ぴぴぴ、と鳴るスマホの目覚ましで目が覚めたけれど、症状はまるでよくなっていなかった。
 むしろ悪化したようで、頭まで痛くなっている。
 痛い、というか頭が重い。
 熱が出たのかもしれないと思って、体温計を使ってみるとそのとおり。37度と少しの微熱ではあるけれど、確かに普段より体温が高かった。完全に風邪である。
 無理をすれば出勤することもできる、と思った。
 けれど営業のひととは違って、幸希の仕事は基本的に急がない。それに有休もまだいくらか残っていた。
 悪いけれど、有休を使って休ませてもらおう、と思う。
 休ませてください、と言うのはやはりあまり気が進まなかったのだが、仕方なく店長に電話をした。
 店長は「やっぱりか」と言って、「流行ってるからね」と続けた。そして「早く治せよ」と休みを了承してくれた。幸希はありがとうございます、と言って電話を切る。
 もう一度布団に横になった。すぐに眠気が襲ってくる。
 病院へ行こうかと思ったのだが、それもおっくうだった。
 外になど出たくない。病気なのだ、メイクなどはマスクをしてサボるとしても、外に出て歩くという行為すらおっくう。
 食べるものはなんとかある。買い置きのゼリーなどで誤魔化せばいいだろう。薬もある。
 まぁなんとかなるでしょう、なんて楽観的なことを思って、薬を飲んで寝てしまうことにした。
 薬はなにか食べなければ飲めないので、そのカップのゼリーをなんとか食べて、そして薬を飲んでもう一度寝た。
 一晩ぐっすり寝たのに、また深い眠りに落ちてしまったようだ。
 眠る幸希の耳に、今度はぴろりん、と違う音が聞こえた。その音が幸希の意識を少しだけ現実へ戻してくる。
 ライン通知だ。
 誰だろう。
 そのとき思った。
 志月だったら良いのに、と。
 優しくしてほしかった。今は余計に。
 もそもそと動いて枕元に置いていたスマホを掴んで画面を付けるけれど、ラインは母親からだった。
 猫のスタンプが押されていて、『幸希、元気? お米でも送ろうか?』と何気ない内容。自分を気づかってくれるものなのに、ちょっとがっかりしてしまって幸希は罪悪感を覚えた。
 エスパーではないのだから、志月が勝手に『幸希が風邪を引いた』なんてこと、わかってくれるはずもなかったのに。
『ちょっと風邪ひいちゃった』
 寝たまま、ぽちぽちと返信を入力して送る。
 返事はすぐに返ってきた。
『あら。病院は行った?』
『行ってない』
『仕事は大丈夫?』
『明日ダメだったら病院行くよ。ありがとう』
『動けないほどつらかったら連絡しなさいよ』
 短いやり取りをいくつか続けて、それで母親とのラインはおしまいになった。スマホの画面を暗転させて、枕元にぽいっと置く。
 もう一度眠る体勢になって、幸希は目を閉じる。
 まぶたの裏に浮かんだのは、志月の顔だ。そういえばしばらく会ってもいなかった。
 それはそうだ、幸希のオフィスが転勤ラッシュに忙しかったということは、同業である志月だって忙しいのだろう。
 営業の当人である志月は自分自身がとても忙しいだろうし、おまけに主任や店長を狙っている以上、ここが力の見せ所である。いい成果をあげて、評価してもらえるようにしなければいけない。
 ああ、邪魔しちゃいけないな。
 思った。
 でも次に思った。
 ……会いたいなぁ。
 早く治して、それでデートのひとつでもしてもらいたかった。
 うとうとしているうちに、時間は進んで今度目が覚めたときはすっかり陽も落ちていた。
 具合がよくなったかどうかはよくわからなかった。でもまだ頭はぼんやりしていて重かったので、治っていないことだけはわかる。
 どうしよう、明日も同じだったら。
 病院に行かなければいけないだろうし。
 夕方のオレンジのひかりの中で、幸希は、はぁ、とため息をついた。
 昼を抜いてしまったけれど食欲はない。そこからも体調不良を感じて憂うつになってしまう。
 そしてまた志月のことを考えてしまった。
 優しい彼のことだ。『風邪ひいちゃった』とでもラインを送れば、なにがなんでも……訪ねてくるなり電話をくれるなり……なにかしてくれることはわかっていた。
 けれど忙しい折なのはわかっている、邪魔をしたくない。
 会いたいと思うのに、一番会いたいひとに会えない。
 会いたいひとがいるというのは幸せなことだけど、会えないとなるとそれが負担にもなってしまうのだと知ってしまった。
 おなかは空かないけど、またなにか食べて薬を飲んでおとなしくしておかないと。確かパックのヨーグルトがあったはず。
 起き上がって、普段の習慣通りにスマホを掴んで一旦画面を付けた。寝ている間になにか連絡でもきているからかもしれないからだ。
 しかし幸希は画面を付けたスマホを見て、目を丸くした。そこには志月からラインが来ていたのだから。
 表示されている時間は、二時間前。
 どうして気付かなかったのか。母親からのラインでは目を覚ましたのに。
 それほどぐっすりしてしまっていたことを悔やむ。
 すぐに返信したかったのに、と。
 トーク画面を開くと、なんでもない内容が表示された。
『今日、外出先でおもしろいお店を見つけたんですよ! 和雑貨のお店ですけどモチーフが食べ物限定なんです。今度行きませんか?』
 写真が添付されていた。かわいらしい和の雰囲気の看板が映っている。
 写真はちょっとぶれていた。多分、営業に出た先の短い間で撮ったのだろう。
 そのくらい、自分が好きだろうと思って気にかけて、時間もないのにチェックしてくれたことが嬉しかった。
 なんだか目の前が霞んだ。画面を介してだが、彼のやさしさが確かに伝わってきたので。
 嬉しい気持ちと同時に、でも心細い気持ちが湧き上がって、ぽろっとひとつぶ涙が落ちた。
 邪魔をしては悪い、とわかっていた。
 けれど独りが心細くてたまらない。
 思い切って、入力欄に入れていた。
『行きたい。でも、ちょっと風邪引いちゃったみたい』
 しばらくトーク画面はなんの反応も見せなかった。
 当たり前だ。
 まだ夕方。仕事中なのだろう。
 しばらくスマホを見つめていた幸希だけど、小さくため息をついて、トーク画面を閉じた。こぼれた涙を拭って起き上がる。
 ヨーグルトを食べて、薬を飲んで横になろうと思ったことを実行した。
 返事が返ってきたのは、夕方も終わって外がほとんど暗くなった頃のこと。でもスマホが鳴った瞬間、幸希はそちらに体を傾けてスマホを掴んでいた。
『ごめんなさい! 今スマホ見ました。風邪ですか!? 病院は行きました?』
 ああ、やっぱり。
 こう言ってくれることはわかっていた。
 邪魔をしてはいけないと思っていて、でも邪魔をしてしまって、でも、……嬉しくてたまらない。
『行ってない。明日、治らなかったら行くつもり』
『そうですか……薬とかありますか?』
『うん。大丈夫。少し疲れてただけだから、休めば治ると思う』
 寝たままやりとりする。
 ラインに付き合ってくれるだけでも嬉しかった。
 スマホ画面を介してでも、繋がっていられることが。
『ちょっと遅くなっちゃうかもしれませんが、お邪魔しても大丈夫ですか?』
 言われて、またじわっと涙がにじんだ。
 我儘を聞いてくれたも同然なのだ。彼女が『風邪ひいた』とラインを送って、どうしてほしいのかわからないはずがない。
『いいよ。忙しいでしょ』
 それでもそう送った。『ありがとう』なんてすぐに送るのは図々しい、と思ってしまったせいで。
『なに言ってるんですか、仕事より幸希さんのほうが大事です。9時くらいになってもいいですか?』
 返ってきた返信を見て、今度こそ滲んだ涙が零れる。
『ごめん、ありがとう』
 甘えてしまう。
 思いながらも返信を入力した。
『じゃ、ごめんなさい、ちょっとこれから一件外出があるんで……行く前に連絡します』
『ごめん、ありがとう』
 また同じ内容を送ってしまったけれど、それを気にしている余裕はなかった。
 来てくれる。
 嬉しさと申し訳なさが胸の中を渦巻いていた。
 どっちが強いのかはわからないし、こんな我儘を言って良かったのかもわからない。けれど、やっぱり嬉しかった。
 そして、はっとする。
 彼氏がきてくれるというのにこんな格好では情けなさ過ぎる。昨日はお風呂も入っていないし、きっと寝ている間に汗もかいた。でも風邪を引いているというのにメイクをしっかりして普通の服というのも。
 悩んで、でも着替えることにした。普段のスウェットから、ちょっとかわいい部屋着に。
 そのくらい『彼女』でいたいと思うことは許してほしい、と思う。
 体が少しだるくておっくうではあったけれど、お風呂に入らないまま会うなんてことは自分が許せなかった。
 ちょっと無理をしたけれどシャワーを浴びる。
 でもそれはあまり悪くはなかったようだ。汗を流してすっきりしたのだから。
 汗をかいたままも良くないから、良かったかも。
 思いながら、髪をとかして、顔にはフェイスパウダーだけをはたいてなんとか誤魔化す。
 志月が訪ねてきてくれたのは、その数時間後の8時半頃だった。
「すみません、遅くなりました」
 自分で言ったよりずっと早く来てくれたというのに、志月はそんなことを言った。
 マンションのオートロックを解除して、そして上まで上がってきてもらって、玄関の鍵も開けて。
 顔を合わせたなりそんなことを言うものだから。
「なに言ってるの、早すぎるよ。仕事……」
 言いかけたが、きっぱり言い切られる。
「言ったでしょう。仕事より幸希さんが大事です」
 言ってほしかった言葉。直接もらえたことに、涙が込み上げた。
 そんな幸希の肩に触れて、「寒いですから」と志月は部屋の中へと導いてくれる。
 幸希のマンションは独り暮らしらしく小さなもので、居室のほかには小さなキッチンとバスルーム、トイレしかない。
 なので居室にそのままベッドを置いている。無理をして小さなソファも置いているのだが。
「寝ててください」
 キッチンでやかんをコンロにかけようとしたのだがストップをかけられる。言われて幸希は「でも、お茶……」と言いかけたのだけど、やはり言い切られた。
「そんなお気遣いはいいですから。体を大切にしてください」
 ぐいぐいと居室へ追いやられてしまう。
 確かにそのとおりなのだけど。
 ベッドに幸希を座らせて、志月はその前の床に腰を下ろした。
「喉、渇いてませんか。ポカリ買ってきました」
 持ってきているビニール袋には、ほかにも色々入っているようだ。
「ワンコインですよ」
 ポカリを掲げて、ちょっと困ったように笑った。幸希を元気づけるために言ってくれたのは明らかだったので、幸希も笑う。
「嘘。120円はするでしょ」
「嘘じゃないです。ドラッグストアで買いましたから」
「そっか」
 水分補給はしっかりしないとですよ、と言われたので、幸希はありがたくそれを飲む。ポカリは幸希の家に来る直前買ってきてくれたのだろう、冷たくてとてもおいしかった。
 ずいぶん喉が渇いていたことを、幸希はそれでやっと自覚した。つい、ごくごくとたくさん飲んでしまう。
「もう一本ありますよ」
 そんな幸希を見つめる目は優しくて、幸希はポカリを勢いよく飲んでしまったことをちょっと恥ずかしく思った。
「もう大丈夫」
「そうですか。じゃ、冷蔵庫をお借りして入れておきましょう」
 幸希が言ったので志月はポカリを持つ手を引いて、またビニール袋に手を入れた。
「あとはおかゆとか……ゼリーとか……」
 次々に支援物資が出てくる。
 おまけに「幸希さん、桃のゼリーが好きですよね」などと好物を差し出されてたまらなくなった。視界が歪んで、ぽろぽろと涙が零れる。
「ありがとう」
 幸希を見て志月は驚いたようだったが、すぐにふっと笑って、腕を伸ばしてくれる。幸希を抱きしめてくれた。
「泣かないでください、恋人として当たり前のことですよ」
 今ばかりはそのやさしさに甘えたい。幸希はしっかりと志月にしがみついた。
 そこで、ふっと志月が言う。
「幸希さんは、ちょっと無理をして一人で抱え込みがちなところがありますね」
 幸希はどきりとした。
 それは以前、亜紗に言われたことだ。
「風邪だって今日引いたんじゃないでしょう。ここしばらくこの業界忙しかったですし」
 なにも言い返せなかった。
 職種は違えど、同じ業界で働いている以上、どのくらい仕事が忙しいかは把握されている。無意識のうちに無理を押していたと気付かれてなんだか居心地が悪い。まさにそのとおり。
「もっと頼ってください。僕は年下ですけど、ちゃんと大人ではあるつもりです」
 連絡をためらったこと。
 良かったのか悪かったのかはわからない。
 志月の抱える忙しさを気遣ったこと。
 逆に甘えてほしいという、志月の気持ち。
 どちらを大きく取るべきだったのかは。
 けれどそう思って、しかも口に出してもらえるということは、もう少し、もう少しだけ彼に身を預けても良いのだと思う。
「……ありがとう」
 そのひとことだけで、幸希にきちんと伝わったことはわかってもらえたのだろう。すぐに志月の声はやわらかくなった。
「早く治して、デートに行きましょう。昼間送ったライン、見ました?」
「うん」
「幸希さんの好みそうでしたよ。そう遠くもないですし、今度の休みに幸希さんが良くなっていたら……」
 抱きしめながら、そんななんでもない話をしてくれる。
 でもそれは、なんでもなくなどない。
 とても貴重で、かけがえのないものだ。
「ありがとう」
 ぽろっとまた涙が零れたけれど、今度のそれはあたたかく頬を濡らしていった。
 風邪がすっかり治る頃には、季節ははっきりと秋になっていた。このくらい季節が落ち着いてしまったほうが逆に過ごしやすい。
 きちんと適切な防寒をしていれば、寒さもまだそれほど厳しくない。
 志月とは約束していたように、例のお店を訪ねるデートをした。外観通りの素敵な商品を扱う店で、幸希はちりめん生地で作られた和スイーツモチーフの小物のどれを買おうか夢中になってしまった。
 結局選んだのは桜餅とかしわ餅をモチーフにしたものだった。それぞれピンクと緑の生地を使って作られていたが、控えめに柄が入っているところが、なかなかほかでは見られないと思う。
「そのチョイスは春の和菓子ですね」
 志月にはくすくすと笑われた。
「春のお菓子が好きですか」
「うん。華やかだし」
「じゃ、春になったら和菓子屋巡りでもしましょうか」
 その提案に嬉しくなってしまった。
 春になるまで一緒に居たいと思ってくれることに。


 交際は順調だったといえる。
 それにほころびが生じたのは、あるとき外で偶然志月を見かけたときのことだった。
「銀行までおつかい頼むよ」
 良く晴れた日のことだった。
 店長が依頼してきた、何気ないおつかい。銀行で通帳を記帳してくる簡単な仕事だ。
 営業を駆り出すまでもない。事務の幸希が、ちょちょっと行ってくるだけでいいのだ。
 それどころかオフィスに閉じ込められているのを堂々と抜け出せるので、たまに頼まれる『おつかい』……今日のように銀行とか、あとはちょっとした備品が切れたとか……そういうたぐいのものは、幸希にとってまるで負担になるものではなかったといえる。
 よって「はーい」と通帳をミニバッグに入れて銀行へ向かった。
 銀行はオフィスから歩いて10分ほど。通り道にスタバがあるので、帰り道にたまにはおいしいコーヒーでも買ってオフィスに戻ろうかと幸希はうきうきとした気持ちで道を歩いていった。
 そして帰りに寄ろうと思ったスタバが見えてきたのだけど。
 しかしそこで目に入ったのは、よく知った人物であった。
 昨日も会った。志月だ。
 ああ、そういえば今日は休みだと言っていたっけ。お茶でも飲みに来たのかな。
 ちょっと声でもかけてみようと、恋人として当たり前のことを思ったのだけど。
 幸希の足はとまってしまった。
 志月はスタバから出てきて、外のオープン席に向かっていく。手にふたつカップを持っていて、どうやら誰かと待ち合わせかなにかのようだ。
 その先に何気なく視線を遣って、幸希の胸がざわりと騒いだ。
 視線の先に居たのは、女性だったもので。同年代の女性に見えた。
「戸渡くん、ありがとう」
 小さく声が聞こえた。
 戸渡くん、と呼んだ。
 それは志月と交際する前、幸希が呼んでいたのとまったく同じだった。
 いや、目上の立場の人だったら名字に『くん』をつけて呼ぶくらい、当たり前かもしれないけれど。
 早く行ってしまわなければ。
 なんとなく、このままここにいてもあまり良いものを見ない気がしたので自分に言い聞かせたのだけど。
 好奇心が勝ってしまった。そのことをあとから幸希は、盛大に後悔することになる。
「ミルクだけでしたよね」
 志月の声も小さくだが聞こえた。
「うん。よく覚えてるね」
 やりとりはまるで恋人同士。
 え、まさか二股。
 一瞬そう思ったけれど、すぐにそれは無いと否定した。
 志月はそんな不誠実な男ではない。そういう信頼関係はしっかりあったし、大体こんな幸希の職場の近くで堂々とほかの『そういう関係の』女性に会うはずがないではないか。
 そんな馬鹿なことをするはずもない。だから違うのだろうけれど。
 二人は向かい合って席に座って、お茶を飲みはじめた。
 数十秒、見ているだけでも楽しそうだった。
 ごくりと幸希は唾を飲み込んでしまった。気分が悪くなりそうだったので。
 あそこに座れるのは自分だけだと思っていた。
 志月とあのようにお茶ができるのは自分だけだと思っていた。
 でも違ったのだ。
 それなりに仲のいいであろう女性とならば、あんなふうに向かい合って座って話すのだ。そんなこと、いい大人としては当たり前のことなのだけど。
 大体、あの『仲の良さそうな』女性でなくても、たとえば亜紗など、そのくらい近しい相手であればああいう様子になるだろう。
 それでも嫌だと思ってしまうのは仕方ないと言いたい。大好きな人に対してという意味であれば、やはりそれも当たり前のこと。
 数秒、見てしまっていたけれど幸希はくるりと身をひるがえした。
 スタバの前を通る気にはなれなかった。
 志月に気付かれて「幸希さん」なんて呼ばれてしまったら。
 こんなことを考えてしまっている姿、見られたくない。
 だって絶対に、あの女性に対して嫌な態度を取ってしまうだろうから。
 なんて心の狭いことだろう、と思う。
 嫌なオンナ。こんな彼女、志月くんだって嫌だと思うかもしれない。
 思ってしまってことがぐるぐると頭を渦巻いて。
 わざと遠回りした銀行で用を済ませても、もちろんコーヒーどころではなく、同じく遠回りした道を通って、さっさとオフィスに帰ってしまった。
 オフィスに戻っても、仕事を再開しても、幸希の気持ちは晴れなかった。
 一瞬でも『二股』なんて思ってしまったこと。
 そして志月がほかの女性と仲良くしていることを嫌だと思ってしまって、自分の心の狭さを思い知らされたこと。
 そんなことを心に抱えていては楽しい気持ちになれるはずもないではないか。
 もやもやとした気持ちのまま家に帰って、適当に食事を作って。
 テレビを見ながらちまちまと紅茶をすすっていたところへ、スマホが鳴った。
 電話だ。ライン通話。

『戸渡 志月』

 名前を見てぎくりとした。
 別に電話をかけてきたってなにもおかしくない。
 おかしくないけれど。
 今、あまり話したい気持ちではなかった。なんだか余計なことを言ってしまいそうだったから。
 でも無視もしたくない。話したい気持ちも確かにある。
 ちゃんと確かめたい。志月は昼間見た女性のものではなく、自分の恋人なのだと。
 どうしようか、迷って、迷って。
 十秒以上が経って、待機時間も切れそうになって幸希は観念した。スマホをタッチして、電話を取る。
「はい」
『ああ、幸希さん。すみません、取り込みでした?」
「ん……うん、ちょっとね」
 なかなか幸希が出なかったからだろう。ほっとしたような志月の声。
 それを聞いても幸希の心は晴れなかった。
 おまけに『取り込み中だったか』なんて気を使ってもらったのに、返事を濁してしまう。
 でも志月は特に奇妙にも思わなかったらしい。
『今度のデートなんですけど、二週間くらい空いちゃってもいいですか? ちょっと予定が立て込んでて』
 現状予定は立っていなかったので、なにも問題はなかった。
 普段ならば「うん、いいよ」と答えていたはずのそのこと。
 今はそんな言葉、出てこなかった。だってあのような様子を見てしまったから。
 『予定』とは。
 『誰と会うのか』。
 そんなことが気になってしまって、だめだ、だめだと思ったのにぽろっと口から出てしまった。
「……誰と会うの?」
『……? 後輩ですけど』
 志月は不思議そうな声を出した。幸希がそんなことを聞くとは思わなかったのだろう。
 そうだ、こんな束縛するような言葉。今まで言ったことはない。
「水木くん?」
 志月の後輩として知っている水木の名前を挙げたけれど、志月はそれを否定した。
『いえ、違いますけど』
 しかし『違う』としか言ってもらえない。
 具体的な関係や名前を挙げて貰えないことに、妙に気分が揺れた。
 不安感や疑い、おまけにいらだちの方向へ。
 ああ、こんなことつまらない女しかしないことなのに。
『……なにかありました?』
 それには志月も流石に不審を抱いたらしい。ちょっと黙ったあとに訊かれた。
 気付かれてしまったことでさらに自分が嫌でたまらなくなって、幸希は濁すようなことを言う。
「……なにかあったっていうか、……ごめん。ちょっと」
『……僕がなにかしましたか』
 また、沈黙。
 そのあと志月が言った。
 幸希の胸がずきりと痛む。
 志月はこういうひとだ。すぐに自分になにか非があるのではないかと心配してくれる。
 けっして幸希が悪い、なんて責めたりしないのだ。
 いくらおかしな様子を見せても。
 不安がっても。
 そんな弱さを見せたとしても。
 だから今回も幸希が見てしまった、志月にはなんの非もないことに勝手に苛立っている、なんて疑いもしないのだろう。
 年下だというのに志月のほうがずっと大人、というか人間ができているではないか。
 思わずくちびるを噛んでいた。くちびるの薄皮がはがれる。
 ちり、と小さな痛みが生まれた。けれど胸に詰まったたくさんのみにくい感情に比べればそんなこと、ささいすぎる。
「なにもしてないよ」
『でも幸希さんらしくありません』
 言われて、今度こそはっきり苛立ってしまった。
 私らしい、ってなに。
 ほかの女の子と話しててもスルーできるような優しい彼女でいてってこと?
 理不尽な怒りがこみ上げる。
 その感情が幸希にその日見たことを言わせてしまった。
「今日、女の子とお茶してたでしょ」
 幸希の言ったことで、幸希の思いを一瞬で理解したのだろう。
 でも志月の声のトーンは変わらなかった。数秒の沈黙だけがそれを伝えてくる。
『……ああ。大学の先輩です。偶然会って』
「そう」
 そっけない返事をしてしまう。
 教えてくれたというのに満足できないなんて。
 思ったものの、とまらない。胸の中が痛すぎて。
 吐き出してしまいたかった。
 本人にこんなこと言ってはダメだ。
 わかっているのにここまで追い詰められては。
「優しそうだったね」
 私にだけじゃないんだ、と言いたかったのは流石に思いとどまった。
 そんなことを言うのは最低すぎるから。
 ここまで言って今更かもしれないけれど。
『だって、女性ですよ。それなりに優しく接さないとでしょう』
 当たり前のことを言われた。
「それはわかってる、わかってるけど……」
 そんなことわかっている。
 けれどどうしようもないのだ。だって抱いている感情は。
『……妬いてくれるのは嬉しいですけど』
 はっきり言い当てられて、顔と頭の中が熱くなった。
 それはふたつの感情。
 羞恥と怒り。
 志月に知られたくなかったし言われたくはなかった。
 そういう気持ちをそんなふうにはっきり言うなんてひどい。
 思ったとしてもはっきり言わないでほしかった。
 言わせたのは自分のくせに。
 そう思わせることを言ったくせに。
 それなのにまだ自分を良く見せたいなんて。
 このあとのことは志月の言葉に対してだけではない。自分に苛立ってしまったのもある。
「そういうふうに言わないで!」
 幸希が志月に対して声をあげたのは初めてだった。
 というか、これまでの彼氏にもしたことがない。家族や友達と喧嘩したり、そのときくらいだ。
『だってそうでしょう』
 でも志月の声は落ち着いていた。
 それがまた幸希の気に障る。
 つまらないことをしている。嫌な女なのは自分だ。
 非のない彼氏にこんなこと、こんな口調で言うなんて。
「ごめん。切るね。おやすみ」
 やっと、それだけ言った。
 こんなところで会話を終わらせるのはまるで逃げるようだった。事実その通りなのだが。
 通話終了アイコンをタッチして、スマホを放り出して、ぼすんとベッドにダイブする。
 やりきれない。
 涙は出ないものの、枕に顔をうずめた。ふんわりした枕の感触も、今は幸希を慰めてはくれない。
 志月ははっきり言わなかったけれど、そして幸希も具体的には言わなかったけれど、『ほかの女性とのやり取り』に幸希が気分を害したことは伝わってしまった。
 そこから露見したであろう、自分の嫌な部分。言わなければ良かった、と今更思う。
 一度は言うまいと思ったのに、衝動に負けて口に出してしまったことが悔やまれる。
 でも。
 このまま抱えていたら直接言ってしまったかもしれない。それよりはましだろうか。
 思って、しばらく沈黙して。
 幸希はごろんと転がって今度は枕を抱えた。壁に向き直って、うう、とうめく。
 ましだとかましじゃないとか、そういう問題ではない。
 嫌な感情はひとつではなくて、嫉妬だとか自分への嫌悪感だとか……たくさんありそうで頭の中はパンクしそうだ。


 夜はまるで眠れなかった。
 それはこれまで平穏な関係を続けてきた志月との、初めてのいさかいだった。
 翌朝目が覚めて、鏡を覗き込んで。
 寝不足でくっきりできてしまったクマを見ながら、幸希はためいきをついた。
 泣いてはいないので目は腫れていない。けれどひどいありさまであることに変わりはなかった。
 今日はアイメイクを少し念入りにしなければ、と思う。濃いメイクは好きでないけれど仕方がない。
 コンシーラーを使って、ファンデーションも少し厚めに……。
 考えながらまずはキッチンへ向かう。
 しかしこちらも問題があった。食欲がないのだ。
 おなかがすくわけもないではないか。クマができるほど眠れなくて、悩んでしまったのだから。
 でも一日仕事をするのだから食べないわけにはいかない。
 ちょっと悩んで、幸希が取り出したのはダイエットシェイクのパウチパックだった。牛乳と混ぜるだけで、おいしいシェイクができあがる。
 ダイエットをしようと思っていた時期があったので、そのとき買い込んでいた。チェックすると賞味期限もきていない。冷やしていないのでひんやりおいしい、というわけにはいかないが、別段味が変わるわけではない。問題ないだろう。
 このシェイクは名前のとおりダイエット用だが、もともとの目的は『摂取カロリーを減らすこと』。
 そしてそれだけではないところは、『必要な栄養素をカットしないこと』だ。
 つまり、必要な栄養を摂りつつ、軽く食べたいときにも向いている食べ物でもあるのだった。
 牛乳は買い置きがあったので取り出して、用量を測ってシェイクと混ぜる。
 選んだシェイクは白桃味。
 何味でも良かったのだけど。味を選んで楽しむ余裕などないのだから。
 シェイクは数十秒で出来上がる。それを持って居室へ戻って、起きたときにつけたテレビの前に座った。
 もったりしたシェイクをスプーンですくい、口に運ぶ。
 一応、おいしかった。そのくらいはわかる。
 しかしそれで心が明るくなるかはまた別問題。
 このダイエットシェイクを食べるのが久しぶりであるように、ここのところ、ダイエットもさぼりがちだった。
 もともと太っているというわけではないけれど、ダイエットはいくつになっても女子の重要項目だ。立派な女子であるなら、体型維持のために、痩せようとしなくても体型や体重を気にすることは欠かせない。
 さぼりがちになってしまった理由は、志月とあちこちおいしい店に行っていたこともある。
 それが楽しくて、幸せで。
 体重計に乗るのもご無沙汰だった。
 そしてそれは示していた。
 体重や体型を気にしないくらいに、気を抜いてしまっていたことを。今まではこんなことなかったのに。
 いかに彼氏に好かれ続けるか。
 そのために綺麗な自分でいられるか。
 綺麗であれば愛してもらえる、なんて自分に言い聞かせていたから。
 志月に対してそれ……体型に気を遣ったりそういうこと……つまり『愛してもらう努力』がなかった理由は明白だった。
 心配しなくても、向こうから与えてもらっていたからだ。
 溢れるくらいに、たっぷりと。
 それに慢心してしまっていたこと。今ならわかる。
 その思考は断片的に幸希の頭に浮かんだけれど、なるべく深く考えないようにした。
 反省はしなくてはいけない。
 けれどそれは今じゃない。
 今必要なのは、感情を殺して、日常をこなして、会社へ行ってきちんと働くこと。昨日のことをどうこうするのはそのあとになってしまうが、社会生活をする以上、仕方がない。
 これも言い訳だけど、なんて内心呟いて、次にまた、心の中だけでため息をついた。
 そんなことを考えながらも黙々とシェイクを食べて、ごちそうさまでした、と呟く。
 シェイクを食べたカップとスプーンを洗ってしまったら、次は顔を洗って、メイクだ。
 いつもより丁寧に顔を洗って、そのあといつもより丁寧にメイクをした。
 下地を塗ったあとにクマの上にコンシーラーのペンシルを慎重に乗せながら思う。
 今までの恋を。
 恋をしてこうなったこと、クマを作るくらいに眠れなくなったり、もっと悪くして泣いたせいで目を腫らしてしまうようなこと。今までにもあった。
というか、好きであった彼氏に何度も振られていたのだから当たり前かもしれない。
 当然のようにそのたびに傷ついて、泣いて。
 振られたそのときだけではない。
 彼氏が自分を見ていない。
 自分に飽きた。興味がなくなった。
 それを察知した時点でもうクマを作るくらい心を痛めてしまったものだ。
 でも志月にはそれがなかった。
 だって、向こうから言ってくれたのだ。
 優しくされることを教えてあげます、と。
 だからその言葉に、気付かないうちに甘えすぎていたのだろう。
 思いあがっていた自分が嫌になる。最初はあれほど優しくされることを恐れていたのに。
 人間の順応性がうらめしかった。
 ほしかったもの。
 手に入ってしまえばあって当たり前のことなんだと誤解して、思いあがってしまうようになる。
 おまけに『嫉妬した』と指摘されて恥ずかしくも怒ってしまったのも、志月に甘えていたのだろう。近しい友達や家族にするように声をあげてしまったことが、それを示していた。
 優しい志月はそれを許してくれるだろう、なんて無意識に思って、また甘えて。
 謝らなければいけなかった。全面的に自分が悪い。
 最初からわかっていたけれど、いや、口に出してしまう前から嫉妬の感情なんて感じたことすら自分が悪いとわかっていたけれど。
 ああ、ほんとに最悪の事態、負の連鎖。
 思いながらもベースができたあとはいつもどおりの手順でメイクをした。
 オフィス用の、控えめなメイク。もう意識しなくても簡単に作れる。
 朝ごはんもメイクも終わって、あとは着替えだけ。もう随分寒いのだからカーディガンの上に、薄手のコートも必要。何故か今日はいつもより余計に寒く感じた。
 こんな気持ち抱いていたら当たり前か。
 思って、カーディガンをいつもより少し厚手のものにしておいた。体だけでも冷やさないようにしないと、と思って。
 支度ができて、誰もいない家だけど一応「いってきます」を呟いて。