて少し理解はできた。僕が過ごしてきた勉強漬けの生活はやっぱりおかしい。でも今更僕の過去は変えられない。だから、少しでも僕のような人間を減らしたい』
『大層な夢。政治家にでもなるの?』
『ううん。もっと身近な存在だよ。空高くから見下ろしたって蟻の実態は分からない』
おかしな言い回しを使う。勉強し過ぎるとこんな捻くれた比喩を使うようになるのか。こうはなりたくない。
『僕はね。教師になりたいんだ』
あたしが見た鈴鹿佳晴の顔の中で、その瞬間が一番生き生きとした色だった。
いつもよりも平和な夢を見た。
悪夢には変わりないけど、ここ数日のと比べたらただ懐かしいだけの平坦な夢。
どうしてこんなに過去を思い起こしてしまうのかは我が脳ながら分からない。日を跨ぐ毎に長い年月をかけて作ってきたダムが壊れていくのを感じる。これが決壊した時、私はどうなるんだろう。
目を瞑りながら長い息を吐く。
体が重い。感覚が怠い。どれだけ長い時間寝ていたんだろう。四肢は動かず、まるで金縛りの様に意識だけが身体から覚醒していた。
「……あ」
口を開けてみると喉は乾燥しきっていて、唇を割るように動かしながら声を無理やり出してみる。
「麻里さん……? あぁ、良かった。起きたんですね」
その小さな音に反応して彼女が駆け寄ってくる。
「……今、何時?」
「朝の六時です。多分麻里さんが考えている次の日の朝です」
「丸一日寝てたってこと?」
「何度か起きてましたけど、意識も朦朧って感じだったので、記憶はないと思います。大丈夫ですか? とりあえず水持ってきますね」
私はベッドに張り付く背中を無理やり剥がして上体を起こす。節々が痛むが、起きてみると案外頭はすっきりとしていた。
「起きて大丈夫ですか?」
「うん。ありがと」
彼女からコップを受取りゆっくり体に流し入れる。乾いたスポンジの様に体が喜んで吸収しているのが分かった。
「朝、早いんだね」
「ちょっと眠れなくて」
「ごめん。私のせいだよね」
「……まぁ、心配したのは本当なのでその謝罪は受け取っておきます」
体を九十度回転させ、足を床に下ろす。右足の脛が痛み視線をやると青い痣が出来ていた。
「私……。昨日の朝、何かあった?」
何か大切なことがあったような、なかったような。思い出そうとするとそれを拒むように側頭部がズキンと痛んだ。
「先生、少し寝ぼけてたんですよ。ただそれだけです」
「寝ぼけてた?」
「はい。私、朝ご飯作ろうとしたら卵がなくて、朝コンビニに買いに行ってたんです。それから帰ってきたら、麻里さんに話しかけられて」
「えっと……私、廊下に出た? なんか階段で……」
「いいえ」
私の言葉に首を振る。
「そんなに寝ぼけてた訳じゃないですよ。ただ部屋で何かぶつぶつと言ってただけです。熱で夢見が悪かったんですかね」
淡々と話すその顔が綺麗すぎて逆に何か引っかかる。まるで詐欺師の笑顔みたい。
「あ、でも麻里さん、もう一つありました!」
「……ん?」
「麻里さん寝ぼけながら私の名前呼んだんですよ」
「いつも呼んでるじゃん。莉緒ちゃんって」
「違います! 莉緒って! 呼び捨てで」
興奮したように私ににじり寄り、ベッドに座る私を下から見上げる。
「せっかくなのでこれからは呼び捨てで行きましょう!」
「行きましょうってなに……」
「良いじゃないですか」
「嫌だよ恥ずかしい」
「今更じゃないですか。ほら。リピートアフターミー。りーお」
生徒と距離感が近くなり過ぎないように呼び捨てはこれまで避けてきたから、人を呼び捨てにすることに抵抗がある。まぁ、ちゃんづけで呼んでる時点で距離もクソも無いけど。でも、やっぱり抵抗が……。
「えっと……」
「ほら! り、お」
「……莉緒」
「はい!」
抵抗がある筈だった。しかし私の口からは案外するりとその名前が出る。既に何度か呼んだ後のような、初めてではない響きだった。本当に夢の中で私は口に出していたのかもしれない。それだったら心底恥ずかしい。
「じゃあ、朝ご飯にしましょうか」
彼女は満足げにほくほくと私の元を離れ、背伸びをする。
外はまだ雨。激しい風と雨粒が窓を叩いている。あとでテレビを見て知ったことだが、昨日の朝から関東には台風が直撃していた。
「麻里さん。もう一度名前を呼んでくれませんか?」
「……なんで?」
「ちょっと、勢いと言いますか」
「意味わからないんだけど……」
莉緒は何故か緊張した面持ちで私の前に正座する。一体何か始まるというのだろうか。
窓の外は激しい風。雨脚は弱まる気配はなく、買い物にも行けない。鈍色の空を見やってから、もう一度真面目な顔をする彼女を見ると、僅かに嫌な予感がした。
「ごめんなさい。本当はもっと早くにやっておかないといけなかったんですけど」
部屋の隅に纏めてあった荷物の中から袋を取り出し、私の前に置く。それは数日前買い出しの時に彼女の袋の一つにあったホームセンターの袋だった。
「多分麻里さんがうなされてたのは、私が心配させたせいでもあると思うから……」
彼女はぼそぼそと口籠るように独り言を放つ。
チラチラと私を覗く目からは、罪悪感と緊張感が感じられた。
「何言ってるのか分からないよ。……莉緒」
「――!」
名前を呼ぶとその表情も壊れ、明るくなる。そしてすぐに悲しい色に落ちる。
莉緒は大きく深呼吸をして、口を開いた。
「本当は隠し通そうと思ってたんです。でも、少しずつバレちゃって。だからこれは名前を呼んでくれたお礼です。等価交換としての情報開示ってことで。……あと、私のせいで麻里さんが苦しむのは、嫌なので……」
莉緒のせいで私が苦しむ。心配をしているのは事実だけど、苦しんではいない。それとも何だろうか。私が最近悪夢を見るのは莉緒のせいだというのだろうか。
「そんな、莉――」
瞬間。窓の外が激しい光に包まれる。雷だと知覚する間もなく、私は咄嗟に目を瞑ってしまう。
「麻里さん。可愛いですね」
「な――」
怖がってなどいないと言い訳するつもりで目を開いた。しかしそこにいたのはさっきまでの可愛らしい莉緒ではない。私の背中を凍らす鋭い視線を持つあの日の彼女だった。
私は言いかけた文句を喉に引っ掛けたまま、その燃え盛る炎の目を見ている。
その眼球に溺れる夢を見た。
その眼球に焦がれる夢を見た。
やはり私は彼女の命に惹かれていた。
「この間、私が深夜にキッチンで何をしていたか教えようと思って……」
彼女の息は次第に荒くなっていく。
一度にぃと口角を上げ、どこからともなくカッターナイフを取り出し、机の上に置く。学生が使うような一般的な物ではなく、シャープな形状をした銀色の物。機能性を重視した見た目のそれは、素人目でも切れ味が高いのだろうと予想が付く。
ハァ ハァ ハァ
一定の周期で息が漏れる音が聞こえる。あの夜に聞いた音と同じ。やはりあれは夢ではなかった。夢と現実の境界線が曖昧になってきている。…
…あれ、まだ忘れている何かがあったはず。
脳に綺麗な朝焼けが広がり、何かが浮上しかけるが、それは二度目の雷光に掻き消された。
莉緒は机の上に置いてあったカッターナイフを右手に取り、カチカチと刃を出していく。
頭が揺れた。
――。
雨の音。
――。
風の音。
――。
息の音。
――。
刃の音。
すべてが頭を揺らす。
気が付けば彼女の息遣いにも負けない程に私から漏れる音も大きくなっていく。これじゃまるで私が喘息患者だ。
息が出来ずに苦しい。
胸を膨らませても、胸を潰しても、肺に酸素が入っていかない。
穴の開いた浮き輪に空気を入れていくような、虚しい音が聞こえる気がする。
莉緒はその刃をゆっくりと手首に近づけた。その真白な肌に銀が近づく。
でも変だ。彼女の肌はあの日の夜に見た通り絹のように美しい。カットの痕なんでどこにも見当たらない。彼女が何度もカットを行っているのなら、もっと醜く肌の色が変色していてもおかしくないのに。
私の口からやめろという言葉は出なかった。
極度の緊張で声が出せずに、私は彼女の肌に刃が近づいていく一部始終を見つめることしかできない。
そして最後に。
ガチャン。という音を立てて、剥き出しのカッターナイフは机の上に転がった。
残るのは彼女と私の息の音。暫くそれらを鳴らし、ゆっくりと息を整えた莉緒は私に向かって情けない微笑を向ける。
「……ほら。……私はリストカットすら、できないんですよ」
肩で息をしながらカッターの刃を戻す額には汗が滲んでいた。
「……なにそれ」
彼女の行動やその理由、様々な疑問が掻き混ざり、的を得ない抽象的な疑問が口に出る。
「私は自分の体すら傷つけられない小心者なので、心配することは無いですよって言いたくて……。あとはこれです」
莉緒はホームセンターの袋を開け、その中身をひとつづつ机の上に並べていく。
カッターナイフにしっかりとした縄、業務用のガスライター。そして練炭。安直に考えられた自殺道具の数々が並んでいく光景に私は言葉を失う。
「流石にこれで本気で死のうとなんて思ってません。リスカだって人は死なないし、練炭も首吊りも苦しいだけでよく失敗するって聞きますもん」
「……じゃあ、なんで」
なんでそんな物を持っている必要があるの。縄だって練炭だって見る限り、買ってから一度も触ってない。綺麗に巻かれた縄にはビニールの留め具が付いたままだし、練炭にも厚紙で包装がされている。
ふと私の頭に希望がよぎった。もしかしてこの子は死という物に憧れるだけのただの思春期なのかもしれない。本当に死ぬ気なんてなくて、ファッションのように生き死にを考えるだけの子供なのかもしれない。
しかし、私の質問に答える莉緒の声色に、そんな幻想は壊される。
「安心するんですよ」
冷ややかな場所でほんのりと温かい場所に手を伸ばすような、切ない音。
「近くにあるだけで心が落ち着くんです。私はその気になればすぐにでも逝けるんだって思うと、怖くて怖くて。それが今日を生きる活力になるんです」
それは大学で履修した授業に出てきた自傷患者の行動原理の一つに近しい物があった。
「リストカットって押さえられない衝動を逃がすための行為じゃないですか。昔調べたことがあるんです。傷口から血液が流れることで高まった心拍が落ち着くらしくて。血圧の低下に安らぎを感じるとか、なんとかって」
莉緒は説明しながら自分の左手首をそっと右手の人差し指で撫でる。それを見下ろす彼女の目はその光景をどこか見下すような冷ややかさがあった。
「正直分かりません。だってそれってストレスを一時的に解消して、他の人達と同じ日常に戻るための行為じゃないですか。そんな、目の前だけを明るくするような逃げ道はいらない。……私にはできない」
静かながらも強い口調で言葉を吐く。
自分に言い聞かせているようにも見える言葉には強い熱がこもっていた。
「私にはそんな生き方出来ない。日常に溶け込むなんて怖くてできない。それだったらおかしなままでいいんです。私は必死に生きて、必死に生きて。生きて生きて、生きて生きて。そうして全力で死にたい」
まるで初日の夜と同じだ。
私には彼女の言葉が理解できない。莉緒が抱えている物を私が知らないからなのだろうか。それを知ればこの考えに頷けるのだろうか。それだったら私は彼女を知らないままでいいとまで思える。
「カッターを手首に当てると怖いんです。どんどん心拍数が上がって汗が滲んで。ただただ、怖いんです。でも、それでいい。だって怖いってことは生きてるってことじゃないですか」
自身にストレスを与える為に行動を起こしているとでもいうのだろうか。
結局は莉緒の行動だってその場しのぎの感情の処理じゃないか。
やはり彼女の行動は自傷行為そのものだった。少数派ながら自分の無感情に恐怖しストレスを与えることで安息を得る行為者がいると、私の頭には残っている。大学の授業もあながち無駄ではない。
そうして既存のケースで当てはめることで彼女を理解するのは間違っているのかもしれない。でも、私にはこれしかできない。
「自分の体に傷をつけたことはないの?」
「ないですよ。だって、大切な体ですもん。傷一つつけたくない」
彼女は死に恐怖し過ぎている。何があったらそこまで深く考える時間があったのだろう。普通の人間が日々の生活の慌ただしさに考えることを放棄してしまっている本当の恐怖という物を、彼女はいつも抱いている。だから必死に生にしがみつく。
あぁ、ようやく彼女が見えてきた。
彼女の形が少しだけ、見えるようになった。
だからもう、目の前の少女に恐怖は抱かない。私が彼女に恐怖を抱いたのは理解が及ばなかったから。
誰だって得体の知れないものは怖い。それは彼女だって同じ。
でも今なら私は、彼女に歩み寄れる。
「ごめんね。莉緒。私勘違いしてた」
「今更私がおかしな人だって、気づきました?」
「ちがうよ」
私はそっと笑う。初対面の小さな子供と話すように、笑顔を浮かべて、私は怖い人間ではないと訴えるように、そっと口を開く。
「莉緒は死にたがってるんだと思ってた」
「――」
「ごめんね。私が間違ってた」
彼女の目を見つめたまま言葉を続ける。
ずっとおかしいと思っていたんだ。彼女の目は死を望んでいる色をしていない。それがようやく理解できた。
彼女は単純で。多分どんな人間よりも正しい。純粋過ぎて、異端に見えるだけ。
「莉緒は必死に生きたがってるんだよね」
莉緒は大きく目を見開く。
その目は炎を灯していたが、その火に私が怯えることはもう無かった。
「死ぬのが怖くて、必死に生きようって。何もおかしな考えじゃないじゃん」
「――っ……」
だから私は彼女を肯定する。ここに来てようやく、莉緒の味方になれる。
「私だって死ぬのは怖いよ? だから莉緒は何も間違ってない。方法が少しズレちゃってるだけ」
「……麻里さんは私の事を知らないだけですよ」
「莉緒が何を抱えているのかは知らない。……うん。今の私は何も知らない。だからね。知らない私の目には、莉緒はただの女の子に見える」
「…………麻里さんは、優しいですね」
「そう?」
「おかしいくらい優しいです……」
莉緒は空気の抜けていく風船のように体を縮こませていく。
だから私はそっと腕を広げた。「怖がり」の女の子に対して精一杯の優しさを見せる。
こんな表現は間違っているかもしれないけれど、今の彼女にはそれでいい。難しいレッテルなんて彼女には張りたくない。単純に考えるだけでいい。クラスに一人はいる怖がりな少女。彼女はたったそれだけでいい。
「莉緒」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げ、腕を広げる私に首を傾げる。
「おいで」
「そんな子供みたいな扱いしないでください」
私は莉緒に微笑み、もう一度精一杯の優しさで彼女を呼ぶ。
「……なんでそんな」
莉緒は私の行動に小さく不満を募らせながら、ゆっくりと私に近づく。
「麻里さんはやっぱり変です……。鈍感かと思えば、急に察しが良くなって」
照れ隠しのように口から様々な言葉を吐きながら、莉緒は私の胸に顔を埋める。そっと背中に手を回しゆっくりと力を入れていくと、彼女の体温が確かに感じられた。
「明日からはさ。沢山楽しいことをしよう?」
「楽しいこと?」
「うん。ちょっとの勘違いで三分の一を無駄にしちゃったけど。……まだ夏休みは終わらない」
これまでは彼女を外に出すのが怖かった。危険の多い場所に彼女を晒すことで、ふとした瞬間に消えてしまうような気がしていたから。
でも今ならば違う。
やっと私がするべきことが分かった。
彼女に必要なのは楽しい生活。ただただ楽しい、小学生の夏休みのような。毎日ワクワクできる日々。
遊んで疲れて堕落して。恐怖なんて感じる間もなく人生を謳歌する。
それが彼女に必要な夏休み。
「でも麻里さん。夏っぽいこと苦手そう」
「だから一緒にやるんだよ。莉緒とだったら楽しめる」
「そっか」
私の背中に回った手に力が籠められる。
私は雷に怯える子供を相手するように、優しく優しく莉緒の頭を撫でた。
「で、楽しい夏休みはどこに行ったんですか?」
「……ごめん」
台風は過ぎ、明け方まで降っていた雨は止み、空は青々と眩しい。
それは私達の心情も同じで、今まで無意識に保っていた微妙な距離感は消え始め、幾分か距離の縮まった関係が形成されつつあった。
喧嘩をした訳でもないが、雨降って、というところだろうか。ただ距離の詰まった途端、莉緒の言葉が心なしか強くなったのが今抱える小さな問題。
「それはまぁ、忘れてた私も悪いですよ。昨日の夜は浮かれて、明日は何をしようかなんて考えてた私もいました。でも、当の本人が忘れていたのは話が別じゃないですか?」
「別に忘れてたわけじゃ」
「ほら、さっさと授業に戻ってください」
「反論くらいさせてよ」
私はキッチンでその場に不釣り合いな教科書を広げる。目線の先にはローテーブルにノートを広げた生徒。こと、三年藍原莉緒。
「じゃあ、問二の開設から入ります……」
「先生。声が小さいでーす」
「部屋でそんなに声張れないでしょ!」
「じゃあ外で発声練習からやります?」
「なんでそんなに体育会系の発想なの……」
大学の時入っていたサークルを思い出しながら私は溜息をつく。社会に出てから三年目の人間にそのテンションは辛い。
「ていうか、もうやめない? 莉緒相手じゃ練習にならないよ」
「私じゃ役不足ってことですか?」
「まぁ、それもあるよね」
「馬鹿にしてます?」
「まぁ、多少は」
やる気のない私に頬を膨らませる自称生徒は、手に持っていたノートを投げ出すようにして床に転がった。
昨日あんなことを言ってみたものの、今日は七月三十一日。月の終わりという事は明日からは八月がやってくるわけで、八月の頭には私の教員採用試験があるわけで。
二次試験の内容は集団討論と模擬授業。そして個人面談。正直何を対策すればいいのか分からないし、分かったとしても対策するモチベーションがない。集団討論は適当に議題について意見を述べて周囲との協調性を見せればいいし、模擬授業なんてどうせ数分だ。毎日実践を行っている身としては欠伸が出る。問題なのは面接だけど、それはまぁ、もう今更どうにもならない訳で。
だから今日は彼女のしたい事でもしようかなんて思いながら朝ご飯を食べていたのに、莉緒は私の試験の日程が明日だと知るや否や前日くらい対策しろと騒いだ。
「買い物でも行こうよ。莉緒もそろそろどっかに買い物行きたいでしょ?」
「麻里さんの試験の方が優先ですー」
「莉緒がそんなに気にするもんじゃないって。受かる時は受かるし、落ちる時は落ちるんだから」
「麻里さんそれでもう三回も落ちてるんですよね? そろそろ危機感を持った方がいいですよ」
「そんなこと言われてもなぁ」
私は教卓に見立てたシンクの上で教科書を閉じ、莉緒の横でソファに寝転ぶ。
「ちょっと、授業中ですよ?」
莉緒は床に転がったまま天井を見上げている。そんな体勢の奴に授業の続行を促されたくない。
「そんな真面目なセリフは莉緒には似合わないよ」
「……もう。だって、私のせいで麻里さんが試験に落ちたら、私、合わせる顔無いじゃないですか。無理やり家に押し入って、迷惑はかけたくないんです」
「心配性だなぁ」
ソファに寝転がったまま腕を伸ばすと丁度莉緒の頭に触れることが出来そうで、髪を撫でまわしてやろうと狙いを定める。莉緒はそれに気が付いたのか、触られることを嫌う猫のようにそそくさと距離を取り、私のことを上目遣いで睨む。
「やっぱり麻里さん、おかしいです」
「そう?」
「だって普通だったら教員免許って必死になって取るものじゃないんですか? いわばそこがゴールで、そこからがスタートじゃないですか」
「一生勉強、なんて言うくらいだし」
「でも、麻里さんはどこか既にゴールしている雰囲気があるじゃないですか」
「あぁ……そう?」
「あぁって」
何度も試験に落ちている理由は意欲の欠如だと理解はしていた。教師としてこれから生きていくモチベーションは高くなく、貫きたい信念も多くない。別に子供が好きなわけでもなければ、勉強を人に教えることに楽しさを見出してもいない。
もし適正職業を決めてくれるシステムがあるとしても、私に高校教師という職業は絶対に当て嵌まらないだろう。
でも、私はここにいなければならない。
たった一つだけ理由がある。
「元々私、高校教師になりたい訳じゃなかったからさ」
「成り行きで先生になったってことですか?」
「ううん。違う」
これは人に話してもしょうがないこと。親にだって話したことは無いし、面接で口に出せるわけはない。でも、目の前の少女になら話してもいいかなと思える。
「これはね。ある人の夢なの」
これは彼の夢。
私が代わりに叶えた、ある男の夢。
あの頃、なにも持っていなかった私に唯一残された道しるべ。私は前に進むためにそのレールに乗るしかなかった。だってその道以外は全て暗闇で、どっちが前かすら分からなかったんだから。
「偶々ね。私がある人の夢を引き受けることになって。そして偶々私はその夢を叶えることができた。それだけの話だよ」
莉緒は私の言葉を聞き眉を顰める。
「もう叶えちゃったんだ。だから正直、ここから先に意味はないんだよ。教師を続ける必要もない」
「……なんですか、それ」
「でも、私、主体性無いからさ。何でもいいんだ。だからこのまま教師でいいかって」
莉緒の言葉の端は僅かに震えていて、それはまるで初日の私を見ているようだった。
人間、自分の理解が及ばない範囲には恐怖を覚えるしかない。
「ごめん。忘れて。つまらない話だから」
「本当に、つまらないじゃないですか……」
「……ストレートに言われると流石に傷つくよ?」
ただの過去話のつもりだった。だから私は飄々と、まるで莉緒が死の話を口にするように軽い口調で声にする。だって私もこの話は何度も何度も考えて、飲み込んできた物語だったから。だからこの話に関して私の感覚は麻痺していて、口に出す際に感情は追いついてこない。
でも、それを聞いた莉緒は違った。
勢いよく私に近づき、手を握られる。驚いて顔を上げると、莉緒の目は動揺の色をしていた。
「そんなの、つまらない……。だって、麻里さんの人生ですよね。今の話じゃ、まるで別の誰かの代役じゃないですか」
莉緒の声は芯から震え、次第に握られた手にも震えが伝わってくる。
それを見て私は嬉しく思った。
こんなにも私のことを思ってくれる人がいるなんて驚いた。
「莉緒は優しいね」
「だって、明らかにおかしいじゃないですか。そんなの生きてる意味――」
こんなにも私の目を見てくれる人がいたんだ。
そんなことに、驚いた。
「私は良いんだよ。ずっと、私はこうして生きてきたんだから」
長瀬麻里という人生はとうの昔に断線した。
だから、私にはもう、目的地はない。
途切れた私のレールの近くに、運よく廃線があったからそこに移っただけだ。
元から夢なんてなかった。だから誰の夢でも別に良かった。
前に進むための光であるなら、なんだってよかった。
「やっぱり、おかしいです」
「本当だね。莉緒に何も言えないや。自分でも分かってた筈なんだけどね。何もない人間だって」
ただ自分で人生を終わりにするのは怖いから、自然と燃料が切れるのを待っている。
意義もなく意味もなく。
ただ消耗しながら、消えていくのを待っている。
「そんなこと言わないでください」
教師になるのが夢だと言っていた。
だから私が代わりに教師になった。
正直私には非常勤講師も正規の教員も違いが分からない。
生徒の前に立って、様々なことを教えて。たまに彼の受け売りを話して。
いつしか私はここまで来ていた。
「だから莉緒の言う通り。もう私はゴールしてるとも言えるのかもね」
肩をすくめて笑って見せる。おどけたつもりだったのに、なぜか莉緒は顔を歪めた。
「じゃあ、麻里さんは何を目標に生きてるんですか?」
そんな莉緒から投げかけられたのはここ数日必死に考えた問。
彼女と対話する為に秘かに考えていた命題。
模範解答なんかないけど、きっと私の答えは世間一般からするとズレているんだろう。
「考えたんだけどね。答えが出ないんだよ。どうやっても出ない。だから私の答えは簡単なんだろうなって。……死にたくないんだ」
とても簡単な答え。
昨日の莉緒を抱きしめた時、辿り着いた。
異常なほど死に怯える彼女を見て、私もそうなのだと思った。
だから、私達は似ている。
そして。
対極にいる。
「……」
莉緒は何も言ってくれない。
「死にたくないから、生きている。自明の理って感じだけど」
もう一度、今度は自分に言い聞かせるように呟いてみる。その言葉には意味などなく空っぽで。何もない私には丁度いい回答だった。
「なんですか、それ。……意味わかりませんよ。急に先生みたいなこと言わないでください」
「自明の理? 覚えといたほうがいいよ? 何かと便利だし。証明す――」
「そんなこと言ってるんじゃないんです!」
悲鳴の様だった。莉緒の声が世界全ての音を掻き消してしまったかのように、真白な静寂が響く。ピリピリと痺れるように耳が痛み、少し考えてようやく莉緒が叫んだことを知った。
彼女が感情を剥き出しにしたのは十日も一緒にいて初めてのことじゃないだろうか。自分がその悲鳴の対象であることなど忘れ、莉緒が感情を露わにしたことに喜びを感じた。
いつも常に面を被っているような彼女の素を見ることができて、心が躍る。
「ごめんなさい。ちょっと、外に出てきます」
そして彼女は静かにこの部屋から出ていった。
とても綺麗な夕暮れだった。
窓の外は橙に染まっていて、明日の準備を終えた私はキッチンで料理の真似事をしてみたり。
莉緒はまだ帰ってこない。心配はあったけれど、どちらかと言えば罪悪感の方が大きかった。まるで叱られた後の子供みたい。彼女が感情を高ぶらせた訳はいまいち理解できないけれど、彼女が返ってきた時に機嫌を取れるようにこうして包丁を握っている。思考回路が小学生だ。
トン、トン、とぎこちない音が部屋に響く。
「静か……」
久しぶりに部屋に広がる静寂に震える。エアコンの設定温度はそこまで低くない。この震えは肌寒さというよりも。
「……寂しいんだ」
独り言を口にするのだって久しぶりだ。いつもならすぐに「なんですか?」と声が返ってくるのに、今は窓の外で鳴る蝉の音しか耳に返ってこない。
寂しさなんて感じるのはいつぶりだろうか。
大学進学を機にこっちに越してきた時だって、そんな感覚は覚えなかった気がする。数週間だけ付き合った彼氏と別れた時も、大学を卒業して友達と離れた時も、寂しさを自覚したことは無かった。
「なんでだろ」
そんなの簡単なことで。ここ数日がとても。
「楽しかったんだなぁ……」
始めは咄嗟の判断だった。彼女の手を離したら泡になって消えてしまいそうで、見知らぬ少女の自殺を止める為の行動だった。
今でも彼女を知れたとは思えないし、恐らく半分も莉緒は素を出してくれていない。それでも、彼女は初日よりも多く笑うようになった。
それにここ数日で、手を放しても彼女はすぐに消えてしまう訳ではないと思えるまでには理解が進んだ。数日前の私だったら家から出る彼女を追いかけていただろうし、見失ったら必死で捜索していただろう。それをこんな悠長に帰宅を待つ選択肢を取れるようになったのは大きな進歩。
そして、恐らく彼女よりも変わったのは私。
毎日ただ歯車のように回り続け、無感情に生きていた私がこんなに感情を表に出している。
自分の変化になんて大抵気が付かないものだけど、それが分かってしまう程に、私は変わった。彼女に変えられてしまった。
これじゃあ、どっちが手を差し伸べているのか分からない。
もしかすると、莉緒は神がこんな私に見かねて差し向けた天使なのかも。
そんな冗談を浮かべてしまうくらいには、確かに彼女に救われていた。
「……依存、しちゃうな」
壁にかかったカレンダーを見る。
今日が終われば八月。もう夏休みの三分の一が終わる。
包丁を置いて軽く手を洗い、タオルで両手を包みながらカレンダーに近づく。ぺらりと一枚捲ってみると、八月の二十六のマスに赤いペンで丸が付けられていた。
「ずっと前に書いたんだっけ」
印の下には始業式と書かれている。きっと莉緒と出会う前の私が書いた文字。
休みが終わって仕事が始まる。そんな辛い日だったけれど、今ではそれ以上に心が痛む。
その日が来たら彼女ともお別れ。この奇妙な同居生活も終わる。
「夏休みがずっと続けばいいのに」
蝉の音に乗せて放つ言葉は、正しく子供の頃に願った言葉と同じ響きだった。
私は手に持った七月に力を入れ、カレンダーから切り離す。
紙が破ける心地よい音に乗せて、玄関でいつもの声が響いた。
「ただいまです!」
声色は明るく、私の罪悪感は払拭される。
「どこ行ってたの?」
「色々です。散歩しながら色々と考えてきました」
「なにを?」
「毎日を輝かせる方法!」
玄関の暗がりからリビングに足を進める彼女の顔が夕日に照らされて光った。額に汗を浮かべる彼女は、また意味の掴みづらい言葉を放つ。
「輝かせる……?」
そして夏に咲くひまわりのように大輪の笑顔を見せながら、昨日私が莉緒に放った言葉を繰り返した。
「明日からは、楽しいことを沢山しましょう!」
私は面食らったように立ち竦む。やはり、まだ彼女の思考が読めない。ただ、彼女の言葉に頷かない訳がなかった。
「うん。楽しい夏休みにしよう」
彼女と過ごす生活は本当に楽しい。
彼女の為だなんて思いながら昨日発した言葉は、もしかすると私自身が彼女に言って欲しかった言葉なのかもしれない。
自分の事なんて、分からないものだ。
多分、私は私自身を理解していない。そういう風に、人間はできている。
それは彼女自身もそう。
だから私は彼女を見る。藍原莉緒が私を救っているように。私も彼女を救える。
これはそういう生活だ。
莉緒は玄関から上がると真先にベランダの鍵を開ける。
そして勢いよく扉を開けると、エアコンの効いた部屋に熱い空気が流れ込む。
「ねぇ、麻里さん。知ってますか?」
莉緒は部屋の中にいる私に振り返りながら、ベランダで空を指差す。
「午前中に雨が降って。午後にはカラっと晴れて」
莉緒は笑う。
「そんな日には、空が良く染まるんです」
彼女が背負うのは橙の空。
それはあの橋の上の光景を彷彿とさせる。
とても、美しい景色だった。
「ねぇ、麻里さん。夕日が綺麗ですね」
夏の花は満面に笑った。
「行ってらっしゃい」
スーツ姿を誰かに見送られるのは初めてだった。
教員採用試験の二次選考。四度目の正直と考えるとかっこ悪い。朝起きると莉緒は私よりも緊張していて、私が緊張する隙なんてなかった。
長いペーパーテストを行う一次と違い、二次は半日で決着がついてしまう。だから午前と午後の二つのグループに分けられる。そして私は午後の組。
今日から八月。日中の日差しは当然強く、堅苦しい格好が鬱陶しい。ただ毎日莉緒とこの日差しの下に足を運んでいた効果からか、肌を焼く太陽にそこまでの嫌悪感は抱かなかった。
会場に着くころには額には汗が浮かぶ。ただ、早めに家を出ろと五月蠅かった莉緒のお陰で時間に追われることも無く、待機室に人が溢れる前に腰を下ろすことができた。
周囲を見回すと、ポツポツと歳のいっている人も見えるが、若い人の方が多い印象だった。学生に見える男女も結構な数いる。私も若い枠に含まれていると信じたいが、何しろもう四回目。幸か不幸かそこそこの場数を踏んでいる。そわそわと落ち着かない様子で教本や携帯と睨めっこする子達とは違い、私の心情は穏やかで、緊張とは無縁な待機時間だった。
時間が来ると待機室内に男が入室し、個人名を読み上げられ別室へ移動するよう促される。
軽い説明の後に五人毎のグループに分けられ、小さな会議室に通された。四角い机を囲むように私達は座る。面接官は三人。一人は私達と同じテーブルに着席していて、他二人は部屋の隅で記入用のボードを持って私を見下ろしている。
軽く自己紹介を終えると、集団討論が始まった。
今回のテーマは何だろうか。これまで受けてきたテーマは「いじめの早期発見とその対応」「郷土愛を育むための教育とは」「保健室登校を行う児童をどのように対処するか」どれも明確な答えの無い物ばかり。それについて長い時間討論させて、協調性や主体性を見るのだろう。
面接官の中でも一番偉そうな人物が咳払いをし、私達は息を飲む。
そしてテーマが告げられた。
「では、テーマを発表します。テーマは児童虐待と学校側の対応について」
「――」
私は息を飲む。最悪なテーマだった。
早くなる心拍を落ち着かせる。大丈夫。平然としろ。これじゃ初めての子達と何も変わらない。
「時間は合計で四十分です。まずは各自一分程度に自分の意見を述べてからグループでディスカッションをし、児童虐待を発見した際に学校側が取るべき行動について意見を纏めてください」
正解は無いので良く考えてみてください。そう軽く言い加えて、面接官は手元のボードに視線を落とす。
「では、始めてください」
卓上の時計が鳴り、時間が動き始める。
途端。若い女が一人、手を上げた。
「まずはタイムキーパーを決めましょう!」
恐らく学生。はじめてのディスカッションなのだろう。主導権を握ろうと必死になっているのが手に取るように分かる。
「そうですね」
テンプレートのセリフを放つ彼女に落ち着いた声色を返しながら、この子に今減点が入っただろうななんて考える。
焦らずゆっくりと、平常心で。
無難な意見を述べて円滑に場を回せ。
ここでは我を出してはいけない。
そう言い聞かせながら他人の意見に頷いていると、いつの間にか私の番が回ってくる。
お題のせいで思考が回りすぎている。
余計なことを言わないように、気をつけないと。
「ええと、長瀬さんはどうお考えですか?」
主導権を無事握れた女が私に話を振った。
前の人に乗っかろう。余計なことだけは言わないように――。
しかし、そう考える頭など私の身体は待ってくれずに、口は動きだす。
「私は、児童虐待で一番たちが悪いのは、親が虐待している自覚のないパターンだと考えています。例えば――」
真先に飛び出す言葉に内心では頭を抱える。これは私も減点が入るのかな、なんて諦めの思いが浮かんできた。
「長瀬麻里と申します。よろしくお願いいたします」
グループワークが終わり、一人五分程度のままごとのような模擬授業も終わり、最後の個人面接の時間がやってきた。
「どうぞ」
「はい。失礼します」
私一人に向かい合うのはスーツの男二人。どちらもそこそこ歳をとっていて威圧感がある。
面接は嫌いだ。ここで初めて会う人間に私を評価される。
数分の会話と紙に書かれた千文字前後の情報で何が分かるというんだ。まぁ、教員という職業に心から夢を抱いている訳ではない私の心情を読み取って、正確にお祈りをするくらいには私のことが分かるんだろうけれど。
自己評価の低い私でも、他人に否定されるのは苦手だ。
そこまで考えて、まだ私に承認欲求が残っていることに気が付く。化粧もするくらいだし、まだ他人の目は気にしていたんだ。面接なんていう自分探しの時間に重要なことを思い出せた。
学歴から学生時代の話。これまでの話に、様々な質問。恐らく誰にでも同じ物をしているのであろう定型文に返答し、その答えを履歴書にメモされていく。
なんでこんなことしてるんだろ。
教師になんてなりたい訳じゃないのに。
どうしてこんなところで。
そういえばこれ、去年も同じこと思ったっけ。
今年こそは受かると思ってたんだけどな。このままじゃまた落ちてしまう。
なんでこんなに気分が落ち込んでいるんだろう。
多分集団討論のお題のせいだ。あれのせいで過去を思い出してしまったから。
「では、少し早いですが、こちらからの質問は以上です」
面接官の言葉で、すべての質問が終わったことを知った。
上の空で答えていった質問は振り返っても何一つ思い出せない。
また、駄目だった。
「ありがとうございます」
「長瀬さんから質問はありますか?」
「いえ。ありません。大丈夫です」
「そうですか。では結果は事前にお伝えした通り、九月の十……」
落ちたな。受かる感触が無かった。
大学受験が終わった時とは大違いだ。あの時はテストをしながら無感情に自分が合格することを分かっていた。でも採用試験にはそれがない。
やっぱり私は向いていないのかもしれない。試験の前までは自信があるのにいざ受けてみるとこれだ。結果を莉緒が聞いたら悲しむだろうか。あれ程対策しろと言ったのにと怒るだろうか。……あ、でも、結果の通知は九月だから、その頃にはもう彼女と一緒に生活していないのか。
私は頭を下げて席を立とうとする。ガタと小さくパイプ椅子を揺らした時、面接官の一人が声を発する。
「あ、長瀬さん。一つ最後にお聞きしてもいいですか?」
私は驚きながら面接官の顔を見上げ、小さく頷く。
「先程の討論から少し体調が悪そうに見えたのですが大丈夫ですか? もし体調が悪いなら落ち着くまで別室をお貸ししますが……」
「あ、いえ……」
大人が私の顔を見ている。覗き込むように私を観察する。それがとても胸を搔き乱して、汗が噴き出る。
児童虐待。そんな単語を聞いてしまったからだろうか。
私は鮮明にあの光景を思い出す。
最近ずっと見ている夢に引き込まれる。
「あの、一つ、質問してもいいですか」
「え? あ、はい。どうぞ」
「先程の集団討論のお題なのですが。行き過ぎた教育……。教育虐待にはどう対処すればいいとお考えですか?」
私は面接官の顔も見ずに机を凝視しながらそんなことを聞く。
もう面接の出来が良い悪いの問題ではなくなってしまった。
私は何を口にしているんだろう。
「ええと。それは私個人の考えでも良いでしょうか?」
「……はい。すみません」
「いいえ。大丈夫ですよ。……そうですね。県が、いや、日本が抱える大きな問題の一つだとは考えています。そもそも勉強や塾。習い事で詰め込まれた生活で幸せになる子供なんていないんじゃないでしょうか。でも現状は、それを親御様に伝えることがとても難しい」
男は丁寧な言葉で私の質問に答える。
しかし、私の耳にはその一つすら届いていなかった。
五月蠅い。
耳元で救急車の音がする。
扉を叩く音がする。
私の悲鳴が聞こえる。
どうして、こうなってしまったんだろう。
もう何が何だか、分からない。
おかしいよ。私。
壊れてしまったみたいだ。
「私は、今の教育は全てがおかしいと思います」
私の口から出るのは理屈もないただの文句。
「好きなことをして、笑って、それだけで十分な筈なのに」
私の口から出るのは私の中に巣食うただの願望。
止めなきゃと思う私はまだ残っていた。
それでも、この口は止まらない。
目の前で面接官たちは口を開けて固まっている。
さっきまで受かる気がない程に無気力だった面接相手が、急に教育を否定しだしたんだ。驚かないはずがない。
「勉強なんて、必要ないのに!」
体は震えている。
やめてよ私。
そんな話をこの人達にしたって何も変わらない。
これじゃ試験どころじゃない。
非常勤講師としてもやっていけなくなる。
体は震えた。
肌は泡だった。
視界は揺れた。
理性は焼き切れた。
「長瀬さん! 大丈夫ですか? ちょっと!」
まるで水中にいるみたいに、外部の声は鈍く反響する。
肩を揺すられた。
視界は真暗だ。
私は今立っている?
私は今、どこにいる?
これ以上はいけない。正気に戻って、頭を下げなくちゃ。
適当な理由をつけて誤魔化さなくちゃ。
じゃなきゃ。
教師を続けられなくなる。
…………。
それでも。いいか。
「私の友人は、教育虐待の末に自殺しました」
プツン。
電源を抜かれた機械のように私の全ては消え、気が付けば私は真白な病院の天井を見上げていた。
『まーちゃん、最近ずっとここにいない?』
『居心地がいいんだからしかたないよ』
『実家の居心地が悪いだけでしょ』
『……迷惑?』
『いや、別に』
受験を諦めた私は、これまで積み重ねてきた勉強の貯金を使ってワンランク下の高校に入学し、晴れて花の女子高生となった。中学時代よりも制服は派手になり、スカートは短くなる。バカ騒ぎする連中とつるみ、メイクも覚えた。そうしてゆっくりゆっくりと自分を変えていき、高校一年の夏が来る頃には昔の優等生だった私は消え、本格的にグレた私が誕生していた。
原因は明確で、これまで停滞していた家庭の問題が私の高校進学を機に一気に動き始めたから。母親と会話する事は無くなり、家に帰る事すら避けるようになった。
『だからって僕の家を寝床にされても』
『佳晴だって同じでしょ。家から逃げてここにいる』
『まぁ、そうだけど』
私が避難場所に選んだのは佳晴の部屋。週に三回彼の母親が部屋を訪れる時間帯を除いて、ほとんどの時間をここで過ごしている。勿論、私がいるという痕跡は残さない。もし佳晴の親に私の存在がバレようものなら。考えるだけでも恐ろしかった。
『悪魔が来る前に部屋を掃除してあげてるんだから、ウィンウィンでしょ』
『部屋を散らかしてるのも主にまーちゃんだけどね』
佳晴は私がいても基本的に机に向かっていて、私は私で勝手にゲームをしたり本を読んだり。
母親から逃げることに成功したのにもかかわらず、彼は時間が経っても勉強から離れることができなかった。もう一年以上一人暮らしを続けているのに呪いは解けない。脅迫されるように毎日毎日机に噛り付いていた。
そんな彼に呆れて私は少しずつ世間一般の娯楽を教えていく。
ゲームもインターネットもほとんど触っていなかった彼にとって、私の持ち込むものは物新しいらしく、電子機器を触る年寄りのようにたどたどしく好奇心を満たしていった。
ゲームにはそこまで興味を示さなかった彼だが、インターネットには狂気的なまでにのめり込んでいた。そこには無限に広がる知識の海があり、自分が無知であることを知ったのだろう。
インターネットを禁止するとはすごい親だ。情報統制もいいところ。
そんな無知な彼に新しい世界を教えるのは、彼の親への反抗を手伝っているようで楽しかった。
『まーちゃん。流石に家に帰った方がいいと思うよ』
『それ佳晴が言うの?』
『だって女子高生が男の家に毎日泊ってるなんて知られたら、学校でも問題でしょ?』
『佳晴の親が来る日には家に帰ってるじゃん』
『もっと家に帰った方がいいって話』
『何回も言ってるでしょ。あまり帰りたくないの』
『まぁ、それを知ってるからここに入れてるんだけどさぁ』
『じゃあいいじゃん』
ここは家から逃げた人間達の隠れ家。理由は違えど、似ている二人。例えば死んだ目とか。
人の家だとは分かってはいるけれど、居心地がいいんだから仕方ない。
『それに私、佳晴を男だって思った事ないんだけど?』
『なんだと思ってるの?』
『うーん。死体?』
『ゾンビってこと?』
『そ。だって生きてて楽しそうじゃないし。性欲とか皆無だろうし』
『やっぱりそう見える?』
『私からはね』
その言葉に佳晴は彼特有の笑顔を浮かべる。関係性を取り繕うために拵えた偽造の笑顔。
『それ、気持ち悪いからやめてって言ってるじゃん』
『学校では結構評判だよ? 笑顔が素敵って女子からも言われる』
『全員頭が狂ってるんでしょ』
『酷いなぁ』
驚くことにこの男は高校で多少なりとも女から人気があるというのだ。
細い、白い、殴ったら折れそう。そんな男のどこがいいんだかさっぱり分からない。顔は整っているが、良い意味ではなく、まるでアンドロイドのような無機質さを感じる整い方。笑うと正しく不気味の谷が現れるようだった。
じゃあ、ゾンビというよりもロボットと形容した方がこの男には相応しいのかも。
『そもそも、その鈴鹿君が毎日のように女を部屋に上げてることは知られてるの?』
『だからもっと家に帰った方がいいって言ってるんだよ』
『女子人気が離れるのが心配?』
『まさか。僕が怖いのは母親だけだよ。回り回って噂があの人の耳にでも入ったらお終いだからね』
話を続ければ私が負けることは分かり切っているから、会話を途中で放棄して携帯に視線を落とす。そうすると目の前のロボットはくるりと反転して机に向かい、また静かに勉強し始める。
その背中は悲壮感に溢れていた。
『……本当に迷惑だったら言って。出ていくから』
『まだ迷惑ではない』
『そ』
『これでも救われてるんだ。まーちゃんといると僕は人間でいれる気がするから』
勉強しながら発せられるその言葉に信憑性は微塵も感じられなかった。
目を開けるとそこは知らない天井。
無機質で清潔感の溢れるその明るさに目を傷めながら私は体を起こす。
「病院……。あ、そうだ。病院に運ばれて……」
昨日からの記憶が曖昧だった。
面接会場で意識を失った私が次に目を覚ましたのは、もうこの病院内。恐らく昨日の夜だろう。幾つかの質問をされ、それに返答し、今のところは問題ないと診察された記憶がある。そこで気分の悪さを訴えたらそのまま病室に通されて。
入院て、こんな簡単にするもんなんだ。
意識が朦朧としていたせいでもあるが、病院で一晩を過ごす選択をした自分に驚く。一体いくら請求されるんだか。酔った勢いでぼったくりの店に入った時のような気分だった。大学生の頃に一度失敗したっきり、店では飲まなくなったから、あれはあれでいい体験だったけど。
入院するのは初めてではないが、とても久しぶりに感じる。思い返せば社会人になってからは自ら病院に足を運んでいないかもしれない。一度生徒が熱中症で運ばれた時に付き添ったことはあったけれど、自分がこっち側になるとは思いもしなかった。
熱中症の生徒は生理食塩水を点滴されていたのを覚えているけれど、今の私に刺さる管は見当たらない。それでも、私はいつの間にか病院着のようなものに身を包んでいて驚く。
就活でばっちり身なりは決めていたのに、それが気づいたら無くなるなんて変な気分だ。追剥ぎにでもあったよう。
私は近くにあったナースコールを押すのを躊躇って、スリッパを履いて廊下に出る。数歩歩いたところにあった管理窓口に声を掛けると「そちらに向かいますので部屋で安静にしていてください」なんて慌てて戻される。
スリッパをリノリウムの床に擦って歩く。この床も久しぶりだ。学校の床に少し似ている気もする。
私は無意識に溜息を零す。病院にはあまりいい思い出がない。みんなそうだと思うけど。
手首に時計がないことに落ち着かず、左手首を右手で握るように擦りながら病室に戻った。ベッドに座っていると一分もせずに白衣が歩いてくる。
「おはようございます。気分はどうですか?」
「ええ。おかげさまで。すいません。無理を言ってしまって」
「いえいえ。大丈夫ですよ。体調不良を訴える患者を帰らせたらここは何の施設なんだって言われちゃいますし」
甲高い笑い声を上げる男に苦手意識を覚えながら、私は質問する。
「あの……。私昨日」
「あ、そうですね。昨日担当した者から一通り話は聞いています。朦朧としていたと聞いていますが、何も覚えていませんか?」
「えっと、会話内容はほとんど覚えていません……」
私の声はいつもよりワントーン高く、無意識に社会人の仮面を被っている。ここ数日ずっと仕舞いっぱなしだったこの仮面に懐かしさすら覚える。
「そうですか。では一つづつ報告していきます」
私は昨日、面接会場で倒れた。理由は覚えている。ここ数日立て続けに見る夢のせいで過去と意識が近くなってしまっていたから。
虐待という言葉が引き金になり、感情が溢れ、私はそれに耐えきれなくなった。
「ここでの質問で、このようなことは以前にも? とお尋ねしたところ、過去には良く起きていたと返答なさったんですが、それは正しいですか?」
「はい。ここ最近は起きていなかったですけど」
面接官の一人が咄嗟に救急車を呼んだらしい。会場の人間には迷惑を掛けたな。グループワークで一緒だった学生の女の子。面接の順番が私の次だったけど、落ち着いて行えただろうか。
ここに運ばれてからすぐに目を覚まし、そこからはなんとなく記憶がある。着替えをした記憶がないのには驚きだけど、それも特殊な感覚ではなく、今はそこまで頭も痛くない。煙草とウイスキーを同時に入れた翌朝よりは随分とマシだ。
「症状から神経調節性の失神だと考えられるのですが、以前からという事は、診察等は」
「はい。何度も受けてます」
「では、原因等も理解していらっしゃるんですね」
「……まぁ。はい。昔、カウンセリング等にも通っていたので、そこらへんは。ちょっと最近不安定でそれを思い出しちゃって」
それから幾つかやり取りをして、何かあったら必ず診察しに来てくださいと念押しをされた後に解放された。実際問題私のこれは簡単な治療で治るものでもない。
体の傷と違って記憶に負ってしまった傷を人間は上手く対処できないんだ。自然治癒と称した時間による忘却でも、ひょんなことで生々しい傷を取り戻してしまう。
心にも効く薬があればいいのに。
「何か言いました?」
「え、いや。ごめんなさい。何でもないです」
「あ、そういえば長瀬さん昨日、意識があった時にご家族に連絡していたらしいので確認しておいた方がいいかもしれないです。あちらで携帯使えるので。……では、着替えたらそこのボタンでお呼びください。手続きとか色々する場所まで案内するので」
家族に電話? 混乱して実家に連絡した? まさか。私が無意識に実家に連絡するなんてありえない。
白衣の男が私の元を離れたので、簡易的なカーテンを閉めて机の上に畳まれている服に手を伸ばす。綺麗に畳まれたそれは、私が畳んだのか第三者がやったのか分からない。
「流石にやったとしても女だよな」
別に男でもそこまで気にする性格ではないかと考え直し、ワイシャツに腕を通す。多分これは私が無意識に畳んだのだろう。最近、服を畳めと口煩く言ってくる人間が家にいるからな。
そこでようやく私は莉緒のことを思い出す。カーテンの中でこそこそと携帯電話の電源を入れると、着信履歴に彼女の電話番号が表示される。
実家じゃなくて莉緒に電話していたのか。まぁ、そっちの方がしっくりくる。ただ、私は彼女になんと伝えたのだろう。流石に倒れて病院に運ばれたとは言わないと思うけど。
記憶が曖昧なまま私はカーテンを開き、今度は躊躇いなくナースコールを押す。ナースコールって名前なんだからナースが来ないとおかしいだろう。さっきまでいた男に不満を抱きながら待っていると今度は正真正銘若いナースが現れて、さっきこのボタンを押していればあの快活な男と話さなくて済んだのか、なんて考える。
私は窓口に連れていかれ、様々な説明と共にそこそこ良い家電が一つ買えるほどの額を請求される。泣きそうになるのを必死に我慢しながら、今現金がないことを伝えると「後日で大丈夫ですので」なんて微笑まれた。
手続きを進める途中で、ようやく自分がいる病院の場所を知る。
自宅から車で三十分ほどの場所にある大学病院。様々な分野を内包している巨大な病院だ。なるほどここなら精神科も入っているだろう。いざとなればカウンセリングも可能って訳か。
受付のお姉さんと笑顔で分かれ施設の外に出ると、外は晴れ晴れとしていて真夏の気温が私を襲う。タクシーが視界の端に映ったが、財布が寂しく鳴いていたので、近くのバス停までゆっくりと歩いた。
帰ったら莉緒になんて言い訳しようか。あと数分で来るバスを待ちながら彼女を思い浮かべる。
「……狡いなぁ、私」
彼女の事情は知ろうとする癖に、自分のことは何も話さない。
私は、狡い。
「そろそろ、実家返らないとな……」
もう数年帰っていない地元を想う。
何もないけれど、全てがそこにある場所。
「私が墓参りに来ないから怒ってるのかな」
空を仰ぐと燦々と輝く太陽が網膜を焼く。
私はその光から逃げるように、目元をそっと手で覆った。
「まーりーさーん?」
「だからごめんって」
自宅についたのはギリギリ午前中という時間。つまり丁度二十四時間家を空けていたことになる。
放っておいても彼女は簡単に死なないと分かってしまってから、彼女の扱いが雑になってきている。
「なんですか、昨日の電話」
「えっと……」
昨日の私は莉緒になんて説明したんだろう。なるべく無難な理由だと助かる。
「これから飲みに行くから帰れなくなるかもって何ですか! 電話が来たの、まだ空が明るい時間でしたよ? 採用試験終わってすぐに飲みに行くなんてどんな神経してるんですか」
「……あぁ、なるほど」
「なるほどって何ですか! しかもそれだけ言って電話切っちゃうし。心配したんですよ!」
私も彼女の扱いが雑になってきているけど、彼女も私に対する接し方が雑になって来たな。なんだか、親族感が出てきたというか。
「いや、さ? 昨日試験会場で偶然大学時代の同期と合っちゃって。それで、お互いおつかれーって。ていうか試験終わって飲みに行くのはまぁまぁあると思うよ」
我ながら嘘が上手い。
「麻里さんの友達も同じく三回も採用試験落ちてるんですか?」
「作用試験って結構倍率高いからね? そんな簡単に取れないから」
「麻里さんの不真面目さを見てからじゃ信憑性がないです」
莉緒は大きな溜息を付いて、私に背中を見せる。さながら私は飲み歩いて嫁に怒られるサラリーマンってところか。
「莉緒、どんどん溜息が増えてってるね」
「誰のせいですか。……もう」
キッチンへ向かいながらもう一度わざとらしく溜息をつく彼女の口角は心なしか上がっているように見えた。
「麻里さん、お腹空いてます?」
「え、うん」
そういえば昨日の夜から何も食べてない。
「朝も食べてなさそうですもんね。一体どこに泊って来たんですか……」
「カプセルホテルだよ」
清潔感があって、仕切りはカーテンで、それでいて宿泊費で安めの日帰り旅行に行ける小さなホテル。
「社会人はお金持ってますね」
「莉緒も相当持ってるでしょ」
「ただの嫌味なんでそこは気にしないでください」
「嫌味はそんなにストレートに伝えない方がいいよ」
「麻里さんはこれじゃないと伝わらないかなと思ったので」
じゃれ合うようなコミュニケーション。それはなんとも心地いい。
「ちょっと待っててくださいね。今温めるんで」
「じゃあ着替えてくる」
「スーツ、煙草の匂いとか大丈夫ですか?」
「うーん。大丈夫だと思うよ。あそこ臭く無かったし」
どっちかと言えば消毒液の匂いがしたくらい。
私はスーツを脱いで部屋着に着替える。このスーツはもう始業式まで着ないし、クリーニングに出してしまおう。
「なんならシャワー先に浴びますか?」
「あー、じゃあそうする。頭がべたつく」
「夏にそれはテロですよ」
初日にシャワーを進めたのに入らなかった人間が言う事かと頭の中で反撃を準備しつつ、私は無言でバスルームの扉を開ける。
ここが彼女の隠れ家になっているならそれでいい。
あの時の私のように、ここを逃げた先にしていい。
それで彼女の心が落ち着くなら、迷惑なんて感じない。
「おはよう。莉緒」
「おはようございます」
朝八時。空は晴れ。気温は高め。
莉緒は朝から嬉しそうに笑っている。
「なに? 私の寝起きの顔そんなに面白い?」
「いいや。麻里さん。変わったなって」
「何が?」
「教えません」
「なにそれ」
「あとで教えてあげますよ」
「だからなにそれ……」
起きて早々準備されている食卓に座る。同居を始めて私も料理をするようにはなったけど、まだまだ修行の身。莉緒師匠の料理には遠く及ばない。それは卵一つ、味噌汁一つとっても言えるること。
「やっぱり莉緒の焼く目玉焼きの方が美味しいよ」
「誰が作っても同じじゃないですか」
「私の食べたでしょ? 中身パッサパサなの」
「あれはあれで。です」
一回失敗した程度で挫けるなという教訓めいたお言葉を頂き、私は黄身が流れ出す目玉焼きに醤油を掛ける。
「そういえば麻里さんは醤油派なんですね」
「なにが?」
「目玉焼きですよ」
「今更じゃない?」
「まぁ、そうですけど。一回はしたかったんですよ。目玉焼きに何を掛けるかの論争。ちまたでは血で血を洗ってるっていうじゃないですか」
「そんな物騒な」
そういえばこの子、友達いないんだっけ。そんな話題を態々持ち出して話そうとするなんて、中々に拗らせていそうだ。
「争うにしても莉緒は何派なの?」
「私も一番は醤油ですかね」
「じゃあ、同陣営じゃん。争う必要もなし。……ていうか私、醤油以外掛けたことないかも」
「本当ですか……?」
「まじ」
莉緒は私の返答に溜息をつき「かー。こいつはやってられねぇぜ」なんて言わんばかりに江戸っ子のような仕草を取る。
「多様性は大切ですよ」
「でも別に醤油で満足してるし。態々手を伸ばさなくてもいいじゃん」
「いざ戦うってなったらどうするんですか。敵を知らなければ戦えませんよ」
「なんでそんなに気合入ってんのよ……」
莉緒が席を立ち、キッチンから様々な調味料を持ってこようとするので、私は落ち着いて彼女を止める。
「良いですか。試せるものは何でも試した方が絶対にいいんです。もしかしたらそこで新しい発見があるかもしれないじゃないですか」
「別に新しい出会いはいらないし」
「その考えが駄目なんです!」
私の制止を無視して彼女は冷蔵庫からケチャップを取って戻ってくる。
「では、まずこれを」
「やらないって。もう醤油かけちゃってるし」
「じゃ、明日の朝はケチャップで決定ですね」
「だからなんでそんなに熱入ってるの……」
私を別の陣営に追いやって言い争いたいだけなんじゃないか。そんなにやりたいならネット上で顔の知らない誰かとバトルしていればいいのに。
「ちなみにマヨネーズってのも」
「それどっちも卵じゃん」
これから数日間の朝ご飯は毎朝違う味の目玉焼きを食べさせられる危機だけは容易に想像できた。
「麻里さん、一つやりたいことがあるんですけど」
お昼を少し回った頃、莉緒は私の元に歩み寄る。手には二人の約束を書いたノート。序盤の数ページしか使っていない可哀想なノートだ。
「私、考えたんです」
「なにを?」
「毎日を輝かせる方法」
「あぁ、この間言ってたやつ」
急に部屋を出ていったと思えば、帰って来て早々口に出したもの。
「最高に楽しむための方法です」
「夏休みを?」
「はい。延いては人生を」
「壮大だね」
莉緒はノートを広げ、ページを捲る。ルールを書き留めた次のページを開けば、もちろん空白が広がる。
「この間、実は家に帰ったんですよ」
「――っ」
「あー。別にトラブルとかはないですよ? そもそも誰にも会ってませんし。丁度両親のいない時間だったので、これを取りに帰ってたんです」
莉緒はもう一冊のノートを机の上に置く。
年季の入ったノートだ。湿気を吸い、曲がっている。一年以上は使っているであろうノート。表紙もごく普通のもので、高校生が授業に使っているようなもの。
「麻里さん。やりたいことノートって書いたことありますか?」
「なにそれ」
「簡単ですよ。自分が死ぬまでにやりたいことをノートに書いていくんです。そして達成したらその項目を消す。新しいのが思い浮かんだらまた書き込む。そんなノートです」
「なるほど」
彼女は年季の入ったノートをぺらぺらと捲りながら続ける。私にはその中身は見えない。
「私、目標が二つあるんですよ。あ、最初の日に麻里さんに言った綺麗に死にたいってのは最終目標なんですけど、それ以外で」
「うん」
彼女の口から数日ぶりに死の話題が出るが、もうあまり驚かない。
「一つ目はこのノートを完成させること」
ノートをひらひらと振って見せる。恐らく数年前から書き続けている物なのだろう。きっと書き始めたのは彼女がなにか問題を抱えた後。
「そして二つ目は、毎日眠るときに後悔をしない事」
「ポジティブな考え」
「違います。無理やり追い込んでるんです。明日死んでもいいように毎日最高な今日を過ごす。そう思って生活するんですよ」
一日の密度が変わります。と笑って彼女はソファの上に正座した。隣に座る私に体を向けるので、折り畳んだ足の分もあってか顔の高さが同じになる。
「どうですか?」
「どうですかって?」
「麻里さんにできそうですか?」
「……?」
莉緒はゆっくりと笑む。
「私、許せないんですよ」
「……なにが?」
「麻里さんの人生を、です」
ふざけている雰囲気など一切ない。莉緒は私の目をまっすぐ見たままとんでもないことを言う。
私の人生が許せない。か。
それもそうか。
「だっておかしいじゃないですか。誰かの代わりの人生なんて。……絶対におかしい」
首を九十度回転させて彼女を見ている私は、また金縛りにあったかのように動けなくなる。
彼女の目に吸い寄せられる。それは引力。当然のように私を引き付ける。
「だから、私に手伝わせてください。……お願いします」
彼女の目には炎が燃える。そして、同時に涙を溜めていた。
「どうして、そんなに」
どうして彼女は私に手を差し伸べるのか。どう考えても変だ。だって私は彼女の自殺未遂を目撃してしまっただけの人間で、こんなに助けられていい側の人間じゃない。
そもそも私は彼女を助けるために……。
「理由なんて一つしかありません。私が……麻里さんに助けられているから」
「助けられてる……? 私、何もしてない。莉緒を引き留めてから何もできてない。むしろずっと莉緒に――」
「いいんです。いいんですよ。理由なんて。多分これは私のエゴなんです。だから麻里さんが拒むならそれでもいい。……でも。麻里さんだって変われる。だって、私が変われたんだから」
莉緒は視線を変えずに、そっと私の手の上に自分の手を重ねる。その手は熱く、赤子の手のようだった。
「麻里さんは知らなくていい。でもこれだけは確かなんです。私は麻里さんに救われてる。身勝手な動機ですけど、これじゃ理由になりませんか?」
私は何も言わない。
だって私は「助けて」なんて一度も口にしたことがない。
だから私は勝手がわからず、何も言えない。
自分が助けられる側だという自覚すらない。
「麻里さんに一つ、夏休みの宿題を出します」
私の沈黙を肯定と捉えたのだろう。一度重ねられた手に力が籠められ、彼女は私にそう言い放つ。
「……宿題?」
「はい。私が出すのは烏滸がましいかもしれませんが」
「……そんなことはない、けど」
「大丈夫です。私も一緒にやります。それに、なにも難しいことじゃないですから」
莉緒は一度ソファから降りると机の上の二冊を手に取って戻ってくる。
「麻里さんにはこのノートを埋めてもらいます」
「したいことで?」
「そうです。そしてこの夏を使って一つずつ消化していくんです。勿論この夏に出来ないことだって沢山あります。だからずっと先の未来を見据えて書くんです。そうして作られるこの本は麻里さんの目標の一つになるんですよ。やっぱり目標は形になっている方が分かりやすいですし」
目標。
中学生の私が捨ててしまったもの。あれから私は一度たりとも自分で目標を定めたことなどない。
他人の目標に寄生して、周囲の流れに従って、流されるままここにいる。
「ねぇ、麻里さん。前を向いて、歩きましょう? 自分が歩く先を見て、前に進みましょう?」
おかしい。
これじゃ立場が真逆じゃないか。
死のうとする彼女に生きている理由を作ってあげようと手を取った。
なのに気が付けば、空っぽの私が彼女に理由を作ってもらおうとしている。
「なので特別に、私の人生も少しだけ見せちゃいます。本当に特別なんですよ? 誰にも見せたことないんですから」
彼女はいじらしく笑うと、私にノートを差し出す。
開かれたページは最初のページだった。
「これは二年前に書いたページです。これ、本当は数学のノートのつもりで買ってて、ここに書き込んだのも数学の時間だったんですよ。高校に入って一番最初の授業だった気がします。それが数学の授業でした」
莉緒は昔を思い出すように黒目を斜め上に向けながら、話し始める。
「最初の授業だったので、先生も生徒も自己紹介をして。それで二十分くらい時間が余っちゃって。そしたら数学の先生が、高校生はこんな問題をやるんだって例題を出したんです。それが命題の真偽の問題でした。麻里さんなら勿論わかりますよね?」
「以下の命題の真偽を述べよ。でしょ」
「はい。丁度その時、こういうやりたいことノートを作ろうって考えていて、その命題の問題が丁度いいなって思ったんです。だから先生が黒板に書いた問題を写すふりをして、ここに書きました。これはこのノートのテーマなんです」
高校一年の時にノートを作ろうとしたという事は、少なくとも彼女は二年前からこんな生活をしていたという事だろうか。
しかし、彼女のノートを見た瞬間の衝撃は、私に彼女の詮索をすることを許してはくれなかった。
一見、拗らせた中学生が書いたような文章。ただ、それを彼女が書いたと考えると肌が泡立った。妙に生々しく、感情のこもった問題。
『以下の命題の真偽を述べ、真の場合にはここに証明し、偽の場合には反例を上げよ』
その問題を私は答えることができない。
『私は生まれてきてよかった』
声が出なかった。
その問題の下には空白の解答欄が設けられている。
「麻里さん……。大丈夫ですか?」
「……?」
「涙」
「……え」
私は泣いていた。
静かに左目から顎に涙が伝っている。
その液体を手で触れて、目を見開く。
「私、泣いてる……?」
泣いている。
それは、とても懐かしい感覚。
数年ぶりの感情だった。
彼女といると私が蘇る。今までロボットのように毎日を過ごしていたのに、様々な感情が溢れてくる。まるで。
『まーちゃんといると僕は人間でいれる気がする』
「莉緒といると私、人間に戻ったみたいだ」
数年間意味の分からなかった言葉に色が付いた。
やっぱりだ。やっぱり莉緒といると私は佳晴を思い出してしまう。
「なんですか、それ」
「……何でもない」
彼女のノートの解答欄に涙が落ち、慌ててノートを返す。
彼女の人生を私の涙で汚すわけにはいかない。こんな、人間の紛い物が流した涙を彼女のページに刻めない。
「これがこのノートのテーマです。私はこの一冊に人生を詰め込んで証明するんです。私は生まれてきてよかった。間違いじゃなかったって。胸を張って言うんです。その為に私は毎日を生きる」
どうして彼女はここまで自分を追いつめているのか。
それはきっと聞いたって教えてくれないのだろう。
「そんな悲しい顔しないでくださいよ。これは悲しい本じゃないんですよ?」
「……だって」
「わかってないですね。これは私が幸せになる本です。最期に私が笑うための本。だから泣かないでください」
私の目元に莉緒の手が伸びる。
柔らかい手の平が私の涙を拭い去っていく。
その感触はとても暖かい。
「ほら、ここを見てください!」
私の涙を止める為に、彼女はもう一度私にノートを渡す。
声は明るく、まるで私を元気づけるようだった。
手に取ったそれは右のページが硬い。視界は涙でぼやけていたが、それが最後のページであることは理解ができた。
「ごめん」
自分の手でもう一度涙を拭い、晴れた視界で彼女の人生の最後のページを見る。
多分これは彼女のやりたい事。
この物語の集大成にして、彼女のゴール。
『幸せだったと思いながら、笑顔で死ぬこと』
その一文はすぐに滲んで、私の視界から莉緒の顔も見えなくなった。
「大丈夫ですか? 麻里さん」
「……うん」
私は久しぶりの涙で眩暈を起こして、暫くの間横になっていた。
なんてかっこ悪い大人だ。
歳を取ると涙を流すことが少なくなるなんて言うけれど、私の場合は少し違う。高校の時に涙が枯れるまで泣いて、そこで壊れてしまった感情は停止した。
感情とトラウマと。全てが凍り付いてしまった。
だから私の時間はあの時のまま止まっている。
それは今でも動かない。
体は日に日に変化していくけれど、中身は変わらない。
多分私は高校生の私から、何一つ成長していない。
ただ、そうやって私の中で大きく固まった氷が、緒と触れ合うことで少しずつ溶けだしているのが分かる。彼女の温かさに触れて、私の氷はゆっくりと表面から液体になって流れ出す。
あの夢も同じ。
止まっていた時間が動き出してしまったから、あの時の光景が脳をチラつくんだ。
「……全部溶けたらどうなるんだろ」
「なんです?」
「ううん。なんでもない」
自分でも心の溶け具合は理解できる。まだまだ氷は大きい。時間はまだ止まったままだ。だってあの頃と比べたら幻覚も感情も甘い。あの頃の地獄のような感覚とは比べられない。
あの頃の私は崩壊寸前で。だから脳が防衛本能で心を凍らせたのだろう。カウンセリングもその一端を担っていたのかもしれない。
だからこの氷が完全に溶ける時、多分私は壊れてしまう。
彼の後を追ってしまう。
「ごめんね、莉緒」
「いいえ、大丈夫ですよ。でも、麻里さん……」
「ん?」
「いえ、やっぱり何でもないです。詮索はしません」
「ごめんね。……かっこ悪いなぁ、私」
「大丈夫ですよ。麻里さんはこれまで一度も格好いいところなんてなかったです」
「そうだった」
「はい」
莉緒はベッドに横たわる私を見ている。膝立ちのような体勢になりながら、床から数十センチ高いベッドに両腕をつき、その上に顔を乗せる。
私がゆっくり莉緒の方へ顔を傾けると、彼女の顔が目の前にある。
息も感じられそうな距離に彼女を見ながら、私は彼女に決意を伝えた。
「書くよ。ノート」
「……ありがとうございます」
「なんで莉緒がお礼言うの。お礼しなきゃいけないのはこっち。……ありがとう。莉緒」
「どういたしまして」
「……ありがと」
「ノートを書くのは明日にしましょう。時間はいっぱいありますし」
「うん。あ、でも一つ」
「なんですか?」
「私のノートにさ、莉緒が書いてよ」
「なにを?」
「最初の命題」
「……私のと一緒でいいんですか?」
「うん。私もさ。ちょっと証明したくなっちゃった」
「普通はあれを見て気味悪がるんですよ?」
「私がそんな人間に見える?」
「見えません」
「それにさ。意味は違うけどちょっといいなって思ったんだ。命題」
「どういうことですか?」
「数学の意味で考えると真偽の問いだけどさ。漢字で見ると違くも見える」
「命の……」
「命の題名」
「なんだ……。麻里さんもロマンチックなこと言えるじゃないですか」
「そう? ぴったりだなって思っただけ」
「……その命のテーマを問うのが私でいいんですか?」
「うん。莉緒が適任。これは宿題でしょ? 私が書いたら、ただの自習になっちゃう」
「真面目なんだか不真面目なんだか」
「どっちでもない」
「麻里さんは中途半端ですね」
「それにさ。勉強をしてると落ち着くんだよ」
「それに関してはさっぱりわかりません」
「分からなくていいよ。莉緒は勉強よりもやるべきことが沢山あるでしょ」
「そうですね。世界の全てを体験するには一生あっても足りませんから」
「だから私も、それに少しの間だけ同席させてほしいなって」
「どうぞ。……一緒に解きましょう。この問題、難しくて全然分からないんです」
「そっか、じゃあ私の出番だね」
「はい。教えてくださいね。先生」
「麻里さん。他にやりたいことは?」
「……これ、難しくない?」
「難しいですね。でも、楽しいじゃないですか」
私は朝からノートと睨めっこを続けている。
表紙を捲って数ページは彼女とのルール。その次にはこの本のテーマである命題の証明問題。そこからは私の「したいこと」を綴っている。
ノートに書く項目は彼女のアドバイス通りに書き進めていった。
まずは直近でしたいこと。次に少し足を運べばできること。それから実行するのが難しいこと。そして一生のうちに行いたいこと。
色々と書いた。頭を悩ませた。しかし、ぱっと頭に浮かぶことはそこまで難しくないことばかり。彼女のように壮大な願望は浮かばなかった。
買い物に行って日用品を買い足す。料理をできるようになる。温泉に行きたい。
「もう浮かばないよ」
「まだ百個も書いてないじゃないですか」
「でもそんなに浮かばないって」
「まぁ、普通はそうですよね」
明日が来ることが普通になってしまった私には難しい問題。
文字通り一生懸命に命を燃やす彼女とは違う。
そもそも私は無気力な人間なんだ。夢も希望も考えてこなかった。
だから私の願望は漫然と命を繋ぐことだけ。
「じゃあ、夏休みらしいことを書いていきましょうよ」
「夏休みらしいこと?」
「山に行ったり。海に行ったり。もっと細かく書いてもいいんですよ。あの山に登りたいとか。海岸でスイカ割りしたいとか」
「私がそんなことしたいと思う?」
「これを機に変わってみるとか」
「それは難しい」
「変わりたいとも思いませんか?」
「今の所はないかも」
「仕方ないですね……。じゃあ、変わりたいと思う時があったらそれを書きましょう」
「来ないと思うけどなぁ」
「分からないもんですよ。未来って」
私よりも年下な筈なのに、その言葉には説得力がある。私も、この私から変わりたいと思う日が来るのだろうか。
「やっぱりさ、莉緒のノート見せてよ。私だけの頭じゃそんなに沢山思いつかない」
「それは絶対に駄目って言ってるじゃないですか」
「なんでよぉ」
「麻里さんて本当にデリカシーないですよね」
「自覚はしてる」
「いや、多分麻里さんが自覚してるレベルよりも実際は遥かに酷いと思いますよ」
莉緒は自分のノートを私物の一番下に隠す。
ノート書き始めてから、何度も彼女に彼女のノートを見せてくれと頼んでは怒られた。
「これは私の全てなんですよ? それを見せてくれとか。どういう神経してるんですか」
「昨日は見せてくれたのに?」
「最初と最後のページだけです。始まりと終わりは誰だって同じなんですよ。どうせ人は死ぬんですから」
「莉緒の証明に付き合わせてくれるって言ったじゃん」
「それとこれとは別です。私だって恥ずかしいんですから!」
私の手の中にある本はただのノート。私はまだこの本に書いたことを全てやり遂げることができるとは思っていない。
でも莉緒は違う。莉緒はあの本に書かれる事象は全て完遂できると信じている。それこそ必死に彼女はそれを熟そうとする。
だから彼女にとって、あれは予知書。
ただのやりたいことを連ねたノートではない。
でもそう考えると、やっぱり見てみたいじゃん。
彼女がどのような人生を想像しているのか、気になってしまうじゃないか。
「絶対に見せませんからね!」
「何も言ってないじゃん」
「顔が言ってます!」
莉緒は少しずつ私から距離を取って、天敵に怯える小動物のように威嚇する。
「麻里さんも、大人なんだからもっと人の心を読み取ってください」
「私には無理」
「諦めないでください!」
私はノートに願望を書き込むことを諦め、ペンを放り投げる。
コロコロと転がったペンは莉緒の足元へ向かった。
「限界ですか?」
床に寝転がった私を覗き込むように莉緒の顔が視界をうめる。
「はい。限界です」
諦めることが得意な私はその問に即答して目を閉じる。
「じゃあ、読んでもいいですか?」
「自分のは断固拒否する癖に人のは見るんだ」
「別に嫌だったら見ませんけど?」
「私が拒まないのを知ってて言ってるでしょ」
「はい」
「……いいよ。勝手に見ろ見ろ」
「はーい」
勝負に勝ったかのように莉緒はにぃと笑い、私を飛び越えるようにしてノートに近づく。
ふむふむ、なんてわざとらしく声を出しながら莉緒は私の欲望を読んでいく。テストを目の前で採点されている気分だ。流石にこればかりは緊張する。
「全部は難しいかもしれないけどね」
だからそんな言い訳を挟んでみたり。
「これって夏休みにやりたい事ですか?」
「まぁ、そのつもりで書いたけど」
「じゃあ、全部やりましょう」
「は?」
「そんなに難しいことじゃないですよ。夢が無いのか、高望みをしていないのか。そんなに難しい事、書いてないですし」
「いや、無理でしょ」
「どれが?」
「温泉旅行とかさ。なんとなく書いたけど。実際予約とかもう埋まってるんじゃない?」
莉緒は私に首を振る。こればかりは私が正しいと思うけど。
「麻里さん。こんな言葉を知っていますか?」
「なに」
「思い立ったが吉日、です!」
難しい言葉を言い放ったつもりなのか、してやったり顔を披露する莉緒。多分小学生でも知ってるよ。その言葉。
「そうはいってもさ」
「やりたいって思ったら、すぐにやりなさいって――」
「いや、意味は知ってる」
知識の披露を邪魔された莉緒は不機嫌な顔を見せながら携帯を取り出す。
なにやら私への文句をぶつぶつと言いながら検索を掛けている。そんな姿を眺めていると、一分も経たずに携帯の画面をこちらに向けてきた。
「ほら、こんなにありますよ。今週は流石にきついですけど、来週からだったら沢山。熱海とかいいかも」
画面に映るのはしっかりとした温泉宿。熱海なんて言っているし、きっと立派な宿なんだろう。お値段が張りそうなのは間違いない。
「夏休みだから高いですね。えっと、あ、こことかどうです? 一泊二日で一人二万」
少なくとも高校生の金銭感覚ではない。彼女の行動力に舌を巻きながら、私は頭を傾げて悩んでみる。温泉には入りたいけれど別に宿に泊まりたいとう欲はない。それだったら日帰り旅行でもいいし。
「咄嗟にその値段は結構厳しくない? 移動とかにもお金かかるでしょ」
「別に私は気にしないですけど」
「絶対におかしいって。その感覚」
彼女の口座に多額の数字が刻まれていることは本当だ。私と生活を始める時に彼女は証明と言って、お金を降ろした際の明細を見せてきた。貯金をしない大人よりは多いであろうその残高に驚いたが、彼女の羽振りの良さはおかしい。あの貯金だってこの夏で使い切ってしまっては駄目だろうに。
「あ、変な想像しないで下さいよ? 私だってお金の使い方は分かってます。財布のひもを締める時と緩める時をわきまえているだけです」
「やけになって、散財してたりしない?」
「私はこれからちゃんと生きていくんですよ? それこそ自殺じゃないですか。お金は命の次に大切な物ですもん。ちゃんと考えてますって」
「ならいいけど」
「麻里さんこそ、財布のひもを締めっぱなしじゃないですか。お金は溜める為にあるんじゃないですよ?」
「私は使う先が無かっただけ」
「趣味もなければ、買い物もしない。料理も口に入れば何でもいい。そんな生活してたら、そりゃ溜まりますよ」
そんな生活に慣れてしまったから、お金を使う事にも躊躇ってしまうんだ。
宿なんかに泊らなくても、家で眠れれば十分だし。態々慣れない枕を使うこともないし。料理だって莉緒の手料理の方が絶対美味しい。
「じゃあ、なにかお祝いにしましょうよ。何かないですか? 記念日とか」
「うーん」
「あ、教員採用試験のお疲れ様会とか」
「それはあまり乗り気にならないかも」
「えー」
だって多分落ちてるし。欲を言えばあの日の事はあまり思い出したくない。
記念日か。
自分のことに無頓着だから、記念日なんてものを決めたことも……。
「あ、私、来週誕生日」
「それを忘れるってどうなんですか」
「大人になると忘れるもんなの」
誕生日か。すっかり忘れていた。友達に教えたこともなかったから、祝われたこともないし、あまり実感がない。私の場合は高校生の頃から誕生日は忘れていたし。
「良いじゃないですか。麻里さんの誕生日旅行!」
「ほんとにやるの?」
「やりましょ? 宿ここでいいですか? 箱根とか草津とかも調べてみます?」
目を輝かせながら私を覗く彼女の言葉に首を振ることなんてできなかった。
「……わかったよ。行こ。温泉。莉緒の好きな所でいいから」
「やった!」
こうして私は少しずつ変えられていく。
変わりたいと思う日は来ないなんて言ったけれど、実のところはもう既に変えられていた。
私は現在進行形でこの少女と共に変わっていく。
嫌な気持ちがしないのが、実に厄介な所ではある。
「麻里さん。これどうですか?」
「んー。可愛いじゃん」
「こっちは?」
「可愛い」
「もう!」
適当な相槌を打つ私に莉緒は地団太を踏み、灰色のニット帽を揺らす。
周囲の視線が私達に集中した気がして心地悪い。
「服なんてただの布って言ってたの莉緒じゃん」
「言いましたけど!」
夏も本番。外に出ればすぐに汗が流れ出す。
朝の散歩に出ただけで服は濡れ、洗濯機はフル稼働する。
昨日、何とかノートに書く項目を増やそうと頭を捻りながら書いた「服をもう少し増やしたい」なんていう、なんともしょうもない願いを莉緒に見つかり、こうして今私達は外にいる。
「だって莉緒、何着ても似合うんだもん」
「それにしたって返事に熱が無さすぎるんですけど」
「褒められたところを否定しないところ好きだよ」
「私も私のこういうところ、好きです」
「なんだかなぁ」
皮肉を含めた言葉を笑顔で頷き咀嚼する彼女に、私は珍しく溜息をついてみたり。
最寄りの商業施設内にある服屋。服を悩んで「似合う?」なんて、恋人のようなことをするには少し不釣り合いな客層の店。日中だからか隣には老夫婦と子連れの女性が買い物をしている。
「じゃ、これ買ってきます」
「はーい」
結局彼女は、悩んでいた二着を両方ともカゴに入れレジへ向かう。
そんな彼女を見送りながら、私は私で適当に夏服をカゴに放り込んでいく。彼女も自分の買い物の速さには自信を持っていたけれど、私の方が早いかもしれない。服に頓着がないのはお互い様だ。
「どうせ部屋と近くの公園に行くだけだしな」
汗をかいても目立たなそうな色の服がカゴの中に増えていく。こうして人間は年に比例してデザインセンスが変化していくんだ。幼い頃は軽蔑さえした服装に一歩ずつ近づいて行っている。
まぁ、だからと言って若い格好をする気力もなく、私はどんどんと人生に落ち着いた人達のような服装に寄っていく。
薄手のシャツ。軽い素材のデニム。私は店内を物色しながら他に必要な物を探してうろうろと歩き回る。
「こんな服、着れないよなぁ」
店の各所でポージングするマネキンたちは煌びやかな服を身に纏っている。私には縁遠いそれらをぼーっと見上げてみる。こんなふわふわとしたスカート、履いたこともない。
「そういえば麻里さん。スカート持ってないですよね」
「――っ。びっくりしたぁ」
「ごめんなさい。マネキンに憧れの目を向けてたので、つい」
「憧れてないし」
「本当ですか? 実はふわふわな服を着てみたいなとか思ったことありません?」
「そんなこと思ってたらもっと美的センスも磨かれてる」
学校にだってパンツスーツを着て行ってるくらいだ。そもそもスカートを履かない。
「莉緒こそスカート履かないの?」
「私ですか?」
「莉緒だってスカート持ってないじゃん」
「履いてほしいんですか?」
「だって、女子高生って」
「そうやってすーぐ女子高生はって言いますよね」
「だって……」
「教師として駄目だと思いますよ? もっと個々を見た方がいいです。一括りにして欲しくありません」
「じゃあ、聞かせてよ。莉緒はなんでスカート履かないの? 参考までに」
「好きじゃないから」
「……それだけ?」
「そんなもんですよ」
莉緒はハンガーラックに掛かった短めのスカートを一枚手に取ると、自分の腰に当ててみる。
「麻里さんが履いてほしいって言うなら履きますけど?」
ひらひらと体を揺らす莉緒を見る。また適当な返事をしたら怒られそうで、少しはまじめに考える。それでも、私に女子高生のファッションなんて分かる筈がない。
「ごめん。よくわからないや」
「もう!」
莉緒は荒々しくスカートをラックに戻して私を睨む。
「ごめんって。だってよく分からないんだもん。全部似合うから余計に莉緒に合ってるのか分からない」
莉緒はここが店内だと忘れているような大きさで溜息をつく。
「麻里さんって本当に自分の意思がないですよね」
「だって、私以外が見て変に思ったら、責任取れないし」
「別にいいんですよ。他の人の目なんて。麻里さんが私に合うと思うならそれでいいんです」
彼女の怒る姿は何度見ても可愛らしい。それだから余計に先日声を荒げた彼女の怒りが際立って見える。私をまっすぐ叱った彼女の顔が脳裏を過った。
「だって服なんて麻里さんにしか見せませんもん」
「ここにだっていっぱい人いるけど?」
「あんなの空気だと思えばいいんですよ。視線が怖いので他人は空気だって思うようにしてます」
「大胆な考え」
「だから私の世界にはずっと麻里さんしか映ってないんですよ?」
大胆な告白のようなセリフに私はたじろぐ。
どぎまぎとマネキンに視線を逃がす私を見て面白そうに笑う彼女は、何かを思いついたかのように両手を胸の前で合わせた。
「そうだ。ねぇ、麻里さん。私の全身をコーディネートしてくださいよ」
「え?」
「よく番組とかでやってるじゃないですか」
「いや、無理無理。スカート一つ分からないんだよ?」
「だから余計面白そうじゃないですか。すぐにやろうとは言わないので。数日後またデートしましょ? 買い物デート。それまでに勉強しておいてください」
「えぇ、めんどくさい」
「言うに事欠いてめんどくさいは酷くないですか? 麻里さん好きでしょ? 勉強」
「都合のいいことばかり言うんだから」
「私らしいでしょ?」
「そうだけど」
言葉が少しだけ砕け始めた莉緒はあざとく私を見上げる。
この面倒な感情も、多分良いものだ。だって心のどこかで、そのデートを楽しみにしている私がいる。
「しょうがないなぁ」
「やった。私の一張羅にしますね」
「そんなこと言うと、オーダーメイドのスーツとかにするよ?」
「つまんない」
「じゃあ、あまり期待しないでね」
「はーい」
家に帰ったらまずは女子高生の私服を色々と検索しよう。駅前で雑誌を買ってもいいかもしれない。そして。
色々な策を巡らせる私は、不意に笑う。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでも」
やっぱり私は勉強が好きなんだと自覚して、少し嬉しかっただけ。
「おぉ、打ちますねぇ」
「決定打かなぁ」
エアコンの効いた部屋で見るのは、炎天下の中で汗を垂らす高校生たちの姿。
夏の代名詞。甲子園。
「麻里さん、よく見るんですか?」
「んー。まぁ、去年とか夏はずっと暇だったし」
「こんなに一生懸命な人たちを見て、よくもだらだらと生活できましたね」
「今の莉緒だって人のこと言えないじゃん」
「じゃ、どこかに行きます?」
「とりあえずゲームセットまで見ようよ」
「感情移入しちゃうタイプですか?」
「どうだろ」
朝、いつもの様に公園を散歩していると、少年たちの声が聞こえた。まだ正午にもなっていない公園でキャッチボールをする少年たちの会話で、今日から甲子園が始まることを知った私達は、こうして家に帰るや否やテレビの前に座っている。
「知らない高校同士の勝負も結構楽しめるものなんですね」
「逆に自分の高校とかだと楽しめなさそう」
「なんでですか?」
「甲子園とかになれば、全校応援とかあるでしょ?」
「そうなんですか?」
「全校生徒で応援に行くんだよ。そうなったら引率しなきゃじゃん?」
「そういう意味ですか」
でも、うちの野球部はそこまで強くないから安心。
「私、甲子園初めて見たんですけど、なんかいいですね」
「今まで見たことなかったの?」
「スポーツに触れてこなくて」
「何かにハマってたら、今も変わってたかもね」
中学校の保健体育の教科書にも載っている。ストレスはスポーツや趣味で発散しましょう。彼女にもそれがあったなら、狂気的な熱の入れ方で何かしらの才能を発揮していたかもしれない。
「……そうかもしれないですね。こんなに全力な顔、高校生が出来るなんて知りませんでした」
「それは世界を知らなすぎじゃない?」
「なんとなくは分かってたつもりなんですけど、こうしてみるとやっぱり違います。だってこの人達、この勝負に命が掛かってそうな顔をするんですもん」
数年分の青春を捧げてその土を踏む戦士たちの顔には、莉緒の言う通り覚悟が見える。でもそれも莉緒の目に比べたらまだまだぬるい。恐怖を抱くほどの激しい炎は球児にはない。
そんなこと、本人には言えないけど。
「莉緒は勝ってる方と負けてる方、どっちを応援するタイプ?」
「負けてる方、ですかね」
「そのこころは?」
「なんとなくですけど、やっぱり逆転って気持ちいいじゃないですか。それに、死を目前にしてまだ諦めていない顔は、見ていてぞくぞくします」
彼女は画面に釘付けになっている。
九回裏。点差は二点。ツーアウト。一塁。
バッターの顔が大きく映される。その顔には闘志があったが、私には怯えているように見えて仕方なかった。
「麻里さんは?」
「え?」
「どっちを応援するタイプですか?」
「私は別にどっちかを応援したりしないかな」
「それ、つまんなくないですか?」
「そうでもないよ? 映画を見たりするときも登場人物に感情移入しないけど、十分楽しめるし。この演出良いなとか、そういう所見ちゃう」
「やっぱりつまらなそう」
「そうかな」
甲高い音と共に画面が揺れた。
大きく打ちあがった球は夏の空に吸い込まれていく。
実況の声が諦めの色に変わり、数秒後に画面にはゲームセットの文字が浮かんだ。
「終わっちゃいましたね」
「逆転は無かったね」
明るい顔と暗い顔が交互に移される画面が続き、ハイライトが始まったあたりで莉緒はリモコンを手に取り、画面を暗転させる。
「見ていて熱いですけど、負けた選手の顔を見なきゃいけないのは辛いですね」
「感情移入しちゃうと特にね」
「人が悲しんでるのを見て楽しめませんよ」
大切な物が壊れていくのを見たくない。だっけ。彼女が初日に言った言葉だ。
きっと純粋で美しい感性を持っているんだろう。私は画面の向こうに素直に感情を共有できない。
「麻里さんて、何か運動してたことあるんですか?」
「なんで?」
「してなさそうだなって」
「失礼な」
「中高とか何やってたんですか?」
「中高は何もやってない」
「ほら、やってないじゃないですか」
「大学から始めたんだよ」
「サークルってことですか?」
「うん」
「勝手なイメージなんですけど、大学の運動系サークルってまともに運動してないイメージがあるんですけど」
「なんとなくわかるけど、私がいたところは結構ちゃんとやってた方だと思うよ?」
部活と銘打っている所と比べては全然だと思うが、サークルとしてはよくやっていた方だ。
驚くべきなのはそんな部活で私が四年も続けられたこと。
「ちなみに何やってたんですか?」
「笑わない?」
「なんで笑うんですか。そんな特殊なスポーツなんですか?」
「いや、むしろ。超メジャー」
「じゃあ笑いようがないじゃないですか」
私は少しだけ躊躇ってから、大学時代の何割かを消費したサークル名を口に出す。
「……マラソン」
予想通り、莉緒は吹き出した。
それもそのはずだ。だって毎朝莉緒と行っている散歩ですらバテている人間が数年前まで軽やかに走っていたなんて、姿を想像できないだろう。
「……悪かったね。三年間も全く運動してないと何もできなくなるんだよ」
「いや、でも、流石に酷すぎじゃないですか?」
「そんなに言わなくても……」
「だって麻里さん、初めて私と合った時も少し走って息を切らせてたじゃないですか」
「体力の低下は怖いよ?」
あと数年もすれば莉緒にも分かると言い聞かせて、私はこの話題から逃げる為に席を立つ。
「本当にマラソンやってたんですか?」
それなのに彼女は私を逃がすまいと質問を投げかけてくる。
「やってたよ。そりゃ、毎日って訳じゃなかったけど練習はしてたし。市のマラソン大会とかには毎年出てたし」
「ゴールしてたんですか?」
「なんとか」
「すごい。でもそもそも大学から始める人っているんですか?」
「そこそこいたよ。体力づくりで入った人もいたし。まぁうちの大学、走る系は本格的な部活が色々あったからそこに入らない人たちの集まりだったけどね」
例えば駅伝とか。
大学の駅伝チームが少し有名なせいで、キャンパスの周りを走ると視線を向けられて恥ずかしかった記憶がある。だから地域のマラソン大会に参加するときも大学名は隠していたっけ。
「そういえば、ここに引っ越すときにシューズとかも持ってきた気がする」
「下駄箱に無いんですか?」
「不思議なことに」
「じゃあ、押し入れの奥にでも入ってるんじゃないです?」
「そうかもね」
「……ここに来て一回も走ろうとは思わなかったんですか?」
「そもそも大学の時に走ってた理由が、疲れるからってだけだったし。こっちに来てからは仕事がそれに代わっちゃった」
「変な理由で走っていたんですね」
大学に入りたての頃は心の傷がまだ生々しいままで、夜になると度々あの夢を見ていた。
だからくたくたになるまで走って、気絶するように眠れば夢を見ることもない。なんて考えていたんだろう。
実際、サークルに入ってからは夢を見る頻度も減った。
それに、走っている途中は他のことを考える余裕もなく、頭の中を空っぽにできる感覚があって、それがとても好きだった。
だがら別に走ることが好きだったわけじゃない。
毎日くたくたになるまで授業と雑務に追われれば、仕事だってこれに当てはまる。それにこっちは同時にお金も貰えるし。
「ねぇ、麻里さん」
「なに?」
「麻里さんは部活とか担当してないんですか?」
「え」
「高校教師ってなにかしらの部活を担当させられるんじゃないですか?」
「うーん」
「なんですかその変な返事」
部活か……。職員室にいると度々聞く響きだ。とても嫌な響き。
「担当してるよ?」
「夏休みなのに何もないんですか?」
「ほとんど活動ない部活だし、活動してても私、行ってない」
「それ、どうなんですか」
「教頭みたいなこと言わないでよ」
「ちなみに何部なんですか?」
「文芸部と園芸部」
「……両方とも存在を知らなかったです」
「二つとも最小限の人数しかいないからね」
私がこの学校に来た時、丁度文芸部の先生が移動になって枠が空くという話を耳にして、真先に手を上げた。
若いからなんて理由で運動部に配属させられたら最後、ボランティアで奴隷のように毎日働かされる。百歩譲って働くことは疲れるから良いにしても、体育会系のノリには絶対についていけない。そもそも球技とか苦手だし。
だから「本を読むのが大好き」「書いたこともある」なんて適当な嘘を並べて楽な文化部を手に入れた。期待通り私の仕事は少なくて文化祭の前後にしかやることは無いし、活動にも顔を出さなくていい。ただマイナー文化部が楽なことは他の先生も重々承知で、こうして今年からは園芸部も押し付けられてしまった。
「園芸部とか、それこそ今忙しいんじゃないですか?」
「そこはちょっと生徒と共謀してなんとか」
女子生徒が集まってできた園芸部。活動はしているが、野菜作りなんていう本格的なことはしていない。どちらかと言えば仲のいいメンバーの溜まり場といった印象。
だから私は彼女たちに提案をして、それを向こうも飲んでくれた。頭のいい生徒は助かる。
「向こうも教師に来てほしくないし、こっちも活動なんて行きたくない。ウィンウィンでしょ?」
「今、私の中で麻里さんへの信用がガタ落ちなんですけど」
莉緒は私に蔑むような目を向ける。それもしかたない。
「たまに行ってるから大丈夫だって。その時にお菓子でも差し入れすれば完璧」
「なんかもう。最悪ですね」
「考えてやっていかないと、潰されちゃうから」
大学の同期にも一年で教員を辞めた人は少なくない。だから私みたいな人間には適当にやるのが一番。
文芸部にも本気で書いている生徒はいないし。大会などが無い部活を担当出来て良かったなと喜ぶべきこと。
「ちょっと麻里さんを見る目が変わりました」
「クレバーだって?」
莉緒は鼻で笑う。その反応はちょっと傷つく。
「じゃあ、そんな麻里さんに罰を与えてあげましょう」
「私、許しを求めてないんだけど」
「まぁまぁ」
莉緒は立ち上がり、謎のポージングをする。
「何それ」
「今調べたら、バスで十五分くらいの所にあるっぽいんですよ」
半身になって両手を頭の近くで組む。それを思いっきりスイングして見せる。
「えー。嫌だよ。やったことないし」
「やったことないからやるんじゃないですか」
バッター。莉緒。影響されやすい彼女は、エア素振りを始める。
「でも、さっき書いちゃいましたもん」
「どういうこと?」
「私のやりたい事ノートに書いちゃいました。バッティングセンターに行きたいって」
そういう事かと私は頭を抱える。
そしてすぐに、それなら仕方ないなと返す私がいる。
未来の予知がそう書かれたのならば仕方ない。どれだけ拒否しても結局は行くことになるんだ。
「わかった。今から行くの?」
「はい」
「じゃ、ちょっと準備してくる」
「はーい」
彼女の細い腕でバッドを振れるのかは分からないが、バッドとヘルメットが可愛らしく似合うことは間違いないんだろう。
「俺たちの夏が始まった」
適当なことを言いながら素振りをする莉緒を横目に、私は押し入れの中に眠る靴を探してみたり。