着いた場所を見て、幸希はぽかんとしてしまう。
 そこは危惧したような場所でもなく、次にあり得るかと思っていたどこかのバーなどの酒を飲む場所でもなく。
 ……なんだかかわいらしい印象の、多分カフェ、だったのだから。
 白い壁。暗いので屋根は何色かわからないが、明るい色なのだろう。
 なんで、カフェ?
 確かに「もう一軒」とは言われたけれど、それでお茶を飲みに行くなんて誰が想像しただろう。
 こんな夜も更けた時間に、いい大人の男女がくる「もう一軒」だろうか?
 それでも悲しい気持ちは拭えなくて、外観を見られたのは数秒だった。
「いらっしゃいませ」
 俯いたまま戸渡の手に引かれるままに店内に入った。穏やかな男性店員の声が迎えてくれる。
 店内は冷房が効いていて快適だった。寒いということもない。
「奥の席、空いてますか」
 戸渡がそう言うのでちょっと驚いた。
 席の希望が言えるような店なのだろうか。
 そのとおりであるか、もしくはそのような要求が通るほど通っているかどちらかだろう。
 「空いてますよ」と男性店員の声がして、その要望は通ったらしい。「先輩、行きましょう」とまた手を引かれた。
 店員やほかの客にどう思われるかちょっとびくびくしてしまう。様子がおかしいであろうことは明白だろうから。
 そして入った一番奥の席に、もう一度驚いた。
 ワインレッドの布が張られたソファ席。
 その前には大きな窓があって、なんと海が見えた。
 夜で暗い中なのに海だとわかったのは、夜景の中にそこだけ真っ暗、そして一点だけ灯台らしきひかりがあったからだ。
「綺麗でしょう」
 どうぞ、と幸希を促しながら、戸渡はちょっと誇らしげに言った。
 あ、これは告白してきたときとは違う声だ、と幸希は思って少し安心する。常の彼が戻ってきたようで。
 しかしそこでまた胸が痛くなってしまう。
 わからなかった。
 自分は戸渡に、こういう『彼』でいてほしいのだろうか。
 『彼氏』に、つまり『男』になってほしくないのだろうか。
 だからあれほどなにも言えなくなってしまったのか。
 それならそれで「ごめんなさい」「後輩でいて」と言わなければいけないのに、それもなにか違う。
 ここでならそれがわかるのだろうか?
 席を勧められるままに座りながら、幸希はぽうっと目の前の海を眺めた。
「カフェラテは好きですか」
 訊かれるので幸希はただ頷いた。
「じゃ、……すみません。カフェラテをふたつ」
 メニューは目の前のローテーブルに置かれていたけれど戸渡はそれを手に取らなかったし、そして幸希に見せてくれることもなかった。今、メニューを見て「なにが飲みたいか」と考える気にはなれなかったので、幸希はほっとする。
 海を見ながらまた戸渡は何気ない話をはじめた。
「ここ、姉が好きなんですよ」
「少女趣味かもですよね。海が見えるカフェなんて」
「でも姉は車を持ってないから、連れてけなんてたまに言われて」
 幸希はそれをただ、うん、うんと聞く。
 やがてカフェラテがきた。ホットのようだ。
 店が示しているように、ずいぶんかわいらしい。
 入っているのはシンプルな白のティーカップだが、ラテにはうさぎが描いてあった。確かに女の子が喜びそうだ。
 というか、自分も常ならば、元気なときならば「かわいーい!」なんてテンションが上がって写真の一枚も撮るだろう。
 でも今はそんな気持ちにはなれなくて、ただ「かわいい」と思っただけだった。
 いや、戸渡に「かわいいね」とは言ったけれど。
「そうでしょう。それにワンコインですよ」
 戸渡はふざけた口調で言った。
 多分このカフェラテは、ジャスト五百円なのだろう。幸希もつられたように笑ってしまった。
 奢りはワンコイン。こんなところまで適用しなくても。
「猫舌ですか? そうでないなら、熱いうちに」
 優しく言われて、また涙が出そうになったけれど飲み込む。
 「大丈夫、ありがとう」とカップを持ち上げて、ひとくち飲んだ。甘い味が口の中いっぱいに広がった。
 最近ずっと暑かったのでコールドドリンクばかり飲んでいて、ホット飲料は久しぶりに飲んだ。
 けれど今はこれがふさわしい、と思う。あたたかくて甘いカフェラテは、心をほどかせてくれるような感覚がしたので。
 隣で戸渡も自分の前に置かれたカップを持ち上げて、カフェラテをひとくち飲んだ。それにもなにかラテアートが描いてあったと思うのだが、そこまで見る余裕は今の幸希にはない。
「なにか、心配なことでもありますか。付き合うこととかに」
 ぽつりと言われて、幸希はどきりとしてしまう。
 やっと話が本題に入ったことを思い知って。
 どうしよう、どう言おう。
 ぐ、と喉が鳴った。ココアのカップを両手で包んだまま、崩れたラテアートを見つめる。
 うさぎの絵は歪んでしまっていた。あんなにかわいく描いてあったのに。
「心配、っていうか」
 なにか言わないと。
 でも言い繕うことはできない気がした。
 自分はそこまで器用ではない。
 今は余裕もない。
 心にあることを言うしかないのだ。
「……どうして、私なの」
 末尾は震えた。
 そうだ、自分でなくともいいに決まっている。
 戸渡は魅力的だ。以前考えたように顔も良ければ仕事も多分できる。
 だから彼女もすぐできるし、結婚だって難しくないだろう、と前に思った。
 それがどうして自分にこれほど優しい気持ちを向けてくれるのか。
「なんで、って。鳴瀬先輩が好きだからですよ」
 心底不思議そうな声だった。
「よくわからない……」
「なにがです。ほかになにがあると?」
 もう海を見ている場合ではなかった。ただひたすら崩れたラテアートを見るしかない。
 まるで今の自分のようだった。心揺らして情けない姿をさらしているような。
「もしかして、……昔なにかあったとかですか?」
 言いかけて、言い淀んで、でも結局言われた。
 濁して言われたけれど、言いたかったことはわかる。昔の交際相手、もしくは付き合っていなくても男性になにか乱暴にされただとか。そういうたぐいのことだろう。
「それはないよ、別に悪いことなんて。……そりゃ、振られたけどそのくらいで」
 そこに関してはちゃんと言っておかなければなので、幸希は早口で言った。最後はぼそぼそとしてしまったけれど。
 振られたのは『なにかあった』に入るのかと思ってしまったゆえに。
 でも誰かを振るのは別に悪いことではないはずだ。傷つける行為ではあるけれど仕方のないこと。
「……でも、付き合った人はいたけど、こんなにいろいろしてもらったことはないよ。だからよくわからない……」
 なんとか言ったけれど、今度は不思議そうに言われた。
「なにも不思議なことはないと思いますが。好きなひとにはなんでもしてあげたいし、優しくしたいでしょう?」
 その言葉はあまりに純粋だった。
 でもそのとおりだ。シンプルなことだ。
 幸希だって、今まで好きになったひとにはそうしてきた。
 なんでもしてあげたいと。
 優しくしたいと。
 でも自分が受ける身になってしまったら、そうあるのが当然だとは思えなくなってしまった。
 続ける言葉はやっぱり「わからない」しかなくて、でも流石にもう繰り返せない。
 しばらく沈黙が落ちた。店内BGMのクラシックだけがその場を流れる。
 やがて戸渡がぽつりと言った。
「鳴瀬先輩は、優しくされることに慣れていないんですね」
 それは真理だった。
 そうだ、付き合った人はいてもきっと本心からの優しさをもらったことはなかった。
 惰性や打算。そのようなものをきっと無意識に感じていたのだろう。
 それで思った。
 振られても、ああ、当然だったのだ、と。
 幸希の表情が変わったのを見たのだろう。戸渡は手を伸ばしてきた。
 そっと幸希の手からティーカップを取り上げる。テーブルに戻してしまった。
 その空いた手を取られる。今度は両手で包み込むように。
「それなら僕が教えましょう。優しくされることを、……そうですね、大切にされることを」
 目を閉じた彼に言われる。
 包まれた手はあたたかった。熱々のラテが入っていたティーカップよりも。
 それは、ひとの持つぬくもり。
 ゆらりと幸希の視界が揺らいだ。今度は伝わってきたあたたかさが涙を零させる。
「私でいいの」
「先輩がいいんです。僕が優しくしたいんです」
 幸希は言うのをとてもためらったのに、あっさりと言い切られた。
 違う意味で言葉が出てこない。代わりに頷いた。
 ぽた、と涙が落ちるけれどそれはまるで意味が違っていただろう。
 戸渡が嬉しそうに笑った気配がする。そっと、幸希の手を握る両手に力がこもった。
「ねぇ、顔をあげて、見てみてください。ここからの景色は綺麗でしょう。今夜はずっと見ていませんか」
 ここ24時間営業なんですよ。こんなかわいいお店なのに。
 言って微笑んできた笑みがあまりにあたたかくて、そう、優しくて。
 心に染み入って、でもそれはもう痛くはなくて。
 じんわりとあたたかいラテのように心を満たしていった。
 八月ももうすぐ終わり。最終週には花火大会がある。都内では何度もあった花火大会も、これが最後。
 花火大会といえば浴衣。お盆に実家に帰ったときは、高校時代の友人と一緒に地元の花火大会に行った。しかし都内ではタイミングを逃してまだ行けておらず、最後のものは見たいと思っていたのだ。
 そして着物が好きな以上、浴衣も好きなので幸希は以前からそれに行くつもりだった。
 その計画は、先日の出来事で唐突にデートに変わってしまった。
「花火大会ですか。行きましょうよ」
 恋人関係になってまだ二週間ほどであったが、戸渡は当たり前のように言ってきた。
 あれから二人で出掛けたことはまだなかった。お盆を挟んでいたし、その間、幸希は実家に帰ってしまったので。
 高校が同じということは勿論地元も同じであるので、帰るタイミングがかち合っても不思議ではないのだが、「すみません、お盆は旅行の予定を入れてしまっていて」とすまなそうに言われた。
 久しぶりの長期旅行だからと友達と沖縄に行く予定をかなり前から立てていたのだと言われて、幸希は「そうなんだ」とだけ言った。
「せっかくの休みなのにすみません。恋人を放り出して友達と旅行とか」
 やはりすまなさそうに言われたけれど、そう言われるのはまだ恥ずかしい。
 慣れやしない、たった数日では。
 なのでお盆明けにはもともとデートをする予定ではあったし、夏のデートとして花火大会は定番すぎるともいえた。
 幸希とて断る理由はない。デートとなるのはちょっと恥ずかしいものの、「うん、行こう」とあっさり承諾して日曜日に駅前で待ち合わせをした。
 土日休みの幸希と違って、営業職の戸渡は不定休だ。土日はむしろ仕事であることが多いので、その日も「仕事上がりになりますが行きますね」と言っていた。なのでてっきり仕事帰りの服で来ると思ったのだが。
「お待たせしました」
「え、どうしたの、それ」
 現れた戸渡は、なんと浴衣を着ていた。浴衣姿よりも、『浴衣を着てきた』という事実のほうに先に驚いてしまう。
「っていうか、仕事じゃなかったの?」
 聞いたのだが「早退しました」としれっと言われる。
 なんと。確かにこの時期では繫忙期ではないので早退も無理ではないと思うけれど。
 でも嬉しく思う。そのくらい、自分とのデートを大切に扱ってくれることが。
 戸渡は上背もあるので浴衣がよく似合っていた。浴衣が紺の縦縞模様なものあって、余計に背が高く見える。自然と幸希は見上げる格好になった。
 それでも今ではもう視線を合わせられるようになったことを嬉しく思う。
「やっぱり先輩は和服がよく似合いますね」
 会場へ向かおうと歩く間に、戸渡が褒めてくれた。
「ありがとう」
 お礼を言う声は弾んでしまった。
 今日の浴衣も綺麗に着られている自覚はあった。よく和服を着るのだ、慣れている。
 そしていくつか装飾もつけて、ちょっと豪華にしてみたつもりだ。そこを褒められればやはり嬉しい。
 そして幸希のほうも、戸渡の和服姿を見るのは実のところ初めてではなかったのだ。
 だって、高校時代は茶道部だ。
 普段の部活動は制服だったけれど、点前の会は和服。そのときなどできっと何回かは目にしていたはず。よく覚えていない、とは言えないけれど。
 ただ、「着物も似合う子だなぁ」と思った記憶はあった。それだけでも許してほしい。
「戸渡くんも和服が似合うね」
 幸希の言葉にも戸渡は嬉しそうに返してくれる。
「久しぶりに着たんですけどね。意外と覚えているものですね」
 ああ、やはり高校時代のことを思い出してくれていたんだ。
 想い出をわずかでも共有できるのは幸せだ。
 会場へ向かう、と思ったのだが。
 戸渡が幸希を連れていった先は、駅前のターミナルだった。
 タクシーにでも乗るのかと幸希は思った。
 確かにここから会場までは少し歩く。徒歩で15分くらいはかかるだろう。なのでタクシーを使うという発想もおかしくはないと思うのだけど。
 しかし当たり前のように、花火大会の日なのだ。タクシー乗り場は長蛇の列。これを待っていたら、花火に間に合うだろうか。
 心配になったのだけど、戸渡はタクシー乗り場を通過してしまった。
 え? じゃあバスとか?
 幸希は更に不思議になったのだが、バス乗り場だって混んでいる。タクシーよりももみくちゃになってしまう可能性もあるので、むしろバスのほうがネックかもしれない。
 けれど戸渡はそこも通過した。一般車両の並ぶほうのターミナルへ行ってしまう。
 そっちになにがあるというのだろう。
 不思議に思いつつもついていった。
 戸渡は一般車両のぎっしり並んでいるところへ行き、一台の黒い車の前で、合図をするように手をあげた。そして助手席のドアを開ける。
「待たせた? ごめん」
 どうやら知人かなにかのようだ。なにごとか話して、後部座席のドアを開けた。
「さ、どうぞ」
「え、いいの?」
「勿論です」
「お、お邪魔します」
 一体誰の車だろう、と思いつつ、幸希は乗りこんだ。どうやら会場まで送ってくれるのだろうということは察せたので、ちょっと恐縮したが。
 そのあとから戸渡も乗り込んでくる。
 運転席に座っていたのは、若い男性だった。
「恵比寿店のときの後輩です」
 戸渡が紹介してくれる。
「どうも。水木(みずき)といいます」
 ちょっとだけ振り向いて軽くお辞儀をしてくれた『後輩』は爽やかな印象の、スポーツが得意そうな、活発な印象の男性だった。後輩、というくらいなので戸渡より年下だろうと思ったが、そのとおりまだあどけなさすら残っている。
「は、はじめまして。鳴瀬です。えっと」
 幸希も自己紹介をしかけたのだが、なんと名乗ったものか言い淀んでしまう。どう名乗ったらいいのかはわかっているのだが。
 『彼女です』とか『お付き合いさせていただいています』とか。でもなんだかまだ恥ずかしかった。
「聞いてますよ。戸渡先輩の彼女さんですよね」
 じゃ、行きますよ、と車を発進させながら水木は当たり前のように言った。幸希にとっては後輩である戸渡が『戸渡先輩』と呼ばれているのはなんだか不思議だったが、こうして人の縁は繋がっていくのだなぁ、となんだか感慨深くなった。
「ありがとうございます。わざわざ来てくださったんですか?」
 幸希は訊いたが、水木はなんでもない、といった調子で肯定した。
「はい。戸渡先輩に今度、焼肉奢ってもらうことで働かせてもらうことに」
「おい水木。バラすなよ」
「あはは、すみません」
 戸渡が誰かに敬語以外で話しているのはなんだか新鮮だ、と思いながら幸希は後部座席、戸渡の横にかしこまって座りながら思った。
 道はやはり混んでいたけれど、バスやタクシーを待つよりよっぽど早かった。おまけに歩くよりも当たり前のようにラクだ。五分ほどで会場についてしまう。
「水木、ありがとな」
 車を降りながら、戸渡は言った。
 なんだかこういう喋り方をすると男っぽいなぁ、と幸希は彼の新しい一面を見たような気持ちになりながら自分も「水木さん、ありがとうございました」と言って車を降りた。
「さ、先輩」
 降りるときに、戸渡が手を出してくれて、幸希は一瞬意味がわからなかったものの、すぐにその手を取った。
 今日は下駄なのだ。降りるときに危ないと気を使ってくれたのだろう。
 実にスムーズに会場についてしまい、花火大会の会場へ入っていく。
 見る場所へ向かうまでにはたくさんの出店が並んでいた。花火のはじまるにはまだたっぷり時間があったので、それを見ていこうと話す間。
 戸渡は当たり前のように手を繋いで引いてくれた。
 そして幸希も。
 今度は彼の手をしっかり握り返すことができていた。
 彼のやさしさ。
 受けることができるようになって嬉しいと思う。
 勿論、優しくしてもらえること自体だって。
 誰かと付き合ってこれほど幸せを感じたことは今までにない、とまで思えた。まだ付き合ってわずか二週間だというのに。
「ピンクが好きなんですか?」
 歩く間に戸渡が訊いてきた。
 駅で浴衣の話をした続きだ、とすぐにわかった。途中のままに水木の車についてしまっていたのだ。
 そのとおり、幸希の浴衣はピンク色に小さな花が散っているものだ。お気に入りで何度か着ているもの。
 でもピンク色を着るのにはやはり少しためらったのだ。少し前の結婚式のドレスと同じ。年齢的に。結局『デートなんだから多少かわいくても許されるだろう』と思って、思い切ったのだけど。
「さ、流石にもうかわいすぎるかなかと思ったんだけど」
 幸希の言葉を戸渡は簡単に否定した。
「そんなわけはないでしょう。いくつになってもピンク色は女性を綺麗に見せてくれる色ですよ」
 思い切ってよかったのだ。言われて幸希は、ほっとした。
 話しているうちに出店の並んでいるエリアへ入る。
 「はぐれないように気を付けてくださいね」と、きゅっと手を握られた。幸希も「うん」と握り返す。
「お腹がすきましたか? なにか食べましょうか」
「そうだね、軽く」
 もう夕ご飯の時間だ。花火大会に来たら、まずはなにか軽く食べてから見て回るのが定番。
 よってお好み焼きと焼きそばを買って、近くのベンチで食べた。
 ちょうどよく空いていたのだ。早めに着いたからだろう。
 お腹がそれなりに膨れたところで出店を見て回る。
 食べるもの以外にもたくさんの店があった。
 金魚すくい、ヨーヨー釣り、射的。定番の店がいっぱいだ。
 なんだか子供時代を思い出して、お祭はいくつになっても楽しいもの。
「僕、金魚すくいが得意なんですよ。子供の頃はお祭に行けば絶対にやって、何匹も金魚を連れて帰って水槽で飼ってました」
 言う戸渡は誇らしげだった。
「けど、今は一人暮らしですからね。飼えないですね」
「そうだねぇ、一人暮らしだとペットはね」
 通りかかった金魚すくいの屋台を見ながら話し、残念ではあったがその前は通過した。
「なにか買ってあげましょうか」
 色々見ながら、戸渡がふと言った。
 買うもの。
 候補はたくさんある。
 食べるものでも、簡単なアクセサリーでも、雑貨でも。
「私のほうが先輩なんだけど」
 でも『買ってあげる』という物言いは子供にするようなものだったので、幸希は少し膨れる。
「あはは、すみません。じゃ、沖縄長期旅行に行っちゃったお詫びってことで、ワンコインで」
「お土産もらったじゃない」
 沖縄のお土産として、大きな箱のお菓子と蛍石のキーチェーンをもらっていた。
 青と水色がとても綺麗な蛍石。今は、遊びに行くときのバッグに着けている。
 今日はピンク色の浴衣だったのでちょっと合わないかなと思って、お留守番になっていたけれど。
「それとこれとは別ですよ」
 結局押し切られた。
 ま、いいか、と幸希も受け入れることにする。
 後輩だろうが、もう彼氏だ。なにか買ってもらってもおかしくはないだろう。
「なににしよう……」
 買ってもらえるとなると途端にわくわくしてしまう。
 アクセサリー、雑貨……条件はワンコイン。
 流石に100円では安すぎるだろう。500円が妥当か。
 思いながらあれこれ見て回ったのだけど。
 幸希はある出店の前で足を止めた。
「見ていきますか?」
「うん」
 そこはガラス細工を扱うお店だった。値段もちょうど良さそうである。
 高級品ではないだろうが、日常に取り入れるにはこのくらいでもじゅうぶんだ。
 アクセサリーは勿論、文鎮のようなガラス玉、ストラップ、置物……種類は様々。
 その中で、幸希は子犬のマスコットに目を留めた。
 透けたブラウンが綺麗で、愛嬌のある顔。どこかの誰かを思い出させる。
 おまけにちょうど500円だ。
「これ、いい?」
「はい、勿論ですよ。かわいいですね」
 幸希の言葉は簡単に受け入れられて、戸渡はそれを買ってくれた。店主に代金を払って、割れないように簡単な緩衝材に包んでくれたそれを受け取る。
 「持ちますよ」と言われたけれど、「巾着に入るから大丈夫だよ」と幸希は持ってきていた赤い巾着に袋を入れた。
 包んでもらったのは、持ち手もないただの紙袋だったのだ。特にバッグのようなものを持っていない戸渡に持たせるより、自分の持ってきていた巾着に入れるのが合理的。
「犬、好きなんですか?」
 言われたので、幸希は、ふふ、と笑ってしまう。
「好きだよ。でもアレ、誰かに似ていたから」
 戸渡はきょとんとしたが、すぐに眉根を寄せる。
「まさか僕ですか」
「勿論」
 今度は戸渡が膨れる番だった。
「まさか犬に例えられるとは」
「戸渡くんは犬みたいなところがあるからね」
「褒めてるんですかそれ」
「勿論」
 戸渡はどうにも不満のようだったが、空気はほのぼのとしていた。
 そのあともいくつか店を見て回って、そして花火を見るために食べ物を少し買い込んだ。
 フランクフルトや焼きとうもろこしなどの食事になるもの。
 りんごあめ、わたあめなどの甘いもの。
 そして最後にかき氷。溶けてしまうので早く食べないと、と一番観覧席に近い場所で買った。
 そして観覧席へと向かう。
 会場まで負担にならないようにと車を後輩に頼むほどの用意周到さだ。もしかして、と思ったがやはり戸渡が向かったのはごちゃごちゃとしていて人だらけの一般席ではなく、『関係者席』であった。チケットを出して、柵の中へ入る。
「ゆっくり見たいですからね」
 戸渡はそれしか言わなかったし、幸希もどこでそれを手に入れたのかは聞かなかった。おおかた、会社のつてであろう。
 出来た恋人にもほどがある、と感動すら覚えながら、幸希は用意してもらっていた椅子に座った。ただのパイプ椅子ではあったが、人だらけの一般席でレジャーシートなどに座ることを思えば玉座にも等しい。
 席について、花火はまだだったがかき氷を二人で食べはじめた。
 もうずいぶん溶け出している。花火を待っていたらただの色付き水になってしまうので、仕方がない。
 いちご味のかき氷。懐かしい味がした。
「いちご味が好きですか?」
「うん、昔から」
 かき氷は口に入れると、さっと溶けてしまう。冷たくて口の中が気持ちいい。
 そのあとはフランクフルトをかじったり、食べ終えてわたあめを口にしている間にアナウンスがあって、やがて沈黙が落ちる。
 ぱっと空が明るくなり、花火の一発目があがった。
 少し遅れて、どぉん、という鈍い音。わぁ、と客席から歓声が上がる。
 それを皮切りに次々に花火が打ち上げられた。
「綺麗ですねぇ」
 戸渡がしみじみと言った。
「うん。……あ、これ、ネコの形だ」
「本当だ。変わり種もあるんですね」
 言いながら手を伸ばされて、また手を握られる。
 熱い折だ。戸渡の手は汗ばんでいたけれど、ちっとも気にならなかった。むしろそれすら心地良さに変わる。
 幸希はちょっとだけ目を閉じた。
 こんな素敵な恋人と花火を見られること。
 数ヵ月前には想像もできなかった、と思う。
 花火は何発あがったかもわからなかった。
 ピンク、緑、黄色。カラフルな花火。
 きっとこの花火は今夜眠る前にまぶたの裏に浮かぶことだろう。
 帰りは歩きだった。
「足、痛くないですか?」
 会場を出る前に訊かれたものの、今日履いてきた下駄はもう何回も履いているので痛くはない。もともと下駄や草履には慣れているので、それほどひどく合わないものではない限り、足が痛くなったりはしないのだ。
「大丈夫だよ」
 幸希が言うと、戸渡はほっとしたように言った。
「じゃ、歩きで帰っても大丈夫ですか。ちょっと歩きたい気持ちで」
「いいよ」
 確かにバスやタクシーを使うよりも、歩いて帰りたい気持ちはわかる。
 なんとなく、花火を見た余韻を感じたい。
 それにもう一度後輩を呼ぶ、と言われるのもなんだか悪いし、とも思う。
 よって、夜道を二人で歩きはじめる。
 戸渡は人の多い道ではなく、少し人通りの少ない裏道を選んだようだ。大通りは明るくて安心するけれど、ここは少し暗い。
 ちょっとどきどきしてきた。
 恋人同士のすること。
 まだ手を繋ぐしかしていない。
 けれどもう大人なのだ。その先のことだってきっとあるだろう。
 わかってはいるけれど、そして初めてではないけれど、緊張はどうしようもないと思う。
「実は高校時代から、先輩の着物姿が好きだったんです」
 歩くうちに戸渡が、そこまでの会話とはまったく違うことを言った。唐突に昔話をされて、幸希はきょとんとする。
「凛として、格好良くて。でも着物の色や柄のチョイスはかわいらしくて。格好良さとかわいさが両方感じられて不思議だったんですが、そのバランスが好きでした」
 戸渡はとつとつと続けた。あまりに褒められてくすぐったい。
「……褒めすぎだよ」
「本心ですよ」
 高校時代のこと。茶道部でのこと。点前の会での着物の姿だろう。
 あの頃はどんな着物を着ていただろう、と思う。
 10代の女の子ではあったが、茶道の点前は正式な場。なのでシンプルなものを選んでいたはずだ。
 それでも女性の着物は華やかさも必要とされる。生地は明るい色が多かったし、控えめではあるが柄の入っているものも多かった。
 その着物をかわいらしいと言ってもらえたのも嬉しかったし、それ以上に。
 自分の立ち振る舞いを格好良いと言ってもらえたことのほうが嬉しかったかもしれない。それは着物を選ぶことよりももっと、幸希の本質に近いのだから。
「勿論、先輩のこともそのとき好きだったんですよ」
 ふと、戸渡は足を止める。
 そして言った。
 幸希の心臓は勿論ひとつ跳ねる。
 高校時代から?
 私を?
 しかし高校在学当時、そんな素振りはまるで見せなかった戸渡だし、特にたくさん話をしたりということもなく、幸希の卒業でそのまま離れてしまった。
実際、戸渡が偶然幸希の勤めるオフィスを訪ねてくるまで連絡のひとつも取るどころか、どうしているかだって知らなかったのだ。存在すら忘れていたほど。
 そこに、突然こんなこと。
 幸希が呆気にとられたのを見たのだろう。戸渡は照れたように笑う。
「当時は勇気が無くて、告白なんかできなかったんですけど。子供でした」
 なるほど、と幸希はそれだけで納得した。
 大人になってからも、好きになったひとに気持ちを伝えることなんて簡単にはできない。高校生にとってはもっと、もっと難しいだろう。
 実際、幸希も同じ経験をしていた。同級生の男の子に片想いをしていたのだが、結局告白はできなかったし、そのまま卒業で別れてしまった。
 ほかの子に片想いしていたからだからだろうか。
 少しは身近ともいえた戸渡からの気持ちに気付かなかったのは。
 それもなくはないと思う。
「だから、再会できたときすごく驚きましたし、すぐ思いました。今度こそ先輩に想いを伝えようと。きっとこの偶然はそのためにあったんだと」
 見つめて言われて、幸希は思った。
 このひとはもうただの後輩ではなく、一人の男の人だ。自分にとって特別な存在。
「……ありがとう」
 幸希の目元は緩んだ。
 それを見て戸渡も安心したのだろう。同じように笑みを浮かべる。
 そして。
 そっと顔を近づけられた。
 どくりと心臓が高鳴ったものの、幸希は当たり前のように目を閉じた。
 くちびるが触れ合う。
 触れるうちに、戸渡の手だろう、なにかが頬に触れた。花火を見ていたときと同じようにやはり汗ばんでいたけれど、やはり不快ではなく。
 そのようにひとつ恋人同士として進んでから、幸希は帰り道、言った。
「そろそろ『先輩』は、やめにしない?」
 幸希からの申し出に、戸渡は驚いたようだ。
 けれど、多分ぱぁっと顔が輝いた。歩いていたのではっきり正面からは見えなかったけれど。
「えっと、じゃあ、幸希さん」
「呼び捨てでもいいんだよ?」
 言ったけれど、戸渡はすぐにそれを拒否してくる。
「いえ、いけません。いきなりそれは一足飛びすぎます」
「そうかなぁ」
 やはり忠実なワンコのよう、と幸希は笑ってしまったのだけど、結局「幸希さん」で良いことにした。
 そのほうが戸渡らしい、と思ってしまったゆえに。
 丁寧な言葉遣いが似合うというのは、まだ彼を後輩扱いしているかなぁ、と思わなくもないのだが、そう接されるのが心地いいのだからそれで良いと思う。
「じゃあ、私からも名前にしてもいい?」
 もう一度顔が輝いただろう。
 幸希はくすくす笑って、呼んだ。初めて呼ぶ呼び方で。
「志月くん」
「はい」
 にこっと笑って答えてくれる戸渡……志月はもう後輩の顔だけではなかった。
 対等な恋人関係にもなった、顔。