FOOLという名のBAR-SAUDADE-


「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」

 と女は言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けた。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」
「なるほど、そうかあ」
 女は初めてあたしと視線を合わせて笑顔を見せた。儚さの中の一瞬の希望、そんな笑顔に見えた。
 
 今宵、紛れ込んだ愚か者は初めての客なのに妙に心に引っ掛かる女だった。ふと、前から知っているような錯覚を覚えた。

 彼女が現れたのは、ほんの少し前だった。カウベルが鳴った。そっとドアを開け、顔を出して店の中を覗き込んだのは四十前後の一人の女だった。ドアの外から冬の匂いがした。
 女はあたしと目が合うと、「いいかしら?」という視線を投げて来た。
「いらっしゃい、どうぞ」
「私、一人なんだけど・・・」
「構わないよ、ここは静かな店だから」
 女は頷くように微笑んでから入って来た。
「あんたが開けたドアの外から冬の匂いがしたよ。まだ春にはならないようだね」
「私、北から下りて来たところだから。向うはまだ雪の中」
「ふうん、雪の中から来たんだね」
「私が春を知らない女で、いつも冬をまとっているのかも」
 と言って女は舌をチョロっと出した。だから冬の匂いがするのだと彼女流のジョークのように見せた。でも彼女は視線が合うと逸らした。
 
 店の奥からピアノの音。
♪ The way we were・・・

「マリアのピアノはその瞬間の心を映す」
「ピアニストがいるバーだって聞いていたんだけどさ、この雰囲気、私なんかが入れる店じゃなかったみたい」
「ここは気取った高級な店じゃない。場末のバーさ。安心して大丈夫だよ」
「そうかぁ、聞いた話では愚か者が集う店だって」
「ふうん、この店のことを色々と聞いて来たのかい?」
「うん、私を失くして悲しみに暮れる男が、この店で酔い潰れたとメールをくれたんだ」
 と言った彼女の瞳はちょっとだけ悪戯っぽく笑った。
「あんたを失くした男かい?」
 彼女は目を逸らした。
「あっママ、バーボンをストレートで下さい、ショット・グラスで」
「はいよ、バーボンは何がいいかな?」
「うん、ワイルド・ターキー」
 ワイルド・ターキーはアルコール度が五〇、五度のバーボンだ。あたしは黙ってショット・グラスにワイルド・ターキーを注いで彼女の前に出した。

「私、馬鹿だからさ、うまく言えないんだけど、何故、ここに来たのか分からないんだあ」
 と女はそう言ってショット・グラスを唇に寄せた。女は頭を動かさないで手首を返すだけでグラスの中身を口の中に放り込むように空けたのだ。
「ここは、Foolという名のBar・・・愚か者が静かに酔い潰れるための店さ」

「どう、ママ。さっきの飲み方?」
「あざやかだね、頭も動かさずに綺麗に喉に放り込んだよ」
「ハード・ボイルドの主人公がそんな風に飲むんだって、その男が教えてくれたんだ。彼はかなり練習したそうだよ。初めは胸に全部こぼしてしまったって」
 あたしはその話を前に聞いたことがある。この店の客、すなわち愚か者の一人、恋次郎だ。
「私は、一発で決めて見せたんだよ、その途端、彼は私に夢中」
 と言って彼女は舌を出した。
 あたしが空いたグラスに手を伸ばす。
「あっママ、今度はソーダ割りにして。もうストレートはおしまい。女の酔っ払いはカッコ悪いでしょ?」
「酒に呑まれなきゃいいのさ」
「そうかぁ、ママの言葉は説得力があるね、あっ私のことはアイって呼んで」
「アイかい?あたしはユウコ、ピアニストはマリア」
「アイは、アルファベットのiだからね」
「アルファベットのiなんて洒落ているね」
「でしょう?」
「どんな男だったから彼はアイを失くしたのだろうね」
「遊び人のくせにさ、紳士だったからだよ」
「ふうん、意味深だね。紳士だったからなんて」
 あたしは水割りを出しながら、アイに視線を向けた。アイは視線を合わせない。
 今度は少しずつ水割りを飲んでいた。
「チョイ悪親父を気取って、名前は恋次郎、恋多き男だからだって言ってさ。夜遊びする時の源氏名なんだって。私達もバイト先のスナックでは源氏名使うのだからお互い様だって。ふざけているでしょう?早い話がさ、本名の彼には普通の生活があるってこと。だから、俺に本気で惚れるなよってこと」

♪ The way we were・・・

「この曲、聞いたことがあるけど・・・」
「The way we were・・・追憶っていう映画のテーマ曲だよ」
「あぁそうなんだあ。曲は聴いたことはあるけど曲名は知らなかったなぁ。映画の名前も知っているけど観たこともない。でもショーワの時代のものって妙に懐かしいものね」
「うん、そうだね。あたしも映画を映画館で観たわけじゃない、多分テレビで観ただけだと思うよ」
「追憶かぁ」
「ここは、アイにとっての追憶の街になるのかな?」
「追憶の街・・・とFoolという名のBar・・・ぴったりな取り合わせじゃない?ママ?」
「そうだね、そしてマリアのピアノ」
「うん、ピアノの音が気持ちいいって初めて感じたかも私」
「マリアの左手の薬指は動かない。素手でナイフの刃を握ってしまった。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとしてね。その時、マリアは左手の薬指を傷つけてしまった。堕ちて逝くピアニストの言い訳だけかも知らない。でもね、だからかもしれないけどね、ここに流れて来たマリアが弾くピアノはその瞬間の心を映すのさ」
「そうかぁ、この曲は私の過去を映しているのかぁ。だから気持ちいいんだね、きっと」
「アイにとってこの街は気持ちのいい想い出なんだろう?」
 アイは遠くを見るような目をして、グラスを揺らした。
 氷がカシャンと気持ちよく響いた。アイは少しずつ酔いながら想い出に心を向けていた。

♪ The way we were・・・

 アイは友達を頼ってこの街に流れて来た。古いライトバンの車には生活必需品が詰め込まれていた。いつでも何処へでも逃げ出せるように車には運転シートしか空きスペースがないくらい車の中は荷物でいっぱいだった。
 友達は子供が産まれて同棲していた彼氏と入籍したばかりだった。アイに寝床を用意するのも大変な2DKのアパートなのに同郷の仲間だと言って、アイを快く迎え入れてくれた。
 アイは長居をするつもりはなかった。北国で育ったアイにとってこの街の夏は耐えがたい暑さになると感じていたからだ。季節はもうすぐクリスマス。春までには次の街へ向かいたいとアイは考えていた。

『何しているの?』
 彼からのメールだった。
『居場所がないから空を視ている』
 とアイは返信した。友達家族には余計な負担はかけさせたくないと考えていた。だから寝床だけ用意してもらえれば十分。食事は自分で調達すると言ってお昼前にアイはいつも外に出ていた。日曜日だった。行くあてもないし、きっちり三食食べなくてもいい。その日は荷物の詰まった車の中でぼんやりと晴れた空を視ていただけだった。
 彼とはバイト先のスナックで二度ほど席についただけだった。といってもバイトはまだ初めて五日だから彼はもうアイの客という感じになり始めていた。

 昼食がまだなら何か食べに行こうと言われた。日曜日はバイトも休みだった。お昼はしっかり食べて夕食は抜いてもいいと思った。
 駐車場の近くに迎えに来てもらった。
『ガソリン代ケチって毛布にくるまっていたよ。私の車を見るか?生活必需品揃っているんだ。いつでも好きな時に消えることが出来るように』
 そう言ったアイの目を彼が見つめていた。本当は荷物だらけの車を彼には見せるつもりなどない。アイはすぐに瞳を逸らしていつものように笑った。アイの瞳に、瞳の奥にどうしようもない絶望があるのを彼に気づかれたような気がした。

『何が食べたい?』
 彼の車に乗ってまもなく聞かれたが特に食べたいものなど浮ばなかった。
『お腹がいっぱいになれば何でもいいよ』
 アイは深く考えないで答えていた。多分、彼は色々と考えていたようだ。連れて行かれたのは大きなショッピングモールだった。
『ここなら色々な店がある、視て回ろう。食べたいものがあったらそこへ入ろう』
 ショッピングモールには映画館も入っていた。
『へえ、ここはショッピングモールなんだね。映画館もあるよ。あの映画、今年ヒットするって言っているね、でもそれが私達にとって面白いかは別。映画なんて生きるのに無くても平気、恋次郎もそう思うタイプじゃないかしら?』
 彼はヒットする映画なら後学のために今度一緒に観ようと誘って来た。
『しょうがないな、男が一人で観るような映画じゃないし、女が一人で観るようなものでもない、いいよ!一緒に行ってあげよう』
 とアイは悪戯っぽく笑って見せた。
 アイは何でもありそうな洋食レストランを選んで入った。
『私、ハンバーグランチ、ライス大盛りで』
 アイは夕食は菓子パンで済ませようと考えていた。その時、彼が自分の分はパスタだけ注文していたのを見て彼は家で昼食を済ませてから出て来たのだとアイは感じた。彼には家族がいるということを一瞬忘れかけた自分を恥ずかしいとアイは思った。

♪ The way we were・・・

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

「彼がただの遊び人なら、騙された振りをして、私が彼を転がして貢がせてやろうと思っていたんだ、最初はね」
「だけど彼は違ったんだね」
「最初に会った時はスナックの女と客、それだけだと思った」

♪ The way we were・・・

 アイがバイト先のスナックで恋次郎の席に着いた二度目の時に
『あんたのその飲み方、カッコいいね』
 と言ったら、ハード・ボイルドの主人公がグラスを呷る時、頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込む。そんな話を読んだことがあって練習したのだと彼が答えた。アイは腹を抱えて笑った。
『練習したんだ?すごーい。どうでもいいことに努力するって面白いよ。でも、なんで?』と聞いたら、彼は急に赤くなって黙り込んでしまった。
『ははあ、わかった!女の子の前でカッコつけたいわけだ』
 と追い打ちをかける様に図星を突いた。
 図星をつかれた彼は何も答えずグラスを呷る。
『だけど、うまくいったじゃん』
 アイは瞳をくるくる回して顔を近づける。
『だって私のお目に止まったわけだから』
 舌を出してアイは笑いながら、私もやってみると言ってグラスを構えた。
『折角のドレスが濡れるぞ』
 と言った彼の制止には耳も貸さず、アイはグラスを呷った。
 見事に手首を返すだけでグラスを空にした。
 得意気に鼻を上げてにやりと微笑み、
『どうよ、見直した?努力するのはあなただけじゃないのよ』
『練習したのか?』
『先週、あなたに初めて逢って、カッコつけた飲み方しているなあって思って。帰ってから自分でもやってみたら、シャツがビショビショになっちゃったよ』
『ばかだなあ、何だってそんなことするんだ』
『ばかはお互い様でしょう。努力は報われるものなのよ』
 アイは悪戯っぽく笑う。
『だって、あなたはもう私に興味津津じゃない?私の勝ちよ』
 声を上げて笑う彼にアイは名刺を渡した。名刺には携帯の電話番号とメールアドレスが書かれてあった。

カシャ
 とグラスの中で氷が響いた。
 あたし達はアイの過去から現実に戻って来た。

♪ The way we were・・・

「名刺を渡した翌日にメールが来たの。ホントは昼間からお客とは会わないの、店に呼んでナンボだからさ。私達の世界は」
「だけど、会ってしまったのは、彼に何かを感じたのかい?」
「寂しさかなあ、彼も居場所がない。そんな風に感じたの。ねぇママ。このバーボン・ソーダはいくら飲んでも丁度いい。酔いに合わせて調節してくれているの?」
「美味しいならよかった」
「あの頃、私、この街に少し住みたいと思い始めていた。友達の家に居候していることを私、彼に話してしまったの。私、あの時、何かを期待したのかなあ?」
「どうかな?純粋にアイは相談しただけだと思うよ。彼が部屋を借りてくれると言ったら、アイはそれを受け入れたと思うかい?」
「そんな負担を彼には掛けさせないよ、多分。どうだろう?ママ。私、分からない」
「実際はどうだったんだい?」
「スナックのオーナーはだいたい緊急用に部屋の一つはキープしているものだからって掛けあってくれたの」
「なるほど」
「店があるビルの上に女の子の着替え用に部屋が借りてあって昼間は空いているから暫く使っていいという事になったの」
「それは良かったね。でも着替えに皆が来るってことだね」
「寝泊まり出来れば十分。でも聞いてくれてありがたかった。ガス、電気、水道、冷暖房完備だし。夜、皆が着替えに入るけど夜は私も仕事だし。何よりお金が掛からなかったから。一人でいる時間が出来たこと、一人でいる場所が出来たことが嬉しかったよ」
「時には、孤独な時間は必要なものだからね」
「ママは何でもお見通しだね。彼には店には週に一度くらい顔を出してもらったけど、私達、毎日会う様になった。一時間でも、三〇分でもいいから何か理由を付けて会おうとしていた。昼間だったり、私が仕事を上がる深夜だったり・・・」

♪ The way we were・・・

『洗濯機に繋ぐホースがボロボロなんだ、買いに行くの付き合ってくれる?』

『電池が必要』

『シャンプーきれた、私、使うメーカにこだわりがあるんだ』

『猫がいるんだよ。ママには内緒で店の女の子達が二階で飼っていたんだ。これからは私が面倒をみるんだあ。餌、近くに売っている所、あるかな?』

 アイは毎日、小出しに用を作った。彼はそれをいつも待っていてくれた。彼は仕事の合間に時間を作って買物につき合った。そして買物のネタが尽きた頃、アイは一枚のチラシを見せた。

『有酸素運動がいいんだって、駅前になんかできたよ。一〇分間、台の上に乗ってブルブルするだけでいいみたいだぞ』

 彼は入るのが恥ずかしいから嫌だと言った。一緒にいる時間が出来るとアイは誘った。そのチラシは半月前に彼も見た覚えがあった。アイがそのネタをキープしていたことに彼は気づいていた。

♪ The way we were・・・

「理由がなけりゃ逢えない・・・なんて不器用な二人なんだろうね」
 あたしはアイのグラスの汗を拭う。
 アイはバーボン・ソーダを喉に放り込む。
「私達は毎日、ダイエット施設で待ち合わせた。私がブルブルマシンと呼ぶダイエットマシンに並んで乗ったよ」

♪ The way we were・・・

『体脂肪測定のデータをみせてよ』
 
 データを見せようとはしない恋次郎から、アイはデータを奪い取った。

『なんだあ、こりゃあ。あり得ない、どうすんだ』

 彼の数値が標準値より高いのを見つけると鬼の首をとったかのようにアイは笑った。

『ヤバいよ、もう肉は食べられないよ、ベジタリアンになれよ、草食系男子になるしかないね』

『悪いけど、私は肉を食べるよ。体がもたないもの。あなたは私の横で指を咥えて見ているのね』

『これからは、私があなたの健康管理をしてあ、げ、る』

一瞬、彼は笑顔を消してじっとアイを見た。

『なあんて・・・ね』

 アイはまた悪戯っぽく笑ってごまかした。

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。

♪ The way we were・・・

「新しく作り直すよ、薄くなってしまっただろう?あたしも一杯もらうよ。切なくなってしまったから」
 アイはマリアにも一杯奢りたいと言った。

「マリアにはギムレットでいいかい?」
 あたしは手際よくプリマス・ジンとローズ社のライムジュースを並べた。
 ローズ社のライムジュース。レイモンド・チャンドラーが作った孤高の探偵フィリップ・マーロウで有名になった。
 ジンとライムをハーフ&ハーフで氷と一緒にミキシング・グラスに入れ、バースプーンでステア。
「クラシック・ギムレットだよ」
 あたしはピアノにギムレットを運んだ。
「シェイクじゃないギムレットがあるなんて知らなかったよ」
 カウンターに戻ったあたしにアイが言った。
「ママは?」
「あたしの分のギムレットは作らない」
「自分の分は自分では作らないということ?」
「そう、あたしが好きなギムレットは自分では作らない」
「他に作ってくれる人がいるってことかぁ」
「今はいないよ、愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまったバーテンダーが昔、ここに居ただけ」
「ママ、なんて悲しい目・・・なんでそんな悲しい想いをしたの?」
「女・・・だからさ」
 あたしはアイと同じバーボン・ソーダを作って、アイのグラスと合わせた。
「女、だからかあ。私達、みんな、女だね」

♪ The way we were・・・

 マリアのピアノの音は一度も途切れず、気づいた時にはギムレットは空になっていた。
 あたし達ははまた、マリアのピアノと一緒にアイの過去へと潜って行った。

『恋次郎の仕事っていいね』
 そう言った時のアイは真剣な顔をしていた。
 彼は脱サラして介護事業を起業していた。
『僕の会社の仕事は訪問介護だよ。働きたくても介護の仕事をするにはヘルパーの資格を取らないと出来ないんだよ』
『そうか、見習いとかあればいいなって思ったんだ、資格取るなんて無理、諦めるよ』
『諦めるのは早い、資格を取りたいという気持ちがあるなら協力するよ。夜の仕事は若いうちだけで長くは続けられないだろう?』
『うん、私が可愛いと言われるのもあと数年だけだしさ、だけど私の年齢でこの美貌ってかなり凄いことじゃないかしら?』
 アイはいつものように最後はジョークで話を濁してしまおうとしているのを彼は気がついていた。
『資格を取ったら僕の会社で最低三ヶ月働く条件で学費の半分を出してやるよ』
『えっ?本当か?恋次郎の会社で働くよ。あんたが教えてくれるなら安心だし。私さ、がんばるから』

カシャ
 と氷とグラスの触れる音。
 あたしはアイのグラスの水滴を拭った。

「ふうん、でもアイはすんなり「うん」と言ったのかい?実際は、ああでもない、こうでもないと理由をつけて彼を困らせたんじゃないのかい?」
「なんでもお見通しだね、ママは」
「手を伸ばせばすっと離れてしまう、怖いのだろう?優しが」
「特にさ、それを失う時が来ることが分かっているから・・・」
 と言ったアイの悲しい横顔をあたしは見ていた。
「恋次郎が言ったことがあるんだ、雪に願うって」
「雪に願う?」
「恋次郎が好きなchiiの曲に、“願い雪”というのがあって、chiiに聞いたことがるんだって、タイトルの意味を」
「それで?」
「溶けて消えて無くなる前のその一瞬に、願えたなら叶いそうな・・・そんな気がする、からと。だから私、恋次郎なら何を願う?って聞いたんだ」
「ふうん、いつ消えてしまうか分からないアイに恋次郎は何を願ったんだろう?」
「消えてしまう前に残してくれたんだとと思うよ、恋次郎という存在を」

♪ 願い雪

 あたし達はまた、酔いの中に堕ちて行く。

♪ 願い雪

『ねぇ、こっちの夏は、じめじめして暑いのだろうなぁ。私さクーラーなんてない北国で育ったから暑さに弱いんだ。ここへ来る前は北陸、そんなに暑くない町にいたから・・・友達がここへおいでよと言ってくれた時も迷ってね』
 アイは別れの日を匂わせた。それでも資格を取りたいというようにアイの瞳には意思があった。
 アイは彼を信じようとしていた。依存してもいい、そう感じさせるものを持った男だと思った。
 アイが一つの町に居られる時間には限界がある、アイは普段、携帯電話の着信音はOFF、バイブもOFFにしていた。全てから逃げていた。

 夏までまだ時間がある、資格取っておけば他の町へ流れても使えるからと彼が説得した。

“夏まで、あとどのくらい?”

ふと、そんなフレーズが心をよぎった。

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

『春までに資格が取れれば夏まで仕事できるね』
 アイは自分に言い聞かせるように言った。
 かなりのハード・スケジュールになるし、学校が終わってから夜のアルバイトまで時間もそんなにない。

『時間がないのもいいさ、余計なこと考えなくていいから』

 朝から学校に行き、夕方に帰宅したら夜の仕事の準備、そして深夜まで働らく。それを毎日繰り返した。アイはそれを苦しいとは言わなかった。彼も毎日、送迎をした。

 ダイエット施設には週一だけしか通えなくなっていた。
『あと、もう少しだね、実習が始まるよ。実習場所が決まったら連絡するからルート調べてね』

 忙しさに没頭することで何かを忘れようとしている。
 でもそれはアイだけではない。
 春が近づいていた。
 彼もあのフレーズを忘れようとしていた。

“あと、どのくらい?”

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

カシャ
 氷とグラスの触れる音。

「別れの気配を感じながら過ごすなんて苦しかっただろう?」
「うん、『また明日』という言葉が別れに近づくだけだと知った時、時間は加速するって感じたよ、ママ。学校、介護実習、バイトを繰り返しながら冬が終わったよ」
♪ I'm A Fool To Want You
 曲が変わった。この店のテーマ曲のようなものだ。

「春になって私は資格をとった。最短だったよ」
「頑張ったのだね、多分、彼もね」
「なんでもお見通しね?ママ。ハード・スケジュールの中でも何も言わず、毎日、送迎してくれたよ」
「彼の会社で仕事したのかい?」
「うん、給料もちゃんとくれたよ。特に色など付けずに規定通りにね」
「そしてくり返すんだね、僅かな時間を作って必死に会おうとする」
「でも、冬から春に変わって時間は加速するばかり・・・“また、明日“がさよならに近づくだけ」

♪ I'm A Fool To Want You

 梅雨になった。

『きついよ、この湿気。やっぱりきつい』
 冬、どんなに忙しくても大丈夫だったアイもこちらの梅雨の暑さには体調を崩してしまった。

『仕事は休めないよ、お金にならないだろう。ちょっと風邪がこじれただけ。風邪薬買って来て欲しい。心配ないって言ってもあなたは心配するでしょう?だから言わな〜い』
 いつものように悪戯っぽく笑う。

 彼は、薬屋に行って頭痛薬から風邪薬、胃腸薬を買って届けた。
 彼女の部屋は店の寮のようなものだから、店のスタッフが突然来る場合がある。彼は部屋には上がらなかった。食事はインスタント物を用意するしかなかった。
 アイは彼の仕事も休まなかった。彼との約束だから?それだけのはずがない。

“梅雨が終わるまで、あとどのくらい?”

“別れの夏まで、あと、どのくらい?”

 加速する時間の中では逢うことが辛くなる。

♪ I'm A Fool To Want You

「時が過ぎて行くことが切ないね」
 アイの過去の中にあたしも入り込んでいた。
 あたしが作るグラスが濃くなっていることに気付いた。
 それでもあたしもアイも酔い切れない、回想が夏に近づいて行く。
 痛みが、心の痛みがあたし達を酔わせないのか?夏が近づく中、アイの身体は少しずつ回復して行く。

『もう、大丈夫だよ。でもね、この暑さは厳しい〜』

 彼の会社の仕事も約束の三ヶ月が来て、ギリギリまで続けてもいいと言うアイの申し入れを彼は断った。
「それは何故だい?」
「組まれたシフトあるからだと思うよ」
「そんなことはどうにでも出来ただろう?」
「もう、夏だった。ママ、もう暑い夏がそこまで来ていたんだよ」

 あたしもアイもグラスを呷るしかない。

「そして七月の初めから突然、彼からの連絡が途絶えたの」
 アイは八月の頭に地元の祭りがあるから、それに合わせて帰りたいと言った。
「逢うのが辛くて、彼はアイを拒絶したのだね」
「カウントダウンに耐えられなかったんだよ。一日、一日、別れの日が近づくのは耐えられない悲しみだったよ」

 そして、二週間が過ぎた。

『今日は店が早く終わりそうだから他の店で歌おうよ。いつもの駐車場で待っていて』

 何事もなかったようなアイからの一通のメールで恋次郎は崩れてしまった。
 冬はエンジンを切ってガタガタ震えながら待っていた駐車場で、今度は暑さで窓を全開にして待っていた。

『久しぶり!と言っても二週間かあ』

 アイは二週間前と全く変わらない笑顔で路地を駆けて来た。
 車で五分位の場所にある彼の行きつけのスナックに行った。
『ねぇ、恋次郎はあの娘が好きでしょ?私を出汁(だし)にしてここに連れて来たわけだ』
 アイは平然と“麗”という名前の女の子を指差した。
『やばい、私たちの席に来るぞ』
『恋ちゃん、いらっしゃい、相変わらず可愛い女の子を連れて』
『よろしくう、私は恋次郎が麗ちゃんに会うための出汁(だし)ですう』
 彼は、あたふたして何も言えないでいた。
 アイはそんな彼を見て、笑いまくっていた。

『ねぇ、とっておきの曲を教えてあげるよ。でも悲し過ぎて、私がいなくなったら歌えなくなるから嫌か?』

 アイは、サザンオールスターズの曲で“夢に消えたジュリア”を歌った。
 夏に消えた恋人を想う歌。
 歌詞の語尾に自分達に重なる部分があると、その曲を歌いながら彼に視線を向けた。
 この別れはもう止められない。胸を抉るような叫び、そんな歌をアイは熱唱した。

「何故、俺の傍にいるんだ」
 彼が聞いた。

『あなたもいつも居場所を失くして寂しい顔していたからさ。それにあなたは、優しさだけじゃ生きていけないって知っていたから、私、ちょっと甘えてみせただけ』

 アイは深夜遅くまでやっているスナックで切ない歌ばかり歌って聞かせた。

『ねぇ、こんな切ない曲が好きだよね、どう私の好みと一緒じゃないの?』

 どの曲も彼が好む切ない曲ばかり選んだ。
 カラオケがやんだ時、アイは口ずさむように歌った。

『♪ 少し肌寒い夜 想い出の場所であなたと二人
   星空眺めて寄り添ったね
  白い車の中で後悔するなと
   背中を押してくれた日からもう
    どのくらい経つのだろう』

 恋次郎が知らない曲だった。カラオケにもない。北海道出身の女性二人のデュオの曲だと恋次郎に教えた。

『♪ほつれた糸に落ちる涙
   もう繋がるのは難しいけど
    もう少しだけ信じたくて

  いつまでも忘れられない
   優しさがわすれさせない
  苦しいよ今すぐ抱きしめてほしい
   強くないから私
  いつまでもあなたはずるいよ
   もういい加減引き離して
    じゃなきゃ私はこのまま
  あなたを思い続けてしまうから・・・』

『この曲はconsado(コンサド)というデュオの歌なんだ。今度、続編が出来るのだって。忘れられない果てには何があるのかな?・・・ねぇ、私の地元のお祭りに来る?ねぇ、追いかけて来る?六三〇キロあるよ、私の故郷まで。私が教えた歌、悲しくて歌えなくなっても知らないよ?六三〇キロ、北に私は行くよ』

『ねぇ、追いかけて来る?』
 本気なのか?試しているのか?彼はアイの目を視た。
 アイはいつものように目を逸らした。

♪ ピアノの音

♪ 夢に消えたジュリア

 これは、マリアのピアノなのか?
 それとも、あたし達の心の中に流れているだけなのか?

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「彼は何も答えなかった」
「ずるいと思ったかい?」
「思わないよ、それはその瞬間だけの夢だもん」
「そうだね、勇気と無謀は違うからね」
「ママの言葉は深いね」

♪ 夢に消えたジュリア

『バイトは昨日の夜で終わったんだ。今夜は友達の家に行くよ。お別れを言いにね。この街に来れたのは友達のおかげだし・・・明日の夜にはこっちを発つよ』
 
『そうだ、今夜は花火が上がるよ。どうだ?見に行かないか?』

『一緒に並んで見ない方がいいよぅ』

『どうして・・・』

『だって花火は綺麗だからさ・・・』

『想い出になっちまうからか?』

『花火を見る度に私を想い出しちゃうぞ』

 アイはいつものように悪戯っぽく笑おうとした。でも、そこには唇を噛み締めるアイの横顔があるだけだった。

『明日の夜、見送ってね。初めて迎えに来てくれた私の車がある駐車場・・・間違えるなよ、いつも待ち合わせた店の近くじゃないからね』

明日なんて嘘だ。アイは、今夜中に発つつもりだった。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「夜、私は車の中で泣いていた。明日の夜にはもう田舎に着いていて、見送ることなど出来ない筈だった。私は黙って消えようとしていた・・・」
「彼がアイの嘘を見抜くと、気づいていたんだろう?」
「そうかな・・・」
「そうさ・・・」
「私、彼を振り切るためにアクセルを踏み込んだ。でも、その直後にブレーキを踏んでしまったあ。バカだね」
「ためらいのブレーキを踏んだアイを誰がバカだなんて言うもんか」

 アイの車のヘッドライトが闇を裂くと、彼が浮かんだ。
 動き出したアイの車は一瞬、止まって、また動き出す。
 車の中のアイは泣きながら叫んだ。

『何故、来たんだ!』

 アイは泣いている自分が信じられなかった。いつも強く、どんなに苦しくても前へ踏み出す私が泣くなんてありえないとアイは自分が分からなくなっていた。
 彼が手を伸ばそうとした刹那、アイはアクセルを踏んだ。

 アイの車のドアガラスが降りる。

 彼は彼女の名を呼ぶ。

 アイの声・・・
 最後に彼の名がエンジン音に千切れて行く。

 アイの車が加速する。

 車のテールランプは灯らない。
 ただ、遠ざかって逝く。

 夏が来た。
 別れの夏が来た。
 遠くで花火の音が聴こえた。

カシャ
 氷とグラスの触れる音。
 
「『それでよかったのか?僕はずるいよな』と彼がここで話したことがあったよ」
「勇気と無謀は違う・・・とママがさっき言っていたけど私もそう思うよ」
 アイがグラスを合わせる。
「大人だね、アイは」
「難しいことは私、馬鹿だから分からないよ」
「アイも彼も小さい夢に想いを託したのだよ。私はここにいたバーテンダーの冬木が私を守るために犯した罪を許さない。でもね、私のために人生を棄てた冬木を待っているんだよ。冬木の想いはしっかりと受け止めているんだよ…」

♪ The way we were・・・
 曲が戻った。

「ねぇ、ママ。彼が私を失くした時にママが作ったカクテル“Lost・・・”を私にも作ってもらえない?」
「あぁいいよ」
「メールをもらったんだ、私の誕生日に。私を失くした時にママが作ってくれたカクテルが心まで酔わせようとしたって。ジョークのようにごまかそうとしていたけど、マジだったと思うよ」
 ジョークのようにしようとしているのはアイも同じだろうと言いたい言葉をあたしは飲み込んで、プリマス・ジン、スロージン、ライムジュース、アンゴスチュラビターズをカウンターに並べた。
 プリマス・ジン、スロージン、ライムジュースを、それぞれ20ミリをシェイクして氷を詰めたロンググラスに注いで、トニック・ウォーターでグラスアップし、最後にアンゴスチュラビターズを1ダッシュ入れたら軽くステアした。
「Lost・・・だよ」

 アイは、ケータイでカクテルを撮影していた。
「ママ、この画像を彼に送っていい?」
「あぁ構わないけど、アイがここにいると」
「私がここにいると分かったら彼はどうするだろう?」
 アイは視線をあたしに向けた。今度は目を逸らさない。
 アイは手慣れた操作でケータイから画像を送ったようだ。
「画像だけ送ったよ。文書は全く無し」
「ここへ来るよ、アイがLost・・・を送ったなら」
 アイがLost・・・を少し口に含んだ。
「あぁ、シャープ!なんてシャープな切れ味。あぁ、でも、ママ、ふんわりと甘味が広がるよ、美味しいよ、このカクテル」
 アイはしっかりとあたしの目を見て言った。
「ママ、お願いがるんだ、聞いてもらえないかなあ。お願い」
「あぁ、言ってごらん」

♪ The way we were・・・

 ドアが開いてカウベルが鳴った。
 恋次郎が少し息を切らして入って来た。
 誰も居ないカウンター。私は今までアイが座っていたスツールの隣の席を用意した。
「帰ってしまったよ」
「そうか、でも正直なところ、少しホッとしている。彼女がまだ居たら僕はどうしたらいいか分からない、ここへ向かいながら足が止まりそうになったよ」
「アイがお前にカクテルを一杯奢りたいと」
「アイ?」
「アルファベットのiだと名乗ったよ。お前の前ではホントの名前だったんだろうけど」
 あたしは、プリマス・ジン、スロージン、ライムジュースをシェイカーに入れてシェイクした。オールド・ファッションド・グラスに注いだ。

「久しぶりだなあ。でも、Lost・・・の材料だけど、グラスも色もいつもと違う」
「材料は同じでもレシピは変えたよ。このカクテルをお前に出す時は、Lost・・・という名前ではなく」
「えっ?なんて?」
「リメンバーと呼んで欲しいとお願いされたんだよ」
「リメンバー・・・」
「お前ならどう訳す?」
「忘れない・・・かな」
「良い言葉だね」

♪ 追憶

 曲が変わった。

「この曲はスターダスト・レビューの追憶。彼女が教えてくれた一曲だよ」
『切ないぞ、この曲を覚えてしまっていいの?私を失くしたら悲しくて歌えなくなっても知らないから』
「って、からかいながら歌っていたよ」

 ほんの十数分前、アイがお願いしたいと言ったのは一つではなかった。

「帰ってしまうのかい?」
『ねえ、ママ、私が帰ってから彼が現れたら、私が偶然会えたらいいなぁって思いながら、さっきまで飲んでいたよって』
「わかった、伝えるよ」
『それから、マリアさん、この曲を弾いて』
 と言ってアイは、追憶を口ずさんだ。

♪ 追憶


『昔、この街に来た時は私の車の中は生活必需品でいっぱいだったけど、今日は空っぽ』
 あたしはアイの言葉をそのまま伝えた。
 恋次郎は、カクテル・リメンバーに手を伸ばした。
「それは君に帰る場所があるって意味だね」
 恋次郎はいかにも隣に彼女がいるかのように呟いた。
 そして、リメンバーを手首を返すだけで飲み干した。
 彼女がグラスをロングからショートに変えて、更に氷も抜いてくれと頼んだ理由が、恋次郎にはちゃんと伝わっていた。

♪ 追憶

 ここは、Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「午前四時頃、ふと目が覚めた時に気づいてしまったの。彼と私の心音がズレているって。今更?だと思ったけど、気になってしまって。必死に合わせようとするけど、心音を重ねるなんて無理。だから、そのカクテルがリメンバーという名前なら、私、飲めないわ」
 と、エムは微笑みながら言った。
 カウンターの隣には常連客の恋次郎がいて、あたしのオリジナル・カクテルのリメンバーを飲んでいるのを見て、エムが興味あり気な視線を投げたから、
「リメンバー、飲みたいなら奢るよ」
 と恋次郎が気を利かせてくれたのに対してエムが答えたのだ。
「だって、私は終わらせた恋は忘れたいから、“忘れない”なんてカクテルはだめ」
 と、ホントは飲みたいけど飲まないのだと言いたいようだ。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノが絶妙なタイミングで流れて来た。
 左手の薬指が動かなくなったピアニストのマリアが弾くピアノ曲はその瞬間の客達の心を映すと言われていた。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして左手の薬指を傷付けてしまったマリアは華やかな音楽業界からここへ彷徨い流れついた。
 カウンター席が五つしかないこの店では、奥のアップライトのピアノが占める面積は大きい。そして、そのピアノを奏でるマリアの存在も大きくなった。
 何処にでもある繁華街の小さなビルの地下にあるこの店は、
 Foolという名のBar
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「ママのオリジナル・カクテルなの?それもあなた専用のカクテル?、えっと?」
「恋次郎と呼んでくれ、恋多き青年さ」
「青年?」
 エムはわざと顔をしかめて見せた。
「中年だよね」
 あたしが合いの手を入れると、恋次郎は肩を竦めて笑った。
「初めて会うよね?」
「うん、何度か仕事の打合せの後、ここに連れて来てもらっただけだから」
「ふうん、仕事かあ」
 恋次郎はちらっとあたしを視た。
「なんだい恋次郎?」
「いや、あんまり話しかけてはいけないかな?と思ってさ」
「彼女次第さ、あたしは保護者じゃない。エム、迷惑ならあたしに言ってくれ。遊び人を店の外に摘まみだしてあげるからさ」
「ママ、大丈夫よ。恋次郎さんは何となく紳士みたいだから」
「紳士、恋次郎はいつもそう呼ばれるね」
「紳士だからさ。あっそうだ、ママ、エムちゃんにカクテルLost・・・を」
「はいよ」
 あたしはカウンターにプリマス・ジン、スロージン、ライムジュースを並べた。それぞれを一対一対一で、シェイカーに入れてシェイクした。氷を詰めたロング・グラスに注ぐと、トニック・ウォーターでグラスアップして最後にアンゴスチュラビターズを一ダッシュだけ入れ軽くステア。
 エムの前にカクテル・Lost・・・を出した。
 恋次郎がグラスを掲げるとエムは嬉しそうにグラスを持って、
「ありがとう、頂きます」
 Lost・・・と、リメンバーのグラスを合わせた。
「あっシャープ。でもほんのりと甘さが漂って美味しい。恋を失くした味かしら」
「僕も恋を失くした時に、このカクテルを飲ませてもらったんだよ」
「ふうん、でも今は、リメンバー、“忘れない”というカクテルなの?」
「そう、恋次郎を捨てた女がね、Lostではない、リメンバーだと伝言を残してくれてね。ロング・グラスからショートに変えてレシピも少しいじったのさ」
 とあたしが言うと、エムは納得したという様に大きく頷いた。
「それからママ、私の名前を覚えていてくれたの?嬉しい」
「エムと一緒に来た、沢村正義はここの常連客だからね」
「正義の味方弁護士事務所というふざけた看板を上げている弁護士先生だったね?弁護士関係の仕事なの?」
 恋次郎は直接、沢村正義を知らないかも知れないが、この街にいる愚か者なら、噂くらい聞いているのだろう。
「そこに正義がない限り弁護を引き受けないという沢村先生が投げた悪党の仕事を何度か回してもらったの、うちの先生は」
 悪党の仕事を回してもらったと言った時にエムは悪戯っぽく笑った。
「ふうん、普通の弁護士だね」
「お金になる仕事が好きなのよ」
 恋次郎が肩をすくめて笑いながら、あたしに視線を向けたので
「正義先生が変わり者なんだろうさ」
 と答えた。
「うちの先生は仕事を紹介してもらって儲かったら、私が沢村先生の事務所にお礼の品を届けに来ていたの。正義の味方は決して賄賂は受け取らないから。お菓子と」
「お菓子?それから?」
「ふふっ。それから、私のスマイルよ」
「なるほど」
 恋次郎が大きく頷いた。
「正義は、お菓子だって受け取るつもりはないだろうさ。でもエムが足を運んで来たことに対して倍返しをしたいと考えてここに連れて来たのだろ」
「私の顔をたてるためにお菓子を受け取ってくれたのだと思うわ」
「正義先生はママにぞっこんなんだろ?彼女の事務所の先生ならここへは連れて来ないだろうから。ライバルを増やす真似は決してしない。エムちゃんが女の子だから連れてきたんだろう」
「ママにぞっこんなんだ?正義先生。でもそれは何となく感じたわ」
「何かにブレそうになった時、ママを求めるのさ。ここの愚か者達は」
「ブレない、信念を貫く女?ママはそんな女なのでしょうね」
「ママは、一人の男だけを待ち続けているのさ、無期懲役、帰れるあて等ない男を」
「愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまった」
「悲しいね、ママ」
「ふうん、仕方ないさ。女、だからね」
「女、だからか」
 とエムは言って、Lost・・・を飲み干した。それを見ていた恋次郎もリメンバーのグラスを口にあてると頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込んだ。

♪ Once I Loved

「いい曲」
 エムは心地よいという顔をしてマリアのピアノに耳を傾けていた。
「マリアのピアノは心を映す。ママ、僕にはバーボン・ソーダを」
 と言ってから恋次郎はエムの顔を見る。
「私も同じものを」
 恋次郎が頷いた。
「奢ってもらうなら同じもの。それって普通でしょう?」
「大人だね、まだ若そうなのに」
「そうね、まだ若いわ。でも心はもう、しわしわ」
「何故?と聞いていいのかい?」
「女、だからよ。なんてね。うちの先生に大人の世界を散々教えられたから」
 と言って、エムはあたしに視線を向けて笑った。
「エムの笑顔は嘘がないから好きだよ」
 と言って、あたしは恋次郎のボトル、ワイルド・ターキーでバーボン・ソーダを二つ作って二人の前に置いた。
「恋次郎さんの優しさに乾杯」
「ありがとう」
 二人は軽くグラスを合わせた。

♪ Once I Loved

「この曲のことを知っているなら教えて」
 エムはあたしと恋次郎を交互に見ながら聞いた。
「この曲はOnce I Loved 愛してた という曲だよ。元々はボサノバで原題はAmor em paz かつての愛。マリアはジャズ風にアレンジしてくれているのがまたいいね」
「愛してた・・・か」
 エムは一瞬、遠い目をした。
 恋次郎は続けようとした言葉を止めた。この曲は、かつて愛した恋人と別れて絶望しているところに、また恋人と再会し、よりを戻す。今度は別れないと再燃する恋心の歌詞がついている。でも、恋次郎はエムが恋を再燃させたいと願っていないことに気づいたのだと思う。だから、言葉を止めた。
「今日も正義先生の所にお礼に来たのかい?」
 あたしは話題を変えようとした。
「違うの。お別れを言いに。それから、ここで飲みたいと思ったから」
「お別れ?正義先生にかい?」
「私ね、弁護士事務所を辞めたのよ」
 恋次郎もあたしもその言葉に反応しても顔には出さず流した。
「悪党を救うのが嫌になっちゃったから」エムは冗談めかした言い方をした。「なんてね。そんなことは嘘だとお見通しよね」
 恋次郎は思わずエムに顔を向けた。あたしはまだ、反応せずに流した。
「うちの先生と別れたからよ。うちの先生は月の半分は私の部屋に泊ったわ。そして半分は奥さんと子供がいる自宅に帰るの。そんな生活を十年も続けてしまって私は三十二才になってしまった」
 限界だった。あたしもエムに視線を向けてしまった。
「愛人生活で、私の青春時代は消えてしまったわ。恨んでいる分けではないわ。後悔?悔しさ?何だろう?」
「思わぬ答えだったよ」
 恋次郎が口に運ぼうとしたグラスを止めて答えた。恋次郎が動揺しているのが分かった。
「彼のケータイのメールを読んでしまったの」
 あたしも恋次郎も黙ってエムの話を聞いていた。
「子供からのメール。誕生日には何が欲しい。連休には遊園地に行きたい、とかね。そんな幸せな生活の場面ばかり」
「そうかい、そうだったのかい」
「私、子供が欲しいと言ったの?でもね、先生は子供ならもういると言って、それ以上はその会話はさせてくれなかったわ」
「ずるいね」
「でも、私もずるいよね、そんな答えが返って来ると予想していたもの。でもね、言わずにはいられなかったの」
 エムはグラスを傾けた。
「私、いくら飲んでも酔わないの。先生に鍛えられたから」
 そして一気にグラスを飲み干した。
「私、この十年で大人の社会を嫌というほど見て来た。何を求めていたのだろう?」
「幸せ?」
 恋次郎の問いに、エムは首を振った。
「愛人生活の未来に幸せなんてあるはずがない。それは気づいていたと思う。私、奪いたかったのかな?嘘で塗り固めた幸せの形って奴を」
「嘘で塗り固めた虚構の街を、全部黒く塗り潰してしまいたいと言った刑事がいたよ。そうすれば何が正しくて何が悪いのかさえ分からなくなるからと」
「なんか、ハード・ボイルドな会話ね」
「その刑事は、犯罪者となったかつての親友を自分の手で射殺してしまった」
「弁護士が必要ね」
 とエムは悪戯ぽく笑った。
「必要なのは正義の弁護士?それとも悪かしら」
 と言ったエムに、あたしは答えることが出来なかった。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノ、それは一種の現実からの離脱に必要なキーになる。今宵もマリアのピアノに心を乗せることで救われたような気がした。

「私ね。世界一周旅行して来たの。全部を切り捨てるために」
「それはいいね」
「でもね。帰って来ると、周り中がまた、同じ鞘に収めようと私を巻き込むのよ。人は今ある形が壊れることを恐れるのかしら?」
「世間って奴は変化を嫌うものかもね」
 恋次郎が呟いた。
「うん、私もそう思った。だから、ここにも来たの。終わったってことを伝え歩くことでそこにはもう戻れないように」
「戻れない、戻らないという意思表示のためにね。終わらせた恋にけじめをつけたいのだね、エムは」
「忘れてしまえばいいの?」
「恋次郎も忘れようとした。でもそれは忘れた振りをしようとしただけ。忘れることなど実際は出来ないものなのさ」
「ひきずって生きていくってことなの?」
「引き摺るのではない。積み重ねるのさ」
「なるほど、ママの言うことは未来に繋がる」
「そう、過去の上に今がある。今を経験して未来が来る。その経験をどう、生かすかでそれぞれの人生が変わるのさ。また同じことを繰り返してしまう者もいる、同じ過ちはもう犯さない者もいる。お前達はどちらを選ぶのか?あたしはこのカウンターの中で見ているだけ」

Once, once I loved
And I gave so much love to this love you were the world to me
Once I cried
At the thought I was foolish and proud and let you say goodbye

And then one day
from my infinite sadness you came and brought me love again
Now I know
That no matter what ever befalls I’ll never let you go
I will hold you close, make you stay
Because love is the saddest thing when it goes away
Love is the saddest thing when it goes away

私は愛した
おそらく 愛しすぎたんだ
自分自身が苦しむとわかった時
絶望するとわかったとき
私は泣いた
すると 終わりのない悲しみの底から
あなたが現れたんだ
あなたの中に
私は生きる理由を見出して
平和に愛する理由を見つけた
もう悲しまなくてもよくなった
壊れた愛ほど悲しいものは
この世にはないのだから
愛の終わりほど悲しいものは
この世にはないのだから


「記憶は消せない。過去にするだけさ」
「へえ、恋次郎もいいことを言えるようになったじゃないか」
「これでも、ママの説教を聞いて成長しているんだよ」
 今度はあたしが肩を竦める番だった。
「ハード・ボイルドな会話ね。ねぇママ。私にもカクテルを作ってもらえる?」
「お安い御用さ」
 パルフェタムール、プリマス・ジン、ブルーベリーリキュール、レモン果汁を15mlづつ、シェーカーに入れてシェイクした。
 きっちり二杯。恋次郎の分は、オールド・ファッションド・グラス、エムの分はカクテル・グラスに注いだ。
「暁の空のイメージで作ってみたよ」

 二人は、一息にグラスを空けた。
「夜と朝の境界線、求めるのは朝か?夜の続きか?」
 恋次郎は空のグラスを置いた。
「最初にポワ〜と甘味が広がったと思ったのに、後味がさっぱりしたカクテル、理想的な恋の味かしら」
 エムがグラスを掲げて微笑んだ。
「カクテルの名前は、そうね、午前4時はどうかしら?」

 暁の空に、朝陽を求めるか、夜の延長を求めるかは、その時の状況で人それぞれ違っている筈だ。エムが求めるのは新しい朝か、それとも夜の延長か、次に彼女がここの扉を開いた時には分かるだろう。
 今宵の最後の曲は、美羽希の曲、

♪ 午前4時

 ここは、
 Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「朝夢と言うハンネの女は、私の理想の女…なの。朝、起きる前の刹那に見る夢。覚えていられるか…忘れてしまうか…どちらになるか分からないスレスレの刹那な夢、それが私」
 と言って朝夢はコロナビールにライムを搾り口にした。

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)
 マリアのピアノは、その瞬間を映す。

 朝夢は常連客の恋次郎が初めて連れて来た女性だった。
 恋次郎はいつものバーボン・ソーダを喉に放り込んだ。
「ふうん、あたしとしたことが、朝夢ちゃんのことだけは読めないよ、不思議な女性だね」
「ママ、嬉しいわ、普通のおばさんだと思われなくてよかった」
「朝夢は僕に、一年一度だけ海を用意してくれるんだ」
「海かい、いいね。ここらは海のない街だからね」
「私はずっと横浜で生活しているから、海はいつも傍にあるの」
「僕は、静かな浜辺で白波をボ〜として視ているのが好きなんだ」
「だから、恋次郎のように海を視たいと思ってサンダル引っかけて外に出ても海が視れない人のことをあまり考えたことがなかったわ」
「年に一度だけ会うなんてロマンチックだね」
 とあたしが微笑むと
「恋次郎が紳士だから、成立する関係なんです」
 と朝夢が答えた。
「ちょい悪遊び人風の恋次郎を紳士だという女性はこれで何人目だろう」
 恋次郎は肩を竦めて見せた。
「ママ、一年という時間は短いかしら?」
「気がつけば、あっという間に過ぎていた時間…」
 と朝夢の問いにあたしは答えた。
「一年に一度しか会わないと色々な変化が見えるものだね」
 と恋次郎は答えてグラスを振る。
「そういうこと、私達は常に変化してる。でも生きて行くことが忙しくて認識していないのね」
「なるほどね…朝夢ちゃんだったね?面白いことを言う」とあたしは感心した。「そんな二人がどうやって出会ったんだい?」
「出会いはもう、遠い昔だね、あのサイトはもう閉鎖されてしまったし」
「そうね、好きな音楽をテーマにしてレビューを上げたりして皆に共感を求めたり、仲の良い人達だけ入れるルームを作ったりして、日記を書いてアップして」
「僕は朝夢の日記を毎日、楽しみにしていたなぁ」

「私達、サイトで出会って一年間はサイトの中だけでお話するだけだったね」
 朝夢が恋次郎に視線を向けた。
「僕は、朝夢の日記を読むのが楽しみだったなぁ…」
「何が惹き付けたんだい?」
「小さな発見…何気ない生活の中で、朝夢の日記に書かれている小さな発見が見逃していたモノ…時間の流れを教えてくれたと思った」
「そんな風に見てくれているんだろうって感じていたよ、恋次郎は。1年たって、私がサイトを抜けるって言うと恋次郎は急に慌てたね」
「サイトの中で、はぐれたらもう、繋がらない…朝夢が幻になってしまうから」
「ふ〜ん、サイトって儚いのだね」
 あたしは腕を組ながら頷く。
「だから、私達は暗号を交わしながらサイトの監視をかいくぐり、メアドの交換に成功」
「初めてのメールが届いた時、朝夢がとても近くに感じたなぁ…」
「そうね、メールだけでも違うものね」
「僕は、朝夢を失うと思った時、うろたえたよ」
「大げさね…でも、そう、あの時は必死に私を引き留めようとしていたね。でも私はあの時、恋次郎と触れ合うのにあのサイトはもう必要ないと感じたの、かえってもどかしいと」
「そして…初めてのメールが届いた時、朝夢は、これで繋がったと言った」

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)

 不思議な関係を築いた二人だと思った。そんなことを考えていると朝夢はあたしの心を見透かしたように微笑んだ。
「友達以上、恋人未満」
「えっ?」
 恋次郎がキョトンとした顔を朝夢に向けた。
「ママが私達の関係を詮索していたから」
 あたしは苦笑するしかなかった。まるで朝夢はあたしの分身で実在しない存在ではないのかと感じてしまった。
「心がね、重なった。恋次郎とサイトで知り合った時に、心が重なることが分かったの。友達では分かり合えない男と女だから共感出来た想いがあったと思う。だからといって身を焦がすような恋じゃない」
「愛を失くして、僕らは彷徨っていた」
「夜と朝の間、暁の手前の境界線で立ち止まっていたのね、私達。夜に戻るか、朝陽を視るか」
「そうか、境界線にいたのか、僕らは」
「そう、そんな時に恋次郎がくれたものが二つ」
 朝夢がコロナビールを飲み干した。
「ねぇ、恋次郎、今日の海はどうだった?」
「ママ、SAUDADE(サウダージ)を二つ」
 SAUDADEはあたしのオリジナル・カクテルだ。あたしはカウンターにカサーシャ51、ライムジュース、グラナデンシロップを並べた。それぞれの材料を二人分、氷ごとジューサーでミキシングした。
 オールド・ファッションド・グラスに注いだかき氷のカクテルには小さなスプーンを添えた。
「わあ、綺麗な赤色。まるで夕陽のようね」
「愛が消えて逝くのを朝夢は夕陽に喩えたことがあった」
「失くしたモノを想うような感覚…それをブラジル語でSAUDADEというと恋次郎が教えてくれたの、そして、このカクテルを私に捧げると言った。私がもらった二つのもの、それがSAUDADEという言葉と、このカクテル」
 朝夢がグラスを傾ける。

「あぁ…何か懐かしい味…失くしたモノを想うSAUDADE」

♪ Chega de Saudade
 曲が変わった。ジョアン・ジルベルトの代表作のボサ・ノヴァをマリアはJAZZ風にアレンジしていた。

 ブラジルのピンガと呼ばれる国民酒のカサーシャ51はラム酒と同じサトウキビから作る。
 サトウキビの搾り汁を加水しないで蒸留するから蒸留しきれず雑味が残るらしい。よくは分からないが透明になりきれない酒。

「透明になりきれないお酒…若かった頃には戻れない大人になってしまった私達にはぴったり。これを教えてくれた恋次郎に私は逢いたいと想ったの」
「どうだい、これがママのオリジナルだよ。僕が海を見せてくれたお礼にと作って渡したまがい物ではないSAUDADEさ」
「同じよ、あなたが作ってくれた想いが詰まったSAUDADEと」
 恋次郎がホッとしたように優しく笑った。

♪ Chega de Saudade

「初めて会った時、朝夢はまだ既婚者だった。『家族の了解をちゃんともらって来たのよ』って笑った」
「ちょうど、家と家との間、真ん中辺のお互いに何も知らない街…で待ち合わせしたわね」
「考えてみたら凄いよね、顔も知らない同志で、知らない街で逢うなんて」
「どちらも平等だから良かったんだと思う」
「僕は、怖いから三〇分くらい早く行って回りをチェックしていたのに朝夢はもっと早く来ていたね」
「一応、か弱い女…ですから、年がいっていてもね。初めて会った時、あなたは私のイメージ通りの紳士だったわ」
 SAUDADEの氷を美味しそうに口に含みながら朝夢は笑う。
「僕は、紳士かい?」
 と、恋次郎があたしに顔を向ける。
「さぁ、あたしはここでのあんたしか知らないからね…ここでは紳士さ」
「言葉は正直なものよ、あなたの言葉の節々や行間にある想い…が私にはちゃんと見えた…」
「言葉は嘘をつく…」
「そうね、言語だけ見ればね…でも想いは嘘をつけない、それが見えるのが朝夢…それが表現出来るのが朝夢…それが私の理想の姿のはずだった…」
 朝夢はSAUDADEに想いを探すような遠い目をした。

♪ Chega de Saudade

「一年たって、二度目に逢った時、朝夢は離婚したばかりだったね…」
「下の娘が高校を卒業したら別れると決めていたから」
「それをホントに実行した、サイトで知り合った他の男と結婚すると言って」
「でも当てが外れてしまったわ」
「ママ、断っておくけど結婚すると言ったのは決して僕ではないからね」
「そうなのかい?」
 分かっていた。恋次郎は出来ない約束をする男ではない。あたしはその時、何かを感じた。マリアも同じだったのだろう。迷う様に曲が変わった。

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)

「サイトで恋次郎よりも前に知り合った人がいたの。心で会話が出来る恋次郎とは違った脆(もろ)さを持った人。私を必要としていた。幻想の中でしか生きられない人」
「サイトの中では、吟遊詩人のようなクールさを持って人気があったね」
「私はそれがホントの姿ではないことに気がついた。支えないといけないと思った。それに離婚して生活するのに、おばさんの私一人では心細いというのも本音にはあったわ」
 朝夢は悪戯っぽく笑ってみせた。
「僕は君が幸せになれるなら」
「ホッとしたのかい?恋次郎は」
 あたしの言葉に恋次郎は目を伏せた。
「彼は、リアルな私を受け留められなかったわ。幻想の中でしか男でいられない人だった。私は彼と夜明けの浜辺を歩きたいと思っていたのに。たったそれだけの夢も見ることが出来なかった」

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)

「彼と再婚出来ない朝夢に恋次郎は生活の援助をすると言ったのだろう?」
「ママは全てお見通しだね、なぜ分かるんだい?」
「色んな愚か者を視てきたからね」
「女は母親になる生物よ、強いのよ、だから何とか生きられると私は言ったわ。生きるのにどうしようもない状態になったらその時は助けてと恋次郎にはお願いした」
「それから二度の夏かな?海を見せてもらった」
「朝夢が用意してくれた海を視て癒される恋次郎の横顔、それを視て朝夢は満足する、そんな風に時を過ごして来たんだね?二人は。恋次郎の心の渇きを癒すのに朝夢は必要な人だったんだね」
「ママ、私は恋次郎に必要とされなければ生きることを見失っていたかも知れない」
「そうだね、お前達は午前4時の境界線で動けないでいたんだね」
「夜と朝の間の境界線、夜に戻るか、朝陽を視るかの刹那な瞬間か・・・」
 二人は溶けかかっていたSAUDADEを飲み干した。

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)

「また一年たった、時間は流れていてまた変化する」
 と言って、朝夢が身支度を始めた。
「そうだね、朝夢はまた変化があったのかな?」
「ママは全てお見通しね、実は私、、春に結婚したの」
「えっ!?」
 恋次郎は思わず声を上げた。
「幻想の人ではないわ。現実(リアル)に生きている人、驚いた?ショック?」
 言葉を探している恋次郎を視てあたしはさっき感じた何かが見えた気がした。
「ホッとしたよ」
「恋次郎なら、そう言って喜んでくれると思ったわ。だけど、私達は今でも同じ。また、来年、あなたに海を用意するわ。実は素敵な入り江を見つけたの」
「そうか、来年の楽しみにとっておこう。帰らなきゃ、君を待っている人がいるのだから」
「大丈夫、一人で帰れるわ。大人なんだから」
「朝夢、朝に見る夢から、浅き夢見しの浅夢に名前を変えたらどうだい?」
「あさきゆめみじ ゑひもせず (浅き夢見じ酔ひもせず)もう浅はかな夢など見るまい、もう酔ったりもしない、の浅夢かぁ、素敵な名前。ありがとう、恋次郎」

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で)

 五つのカウンター席には恋次郎が一人、バーボン・ソーダを飲んでいた。
「お前はまだ、夜と朝の境界線の上にいる」
「そうだね。僕だけ動けないでいるみたいだ」
「お前が触れた女達が、お前を紳士だというのは」
「夜にもなれず、朝にもなれない境界線の上にいるからさ。善と悪の間か?北上したアイを追い駆けず、エムには過去から引っ張り上げるだけ。浅夢との距離も縮めようともしなかった、それが、僕が紳士と呼ばれる所以」
「勇気と無謀は違う」
「暁の手前にある境界線、真夜中に吹く風を求めることが正しいのか、朝焼けの陽射しの温もりを求めることが正しいのか?」
「それは誰にも決められない、それが恋次郎の優しさなんだと思うよ」
 あたしがさっき何かが見えたと言ったのは、朝と夜の境界線に立つ恋次郎の背中だった。

♪ Worrisome Heart(夜と朝の間で) 

 ここは、
 Foolという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 スコープの中に浮かび上がる標的。目の中に飛び込んで来るような感覚。
 太宰ミキオは躊躇わずトリガーを絞る。わずかな反動。
 エアーライフルのシリンダー内の圧縮したエアーが鉛の弾丸を弾き出す。
 スコープの中の標的は動いていない。
 打った瞬間にスコープの中の標的がぶれるようでは0.5ミリの十点圏は狙えない。

 距離は10メートル。標的の大きさは、直径45.5ミリから一点圏が始まり、30.5ミリの四点圏から黒く塗り潰されている。
 太宰はエアーライフルを台座へ置き、静かに息を吐き出した。左隅に据え付けられた望遠鏡を覗き込む。十点圏をぶち抜いていた。
 太宰は唇に浮かびそうになる微笑を抑える。このゲームはまだ中盤だ。喜ぶのはまだ早い。標的は全部で二十個。二百点満点で点を競う。残りは七発。ここまでは、九点が四発、残りは全て十点だ。
 太宰の体に緊張が走る。太宰はライフルのサイドレバーを引き弾丸を込める。大きく息を吸い込み、ライフルを構える。息を止めた。
 スコープ、標的・・・
 だめだ、合わない。標的がぶれている。黒い丸がくっきりしない。角度がずれている。わずかなずれ、数字にすれば0.13度の角度のずれで一点圏にさえ入らない。
 太宰は一度ライフルを外し、息を吐き出した。
 捨ててはいけない。納得できるまでトリガーに触れてはだめだ。
 ライフルを構える。
 スコープ、標的・・・だめだ、標的がぶれている。かすかな苛立ち。無意識に指がトリガーに触れた。
 暴発。
 スコープの中で標的が大きく揺れた。僕は目を閉じ、息を吐き出した。
 七点。初歩的なミスを犯してしまった。わずか一点で順位は大きく変動するものだ。しかし諦めるのはまだ早い。まだ残りがある。残りの六発でこのミスを取り戻せばいいと自分に言い聞かせた。
 ライフルに弾丸を込め、構える。 息を止める。プレッシャーと緊張が体の中を走る。心臓の鼓動が耳の奥で響く。
 意識が遠ざかっていくような感覚。目だけが異様に冴えて来る。この空間には太宰と標的だけしかいない。
 スコープ、視線、標的。
“来た”
 と太宰は思った。標的が目の中に飛び込んで来るような感覚。
 トリガー。圧縮されたエアーが解放された。スコープの中の標的は固定されている。
 意識が浮上して来る。太宰は静かに息を吐き出した。
 十点。
 太宰の唇に不敵な微笑が戻る。次だ。周りの音が遠ざかる。スコープ、標的、トリガー。確かな手応えを感じた。
 最後の一発になった。
 太宰の中に凶暴なものが騒いでいる。それと同時にそれを抑える別の感覚もある。冷たい、凍てついた感覚だ。機械的に標的を打ち抜く、殺伐とした虚無な感覚。これが戦場の兵士の感覚なのかも知れない。太宰は躊躇わず、ライフルのトリガーを弾いた。

 太宰は標的を持って射撃場のロビーに戻った。
 雪乃があくびをして待っていた。戻って来た太宰を見て雪乃が手を振る。
「ミキオ、どうだった?」
 太宰は標的を雪子に渡した。
「すごーい。みんな当たってるじゃない。こういうことだけはいつもすごいよね、ミキオは」
 太宰は百九三点だと言おうとしてやめた。雪乃は四点圏の黒い部分に弾が当たっていればそれだけですごいと思う女だ。暴発したあの一発がなければこの店のベスト三位に入れただろう。この成績ではぎりぎり十位内に入れたくらいだと太宰は舌打ちしたいのを堪えた。
 エアーライフル射撃場を出ると憂鬱な時間が始まる。太宰が充実していられるのはスコープの中に標的をとらえた時だけだ。
 太宰たちはファミレスで食事をした。雪乃のクラブの仕事まで一時間くらい時間があった。太宰たちは最近通い始めたBARに向かうことにした。

 ※     ※     ※

「真夏の夕暮れに風が吹き、昼間の熱い陽射しを思い出すような感覚、それをブラジルでSAUDADE(サウダージ)って言うそうだよ」
 と言ってあたしが作ったカクテル“SAUDADE”を必ず最初に注文する雪乃とミキオは今夜も店を開けると同時にやって来た。
 ブラジルのピンガと呼ばれるカサーシャ51はラムと同じようにサトウキビから作る蒸留酒だが、ラムほど精錬されてなくて雑味が残っていて人間くさい。あたしはそんなカサーシャ51とライムジュースに真っ赤なグレナデンシロップを少々、それを氷ごとジューサーでミキシング。まるで大人のかき氷だ。

「沈む夕陽みたいな色ね、ママ」
「そうかい?SAUDADE、気に入ってくれて嬉しいよ」
 雪乃とミキオは、グラスを合わせる。
「うん、美味しいね、雪乃」
 と、いつも口数が少ないミキオも思わず言葉にするくらい美味しい。あたしのオリジナル・カクテルだ。
「SAUDADE…まるでミキオが私を想うような言葉・・・よね?」
「えっ?」って顔で彼女を見るミキオを小突いている雪乃。
 微笑ましいカップルだ。

「もう、秋だというのにお熱いこと」
 あたしが冷やかす。それも二人にとっては嬉しい言葉になる。
 二人は最初の一杯だけSAUDADEを飲む。
 その後は焼酎の烏龍茶割。
「カクテルばかり飲んでいられるほどリッチじゃないからね、私達。私とミキオは同棲していて、ミキオは昼間のアルバイト、私は夜、これからクラブでお仕事。生きていくためにね」
 雪乃がミキオと一緒に出かけられるのは夕方から午後八時くらいまでらしい。ミキオはひょろひょろとしていて力仕事は出来ないタイプだ。そうなるとアルバイトでは雪乃の夜の稼ぎの方が多いのだろう。だからミキオは雪乃に合わせて焼酎しか飲まない。本当はウィスキーが好きだと漏らしたことがある。優しい男、それがミキオだ。

 ピアノの音・・・♪  Summertime

 マリアのピアノはどこか気だるく、悲しい。
 この曲は子守り歌だとミキオが雪乃に教えていた。
 貧しいアフリカ系アメリカ人の女が赤ん坊を抱いて
『いつか、良いことがある・・・パパとママがいつも傍にいるから、だから泣かないで』
 と言った子守り歌なんだと雪乃に説明していた。でもそれを聞いているのかいないのか、そんな優しいだけが取り柄のミキオに退屈そうな顔をする雪乃。
 ミキオはどちらかと言うと物知りだ。何故、雪乃のヒモのような生活をしているのかあたしには分からない。

「雪乃ちゃんは、これから仕事だろ?」
 あたしがグラスの汗を拭いながら聞いた。
「ええ、ママ。今夜も酔っ払いの相手をしなくっちゃ。ねぇママ、聞いて。昨夜の客がスケベ男でね、鬼畜って奴」
「鬼畜かい?」
「そうなのよ、自分で俺って鬼畜なんだよって言うのよ。それでね、今まで必ず複数の女と付き合ってきて、一人の女じゃ我慢出来ないって、今までの女遍歴をダラダラ話すわけ。ゴミのように捨てていった女の話を」
「嫌な奴だね」
「最後はモテない男は嫌いだろう?だって」
「なんか昔、そんな歌があったね」
「モテない男は、いつまでたってもモテない・・・か」
 雪乃はミキオの顔を覗き込む。
「僕は、モテるよ・・・だって、僕は雪乃の彼氏だろう?」
「そうだよね、こんな可愛い彼女がいるものね」
 とあたしに冷やかさられて雪乃は柄にもなく真っ赤になった。

♪  Summertime

 いつか、良いことがある・・・二人のために信じてみたくなる。
「じゃミキオ、こんな可愛い彼女がいるって自慢にしなさいよ」
 ミキオは黙ってグラスを掲げる。雪乃が楽しそうに笑っている。
「ねぇ…ママ。ウィスキーのボトルを入れて」
「いいのかい?」
「うん、でも一番安いのね」
 ミキオはフォア ローゼスを選んだ。四つのバラが綺麗なボトルだ。
「ネームタグにはあなたの名前を入れるのよ、ミキオ、さあ書いて」
「いいのかい、雪乃」
「いいの!」
 ミキオはネームタグにペンを入れた。
“太宰”
 と苗字を入れたのを見て雪乃は勘定を済ませた。

「じゃあ私はお客さんと同伴があるから先に行くね」
「それって・・・鬼畜とかい?」
 ミキオが不安そうな顔をする。
「違うわよ、もっと大人しいお客さん」
 と、雪乃はごまかしたが多分、嘘だ。
「わかった。行ってらっしゃい、雪乃」
 ミキオが優しく微笑む。ミキオも嘘に気付いている。雪乃の背中を見送るミキオの目が悲しい。

♪  Summertime

 雪乃は鬼畜な奴と同伴なのだろう。妙な気配を雪乃はいつも垣間見見せる。ミキオに追及させたいと思うのに、何も言わないミキオへのもどかしさからなのか。嘘をついた雪乃の背中になぜかこの曲が重い。子守り歌が何かを眠らせようとしているのだろうか・・・

 ミキオは、フォア ローゼスに掛けられたネームタグを指で持て遊びながら大好きなバーボンを飲んだ。
「ママも何か飲んで下さい」
「ありがとう。同じものを頂くわ」
「ママはもう、気付いているでしょう?」
 あたしは黙って自分のグラスを作る。
「雪乃の嘘をママなら気付いたはず・・・雪乃は鬼畜と飲みに行ったのです」
「仕事だろう?同伴は。ミキオは分かっているから黙っていたのだろう?」
 と言ってあたしはミキオの目を視ながらグラスを合わせた。
「雪乃は危険な男が好きなのですよ・・・いつも、そういう男に惹かれてついて行く・・・そして傷ついて帰って来る」
「嫉妬しているんだね、あんたも」
 ミキオはグラスを傾ける。
「もう、何度も同じようなことを繰り返しています。僕が不甲斐ないから」
「それじゃ何故、雪乃ちゃんはあんたに惚れたのだろうね」

♪  Summertime

 ミキオが、口を開こうとした瞬間、マリアのピアノが流れて来た。
 ミキオの中にいるものを眠らせようとするかのように。
「僕の危険な匂いを雪乃は本能で嗅ぎ分けているのでしょう?自分でも気づかずに」
 あたしは黙ってミキオの目を視る。
「僕は、犯罪者なんです」
 ミキオは、あたしの視線を受け止めきれずに目を逸らした。
「ママはそれさえ気づいていたんだね?」
「まさか、そこまで私だって分からないよ。ただ、ミキオが大人しくて優しいだけの男じゃないと感じただけ」
「かなわないなぁ。ママには」
 ミキオは、ピアノの音に心を預ける。
『眠らせよう、僕の中のものを』
 と言うかのようにミキオはグラスを呷った。

カシャ
 氷とグラスが触れる音。

「僕らはまた流れて行くのだと思います。雪乃の浮気癖と僕の過去が同じ場所に長く留まることを許さないから」
「愚か者だね、あんた達もさ」
「だから・・・この店に引き込まれてしまったのかな?」
「この店の宿命かね・・・愚か者たちが迷い込んで来るのは」

♪  Summertime

「今夜、雪乃は帰って来ない・・・店が終わった後、アフターで飲みに行ったとか言い分けするんだと思います。そんな夜、僕はシチューを煮込むのです。ゆっくりと、じっくりと・・・」
「いろんな想いを放り込んでかい?」
「うまいことを言うなぁママは」
「それで、いいのかい?」
「えっ?」
「前に踏み出さないでいいのかい、流れて行くだけで」
 ミキオは、返す言葉を探している・・・でも何も言わなかった。

♪  Summertime
 ♪♪ いつか、いいことがある。だからおやすみ・・・

 ミキオはそんなことなど考えていない・・・ミキオはグラスを呷る。
 何を飲み込もうとしているのか・・・

※     ※     ※
  
 太宰ミキオはアパートに帰らない雪乃を待ちながら、昼間は大好きなエアーライフルの射撃場に通い、夜はシチューを煮込んでいた。鍋の中に何もかもを放り込むかのように。
「いろんな想いを放り込んでかい?」
 先日のユウコの声が蘇った。でも完全に溶けてしまうものなど有る筈がないと太宰は思う。
 夕方になってアパートの扉が開いた。雪乃がいた。
「おかえり、雪乃。温かいシチューを作っておいたよ」
 咄嗟にいつもと同じ言葉を太宰は投げていた。
 雪乃の顔が見る見るうちに曇っていくのがわかった。そして、雪乃は何も言わず、扉を開けて飛び出した。扉が音を立てて閉まった。太宰は静かに息をついた。何を言えばよかったのか、何か別のことを言わなければいけないことは分かっていたのに、太宰は何も出来ずに唇を噛んだ。

 ※     ※     ※

 カウベルが鳴った。
 三日振りに雪乃が現れた。雪乃は扉を開けて入るなり
「飲ませて、ママ!強いお酒を」
 と言ってスツールで泣き伏せていた。
 あたしはミキオのウィスキーを出してオン・ザ・ロックを作った。
 雪乃はグラスを飲み干した。
「お代わりを下さい」
「無理して飲むのはよくないよ」
「息が詰まるの、ママ、優しいだけのミキオに」
「何があったのだい?」
「私・・・三日振りにミキオのところに帰ったの・・・ミキオは私に『お帰り、雪乃。暖かいシチューを作っておいたよ』って言うのよ!」

♪ ピアノ
♪ Summertime

 雪乃の中の何かが眠ろうとするように、ピアノの音に堕ちてゆく。
「私が他の男と一緒にいたことなど分かっているくせに」
「そういう愛し方しか出来ない男なんだね、ミキオは・・・それが悲しいかい?雪乃は・・・」
 と言ってあたしは雪乃の悲しい目を見つめた。
「何故、悲しいの?ママ。私・・・何故、悲しいの?」
「・・・女・・・だからかな」
「優しいだけの男なんて・・・馬鹿よ」
「お互い、傷口が開いたままにして、傷を見ないで自然に治るのを待っていちゃダメだよ」
「だけど、ミキオは私に心を開かない・・・ミキオの過去に何かあったことくらい、いつも一緒に居たら分かるわ」
「それが悲しくて、ミキオを裏切って、ミキオを傷つけるつもりが自分を傷つけるだけ。お前は聞いたのかい?」
「えっ?」
「ミキオが抱えている過去を。受け止めるために、ちゃんと聞いたのかい?」
「お前達二人は一度、良く眠って、目覚めたらゼロからやり直すか考える時なんだよ」
 
 そのための
♪ Summertime
 なのか・・・マリアの意図が分かった気がした。

 カウベルが鳴った。ミキオが立っていた。

「マリアのピアノは何かを眠らせて、忘れる振りをさせるためではなくて」
 静かにミキオが近づいて来る。
「ちゃんと立ち上がれるようにぐっすり眠れってことなんだね。ママが言うように」
 ミキオの手が雪乃の手を掴んだ。
「相変わらず、物知りね、ミキオは」
「Summertimeの詩の訳を探してみただけだよ」
「帰ったら、その詩の意味を聞かせてよ」
「詩だけじゃなくて、全部、ゼロから話そう、そして開いたままの傷口を治すんだ」
 ミキオが雪乃の手を引いた、力強く。
 カウンターに二つのグラス
 真っ赤な夕陽のようなカクテル。
 SAUDADE(サウダージ)

「失くしたものを想うような気持ちがSAUDADE(サウダージ)これを飲み干したら、二人が失くしたものを掘り返してごらん」
 ミキオと雪乃はグラスを飲み干す。

「ゆっくり、おやすみ」
 と言ってあたしは優しく頷いた。

♪♪ Summertime
 ♪♪ いつか来る朝・・・
  ♪♪ あなたが歌いながら立ち上がって
♪♪ 翼を広げ、そして空を掴むでしょう
 ♪♪ だけど、そんな朝が来るまでは・・・

 ここは、FOOLという名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店・・・

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

 街は黄昏から夜に変わろうとしている。T&Sのストリート・ライヴの歌が聞こえた。

♪ ひとりじゃない

 ♪♪ひとりじゃない ひとりはいや

   どんなにどんなに泣いたって癒せないもの
   失うことで何か気づいたと思う
    
 私はエンジェル、もちろん本名ではない。探偵よ、だからコード・ネームってとこね。私があまりにもキュートだから皆がそう呼ぶの。こんなにもキュートなのにアイドルではなく何故、探偵になったのか?

 ♪♪ いつしか僕等にとって大切なものが何かって忘れはじめてる
     君がここにいるうちにちゃんと届ければ
      今頃になって気づいてどうしてこうなんだろう
       

 何か失うことで大切なものに気づくのが人生、虚構の街でさまよう愚か者達に大切なものへと導く力になるために、この街の表も裏も全て見届けたいから。私ってキュートな上に、なんて、いい子なんでしょう?
 T&Sは、ボーカルまるここと、ダンサーのaMEのユニット。私よりちょっぴり若い二人はいつも輝いている。バラードな曲は、どこか切なく、ヒップホップな曲は若さが弾けている女の子という感じが私は大好きで応援している。
 T&Sのライヴが終わった頃には、陽も暮れて夜のネオンが輝き出した。
 ハード・ボイルドな探偵の一日の終わりにはやはりBarでしょう?
 小さなビルの地下を降りるとその店はある。ドアを開けるとカウベルが鳴る。ちょっとこもったような控えめの音が私は好き。
 カウンター席だけのBarで、店の奥にはアップライトのピアノが置いてある。今夜も黒いドレスを着たマリアがピアノを弾いていた。
 そしてカウンターの中にはこの店のママ、ユウコがいて
「エンジェルいらっしゃい」
 と私を迎えてくれた。
「お疲れさま、ママ。今日も適度な翳りを漂わせてハード・ボイルドないい女・・・」
「ハード・ボイルドはエンジェルからの最高の称号だったね、ありがと」
 いつもと変わらない店の風景を打ち壊すモノが今夜はカウンターの真ん中を陣とっていた。

「よう、エンジェル。今夜も可愛いぜぇ」
 と先客が顔をねじ曲げて私に愛想笑いを浮かべた。
「あら、岸村のダンナぁ、お久しぶり!」
 私も愛嬌たっぷりで微笑み返し。嫌味がない私のキュートな笑顔に岸村はタジタジで苦笑いを浮かべるしかない。
「エンジェルの口から岸村のダンナぁと呼ばれるとあまりにもアンマッチでピンと来ないが、それが妙にいいものだなぁ」
 と言って岸村は体をずらすような真似をする。独立したスツールだから、どいたことにはならないが、気持ちは理解したというように私は微笑んだ。
「ハード・ボイルドな世界では刑事は皆、ダンナぁと呼ばれるものよ」
「嬉しいじゃないか、俺もエンジェルの世界の住人だ」
 私は顔色ひとつ変えずに岸村の隣のスツールに腰掛ける。岸村の方がそわそわしているくらいだ。
「飲むか?俺の酒?」
 岸村のボトルはヘネシー。高価なブランデーだ。
 悪徳刑事・・・と呼ばれる岸村にはお似合いのボトルだ。

「ありがとう、でも私が最初に飲むものは決まっているの。だってそれがハード・ボイルドの定番でしょう?」
「なるほどなぁ、ハード・ボイルドか」
 ユウコが私の最初の一杯のための材料をカウンターに並べる。
 チェリー・ブランデー
 コアントロー
 レモンジュース
 グレナデンシロップ
 アンゴスチュラビターズ

 ユウコは鮮やか手つきで材料を入れシェイカーを振った。カクテルグラスに注がれる液体は、真っ赤なのに透明に澄んでいる。
「お待たせ。Angel Blood (エンジェル・ブラッド)だよ」
 とユウコがカウンターにそっと置く。

「へぇ、オリジナルかい?このカクテルは」
 と岸村は横から覗き込む。
「きっと、天使の血液はこんな風に赤く澄んでいるのだろうと思ってね」
 とユウコが微笑む。
「キュートな私にぴったりのカクテルだと思わない?ダンナぁ」
「けっ、よく言うぜぇ。でもなあ、そのダンナぁって間延びした呼ばれ方されると、言い返す気力も失せるぜ」
「ねぇダンナぁ、アイドルが可愛いと言われる条件のひとつを知っているかしら?」
 岸村は暗い目を漂わせて考えている。
「目よ」私は自分の瞳を指差して続ける。「白目と黒目の比率が一対二対一なの。黒目が大きな女の子はキュートなの、私を見れば分かると思うけど」
 私は可愛い鼻をツンと上げて岸村に微笑みかける。私の必殺技の仕草のひとつ。
 岸村は素直に、ウンウンウンと頷いた。
「ダンナぁ、私にメロメロじゃない?」
「ママ、俺はどうかしているのか?この自身過剰な女の前では何も言い返せない」
 と岸村はユウコに同意を求めるような視線を送る。
「誰だってエンジェルの純粋さが眩しくなって受け入れてしまうのさ。ここに来る愚か者達は・・・昔、失くした何かをエンジェルの笑顔に探してしまうのさ」
 とユウコは目を細めて私を見つめてくれた。
 意外にも岸村の暗い顔も少し柔らかくなる。
 私はAngel Bloodを二口で飲み干した。
「美味しい・・・ママはセリフ回しから、チャーミングな顔にアンバランスな悲し気な瞳、そして・・・全体に漂う気だるさ・・・が完璧なハード・ボイルドな女になっていて、私の理想の女」
「嬉しいねぇ・・・エンジェルのようなキュートな女の子から理想の女・・・って言われるなんて、どうだい、岸村の旦那」
「ママに旦那って言われると、しっくり来るなあ、ドスが効いていて」
 岸村はグラスを呷る。
「ドスが効いているは余計だよ」
 ユウコはカクテルグラスを下げていつものようにオレンジジュースをカクテルグラスに入れて私の前に出す。
「これも、何かのカクテルかい?」
 と岸村が私とグラスを見比べる。
「ダンナぁ、これは一〇〇%のオレンジジュースよ」
 と言って私は岸村のグラスと乾杯する。
「ジュース・・・だあ?」
 咄嗟にグラスを合わせて面食らった顔をする岸村にユウコも吹き出してしまった。
「エンジェルがエンジェルと呼ばれる所以さぁ、酒浸りのエンジェルじゃ幻滅しちゃうだろ、ダンナぁ」
 とユウコが“ダンナぁ”の部分は私の声色を真似して言った。
 岸村は苦笑しながら頭を振っている。

♪ ピアノの音
♪  Angel Eyes

「エンジェル・アイズ。昔、失くしてしまったものを想い出すにはちょうどいい曲だな」
 岸村はこの曲を知っているようだ。マリアのピアノは心を映すと言われている。悪徳刑事と呼ばれた岸村でさえ、そのピアノの音に引き込まれてしまった。
「この曲は、天使のような瞳をした恋人を失くしたって歌がついていたなあ。エンジェルの瞳・・・か」
 と私の瞳を覗き込む岸村の瞳が一瞬、悲しいくらい優しかった。
 岸村は慌てて視線を逸らした。

「誰がいつからエンジェルなんて呼び出したんだ?悪くはないがな」
 岸村は鼻を鳴らす。
「まっ。探偵の私としては “エンジェル ”はニックネームではなく・・・コード・ネームってとこね」
「ホントに探偵なんてやっているのか?あの元坊主の探偵事務所だろ?」
「そうよ、七尾探偵社のエース調査員よ」
「そんな、いかにもドラマに出て来る探偵みたいな、サングラスを胸に挿して」
「うちのボスは推理小説派気取りだけど、私はハード・ボイルド派で大きく思想は違うけど、うまくやっている方よ、でも・・・」
「でも…?」
「つまらないのよ、毎日、浮気調査ばかり、それだけ!ホントにもう、退屈なのよ」
「ふん、治安国家の日本は我々警察官が日夜治安維持に勤めているからな」
「あぁ・・・イヤ。うちのボスと同じこと言っている」
「ドラマみたいな探偵の活躍する場面なんて・・・」
「ダンナぁ、意外とお喋りね、それとも、キュートな私の前で饒舌になってしまったのかしら」
 岸村はまたしても面食らったって顔をした。
「まるで親子で漫才やっているようだよ」
 とユウコがさりげなく入り、空になった岸村のグラスを満たす。
「おいおいママ、親子ほどの年の差はないぜ。まっ、兄妹ってところで妥協するか」
「そんな苦虫を噛み潰したような顔しているから老け込むのよ、ダンナぁ」
 私の最後の“ダンナぁ”に必ず岸村は耳を向ける。
「けっ、余計なお世話だぜぇ。ところで浮気調査は儲かっているのか?」
「儲かっているんじゃないかしら。つまらないけれど・・・誰も、かしこも嘘で塗り固めた虚構の街の住人だから」
「虚構の街・・・か、うまいこと言うね、エンジェル」
 とユウコが言葉を挟んだ。
「うちのボスは喜んで走り回っているけど、この世の虚構を全て剥ぎ取って、素直になろ〜うって」
 と私はダラダラと右手を上げて見せた。
「素直なのはエンジェルだぜぇ」
 と岸村が笑う。
「ダンナぁ。少しずつ笑顔が人間らしくなってきたかも知れないわね。やっぱり、キュートな私の影響ね」
 岸村はフッと息をつくように笑った。
 納得したと言うことだろう。
「今日の浮気調査なんて最低よ、人間不信になりそうなお話」
 皆の視線が私に集まる。
 いつの間にかマリアのピアノも終わっている。
「今回は、妖艶なマダムの依頼なの・・・ねぇダンナぁ、その下品な笑いは何?」
「妖艶なマダムと言われちゃなぁ・・・つい、失礼した」
「えっ?なんでそんなに素直なんだい、旦那」
 とユウコがちゃかす。
「せっかくエンジェルが話しているんだ、いいじゃないかママ」
「ダンナぁが照れているよ。珍しいこともあるものだ、ホントにあなたは天使かもね」
 とユウコは私に耳打ちして、フッと笑みをこぼした。
「マダムはうちの事務所に来るなり、『夫に女がいるようなのです。その決定的証拠を掴んで頂きたい』と言い放ったのよ」
「なんか怖そうだね」
 ユウコは震える真似をした。
「で、私は徹底的に旦那さんに貼りついて調査をしたの、コードネーム“エンジェル”大活躍ってわけ」
「ほう、よく見つからなかったな、エンジェル」
「ダンナぁ、そ、そのマジ顔は何?見つかるはずがないでしょうにぃ。私は探偵よ、プロフェッショナルな」
「ふん、で?掴んだのか?浮気の証拠を」
「そうよ!ラブホから出て来る二人の顔をバッチリ撮ってやったわよ」
「マダムは悲しんでいたかい?」
 とユウコが心配気な視線を向ける。
「いいえ、報告書を提出した時・・・ゾッとしたわ。マダムの微笑が怖いなんてものじゃなかったから」
「悲しいどころか、尻尾を掴んだって喜んでいたわけだな」
 と岸村はニヤリと笑う。
「旦那さんは婿養子だったのよ。かわいそうに」
「終わったなぁ・・・」
「ふふん、終わらないわ、悲劇は連鎖するのよ」
 と私はそこで上目使いにクールな笑みを忘れない。私の必殺技の仕草第二段。
「私はボスに完了報告をしたのよ、でもボスは、あのスキンヘッドを撫でながら言ったのよ。『まだまだですエンジェル。第二幕の始まりです・・・付いて来て下さい』とのたまったのよ」

♪ ピアノの音・・・
 懐かしいようなリズム。昔のロックかしらと私は思った。

「 Paint it, Black、黒く塗れ、という意味」
 とユウコが呟いた。ローリングストーンズの古い曲だそうだ。
「ボスは私には内緒で別の仕事を受けていたの・・・その調査の報告に出向き、その報告先の依頼人の顔を見て私は・・・口がぱっくり・・・開きそうになったから押さえたわ」
「指で唇を挟んだのかエンジェル?」
 と言って岸村は親指と人差し指で自分の唇を挟んだ。
「馬鹿じゃあないの!比喩よ!比喩的表現」
「エンジェル、岸村の旦那はからかっているだけよ」
「わ、分かっています、ママ。ちょっと、ムカついただけ」
「その依頼人はマダムの旦那だったってことかい?」
「旦那さんはマダムの浮気調査をボスに依頼していたのでは当たり前のお話。岸村のダンナぁ、それでオチがついたと思ったのかしら?」
 私は岸村の顔を覗き込み、瞳をくりっと見開く、どうよ、私の必殺技スリー。
「マダムには若い彼氏がいたのよ、イケメンな。旦那さんは勝ち誇った顔をしていたわ、婿養子だって慰謝料は取れるだって」
「しかし、怖い話しだなぁ・・・でもよ、探偵料は二重取り、坊主丸儲けだなぁ・・・」
 岸村はきっと、ボスのスキンヘッド頭を思い浮かべていると思う。

「でも、虚構の街はまだ眠らないわ」
 私は喉が渇いてオレンジジュースを飲み干した。
「ママ、エンジェルにお代わりを、俺の奢りだ」
 私は岸村の好意を素直に受ける。
「そして・・・旦那さんも不気味な笑みを残して、いざ出陣というわけ」
「どうなるのだろうね?」
 ユウコはお代わりを私の前に置きながら言った。
「綺麗に離婚するしかないだろうなぁ・・・旦那はかわいそうだがなぁ・・・失うだけで」
 岸村は同性の旦那に同情しているようだ。
「虚構の街・・・はもう少し、平等だった。それは哀しいけど・・・マダムの彼氏はマダムのお金が目当て・・・マダムが離婚したことを知って、逆に危険を感じた・・・」
「マダムも捨てられたって分けだ・・・マダムはプライドまでズタズタだな」
 岸村は吐き捨てるように言ってグラスを呷る。
「そう、嘘で塗り固めた虚構の街・・・」
「最後の結末は所長が裏を取ってきたのかい?」
「えぇ、そうよ。ママ」
「エンジェルにとことん見せたってことか、あの坊主探偵は、菩薩のような笑みを浮かべながら」
 岸村は憤慨しているようだ。
「旦那はエンジェルに大人の汚い部分を見せたくないと思っているんだよ。それでもエンジェルは探偵を続けるのかい?」
「もちろんよ、私はハード・ボイルドな探偵ですから」

♪  Paint It, Black

「この曲のように、何もかも真っ黒に塗り潰せたらいいのになぁ・・・白黒つけなくて済む」
 と言ってグラスを呷る岸村は悪徳刑事と呼ばれる男には見えなかった。

カシャ
 氷とグラスが触れる音・・・

 皆が酔いの中から浮上して来る。
 マリアのピアノは魔法のようだ。
「ねぇ。ダンナぁ・・・何故、悪徳刑事と呼ばれてまで・・・何を調べているの?」
 誰もが傷ものに触れないようにしていた問いだとは分かっていた。岸村は裏の世界と癒着してまで何かを調べている。探偵なんて稼業も表だけの世界じゃない。悪徳刑事と罵られる岸村の噂は私の耳にも聴こえている。
 岸村は答えるべきか考えあぐねていた。
 ユウコがボトルを並べた。
 カナディアン・ウィスキー
 ドライ・ベルモット
 カンパリ
 それぞれを同量ずつをミキシング・グラスでステアした。
 カクテルグラスにぴったり二杯。岸村と私の前に置く。
「オールド・パルというカクテルだよ」
「昔の仲間・・・という意味だったかな、ママ」
 と言って岸村は一息で飲み干した。
 私も一口飲む。
「仄かな苦味に微かな甘味・・・妙に悲しい味」
「俺はなぁ・・・エンジェル・・・友達(ダチ)を捜しているのだよ・・・人殺しになっちまったぁ友達をこの手であげるために俺は 警察官になったんだ・・・」
 岸村の瞳がまた暗い闇に変わった。
 私は掛ける言葉を持つほど大人じゃないことに気がついた。何も言わずオールド・パルを舐めるように飲んた。

♪ Paint It, Black

『この曲のように、何もかも真っ黒に塗り潰せたらいいのになぁ・・・白黒つけなくて済む』
 さっきの岸村の言葉が心に蘇る。

「エンジェル・・・この話しをしたのは初めてだよ。エンジェルの瞳が心にあるものを引き出してしまうようだ。今夜は少しだけ、人間に戻れた気がするよ」
 と言って岸村はスツールを降りた。
「エンジェルがエンジェルと呼ばれる所以だね」
 ユウコは岸村のいたカウンターの上を片付けながら言った。


「黒く塗り潰された街の嘘を、拭ってくれ、探偵さん」
 そう言った岸村に私は
「私に出来ることなの?」
 と聞いた。
 岸村はユウコに視線を向ける。
 そしてユウコは私に向かって頷いた。
 カウベルが鳴って、ドアの外に消える岸村の背中にマリアのピアノ。

♪ Angel Eyes

 失くした天使の瞳は岸村にはもう戻らないのだろうか・・・
 私はオールド・パルを静かに飲み干した。
「大人の味だと思ったわ、ママ」
「大人になったね、エンジェル」
 
♪ Angel Eyes

 止まってしまった時間を動かして前に進める日が来て欲しい。岸村にもこんな日がまた来て欲しいと思った。

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

「連チャンでまたここに来てしまったわ。私も愚か者達への仲間入りかしら」
 私がいつものように最初の一杯、Angel Bloodを飲み干した時、カウベルが鳴って登場したのは・・・
「What's New?」
 夏生は颯爽と手を上げて入って来た。
「エンジェル?久しぶりだね」
「って、ウインクされても引かないのはあなたのおどけた笑顔がとてもチャーミングだから。お久しぶり!ハード・ボイルドな道化師さん」
 夏生は私の左隣のスツールにかけた。
「僕は、道化師かい?」
「うん、ぴったりだね、夏生には。いつも回りを和ませてくれるから」
 と言ってユウコが夏生におしぼりを渡す。
 軽く息をつく夏生・・・何か変?
 私の二杯目はオレンジジュース、何かちょっと恥ずかしい。私は何気なくグラスを手で覆った。
「どうしたんだい?元気ないね、夏生」
 ユウコは夏生のウィスキーの水割りを用意しながら聞く。そして私に視線を向けた。
 私は微かに頷いた。さすがはユウコ、夏生の様子がいつもと違うことにすぐに気がついたようだ。
 一瞬の沈黙・・・
 救いのようにマリアのピアノ・・・

♪  What's New

 相変わらず、完璧な選曲だ。
「この曲の詩って凄く切ないんだよね?知っているかい?エンジェル」
「えっ?ごめんなさい。『ご機嫌いかが?』しか知らないです・・・」
 私はちょっと恥ずかしいという顔をした。
「別れた恋人達が再会して、『どうしていましたか?』で始まり、世間話をしてまた別れるのだけど、最後に想う言葉は、『まだあなたを愛している・・・』なんだよ」
 と言った夏生の笑顔は優しくて悲しい。

「あなたの笑顔が切ない。優しくて悲しいから、それを切ないって言うのだと想う」
 私は思ったことをそのまま言葉にしてしまった。心に浮かんだことをそのまま口にしてしまって戸惑う私っていじらしい。
「エンジェルはまるで詩人だね」
「お願い、ジョークにしないで・・・私、今日はちょっとセンチメンタル?」
 夏生に聴こえないように私はささやいた。しっかりユウコは気が付いて私に微笑みかけた。だけど夏生は全く気がつかない。

「転勤するんだよ、アメリカに」
 夏生はグラスを振って氷を鳴らす。
「夏生の会社、確か外資系でアメリカってことは栄転なんじゃなかったかい?」
 と言ってユウコがグラスを合わせる。
 私も慌ててグラスを上げる。
「ありがとう」
「そのブルーな顔は春香ちゃんにはまだ話してない・・・ってことかい?」
 とユウコが眉を寄せる。
「春香は今、恋人がいるから・・・」
「でも・・・二人は」
「そう、ママ、僕達は恋人になったことさえない・・・ただの幼なじみさ」
「でも・・・好きなんでしょう?春香さんを」
 私は慌てて口を塞いだ。「あぁ・・・なんてでしゃばりなの、私」
 私は自分の戸惑いに翻弄されていた。

「エンジェル?笑ってくれよ、大の大人が恥ずかしいよな」
 私は大きく首を振る。
「純粋なだけ・・・だよ」
 と私は呟いた。

♪  What's New

 ピアノにボリュームが付いているなら大きくして欲しい。

 そして・・・
 カウベルが鳴って春香が現れた。
「お待たせ、夏生。逢いたくて、待ちくたびれちゃったでしょう?」
 私が思わず唇を噛むほど、今夜も春香は綺麗だった。
「あら、エンジェル?久しぶり」
 私は会釈してグラスを掲げた。
「最近、毎日のように酔っ払って帰って来るらしいじゃないか?おふくろさんが心配していたぞ」
 と、夏生は春香のグラスを用意しながら言った。
「面倒くさいわね、幼なじみって。何でも筒抜けで・・・」
 春香は夏生が作った水割りを一口含んだ。
「美味しい、あなたが作る水割りはいつも美味しいわ」
 フッと笑みを返す夏生。
 唇を噛むしか出来ない私はふと視線を上げた。
 ユウコの視線とぶつかってしまった。ママの視線は私の心の中まで入ってきそう。
 きっと今の私の瞳は切なさの極み。切なさ全開の歌が聴きたいって突然想ってしまった。

「春香、俺の水割りは愛情って言うリキュールが入っているから特別なんだ」
「ねぇ、そんな歯が浮くようなことを言って恥ずかしいって感情ないの?」
 と春香は苦笑する。
「愛くるしいだろ?俺って」
「生き苦しいの!」
 と言いながらも楽しそうな春香。
 うつ向くだけの私・・・
 シェイカーの振られる音・・・で、ようやく顔を上げる私。
 ユウコがカクテルグラスに注ぐのはもちろん、

 Angel Blood

「綺麗な色ね、そのカクテル」
 春香が視線を向けた。
「Angel Blood・・・と言うカクテルよ」
 私はカクテルをかざす。自分の悲しい瞳を隠すように。
「エンジェル専用のカクテルかい?」
 と夏生。
「俺も欲しいなぁ・・・オリジナル・カクテル」
「厚かましいの!」
「えっ?愛くるしい?」
「だから、生き苦しいの!」
 二人の楽しそうな会話。
 私は唇を噛む代わりに、Angel Bloodを一息に飲み干す。
「なんていじらしいの、私!」
 なんで私、すぐに言葉にしちゃうの。そう、私は純粋だからよ。

♪  What's New

「彼氏とケンカでもして毎日、自棄酒あおっているのか?春香」
「彼氏じゃないの!前にも言ったでしょう」
「だってラヴラヴな写メ送って来ただろ?」
「会社の飲み会で勝手に撮られたから、夏生に見せて上げただけでしょう!」
「いつも食事に行っているだろ?」
「同僚達、皆でね!二人じゃないの!」
「デート相手じゃないの?」
「デートって。遊びに行ったらデートならね!じゃ、今、こうして夏生と一緒にいるのはデートじゃないの?」
「何か怒っているのか?」
「私が酔っ払って帰ることを夏生が知っているように、私にも夏生の情報は入って来るのよ!」
「まっ。幼なじみだからなぁ」
「そうよ!だから何でも知っているのよ!」
 春香はグラスを呷る。
「お代わりを作って夏生!」
 慌てて水割りを作る夏生の横顔を見て、夏生は鈍感なのだと気づいた。
 それは私にとっては、切なさのボルテージは高まるばかりってことだ。
 水割りを作って春香の前に置く夏生に一瞥をくれてグラスを呷る春香。
「美味しい!なんで夏生が作る水割りは美味しいの!」
「だからそれはさ・・・」
「私に惚れているからでしょう!」
「ああ・・・」
「反則!」
「何が?」
「さりげなく言い過ぎるの!」
「分け、わからん」

「肩を竦める夏生の間抜けさに胸がキュンとなる私って間違いなくキュートだと思わない?ママ」
 私は言葉にすることで自分らしさを取り戻そうとしているのか・・・

「私の同僚が単身でアメリカに転勤になって三年もしたら倍くらいに太って帰って来たわ!」
「なんだ?そりゃ」
「ハンバーガーのひとつとっても食べきれない量があるの!夏生のようなずぼらな人間が単身赴任したら成人病の固まりになって帰って来るだけなのよ!」
「えっ?なんでアメリカ赴任の話を知っているんだ?」
「知っているわよ、幼なじみなのだから。夏生のお母さんが心配して私に相談するのよ」
「そうだったのか?なんだ、知っていたか・・・」
 私とユウコも呆れて頭を振っている。
「それでだ、話を戻すと・・・え〜と・・・お前が酔っ払いになって俺にからむのは・・・」
「アメリカ赴任の話をいつまでたっても私に言わないから!」
「えっ?そうなん?なんで?」

「馬鹿じゃあないの!」
 と私と春香が同時に叫んだ。
 タジタジの夏生がチャーミングで私の切なさのボルテージはレッドゾーンに突入した。
「私が夏生の食生活の管理をしなきゃダメってことよ!」
 とうとう春香に言わせてしまった。
 夏生は呆然とたたずむだけ。
「それって・・・もしかして」
「春香さんは夏生が好きなの!馬鹿ね、ハード・ボイルドな道化師さん!」
 私は我慢出来ずに言ってしまった。
「エンジェル・・・あなたは・・・」
 春香の視線に私は目を合わせない。
 春香に気づかれた、私の夏生への淡い想い。
 私の切なさのボルテージはレッドゾーンを振り切った。
 夏生が振り返る。
 春香が来てから初めて私を見た。

「ずっといたのに、私のことなど見向きもしなかったのに、今更、私を見ないで。助けて!誰か・・・」
 私の心が叫んでいた。

♪ ピアノ。
 切ない旋律から始まり、ドーンと
 
♪  Silent Jealousy

 愛切なメロディを刻むロック・スピリッツが胸に響く

「あっこの曲、懐かしい、X Japanだ」
 と夏生。
「ありがとう、マリアさん」
 と春香が呟くのが聴こえた。
「行くわよ、道化師失格ね」
 と言って、春香は夏生の襟を後ろから掴んだ。
 ひょい と立ち上がる夏生。
 春香の優しさが痛い。
 私は唇を噛むだけ。春香はそれで分かってくれたはず。

♪ Silent Jealousy

 愛切なロック・スピリッツが胸に響く夜だ。
 カウベルが鳴って二人はドアの外に消えた。
 ユウコは、ドライジン、スロージン、フレッシュライムジュースそれぞれ20mlをシェイクした。それを氷を入れたロング・グラスに入れ、トニック・ウォーターでグラスアップ。

「LOST・・・」
 私は一口飲む。
 酸味の中に仄かな苦味と微かな甘味・・・
「なんてシャープな味。切なさの味覚。きっと、こんな味なんだ。ねぇ・・・ママ、ジェラシーって悲しくて苦しくて・・・悔しいね、でも・・・」
「でも?」
「でも・・・あの二人・・・いい!悲しいくらい絵になっているよ」
「エンジェル?大人になったね」

♪  Silent Jealousy

「今夜、涙をこらえると肩が震えるんだって、私・・・気がついたの」
 私は、“LOST・・・” を傾ける。
「効くぅ・・・まるでロック・スピリッツみたいなカクテル。これが、大人の味!って、わけね」

 すると、曲が戻った。

♪  What's New
 
 切ない恋心を心に秘めて、さり気ない会話が出来る大人な女になりたい。マリアはそんな女になりなさいと私にこの曲を弾いてくれているに違いない。マリアのピアノは心を映す。

   ♪♪それじゃあ、さよなら
    ♪♪あれこれ聞いてごめんなさい
     ♪♪もちろん、あなたは知るわけもないけど
      ♪♪私が今でもあなたを愛しているなんて

 ジャズが似合う女、私ってやっぱりハード・ボイルドな女。
 私は、Lostを飲み干した。

 カウベルが鳴った。
「誰かが来たわ。いけない!こんなセンチメンタルな私を見ないで!」

「よう、エンジェル…黄昏ている場合じゃないぜぇ」
「げっ、純爺…」
 ヒョコヒョコと歩いて私の隣のスツールに飛び乗るように純爺が腰掛けた。
「街中の愚か者が騒いでいるぜぇ」
「何があったんだい?」
 ユウコは怪訝な顔をする。
 純爺が飲むのはいつも泡盛だ。
“龍”ってボトル、が用意された。渋過ぎる純爺。

「渋い、ボトル!それよりもさっきのセリフ・・・街中の愚か者が騒いでいるって!?純爺、なんてハード・ボイルドな展開なの!」
 純爺は私を見てニヤリと笑う。
 純爺は古本屋をやっている。でも、それは表向き、純爺は、なんと!ハード・ボイルドには欠かせない、“情報屋”なのだ。
「エンジェル、もういいのか?黄昏の乙女の演技は?」
「それを引き摺りながらもクールに生きるのがハード・ボイルドな女・・・なのよ」
「妙な野郎が街に紛れ込んで来たんだ」
 純爺は定番な演技で息を潜める。
 ユウコと私が耳を傾ける。
 マリアまでもがスツールに腰掛けた。
「マラエ・ランガを探しているんだ、マラエ・ランガのピアニストを知らないかと」
 ユウコもマリアにも緊張が走る。
「ママもマリアさんもどうしたの!これはただ事ではない!でも、私、分からない。ねぇ・・・マラエ・ランガって何?」
「太平洋に沈んだ伝説の楽園の名前だ、わしの古本屋に来い、エンジェル、詳しい本が揃っておるよ」
「純爺!この緊張感を台無しにしちゃう気なの?楽園伝説じゃハード・ボイルドにならないでしょうに!」

「この街にあった、マラエ・ランガなら・・・」
 ユウコがソロリと言葉を挟んだ。そして続ける。
「欲望という名の海に沈んだよ」
 と言った。

「ハード・ボイルドだわ、ママ。全身からハード・ボイルドなオーラが解き放っているわ!完璧な女」

 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店。
 ここは、Fool という名のBar
 愚か者が静かに酔い潰れるための店
 今宵もまた一人、愚か者が紛れ込んで来る。

「捜しているのはピアニスト・・・私、ということ?純爺」
 マリアは表情一つ変えないで純爺を見た。
 マリアの左手の薬指は動かないという。
 好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして素手で刃を握ってしまった女。それ以来、マリアの左手の薬指は動かない。肝が座っているのか?人生を投げているのか?さすが、この店に流れて来るだけのことはある女だと思う。ハード・ボイルドさではユウコに並ぶ。
「私が、マラエ・ランガと呼ばれていたこの店に流れついたことは業界では意外と知られた話よ」
「天才ピアニスト・・・と呼ばれたマリアだからね」
 ユウコが頷いた。
「しかし、マラエ・ランガと呼ばれたのは一〇数年も前じゃ、ということはその男の時間が一〇数年止まっているってことだ」
「そういうことだね、純爺・・・」
「店の名を変えたのはバーテンダーの冬木が抗争事件を起こして無期懲役に行ったからだったなぁ・・・ママよ」
「この辺一帯の地上げに泣かされて、もうおしまいだと考えた時、冬木は動いた。陣野の制止に耳を貸さずに」
「一人で殴り込んだ、陣野の敵対組織の出先機関である地上げ屋事務所にのう」
 陣野とは、この街を牛耳る昔気質の筋者、陣野組組長のことだろう。陣野は街の中心にあるタワービルの最上階に住んでいると言われるこの街の顔役だ。黒いシャツに黒いスーツ、黒地のネクタイに真っ赤なバラの花が一輪だけ。どこから誰が見ても筋者という格好をしている。
「漁夫の利を得ただけでさあ、冬木にやるべきことを横から掠られてしまった外道だと、陣野はこの街の顔役とまで呼ばれる男になっても、筋者だという自分の愚かさを忘れてはならないと全身黒づくめの服を来て人生を憂いでおるよ」
「愚か者さ、冬木も。だから・・・あたしは」
「Fool という名のBarと名前を変えて、愚か者を待っている分けじゃ」

 ハード・ボイルドな会話がさり気無く飛び交っている。
「なんてハード・ボイルドなの、この展開は」
 バーテンダーの冬木、噂は聞いたことがある。昔、ママに拾われた元筋者だったという男。ずっとこの店を、いいえ、ユウコを支え守って来た男。
「あたしはエンジェルが心配になって来たよ。余計な真似はしちゃダメだからね」
「ママ、大丈夫よ。私はコード・ネーム、エンジェルよ」
「キュートなだけでは、危ない橋は渡れんのじゃ、エンジェルよ」
「純爺の年齢でも、私がキュートなんだ?」
「わしの年齢は余計じゃい」
「エンジェルに危険はないかい?」
 ユウコの瞳を不安が走り、純爺に向いた。
「悪徳刑事岸村も坊主探偵も、もちろん陣野達も動いている・・・エンジェルには指一本、触れさすまいよ、ママ、誰もがエンジェルを大切に想っている」
 あまりにもさり気なく、私がいかに誰からも愛されているかという一言が流れてゆく。私がリアクションを入れる間もなく話は展開。
「それならいいけどね、で、純爺は何をしているのだい?」
「おいおいママ、わしは情報屋だから、ここで集まる情報を待っていればいいって寸法じゃ」
「年だしね、純爺・・・」
 純爺は苦笑してケータイを開いた。
「その年でケータイを使いこなすなんて凄いよ、純爺は」
「だからな、情報屋は最先端技術を取扱えなけりゃ商売にならん」
「なるほどね」
 ユウコが腕を組んで感心したという様に頷いた。私も同じように頷いた。決してユウコの真似をした分けではない。

 カウベルが鳴った。
 振り返る必要もない、騒がしい声で誰が来たのだか分かる。
 必ず二人セットでやって来る。
「疫病神みたいな顔をして純爺がいるってことはだ、噂は本当か?」
 と最初にダミ声で口火を切ったのは籔、優秀な大学病院の外科医だったが今ではこの街で“ヤブ医者”という看板を上げて闇医者をやっている。
「こんな闇医者や引退した殺し屋みたいな純爺よりも頼りになる私が来たからには安心しておくれママ」
 白衣を上着代わりに来ている籔とは違ってグレー系のスーツで紳士面したこの男は沢村正義、弁護士だが、変わり者だ。
 依頼人に“正義”がない限り、弁護を引き受けない。
 籔と沢村は幼なじみで親友だ。しかし、どちらもユウコにぞっこんでライバル心剥き出しでここに来る。必ず、二人でやって来てユウコを取り合い騒ぐ。たまに抜け駆けして一人で来ると借りて来た猫のように小さくなるという実は純情な二人。
「ママを狙う妙な野郎がうろついていると聞いて心配でよ」
 と籔が言えば
「籔は抗争があれば闇医者は儲かる、情報が欲しいだけだ、ママには私がついている」
 と沢村が身を乗り出し自分をアピールする。
 籔は元々大学病院で優秀な外科医だった。
 しかし、藪は患者の家族に同情し、助かる可能性がないにも関わらず手術を執刀した。患者は助からなかった。
 籔は告訴され医師免許剥奪の騒ぎまでなったが籔は強いて反論はしなかった。
 そこで全面的な弁護をして籔を守ったのが沢村正義だった。
 沢村は親友、籔のために鬼神の如く法定で熱弁を奮って籔を救った。
「そこに正義が見えたなら私は戦う」
 それが沢村正義と言う弁護士だ。
 二人の友情は堅い。
「ごめんなさい。ナイトのお二人さん。今回の事件は私を捜しているみたいなの」
 とマリアが声をかける。
「マリア、二人にはそんなこと言っても意味はない、ママの前で良い格好する口実があればいいだけなんじゃよ、この二人はのう」
「純爺・・・相変わらず、口が軽いなあ。そんなので情報屋が務まるのか?」
 と説教するのは“正義の味方弁護士”の方だ。

 ケータイのバイブ音。

「坊主探偵からのメールだ」
 皆の視線がケータイに集中する。
「慌てるな、今から読む。まず陣野のとこの若い衆三人が因縁をつけて襲ったが全員が簡単に捩じ伏せられたそうじゃ」
「ほう、まず三人の客が出来たと・・・闇医者繁盛しそうだぜぇ」
 と籔がニヤリと笑うと
「本性を現したな籔よ」
 と正義が素早くツッコミを入れた。
 全く息が合う二人だ。私の存在が希薄になるくらい濃い客達がここに集まっている。
「なんて濃いのここの空気というか、時間の密度」
「おっエンジェルいたのか?今日はやけに大人しいじゃないか?」
 藪がようやく私に気づいた。
「ははあ、エンジェル、ハード・ボイルドの匂いに胸をときめかせているのだろう?」
 すかさず正義の弁護士が私に顔を向けた。

 純爺のケータイが鳴った。
「今度は誰からだ?純爺・・・」
 と正義が睨む。
「おう、岸村の旦那、早いじゃあないか」
 また皆の視線が集まる中、純爺はケータイで通話を始めた。
「外国で傭兵だったと?それは手強いのう」
 純爺が電話を切った。
「岸村が警察組織のデータベースから調べて来た情報だ、間違いないだろう」
「傭兵上がりがなんのために・・・この店を知らないってことだから、地元人ではないってことだし・・・」
 弁護士の沢村が考えあぐねている。
「用心することに越したことはない」
 籔は柄にもなく心配気な声を出す。
「皆、無茶なことはしないでおくれよ」
「ママよう“しもべ”に餌をやるようなことを言っちまったな」
 みるみる、籔と沢村の顔がぎらついた。
「俺がついているぜ、ママ」
「私がついている、ママ」
「だから・・・聞いてないのかい?無茶しないでって」
「ママ、無駄じゃよ、ママのためなら無茶するために生きている様な連中じゃ」
 純爺がユウコの言葉を遮ったが、籔医者も正義の弁護士も全く他人の話は聞いてない。

♪  Layla
 ♪♪Layla, you've got me on my knees
   Layla, I'm begging, darling please
   Layla, darling won't you ease my worried mind

 さり気なくマリアのピアノ。クラプトンのレイラ。なんてシブい選曲。
 マリアのピアノは心を映す。
 いつだって本気で心配してくれる“しもべ達?”に囲まれているユウコがちょっと羨ましく思った。私もこんな女になりたい。

♪  Layla

「今夜は解散じゃな」
 と純爺が皆を見回しながら言ったが、誰も動こうとはしなかった。ハード・ボイルドの幕は上がったばかりって感じ。

 ユウコとマリアのガードは愚か者達に任せて私は店を出た。
 表にはなんと、黒塗りのベンツがいかにもって感じで止まっていた。
 運転席から陣野組の若頭、元木が降りて来て、後部ドアを開けた。全身黒で統一された服に身を包んだ男、陣野が降りて来た。もの凄い貫禄、圧倒的な威圧感、本物の筋者というオーラが放たれている。
「エンジェルだね?店には愚か者達が集まっているかな?」
「は、はい。エンジェルです。はい、店にはママの“しもべ達”が雁首揃えて待っているわ」
「ママの“しもべ”かぁ」
 陣野はフッと笑みをこぼした。微笑の中に優しさを感じた。ちょっと、渋いわ、このおじ様。
「元木、エンジェルを送ってやってくれ」
「はい、で社長は?あっいや、組長はどうするんで」
「あぁ、店にはママのしもべ達しかいないのならちょっと顔を出して来る、心配するな元木。自分の身体は自分で守れるさ」
「ちぃ、だから心配なんでさぁ」
 元木は陣野を一人にはさせないという勢いだ。
「陣野の親分さん、私は一人で大丈夫ですから。帰れます」
 と私が答えると陣野の鋭い視線が元木を射抜いた。
「わ、わかりましたよ。さぁエンジェル乗ってくれ。組長がお怒りだ」
 元木は肩を竦めてみせた。わりと面白い男なのかも知れない。ここは元木の言う通りにしないと後で元木がこっぴどく怒られそうだと思った。
 私が恐る恐るベンツの後部席に乗り込むと陣野はバーへ続く地下への階段を降り始めていた。
「組長、勝手に一人で街へ出ないで下さいよ。エンジェルを送ってすぐ戻りますから店に居て下さいよ」
 陣野が階段を降りながら軽く右手を振った。
 車が静かに発進した。
「元木さん、親分さんのことがホントに心配なんですね。それに親分さんは社長と呼ばれるのが嫌なんだ?何か分かる気がする」
「あの人は、ママのためなら命など簡単に捨てちまう、ママのしもべ達とエンジェルがさっき言っていたが、あの人もママのしもべさ」
「そうなの?」
 私は愛苦しい大きな瞳を更に大きく広げてしまった。
「いつだってあの店に飲みに行きたいのに、自分が行ってはカタギのお客さんに迷惑がかかると言って誰もいない閉店間際に行くんだ。店の看板が消えた瞬間、この前を通った時だけ飲むことが許されるって考えているのさ」
「なんて純情なの!親分さん」
「冬木が帰るまで、自分がママを守らないといけないと、いや、そう思いこもうとしているんだ」
「ホントは?」
「ホントは?組長がママを守りたいと想っているだけさ」
 元木がルームミラー越しにニヤリと笑いかけた。
「ママはこの街のヒロインね、やっぱり私の理想、ハード・ボイルドな女ね」
「ママの瞳があまりにも悲しいから、誰かが尋ねたそうだ、
『何がそんなに悲しいんだよ』
 ママが答えた。
『ふふん、女・・・だからさ』
 ってな。そんな女、誰だって惚れちまうだろう?エンジェル」
「女・・・だからさ・・・堪らないわ、そのセリフ。言ってみたい、私もそんなハード・ボイルドなセリフが似合う女になりたいわ」
 私はゾクゾクする想いに震えた。

 ※      ※      ※

 翌朝、私は昨夜からの高揚感を抱きながら退屈な探偵事務所に向かった。薄汚れた三階建てのビルの階段を使って昇る。エレベーターなんて文明の利器等このビルにはない。
「私の足が太くなったら労災を申請してやるから」
 私はぼやきながらも常にキュートな微笑は忘れない。
 三階まで昇り切った私は大きく深呼吸。肩で息をするような真似は決してしない。
 この階に七尾探偵社は二部屋も借りている。奥が事務所で、その手前の部屋は待合室になっている。レイモンド・チャンドラーの小説、孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所の模倣だ。ボスは英国紳士のシャーロック・ホームズ派のくせに、ハード・ボイルドの原点と言うべき、マーロウの事務所をモデルにするとはポリシーが全くない。肩を竦めたくなるところだが、私はまず出社すると待合室に入って隠しカメラのチェックを行う。
「ボス、おはよー」
 カメラに向かって、キュートな笑顔を見せるだけだけど。
 そして、隣の事務所に入ると、ボスこと七尾探偵社所長の七尾霊四朗がスリーピースに身を包み、菩薩の様な微笑を浮かべ、スキンヘッドの頭を撫でながら髪の擦り残しをチェックしていた。
「今日もキュートさが顕在ですね、エンジェル」
「ありがとーございまーす、ボスも相変わらず菩薩様のような凛々しさです」
 私達はいつもの朝の挨拶を済ませた。
「さて、エンジェル、今日は大忙しですよ。Foolという名のBarが絡んだ事件では街中の愚か者達が騒ぎ出しますからね」
「で、ボス。私は何を?」
 私はワクワクした気持ちを抑えきれずにいた。
「はい、エンジェルは全ての愚か者達の繋ぎ役になって頂きたい」
「ハード・ボイルドな展開を私がコントロールするわけね」
「えっ?そこまでは望んでは」
「お任せ下さい、ボス」
「いや、あの、エンジェル。危ない真似はさせないでとママに頼まれているので」
 ボスが横で何やら念仏を唱えているみたいだけど私の耳には入らない。

 ※       ※       ※

 私はマラエ・ランガを探す男にコード・ネームを付けた。元傭兵ということで、“ソルジャー”格好良すぎちゃったかな?でも、うちのボスは即、気に入って調査ファイルを作り、タイトルに“ソルジャー事件”と銘打っていた。
「そろそろ、愚か者の先行部隊、陣野組が因縁吹っ掛ける頃ですね」
 もうすぐ、夜の帳が降りる時間、ソルジャーがバー探しを始めるのを狙って、昨夜に引き続き陣野組がけしかける。でも昨夜は簡単に捩じ伏せられたから今回は若頭の元木までも出張るみたい。
「純爺からの電話です、エンジェル」
 ボスがケータイを開いた。
「えっ?逃げられた?純爺を含めて四人もいて?」
 ボスの言葉でガックリきそうなところだと思ったらそれは間違いよ。
「中々、手強い男ね、ソルジャー。次はこのエンジェルが相手よ」
 と私がほくそ笑んでいると、事務所のインターフォンが鳴った。
「これは急展開ですよ、エンジェル」
 と言って、ボスはカメラが写している画像を見入っている。画像には屈強なボディをした男が映っていた。
「渦中の男がやって来ましたよ。マラエ・ランガを探す男が」
「なんですって!彼がそうなの?ついてるわ、ボス」
「そうですね、エンジェル」
「はい、七尾探偵社です」
 私はインターフォンに向かって話した。上ずりそうなのを必死に押さえた。
「あっ、仕事を依頼したいんだ」
 男が答えた。
「隣の待合室でお待ち下さいませ」
 男は隣の待合室に入った。ボスがカメラを切り替える。
「エンジェル、無茶しないで下さいよ」
 ボスの心配など気にかけない。
「飛んで火に入る夏の虫、だわ!」
 私は思わず叫んでしまった。

 ※       ※       ※

 その日の夜、私はFoolという名のBarにいた。昨夜は深夜遅くようやく解散になったようだ。店にはユウコとマリアがカウンターの中で洗い物していて、愚か者は銃爺だけがいた。
「傭兵は店を探している。それなら店にいなければ安心だ。店を開ける時、誰かが付いていると言うことで話はまとまったんじゃよ、エンジェル」
「純爺・・・自分の古本屋、こんなに早く締めちゃっていいのかい?」
 ユウコはカウンターに泡盛 “龍” を用意しながら心配していた。
「情報屋で食っているんだ、古本屋は隠れ箕さ」

 昨夜はユウコとマリアは一緒にいた。傭兵はマリアが流れた店を探しているのだ。傭兵に悪意は感じられないが、本気で何か仕掛けるなら人知れずやるはずだからだ。マリアをひとりにするわけにはいかない。そして、二十四時間、交代で愚か者達が二人をガードしていたのは言うまでもない。ママのしもべ達の見せ場なのだから。

「エンジェル、あんまりウロウロしないでよ、心配だから」
 ユウコの心配顔に、私は微笑む。
「無茶はしないから大丈夫よ、ママ。それでね、コード・ネーム ソルジャーに昼間会ったの、話をしたわ」
「どういうことだい?」
 と言うとマリアも洗い物の手を止めた。
「七尾探偵社に依頼に来たのよ、昔、マラエ・ランガと呼ばれたBarを探してくれと、そこに流れたピアニストに会いたいと」
「会うわ、そのソルジャーに。純爺は、危険はないと感じているのでしょう?」
 マリアの視線が純爺に向いた。
「あぁ・・・悪意は感じない、しかし念のために愚か者達がガードするぜぇ」
「えぇ、お願いします」
「しかし、エンジェルよ。ソルジャーとは良いネーミングだなぁ」
「私って、センスいいでしょう?」
 私は可愛い鼻をツンと上げて見せた。そしてケータイを開いた。
「ボス!マリアさんが納得しました。ソルジャー誘導作戦に移行します!」
「誘導か、へたに連れて来ようとして暴れられたら面倒じゃからなぁ」
「そういうこと、ソルジャーにマラエ・ランガは、Fool という名のBarと名前を変えたとだけ伝えるわ」
「ソルジャーに自力でここに辿り着かせると言うことだな」
 後はここで待つだけ。退屈はしない、愚か者達が集合する。

 しかし、明日の夜は騒がしくなりそう。私はワクワクしていた。
「これが、ハード・ボイルドで良く言われる、血管をアドレナリンが駆け巡るって奴ね」


「ふざけた街だぜ、ここはよ。俺が何したって言うんだ?」

 俺はいきなり人相の悪い連中に取り囲まれた。夜の繁華街と言ってもまだ早い時間帯だ。筋者が出て来るには早い。
「それとも俺のJET LAGが見せるイリュージョンかよ」
 俺の取って置きのジョークに何の反応も示さない。最近のインテリやくざではないってことだ。
「JET LAGってのは時差ボケという意味だよ、わかるか?」
 全く反応無し。無教養な連中だ。
「この街のルールにそぐわないことを嗅ぎ回っているからだよ」
「俺が聞いているのはマラエ・ランガという店のピアニストを知らないかってことだけだぜ。なのに何故、お前等のような筋者が現れるってんだよ」
 ふざけた街だった。
 昨夜、適当に入ったスナックで「マラエ・ランガ」ってバーを知らないかと聞いて回っただけだった。それだけで人相の悪い連中に取り囲まれた。
「マラエ・ランガに何の用だ?」
「ちょっと、やぼ用でよ。どいてくんな」
 俺は少し斜に構えて気取って見せた。
 三人の筋者が一斉に身構えた。
「なんなの!お前等!やる気ならやってやるけど、俺、強いよ。殺しちゃうよ!」
 二人は大した奴ではない。しかし、正面の兄貴面した奴は手強そうだった。
 兄貴面が顎をしゃくった。二人がナイフを構え襲い掛かって来る。
 電光石火の早業っていうのはこういうことを言うのだろう。俺は二人のナイフを掻い潜り、あっと言う間にナイフを叩き落した。
 腕を押さえて蹲るチンピラの動きを目の隅にとらえながら、俺はショルダーに吊ったナイフケースからサバイバル・ナイフを取り出した。
 兄貴面の男も匕首を構えた。そして間髪をいれずにいきなり突っ込んで来た。俺はジョークの一つも飛ばせず、かわすのが精一杯だった。
「へへ、やるー」
「お前もな、素人じゃないな、お前、何者だ」
「へへっ俺かい?俺は飛騨洋平、飛んでる傭兵って覚えてくれよ」
「ふざけた小僧が。俺は陣野組若頭、元木だ」
 次の一撃で決まる。ぴりぴりした感覚。戦場を思い出す。こんな平和ボケした日本で俺が本気にならなくてならない状況がくるとは思ってもいなかった。
「待てよ、元木。話を聞いてからでも遅くはないだろう」
 俺の背後に音もなく人が現れた。俺の背中に冷や汗が流れた。全く気配を感じなかった。この俺がだ。後ろの男は只者ではない。
「若いの、そんなに緊張するなよ、ただの爺さ。元木もやめとけ、相打ち覚悟でやるなら別だがな」
 元木と呼ばれた男が匕首を下げた。
 俺はまだナイフを下げずに壁際に背中を向けた。
 ひょこひょこと爺さんが歩いて来る。
「わしは純爺じゃ。飛騨って言ったか、ナイフをしまえよ。話もできんて」
「そうだな・・・」
 俺は静かにナイフを下げた。これから話し合い?ドラマじゃないんだ。俺は間髪を入れずにダッシュした。純爺がひょいと体をかわした横を擦り抜けて俺は逃げた。こんなところで殺し合いをして警察に追われるのは馬鹿らしい。しかし、食えない爺さんだった。並みの爺さんではない。俺のタックルを予測していた。元木ってやくざも一癖のある奴だった。
「面白すぎるぜ、この街は」
 俺は顔に太い笑みを浮かべて夜の繁華街を疾走した。JET LAGな頭では危険な街だ。

 今夜はマラエ・ランガを探すのはやめて一度ホテルに戻ることにした。俺は人波に紛れて街を流れた。その方が安全だと考えた。
 この地方都市は十数年前に回りの四市が合併して政令都市となるために開発が一気に進んだ街だった。街の中心の駅には新幹線も停まり、成田への直行バスも出ている。駅前にはタワービルと呼ばれるビルが建ち、上層階は高級マンション、間にはホテルや企業が入り、下層階には専門店が入った複合ビルだ。その中のホテルに部屋を取ってある。もちろん高級だ。金ならある。俺は海外で傭兵だった。ただひたすら戦った。強くなるために、二度と友達を失くさないために。金など使う暇も作らなかった。
 タワービルに向かうメイン・ストリートの中で一つの看板に目が止まった。「七尾探偵社」俺は指を鳴らした。
「俺って冴えているかもしれないな」
 実際の七尾探偵社は、メイン・ストリートに面しているわけではなく、一本路地を入った場所にあった。看板だけ表通りに出してあっただけだった。どんな街にもある、ここだけ時間が止まっているかのような、取り残されたレトロな路地裏だった。
 俺は薄汚れた三階建てのビルの三階にある探偵社の窓にまだ灯りがあるのを確認した。
 エレベーターはなかった。階段を上り三階に上がった。七尾探偵社は二部屋を借りているようだ。
 階段から手前が「七尾探偵社待合室」と書かれていた。レイモンド・チャンドラーの小説に登場する孤高の探偵フィリップ・マーロウの事務所がそんな作りだったはずだ。俺は奥の事務所の方のインターフォンを押した。
「隣の部屋でお待ち下さい」
 可憐な女の声が答えた。
 俺は待合室に入った。ソファーとテーブルが置いてあるだけの部屋だった。
 少しすると缶コーヒーを持って女が入って来た。
「どうぞ」
 女は無造作に缶コーヒーをテーブルに置いて俺の正面に座った。皮ジャンに皮のズボンを履いていた。たまらなく可愛い顔と服装がアンバランスでそれがかえってこの女をチャーミングにしていた。普通、カップにコーヒーを入れて来るだろうと思ったが俺は歓迎されてないのかも知れない。この待合室には堂々と監視カメラが設置されてある。
「所長はもう少ししたら来ます。本当はすぐにでも来られるのだけど、もったいつけているのよ。安く見られないようにね」
 女は舌を出して笑った。
 俺も思わず笑い返してしまった。こういう女を相手にすると調子が狂う。
 女が言った通り、適度に待たせて男が入って来た。スリーピースにベレー帽、手にはパイプが握られていた。シャーロック・ホームズですと言い出しかねない男だ。
「お待たせしました。私が所長の七尾です」
 名刺を差し出した。菩薩のような微笑を顔に浮かべていて、声も細く、頭脳派探偵と言ったところだ。
「そして、彼女は私の助手で」
「コード・ネーム“エンジェル”です」
 女がでしゃばって名乗った。
 ふざけた探偵社だ。コード・ネームとマジ顔で言ってのけた。俺は帰ろうか迷いだした。
「まあ、こんな二人ですが仕事はきっちりやらせて頂きます。ご安心を」
 七尾は帰らすまいと身を乗り出してきた。エンジェルは横で大きく頷いている。
 俺は仕方なく話しだけはしてみる気になった。
「マラエ・ランガってバーを探している」
 俺は七尾の反応を見た。全く表情は動かない。
「そこに、十数年前、黒木と言うピアニストくずれの女が流れて来たはずでね。最終的にはその女に逢いたい」
 七尾は表情を全く変えずに俺の目を見ていた。
 横でエンジェルがメモを取っている振りをしていた。手は動いているがノートの上を交差しているだけだ。エンジェルは興味津津とした目で俺を見ていた。
「わかりました。やらせて頂きます。必要書類を作成願いますか」
「ちょっと待ってくれ、期限は三日だ。それ以上掛かるならこの仕事は依頼しないぜ」
 俺はこのふざけた探偵コンビがどうも信用出来なかった。無駄金は払いたくない。
「問題ありません。お金も後払いでいいですよ。それならいいでしょう?」
 この男は他人の腹の中が見えるのか。何もかも達観しているという自身に満ちた顔をする男だ。
「あんまり信用したくないが、後払いでいいなら頼むぜ」
「失礼ね、ボスはともかく、このエンジェルを捕まえて」
「まあまあ、いいではないですか。人間、素直が一番です」
 いきなりだった。七尾はベレー帽を脱いだ。綺麗に剃られた坊主頭が出てきた。
「いやあ、私はですね。昔、坊主だったのですよ。でもね、忍耐力がなくて坊主を首になってしまいました。人間、思うままに生きるのが大切ですよ」
 七尾は坊主頭を撫でながら菩薩の様な微笑を浮かべていた。エンジェルは笑いをこらえていた。
「あっそうそう、身分を証明するものはお持ちですか?」
 俺はやむを得ずパスポートを出した。エンジェルがひったくるように掴んで、コピーを頂きますと待合室を飛び出した。
「ふざけた街だぜ、ここは」
「虚構の街・・・と私は呼んでいます。いい響きだと思いませんか?」
「いいねえ」
 俺も不敵な笑みを返してやった。

 翌朝、俺は街の探索に乗り出した。昨夜のようにやくざに絡まれてもいいように武器は身につけた。日本で拳銃まで持ち歩くわけにはいかない。俺はこの十年、海外で外人部隊に入って戦争をやってきた。平和ボケした日本では武器はサバイバル・ナイフだけで十分だろう。
 行く当てがなく、俺は昨夜の探偵の事務所に顔を出したくなった。どこか憎めないエンジェルの笑顔が頭に浮かんだ。
 事務所のあるビルが見えてきたところで男に呼び止められた。よれよれのコートを着た目付きの悪い男だった。
「岸村って者だ」
 警察手帳を突き出した。
「職務質問させてもらおうか」
「俺のどこが不審人物なんだよ、刑事さん」
「叩けば埃が出るって面しているじゃないか、若いの!」
 俺は肩を竦めてみせた。
 半分、無理矢理に車に乗せられた。岸村は少し車を走らせると俺のドアの方を塀際に寄せた。自分がいいと言うまで車から出さないってことだ。
「昨夜、八時頃、陣野組ともめただろう。何があった?」
「特に何も被害は受けてない。警察に用はないな」
「陣野組を甘く見るなよ、この街の裏社会を牛耳っているのが陣野組だ。陣野に目をつけられてはこの街じゃ肩で風切っては歩けないぜ」
「ほう、刑事にそこまで言わせるってのは、陣野って奴は本物だな」
「お前、何をやっている?純爺まで引っ張り出してよ?」
「昨夜のおかしな爺さんのことか?何者だ?あの爺さん」
「自称、殺し屋だよ。元だけどな」
 俺は納得した。俺に気配を悟られず近づいた純爺だ。殺し屋と言われても全く違和感がなかった。
 そしてそこまで話を知っている岸村はこの街の裏社会と繋がっているということになる。
「本当にふざけた街だぜ、ここはよ。バーを探すだけでやくざと殺し屋に襲われ、悪徳刑事には絡まれてよ。仕事を依頼した探偵は元坊主で、その助手はコード・ネームがエンジェルとくるしよ」
「ほう、七尾にも接触したのか、お前」
「お前、お前言わないで欲しいなあ。俺は、飛騨洋平って言う者だ。飛んでる傭兵さ。傭兵だってちゃんとした職業なんだからな。真っ当に扱えよ、刑事さん」
「ふん、たった一日でこの街の愚か者の筆頭達三組と接触していればなあ、まともと呼ばれないのだよ、ここじゃ」
 岸村はエンジンをかけた。もう、俺には興味を無くしたのだろうか。
「七尾探偵社でいいのかい?送り先は?取り敢えず、龍舞会の残党ではなさそうだからな。飛んでる傭兵さん」
 龍舞会、俺の体に緊張が走った。しかし、それを表に出すほど俺は素人ではない。
 友を殺した男がいた暴力団。今は陣野組に壊滅させられていた。
「ついたぜ、マラエ・ランガは時期に見つかるさ。お前が妙な真似をしない限りな」
「マラエ・ランガってなんなんだ?」
「欲望という海に沈んだ幻の楽園だってよ。太平洋だか大西洋だかにあったそうだぜ」
 岸村は俺を路上に降ろすと高笑いしながら走り去った。
 朝の路地はひっそりとしていた。俺は探偵社に向かいながら路地を物色していた。
“やぶ医者”という看板が上がっていた。小さな二階建てのビルだ。やはり、ふざけた街だ。こんな病院に誰が行くというのだ。二階は“古本5648”意味不明な名前だ。
 その隣のビルには、思わず噴出したくなる名前があった。
“正義の味方 沢村正義弁護士事務所”とはどんな奴がやっているのか見るだけでも価値がありそうだった。そして地下には“「FOOL」という名のBar”とあった。愚か者が集まりそうな店だ。
 そしてその前にあるのが七尾探偵社があるビルだった。三階に向かって階段に足をかけた。
「臭うな、お前。傭兵だってな」
 後ろから声がかかった。白衣を羽織っただけのいかにも柄が悪そうな男が立っていた。その男は俺の足から頭まで舐めまわした。
「何?いきなりなんだ、おっさん?なんで俺を知っているんだ、ふざけた街だぜ」
「おっさんじゃない!俺は藪ってもんだ。これでも外科医だ。言っておくがな、俺は人間の医者で、お前等のための獣医じゃないんだぞ!」
 俺が言い返そうとすると、対面のビルの階段を駆け降りて来る男がいた。
「きな臭い男とは君か!」
 渋い茶系のスーツを着ている男だった。
「ふざけるなよ、あんたら。俺、強いよ。殺しちゃうよ!」
「わしが相手じゃ、若造!昨夜は逃げおってからに」
 俺は藪の背後の二階に顔を向けた。
「純爺!だと?」
 なるほど、古本5648、こ、ろ、し、や、という語呂合わせか。
「いい加減にしろよ、俺はバーを探しているだけだ。行方知れずのピアニストを探しているだけだ」
「今、七尾がお前のことを調べている。安全と分かるまで少し待て」
 正義の弁護士が腕組をして俺を見下ろしていた。
「俺を調べているだと?あのくそ坊主が!俺の仕事はやらずに?お前ら皆、グルか!」
 そして、次に現れたのがエンジェルだった。
「ボスの調査が終わったようです。今晩、十時に戻るってことで取り敢えず解散。飛んでる、傭兵さん。あなたにも後で連絡するから」
「よし、解散だ」
 あっと言う間に誰もいなくなった。
「ハード・ボイルド的な展開よね?ソルジャー?」
「ソルジャー?って俺のことかい?」
「期待を裏切るような真似はしないでよね、ソルジャー、だって傭兵なのでしょう?だからソルジャーってわけよ。私、ワクワクしているのだから。あっボスから伝言、マラエ・ランガは、今は名前を変えているそうよ。さあ、他の愚か者達にも連絡するから、後で逢いましょうね、ソルジャー」
 俺はソルジャーと呼ばれて少し喜んでしまった。俺にぴったりのネーミングだ。