平日のことで、あまり時間もなかったので近くのバーにしておこうという話になり、そこへ向かいながら、ふと戸渡が謝ってきた。
「さっきはすみません。図々しい呼び方をしました」
 そこで初めて幸希は気付く。
 呼ばれたのは普段の『鳴瀬先輩』ではなかった。
 『幸希さん』。
 初めて名前で呼ばれた。彼氏の振りをしてくれたのだから、当然ではあるのだが。
 それはなんだかくすぐったい響きだった。
「ううん。むしろあれで新木課長も本当に彼氏だと思い込んでくれたみたいだから」
 バーに入ってオーダーしたのは、約束通りワンコインのドリンク。
 戸渡がその中で選んだのは、ソルティドッグだった。幸希は弱めのお酒にしておこうと、ピーチフィズにしておく。
「戸渡くんは、彼女がいるの?」
 本当は彼女の一人でもいるのかもしれない。だとしたら、「彼氏です」と名乗らせるなど失礼だったのでは。
 そう思った幸希であったが、戸渡は簡単にそれを否定した。
「いえ、いませんよ」
「そうなんだ」
 迷惑をかけなかったことに、幸希は、ほっとした。
「鳴瀬先輩も……」
「いないよ」
「そうなんですね」
 戸渡とこのような会話をすることは初めてだった。しかし不思議と不快感はない。
 そして気付く。男性と二人でバーに入ることすら、数度しかなかったのに緊張などなにもない。短い期間であったが彼氏であった男性と入ったことはあるが、妙に落ち着かずにそわそわしてしまったというのに。
 恋愛に関する話はそこで打ち切りになり、他愛のない雑談になった。それは幸希に気まずい思いをさせないように、という戸渡の気遣いだったのかもしれない。
「いずれは店長になりたいんです。まずはそこを狙うのが当座の目標ですね」
 賃貸営業職としては、当たり前のことを戸渡は言った。
 そして社ではすでに主任が目の前に迫っているのだと。そもそも主任候補として店舗移動を命じられたということらしい。幸希のふたつ下、つまり二十六歳としては出世コースといっても良いだろう。
「優秀なんじゃない」
 幸希の褒め言葉には、戸渡は素直に「ありがとうございます」と言った。ちょっと胸を張って。
 その様子はまたも、「よしよし」をされた大型犬のようで、幸希はまたおかしくなってしまう。
「鳴瀬先輩は、ずっと駒込店で事務ですか」
 訊かれたので幸希も素直に答えておく。
「最初はアキバ店にいたんだけどね、駒込店がオープンってことで三年くらい前に異動になったきりかな。まぁ、事務ってあんまり異動とか無いから」
「そうですよね。うちの事務の子も二人いるんですけど、店舗に長いって言ってましたよ」
 そっか、店舗だから事務の子もいるんだ。
 当たり前のことをいまさら思い知った。
 幸希はそんな自分に驚く。まるで『戸渡と同じ店舗に勤務している女の子』を、意識しているかのようだと思ったので。
 話は盛り上がって、飲み物は一杯では足りなかった。
 二杯目に入って、話は高校時代のことへと移っていた。
 勉強、部活、そして恋愛。
 いいことも嫌なこともいっぱいあったはずだが、通り過ぎてしまえばいい思い出になってしまうのだと思う。こんなふうにアルコールを入れて話すのであれば余計に。
 もうひとつプラスするなら、当時同じ学校に通っていた、あまり親しくはなかったとはいえ後輩であることも。
 共通の想い出は少なくても、「学校ではこんな行事があって」「こういう先生がいて」「この授業が面倒だった」なんてことは共通なのだ。そのようなことで話は盛り上がっていく。
 「マラソン大会で三位だったんですよね。一位取りたかったんで、悔しかったですよ」と戸渡が言ったことで、幸希は思い出した。
「そういえば戸渡くんって、茶道部は途中入部だったよね」
 戸渡が微妙な時期での入部だったために、幸希との接点はあまりないまま卒業別れとなってしまったのであった。
「その前になにかほかに部活をやってたみたいだったけど……運動部とか?」
 そこが気になった。マラソンで三位を取るなど、運動でもやっていたのかもしれない、と思って。普通はないだろう、茶道部の生徒がマラソン大会で三位など。
 しかしそこまで口に出して、はっと気づく。立ち入ったことだった。
 慌てて言った。
「あ、聞いていいことだったかな。余計なことだったらごめんね、流して」
 こんなことを気軽に聞いたのは軽率だった、と思う。なにか事情があったからやめたのだろうに。
 酔ってるからかな、話題や言うことに気を付けないと、と幸希は改めて自分に言い聞かせた。
 まだ二杯目なのに結構酔ってるのかなぁ、と不思議には思ったが。
 会話が楽しいせいもあるかもしれない。ついついあれこれ聞きたくなってしまうのは。
「いえ、別に深い事情もないですよ」
 戸渡はにこっと笑って、幸希の焦った顔を流してくれた。そしてそれはフォローではなく本当にそうであったようで。
「陸上部にいたんです。走るのが好きで」
「中学では学校選抜のマラソン大会の選手をやったこともあったんですよ」
「なので高校に入って、当たり前のように陸上部に入ったんですけど」
 戸渡はたんたんと話していって。
 でもそこでちょっと話をとめた。なんだか少し、少しだけ悲しそうな様子を見せる。
「高校の陸上部では、好きなように走れなかったんですよね」
 ぽつりと言った。
 幸希は黙って、戸渡の話を聞いていた。
「勿論、好きなように走るのが陸上って競技じゃないってわかってます。フォーム練習とかほかの部員との連携とか……。でも、そういうところじゃなくて」
 こくりとグラスの中身を飲んで、戸渡は続ける。
「なんていうんですか、勝利主義、っていうんですかね? とにかく大会で勝つことしか目に無い、みたいな」
 幸希はそこで、陸上部の顧問の先生を思い出した。
 別に陸上部に縁があるからではない。単に、その先生が同じクラスの男子の体育を担当していたからだ。それでその先生が陸上部顧問をしている、と同じクラスの男子たちから聞いただけ。
 でもすでに、そこで評価はかんばしくなかった。
「アイツの授業、マジキツすぎ」
「筋トレとダッシュばっかだしさ」
「サッカーとかバスケとか、プレイにもっと時間取ってほしいのに」
 不満がほとんどだった。
 つまり、ガッチガチの体育会系教師だったのだ。幸希はそれを聞いて、女子の体育の教師が違って本当に良かった、と思ったくらい。
 戸渡が言ったのもその点のようだ。そのまま続けた。
「僕はただ気持ちよく走って、いいタイムを出して、それができれば良かったんです。でもそれができなくなってしまった」
 グラスと小さな皿に入ったナッツをお供に、戸渡は思い出を語っていく。
「それで、でもずいぶん悩みました。やっぱり走るのは好きでしたから。でも『走る』なら、体育の時間でも、自主的にランニングするのでもいくらでもできるって」
 確かに単に『走る』だけだったらいくらでも方法はあるだろう。戸渡の言った、体育の授業。自主ランニング。ほかには外でどこかの陸上クラブに入るとか……方法はたくさんあった。
 それとは別に、部活動として『走る』意味としては。
 すぐに戸渡はその点を口に出した。
「公式の試合やなんかでいい結果を出したりできなくなるのはネックでしたけどね。でも、日々のこの『勝つためだけ』の練習とどっちを取るか?って思ったら、僕は一人で走ることを選びました」
 そこでやっと話が茶道部へやってきた。
「だから、部活はまったく違うのにしてみようかな、とか思ったんですよ。気分転換もしたかったですし」
 『まったく違う』にしてもほどがないか、と思った幸希ではあったが、そう突飛な話でもなかった。戸渡のあげていった理由を聞いてみれば。
「軽い気持ちでした。着物好きだし、あと身内がちょっとお茶をやってて見に行ったり……少しはかじってたのもある、くらいです」
 興味を持った理由を話して、次に言われたことは幸希を嬉しくさせた。
「それで見学に行ったら部室も素敵だし、なにより部活内のひとたちも和気あいあいとしていて、陸上部とは全然違って。ここだったらきっと、楽しく心地良く過ごせるだろうって思って。それで入部しました」
 陸上部の雰囲気が合わなくて辞めたのであれば、次に入る部活は雰囲気重視になるだろう。
 過ごしていて楽しいところ。それを一発で引き当てられるとは限らないということだ。
 幸希が『着物が好きだから』とシンプルに茶道部を選んで、三年間ずっとそこで過ごせたのは、運がよかっただけ。
 話は一旦終息した。
 ふう、と息をついて、戸渡は幸希を見た。
「そんなところです。すみません、語りになっちゃいましたね」
 確かにここまでずっと戸渡が話していた。
 けれど聞いたのは幸希だ。そしてこれを聞けて良かった、と思う。
「ううん。実はちょっと気になってたから謎が解けたよ」
 茶化して言った幸希に、戸渡はほっとしたようだ。
「謎の存在でしたよね」
「うん、割と」
 言い合って、くすくすと笑いが起こった。
「もう一杯飲もうか?」
 誘いにはにっこり笑って応えられる。
「先輩がいいなら、僕も飲みたいです」
 それぞれもう一杯オーダーして、そこでやっとお開きになる。
 帰り際、戸渡は言った。
「今度は食事に行きましょうよ」
 言われて幸希はむしろ嬉しくなった。アルコールを入れた高揚感も手伝っていたのかもしれない。
「うん。何曜日がいい?」
 幸希はカレンダー通りの休日であるが、営業職はそういうわけではない。
 むしろ土日のほうが当たり前に、部屋を探す客が多いのだ。土日に休みを取れるほうが、まれともいえる。
「そうですねぇ、近いところだと……来週の金曜日とかどうですか」
 提案に、幸希はちょっと驚いた。てっきり平日、週の頭か真ん中あたりを言われると思っていたのだ。
「金曜日? 土曜日は仕事じゃないの?」
「でも鳴瀬先輩は翌日お休みのほうがいいでしょう」
「た、確かにそうだけど……」
 気遣われたことに戸惑ってしまう。
 まぁ、でも、と自分に言い聞かせた。
 食事をするだけなのだから、そう遅くなることもないはずだ。
 それなら気遣いに甘えてもいいのかな。
 思って、「じゃあ、金曜日で」と約束した。
 そして戸渡は「駅まで送りますよ」と言ってくれたので、またお言葉に甘えて駅まで一緒に歩く。流石に十時半も回りそうになっていた時間に繁華街を一人で歩くのは少し怖かったので、有難かった。
 道のり、戸渡は言ってくれた。
「また、変な人に絡まれたら言ってくださいね」
「僕で良ければ、出来る限り力になりますよ」
 そんな優しいことを言われれば、嬉しくなってしまう。
 男性が頼りになる存在だということ。
 幸希は初めて知ったのかもしれなかった。
「ありがとう。今日は本当に助かったよ」
「いいえ。良かったです」
 そして、以前のように構内で別れた。
「気を付けてくださいねーっ」
 戸渡はぶんぶんと手を振って、エスカレーターに乗る幸希を見送ってくれる。
 あの日会社で十年ぶりに出会ったこと。
 それが素敵な再会になったことを、改めて幸希は噛みしめた。
「えー、懐かしいじゃん」
 高校時代の友人と久しぶりに遊んだのは、数日後のことだった。
 戸渡に再会したことを話すと、彼女、亜紗(あさ)は目を丸くした。
 夏の真っただ中、ある日曜日。ずいぶん暑かったので、クーラーのよく効いたカフェでお茶をした。
 「ストレス発散しようよ!」とカラオケで三時間、散々歌ったあと。喉は枯れてしまっていたが、確かに心はすっきりしていた。冷たいカフェオレが喉もおなかも満足させてくれる。
「戸渡くんねぇ。なんであんな時期に、しかも茶道部に入ってくるのかとか不思議だったんだよねー」
 亜紗は当時、茶道部の部長を務めていた。なので一番最初に戸渡の入部の話を受けたはずだ。話は自然に思い出話になる。
「なんでだったの?」
 話の流れ的に一応聞くと、亜紗はちょっとだけ思い出すような顔をした。カフェの夏季限定メニュー、ミントレモンティーをひとくち飲んで、ああ、と声を出した。
「そうそう、なんか『今、陸上部に入ってるけど辞めたいんです』とか言ってたよ」
 それは先日、戸渡自身が語ってくれたこと、そのままだった。
 けれどここで「実は本人から聞いたんだ」と言ってしまうのはなんだかためらわれた。別に隠したいわけではない。
 けれど、そこまでの話をしてしまっていることがちょっとくすぐったいというか恥ずかしいというか……そういう理由からだろうか。
「理由は、なんかあんま言いたくないみたいだったから、言わなかったけど」
「そうなんだ」
 幸希もそのくらいに答えるしかない。
 入る部活の先の部長である、亜紗にそのくらいしか言わなかったのだ。それ以上、亜紗は知らないらしいし、この話題を続けても不毛だろう。
「で? カッコよく成長してた?」
 亜紗はなんだかにやにやという顔で訊いてくる。
 亜紗がなにを言いたいかはすぐにわかった。「彼氏にする男としてはどうか」と訊きたいのだろう。
 なにしろ適齢期。そして幸希に今、決まった彼氏がいないことも知っている。
 ちなみに亜紗は、大学時代からの彼氏がいた。目下の悩みは、彼が濁してばかりでプロポーズしてこないことだと言っている。
 もう二十八歳。できればもうすぐにでも結婚したい。
 大学時代の同級生なのだから、あっちだってわかってるくせに。
 踏ん切り悪くて、そういうとこはムカつく。
 亜紗は時々ぼやいていた。
「うん、見た目もなかなかだったよ。顔立ちはやっぱり変わってないんだけどさぁ、オトナっぽくなったし、髪も染めてたし」
 高校時代は当たり前のように、みんな黒髪だった。比較的、進学校寄りな高校だったので。
 髪を染めても、夏休みだの春休みだの長期休みに一時的に、だった。
「へー。そりゃいいね」
 戸渡の見た目が悪くないと知ったのだろう、亜紗も嬉しそうな顔をした。後輩がかっこよく成長していたら嬉しいだろう。
「まー、あの子、昔からセンス良かったしね。持ってるものもシンプルだったけど整ってたし」
 ミントレモンティーをもうひとくち飲んで、亜紗は当時のことを話しはじめた。
「あの子、結構背ぇ高かったじゃん。そんで、……うーん、顔はぶっちゃけよく覚えてないけど、人懐っこい顔してたと思う」
 その印象は幸希とまったく同じだったのでなんだかおかしくなった。おまけに次の言葉も同じだった。
「なんかさー、後輩として結構話すこと、私は割とあったんだけどさ、『はい! はい!』って物分かりも良くて。なんか犬でも躾けてる気分になったこともあったなぁ」
 ああ、確かに亜紗は部長だったのだから、短い間でもそれなりに接点があっただろう。そこでその評価である。幸希はついくすくす笑ってしまった。
「わかる。なんか犬っぽいとこある」
「ありゃ。今もそうなの? 変わらないとこってあるねぇ」
 笑い合って、流れで先日のことも話してしまった。
「実は本社にキモい課長がいてさぁ、食事連れてかれちゃったんだけど助けてくれたんだ」
 それを聞いて亜紗は目を丸くした。
「え、それってなんだっけ、本社に行ったときつきまとわれたってヤツ?」
「そうそう、アイツ。店舗に押しかけてくるから断れなくて……脚とか触ってきた」
「うげ」
 同じオフィスレディとしてはひとごとでないのだろう。亜紗は思いっきり顔をしかめた。
「で、助けてくれたって、なに?」
「えーと……彼氏の振りして割り込んでくれた」
 もう一度、目を丸くされる。
「えー! すっごい!」
 やっぱりすごいよね。
 ちょっと誇らしくなった。そういう扱いを受けたことに。
「いや、マジでびっくりしたよ。なにも聞かずに『お付き合いさせていただいてる』とか言うもんだから。すごい察し力」
 つい、ぺらぺらとしゃべってしまったが亜紗は単純に肯定してくれた。
「ひえー、ナイトじゃん」
 亜紗は心底感心した、という声で言ったのだが、そのあと当たり前のことを言ってきた。
「で? 戸渡くんは今、彼女とかいるの?」
「いないって」
 言われる言葉はひとつだとわかっていたが、嘘もつけない。
「どうよ、付き合ったら」
 さらっと言われた。
 けれど「じゃあそうするよ」と簡単に言える話でもない。
「いや、そういうつもりじゃないでしょ」
「えー、だって不動産会社の主任候補でしょ。出世コースでしょ。相手としちゃ悪くないじゃん」
 幸希の言葉をスルーして、亜紗は条件をあげていく。
「まー、異動は多いんだっけ? そこだけネックかもねぇ。年下ってのもちょっとアレかもだけど……二歳くらいなら誤差でしょ」
 なんて、亜紗は結婚相手としての値踏みを語りはじめた。
 けれど幸希はあまり気が進まなかった。
 戸渡がどうこうという以前に、結婚相手を条件で決めたくはない、と以前から思っていた。
 シンプルに言えば、恋愛結婚がしたいのだ。この歳になっては、もう少々高望みかもしれないのに。
 街コンに行ったくらいには、合コンなりお見合いなりそういうところでさっさと相手を見つけて結婚前提に付き合って……というのが多分、現実的だとわかっている。
 夢見る乙女じゃあるまいし、と自分に呆れることもあるのだけど、願望は願望。持っているだけならいいと思っている。
 それはともかく、戸渡本人。
 今のところ、戸渡のことは彼氏候補とかそういう対象としては見ていなかった。
 でも先日、彼氏の振りをして助けてもらっている。なのでまるで興味が無いというわけでもなかった。知らんぷりだってできないし。
 それにちょっとときめいた。だって、亜紗の言ったように、『ナイト』ともいえる行為だったのだから。
「結構いいんじゃないかなー。幸希、面倒見いいけどちょっと無理しがちなとこあるから、そういう気の付く子が彼氏か旦那になると助けてくれるかもよ?」
 亜紗は急に真面目な話をはじめた。それは何度か言われていたことだ。
「いつもそう言うけどさぁ」
「だって大学時代に倒れたことあったでしょ。レポートに集中しすぎて」
 耳に痛いことを言われた。幸希は、う、と詰まってしまう。
 三年生の終わり。卒論のかかったレポート。難航するあまり、二徹してしまったあとの日のことだ。
 結果、学校で重度の貧血を起こして病院に運ばれてしまったのだ。
 幸いただの過労と貧血だったので、投薬と点滴で済んだ。そして日帰りで夜には帰ることができたけど、そのとき一緒にいた友達は青ざめて病院まで付き添ってくれたし、両親には叱られた。「体を壊したら元も子もないでしょう!」と。
 亜紗は大学が別だったけれど、その話は当時にしていたのだ。
 友達にも両親にも、そして多分教授などにも迷惑をかけてしまったこと。そのくらい無理をしてしまったのは考えなしだったと思うのだが、『やることがある』となるとそればかりになって突っ走ってしまうのは、幸希の悪い点であるといえた。
 なので、違う視点で言えば、ルーティンワークである今の事務職ではそういう事態になることはないのでそこは心配しなくていい。時間になれば帰れるし、営業の人とは違って急な来客で振り回されることもない。
 そこまで考えて、あ、と幸希は思い出してしまう。
 いや、そんなこともなかった。
 戸渡と再会して間もない頃。鍵の受け渡しに付き合って、二時間の残業をしている。
 そういうところも、私の悪いところが出たのかな。
 幸希はそこで初めて、ちょっと反省した。
「ま、いいじゃん。何回か会ってみたら? せっかく同業なんだし」
「そうだね」
 それはそのとおりだったので、幸希はおとなしく頷いた。
 また顔を合わせることもあるだろう。電話もラインも交換したし。
 そこまでは亜紗には言わなかったけれど。
 言えばつつかれることは確実だったので。
「無理するっていえばさぁ、彼氏もこないだ風邪、こじらせたんだよね。もー、インフルかってくらい熱が上がって」
 飲み干したミントレモンティーのグラスを、こん、と音を立ててテーブルに置いて、亜紗はためいきをつく。
「マジで……違った?」
「幸いね。でも夜まで看病に付き合わされて……仕事そのあとダルかった。ここまでさせるなら、さっさと結婚してくれっての」
 そのあとは、愚痴混じりの亜紗の話になった。幸希はちょっと苦笑いしながら相槌を打っていく。
 亜紗は文句もたくさん言ったけれど。
 そして、これまで、大学時代から今までずっとそうだけど。
 でも、そのくらいに近しい彼氏が居るのはきっと幸せなのだ。
 幸希は過去の、うまくいかなかった恋愛を思い出していた。
 亜紗が羨ましかった。
 プロポーズはまだしてくれないとはいえ、多分結婚するのだろう。大学時代から付き合って、この歳まで続いているだけで、望みはじゅうぶんすぎるくらいあると思う。
 そこでちょっと戸渡のことを思い出してしまった。
『気の付く子が彼氏になるといい』
 思えば、過去に一瞬だけ彼氏だったひとたちは、割合横暴なひとたちだった。一人などは「ほかに好きな子ができたから」なんて、たった三ヵ月で幸希を捨てた。
 なにが悪かったのかはわからないけれど。
 単純に遊ばれただけかもしれないけれど。
 それでもじゅうぶんに傷ついた。
 少しの間、彼氏だった男に優しくされたこともあったけれど。幸希にそこまで気を回してくれたのは、戸渡が初めてだ。
 彼にはちょっと悪いかもしれないが、過去の交際相手と比べることで、幸希は初めて『彼氏としても、いい子なのかもしれない』と思ったのだった。
「おめでとう!」
「おめでとう!」
 青天の下、降り注ぐのは、色とりどりのフラワーシャワー。
 しかし浴びるのは勿論、幸希ではない。
 純白のドレスを着て、満面の笑みを浮かべた、今日は世界で一番綺麗な女の子。以前、秋葉原店に勤めていたときの同僚の女の子の結婚式に、今日は参列していた。
 参列するのに気は進まなかった。ここ数年、ひとの結婚式……特に同性の友人や仕事づきあいの人々……に参列するのが、どんどん億劫になっている気がする。
 理由なんて明らかだった。
 その主人公になれるのが自分でないこと。
 そして主人公、つまりヒロインになれる望みもないこと。
 そんな状況でひとの幸せなど心から祝えるほど、幸希は人間ができていなかった。
 おまけにご祝儀までごっそり持っていかれる。
 今月、住んでいるマンションの更新で苦しいのに。
 なんて事情まで頭に浮かんでしまう。
 仲のいい子、例えば先日会った亜紗くらいの親友ともいえるほど仲のいい子なら別だ。明るい気持ちで、心からの喜びで参列できるし、ご祝儀だって喜んであげようと思う。
 でも今日の『お呼ばれ』は、それほど仲の良かった子ではないので、そんなことなどが負担に思ってしまったのだ。
 ちょっとだけ嬉しかったのは、普段着られないかわいいドレスが着られることくらい。
 幸希の今日着たドレスは、控えめなダークトーンではあるものの、ピンク色だった。スカートはふんわりしていて、ウエストにはりぼんがついている。
 数年前に買ったものだ。一目ぼれして気に入って買ったものだったけれど。
今日着てきたのは、ちょっと悲しい、現実的な事情。
 『こんな明るくてかわいらしいドレス、次に着られる機会があるかわからない』ということ。
 あと数年もすれば、『ピンクのドレスなんて、もう子供っぽすぎる』と自分で思ってしまうかもしれないし、性格の悪い人には「あの歳で」なんて陰口さえ叩かれるかもしれない。
 年々結婚式の参列が億劫になっているのも、自分がどんどん取り残されてしまっている自覚が生まれてしまうから。
 それは実家での出来事が顕著だった。なにかのきっかけで両親などに「結婚式に参列してきた」などと話せば「あなたはまだなの」「早くしなさいよ」と言われることは確実だった。
 それも年々負担になっていっている。
 私だって、好きで一人なわけじゃないよ。
 彼氏ができても続かないのだって、なんでなのかわからない。
 反論は勿論、口になどできないのだけど。困ったように笑って「ごめんね」と言うしかないのがまた情けない。
 そんな事情で帰り道は、なんだかどんよりとした陰鬱な気持ちになってしまった。
 一応誘われはしたのだけど、二次会はパスした。
 そう仲の良い子でもないので、断るのは簡単だった。
「ごめんね、明日早いから」
 そんな言い訳だけで、「いいよいいよ」と許されてしまう。
 ああ、もう。これほど関係の薄い子なのに、お金も休日も、そして気持ち的な面でも、失うもののほうがずっと多かった、なんて愚痴っぽいことまで頭に浮かぶ。
 両手に持っている荷物も重い。夏なので上着などを持ってくる必要はなかったけれど、なにかと持っていくものはある。
 それにたくさんもらった、お土産類。
 あとお裾分けされたお花。こんなのすぐに枯らしてしまうのに。
 それに引き出物のカタログ。最近よくある『この中から好きなものを選んで注文して』というやつだ。やたら分厚くて重い点は、普通の引き出物より良くないところ。
 もうどうでもいいから適当なものでも寄越せばいいのに、なんてなげやりな思考すら浮かぶ。
 おまけに普段履く以上の高さの、しかも慣れないハイヒールの靴は足が痛かった。
 もしもシンデレラだったなら、このハイヒールをもとにして王子様が探しに来てくれるのに。
 そんなことを思って、幸希は自嘲の笑いを浮かべた。
 王子様、なんて十年遅い。
 十年前だったらうまくいっていたかというと、そんなこともないと思ってしまうのがまた悲しいところ。
 幸せな結婚式に参列してきたはずなのに、幸せな気持ちで帰路につけない自分が情けなくてたまらない。
 良い子であれば「あの子は幸せになって良かったなぁ」「私も頑張らないと!」と思うところなのに。私は性格が悪いのかな。
 思いながらも駅へ入って、帰路の路線へ向かった。
 電車のホームで、はぁ、とためいきをついて電車を待つ。スマホを見たかったが、荷物を両手に持っていたので出すのも面倒だった。
 いいや、どうせすぐ帰るんだ。
 思って、ぼーっとすること、数分。
 やっと『電車がきます』とアナウンスが流れたときだった。
 そのスマホが、ぴこんと鳴ったのは。
 それはライン通知だった。
 あれ、誰だろ。
 今日会った誰かかな。
 もしくは会社の連絡。
 もしくは友達。
 もしくはお母さんなどの家族。
 考えられる可能性はいくらでもあった。
 どれも急ぎの用事ではなさそうだけど、一応見ておこう。
 電車に乗って、網棚に「よいしょ」と引き出物なんかの、邪魔なくらいに大きな袋を置いてしまって。パーティー用の小さなバッグから幸希はスマホを掴み出した。
 そこでライン通知画面を見て、ちょっと目を丸くしてしまう。
 『戸渡 志月』と表示されている。
 戸渡だ。
 なんの用事があって?
 連絡を取るのはちょっと久しぶりだった。
 ラインも電話もこなかったし、あれから会社に訪ねてくる機会もなかったのだろう。幸希の勤める店舗にやってくることもなかった。
 ぽんと通知画面をタッチすると、会話履歴が表示された。
 まずかわいいスタンプが押されているのが目に入る。『お久しぶりです』と、大型犬がお辞儀をしているスタンプ。
 このスタンプを初めて見たときは、くすっと笑ってしまった。まさにワンコらしい戸渡らしすぎるスタンプではないか。
 おまけにこれは、なにかのオマケでもらえるものでなく、ちゃんと売っているものだ。つまり、選んで買ったのだ。
 ということは、自分がワンコに似ているということは多少自覚があるのだろうか、と思ってしまったこともあって。
『こんばんは。お久しぶりです』
 ラインはそれではじまっていた。
『今度、巣鴨に内見に行って、直帰なんです。早めに終わるんで、ご飯でもいかがですか?』
 続く言葉に、幸希はちょっと驚いた。誘われるとは思わなかった。
 確かに巣鴨エリアと、幸希の勤める駒込エリアはかなり近い。だから食事くらい誘われるのはまるで不自然ではないのだけど。
 いいとしの男女が食事を共にするのだ。
 まさか、戸渡からもなにかしら意識するものがあるのだろうか?
 ちょっと胸が高鳴った。
『いいよ。何日?』
 高速で返信を打ち込みながら、幸希は思ってしまった。
 彼氏候補。
 先日、亜紗から言われたことが頭をよぎってしまったのだ。
 結婚式に付随してきたあれそれで、弱気になっていたところだったからかもしれない。そんな打算的なことを考えてしまったのは。
 そしてまたそんな自分に嫌気がさしてしまう。
 ひとのこと、そんな入口から好きになりたくない。
 ましてや、戸渡は大切な後輩だ。まるでモノのように考えたくなどなかった。
 心から「このひとと一緒に居たい」と思えば別だけれど。
 そういう気持ちになれたなら、いいひとだとは思う。
 けれど、今はまだ。
 でも戸渡から返ってきたのは嬉しそうな返信だった。そっけないライン画面でもわかるくらいに。
 『やったー』と大型犬がやっぱり万歳していた。
 まるで高校生同士のラインではないか。幸希はおかしくなってしまった。
『明後日なんですけど。18時前には駒込に行けます』
『おっけー。火曜日だね。定時の予定だから大丈夫だと思うよ』
『ありがとうございます! なに食べましょうか?』
 それでも、そんなやりとりは楽しかった。
 結婚式で感じてしまった、似つかわしくないマイナスの感情。
 それも薄らいでしまうほどに。
 戸渡と打ち合わせをして決めた、今回の食事はイタリアンだった。
 チェーン店ではなく、ちょっと良いお店を提案されたので驚いた。初めて一緒にご飯を食べたときは気軽なアメリカンなピザ屋だったために。
 まるで、これはデート。
 思ってしまって幸希は自分を諫める。
 そういうものではない。
 単に、自分は先輩で、そしてあちらから近くに来る用事があって。
 それだけ。
 それでもその日はいつもよりも少しかしこまった格好をしてしまった。
 普段から職場には制服がなく、オフィスカジュアルで良いことになっているのだが、ちょっとだけ休日にも着ているようなかわいいものを取り入れた。デートなどでなくても、ただの後輩でも、男性と一緒に食事に行くのだから、という理由付けで。
「お疲れ様です」
 予定通り定時退社ができて、幸希が外に出るとそこに戸渡が待っていた。
「どこかに入っていて待っててくれてよかったのに」
 一応駅前なのだから、近くにカフェなどもたくさんあるのだ。暑い折、こんな道路のそばで待っているのは暑かったろう。
「いえ、そこまで時間なかったですから。五分くらいしか居ませんでしたよ」
 確かに18時に定時だから、その10分後くらいには出られる、とは言ったけど。本当に五分だけだったのだろうか、と思いつつも確かめるすべはない。
「ごめんね、きてもらっちゃって」
 二人で歩きだしながら言うと、戸渡はさらりと否定する。
「そんなことないですよ。むしろお付き合いありがとうございます」
「ううん、……」
 ちょっと言うか迷った。
 けれど、口に出してみる。
「誘ってもらえて嬉しかったよ」
「本当ですか!」
 戸渡は、ぱっと顔を輝かせた。
 ああ、また褒められたワンコのような顔をする。
 無邪気で人懐っこい顔だ。
「僕も先輩とご飯食べたかったんですよ。今日行くところですね、パスタの種類がとても豊富で、麺の種類、あ、太さとかですね、そういうのから選べて……」
 今から行く店について色々と話しはじめる。
 戸渡は話も上手い。そもそも新木課長から助けてくれたあたりから、コミュ力も話術もあるようだ。
 彼女はいないと言っていたけれど、どうしてだろう。
 背の高い横顔をちらりと見上げながら思った。
 これほど性格も良くて、顔もなかなか。彼女の一人や二人すぐできるだろうし、早ければ結婚などしていてもおかしくないのに。むしろそのほうが謎だと思う。
「ここです」
 細い道を入った先。
 洗練された印象の、ちょっとかわいらしくもある外観の店だった。
「素敵だね」
「そうでしょう」
 幸希が褒めるとまた嬉しそうな顔をする。
 中も外観と同じだった。
 白い木のテーブルと椅子。まさに女の子が好みそうな店だった。
 こういうところ、男の人は普通は彼女とくるんじゃ。
 思ったけれど、戸渡に「飲み物はなににします?」と訊かれて考えるのをやめておいた。
「飲みますか?」
 お酒にしますかと訊かれたのはわかったけれど、明日も仕事だ。
「今日はノンアルにするよ」
 それは普通の返事だったと思うのだが、戸渡も「じゃあ僕もそうしましょう」と言った。
「いいんだよ? 飲んでくれて」
 飲みに行ったことも一度あるのだし、そのときも複数杯飲んでいた。それなりに酒は好きなのだろうと思ったのだが。
「実は車なんですよ。駅チカのパーキングに停めてて」
 言われたことに納得する。それでは酒は飲めない。
 ここのお店は少し街中で入り組んだところにあって、停めづらいので駅前に停めたのだろう。
「そうだったんだ。あ、営業車?」
「いえ、今日は自分の車で」
 あれ? 内見で直帰って言わなかったかな。
 なのに自分の車で?
 内見ということは、普通は会社の車を使うものだと思う。ちょっと不思議に思った。
「なににしますか?」
 流されてしまった。
 意図的なのかそうでないのかはわからないが言われて、引っかかったことは置いておくことになってしまう。
 それでも店にきているのだからとりあえず注文しないと。
 思った幸希は「飲み物はジンジャーエールで……パスタはどれにしようかな」とメニューを見た。
「コースにしますか? そうするとパスタが二種類選べますよ」
 やりとりをする。
 戸渡は自分のメニューを幸希に見せて、色々指さしてくれた。
 もう夕ご飯の時間。ダイエットをしていてお昼を控えめにしているので、おなかはずいぶん空いていた。
 今日だけはダイエットのことは忘れて食べてもいいかな。せっかく人と食べるんだし。
 思って幸希は「このコースにしようかな」と決めた。
 すると戸渡は「じゃあ僕もこれで」と言う。
「え? 好きなの選んでいいんだよ?」
 男の人には少し少ないかもしれない。
 思って言ったものの、戸渡はさらりと言った。
「同じものが食べたいです」
 その言い方はかわいらしかったけれど、言われた内容にはどくりと心臓がざわめいた。
 一体どういう意図なのかさっぱりわからない。
 食事に誘ってくれたことから、外で待ってくれていたことも、ノンアルに付き合ってくれたことも、ほかにも色々と。
 勿論幸希とて子供ではないのだ。それが示すこともなんとなくわかる。
 でもこれほど優しい気遣いを受けたことはない。
 わかる、けれど実感としてはわからないし信じられない。
 だというのに、どきどきしてしまっている幸希をよそに、戸渡はなんでもない話をしてくるのだ。
「今日見てきた物件、なかなかおもしろいところだったんですよ。半地下になってて、ちょっと隠れ家みたいな」
「内見っていっても身内だったんです。親戚で……来年大学に入る子なんで下見も下見ですけどね」
「なので、まぁ……ちょっと遊び的なやつで」
 幸希はそれに相槌を打つしかなかった。普段、積極的に話ができていたことはもう飛んでいた。
 しかしそれもご飯がくれば落ち着いた。とても綺麗に盛り付けられていて、おいしかったので。
「このパスタ、もっちりしていてとてもおいしいね」
 幸希が言葉少なだったのは気付いていただろう、戸渡はほっとしたような顔をして同じようにパスタをフォークで巻き取った。
「お店で作っているそうですよ。生パスタだそうです」
「そうなんだ。道理で」
 前菜、サラダ、スープ、パスタ、そして肉料理。
 一番品数の少ないコースだったのでそれだけだったけれど、幸希にはじゅうぶんでおなかいっぱいになった。食後の紅茶を飲みながら、「とってもおいしかった!」と満足の笑みを浮かべてしまうくらいには。
「気に入ってもらえて良かったです。先輩と一緒に食べられて嬉しかったですから」
 こうやってまたどきどきさせてくるのだ。
 困る、と思う。
 嬉しいけれど、どういう反応をしていいのかわからないから。
 お会計は割り勘だった。「ワンコイン以上ですからね」なんて茶化したことを言いながら、それでも端数を少し多めに払ってくれた。
「車で来たって言ったよね。どこに停めたの?」
 店を出て、さぁ帰ろうと幸希は言った。
 そして戸渡も「駅前の、ちょっと裏の道で……そこしか空いてなかったんです」と答えたのだけど。
 歩き出そうとしたとき。
 不意に右手になにかが触れた。それがあたたかかったものだから幸希は仰天してしまう。
 思わず、ばっとそちらを見たのだけど、戸渡はただ微笑んだ。
「行きましょう」
 そのまま歩き出したけれど、幸希はパニックに陥っていた。
 右手があたたかい。戸渡の大きな手にすっぽり包まれてしまっている。
 手を繋いでいる?
 いや、繋いでいるとはいえないかもしれない。
 幸希からその手は握り返せなかったのだから。ただ握られるままになるしかない。
 今までの彼氏はやはり、こんなことをしてくれなかった。
 抱きしめることはされたし、することだってされたけど、手を繋ぐということをしてくれたひとはいなかった。
 つまり、そのくらいには大切にされていなかったのだろう。
 こんなことはある意味、初めてのデートのようなものであった。
 どうしよう、どうしたら。
 そこで初めて思い至る。
 帰るつもりだった。
 でも戸渡がそんなつもりでなかったら?
 待ち合わせをして、食事をして、そのあとこんなことをされたら。『行くべき場所』だってあるかもしれない。
 それを想像した瞬間、頭の中は沸騰してしまう。経験がないわけでもあるまいに。
 男として見ていなかったわけでも、彼氏候補として見ていなかったわけでもあるまいに。
 そこまで考えが及んでいなかったのだ。
 もう戸渡のほうは見られなかった。
 俯いて悶々とするしかないのに、戸渡の口調はまるで変らなかった。少なくとも、変わらないように聞こえた。
「今度は中華とかどうですかね」
「恵比寿でおいしいお店を見つけたんです」
「上司に連れてかれたんですけどね、はじめは面倒だと思ってたんですけど……」
 などなど。
 でもなにを言われているのかわからなかったし、なにを言われているかなどどうでもいいことだったのかもしれない。取られている手がすべてだ。
 駅のほうへ向かい、裏の道へ入り、人通りが少なくなってきた。
 良かった、本当に駐車場へ行くのだろう。
 幸希は少し、ほっとした。
 けれど『ほんの少し』だった。
 なにか言われるのだろう。それがなんなのかはわからないにしろ、恋愛的ななにか、違っても男女の仲に関連することであることははっきりしていた。
 駐車場が見えてきて、幸希の心臓は破裂しそうになる。
 結局ここまで手は握り返せなかった。
 戸渡はそれをどう取っただろう。拒絶に感じただろうか。振り払いはしなかったけれど、明確な受け入れでもなかったのだから。
 駐車場の、前。不意に立ち止まられた。
 戸渡がこちらを見ているのがわかる。
 そして一瞬あとには、幸希が想像したことが身に降りかかった。
 取られていた手を離されて、伸ばされる。
 あっと思ったときには胸に抱きこまれていた。心臓が一気に冷える。
 喜びではなかった。そうでないとも言い切れないのだが、ただ一番大きいのは、戸惑い。
「鳴瀬先輩」
 言われた声はとても近かった。耳元まではいかないが、頭のすぐ上から降ってくる。そのくらい背が高いのだ。
 ぎゅう、と幸希を抱く腕に力がこもって。
「先輩が好きです」
 言われた言葉はシンプルだった。
 だというのに幸希の胸を今度は熱くする。
 もう胸の中は熱いのだか冷たいのだかわからなかった。
 不安、戸惑い、そしてきっと多少は嬉しい気持ち。ごちゃごちゃに混ざってどうしたらいいのかわからない。