『ジャリジャリ……』

 歩き回る様なその音は、先程まで私達がいたリビングから聞こえて来るようだ。

 私は、そっとリビングの扉に近づき、静かにドアレバーを動かした。

 開いた扉の隙間から『ジャリジャリ』という音が大きくなって聞こえて来る。

 私達は、中を慎重に覗いた。

 扉を開けると、目の前にはテレビと大きなソファが見える。

 右奥はカウンターキッチンなのだが、音と気配は、確実にそちら側からしてきているみたいだ。

 そっとリビングに入るとソファの後ろに隠れ、キッチンの方の様子を伺った。

 カウンターキッチンの出窓のガラスが、めちゃくちゃになっている。

 さっきの派手に割れた音は、どうやらこれの様だ。

 穴が空いた出窓からは、外の街灯の無機質な灯りが差し込み、ぼんやりとだが周りの状況が確認出来た。

 そんな中、黒い影がこちらに背を向けた状態で立っているのが見え、私の心臓はドキリと脈を打った。

 女は体をやや斜めにして何かをしている。
 そして、聞き覚えのある音が響く。


『ガリガリ……ガリガリ……』


 さっきの音だ! 女が動く度、その音は響いている。

 よく見ると、手には何かが握られていた。

 女は、それを振り上げる。

 薄暗闇の中、鈍く光る刃先。

 女が手にしているのは、大型の包丁だった。

 それで壁や柱にガリガリと切り付け、例の『ガリガリ』という音を発している。

「どうしますか先輩?」

「とりあえず、警察が来るまでアイツをなんとかしないとね」

「……武器を持ってる……下手には動けそうにない……」

「じ、じゃあ、どうやって……」

「う~ん」

 ヒソヒソとキッチンの扉ごしにそんな会話をしていると突然、ドスドスという音が聞こえ勢いよく扉が開け放たれる。

「えっ……?」

 私たちは、驚いてすぐに扉から離れた。

 開いたドアのすぐそこに、包丁を構え振り下ろそうとする笑顔の女の姿があった。

「あぶなっ……!!」

 富岡先輩が私の体を引き寄せて、力強くその腕で抱きしめた。

 おかげでなんとか女の攻撃をかわせたようだ。

「…………ぃっ……ぃっ!!」


 女は悔しそうに爪を噛みながら、顔をヒクヒクと痙攣させている。

 よく見ると、女の足は血みどろだった。

 所々、ガラスの破片が刺さっている。『ジャリジャリ……』という音は、女が割った窓のガラスを、その足で踏み締めている時に出ていた音なのだろう。

 そして私はその時、初めて女の顔を間近で見た。

 唇に歪んで引かれた真っ赤な口紅、目の焦点が互いに別々の所を見ている。

そして何より驚いたのは、彼女は笑っているのではない、口の右端に大きな傷があり皮膚がひきつれて、上から引っ張られている様に見える。

まるで笑っているかのように──